第50話:退場
大ホールを支配していた熱狂と歓声の余韻が、冷たい秋の風のように引いていった後、議場に残されたのは、あまりにも鮮烈で無慈悲な勝者と敗者のコントラストだった。
天井のシャンデリアから降り注ぐ白銀のライトを浴び、壇上中央に並び立つ鷹司誠一郎と槇野佳乃。
そして――その足元、深紅の毛氈が敷かれた壇上の床に、額から血を流し、唾液と涙で顔をぐしゃぐしゃにしたまま、ピクピクと痙攣して突っ伏す鳴神貴之。
「う……あ……うぁ……」
貴之の口から漏れるのは、もはや言葉としての体をなさない、ただの掠れた空気の漏れる音だった。
佳乃が放った最後の一撃――『どうぞ、ご自身の代わりをどこかでお探しください』『あなたという過去の亡霊に割く時間は、私の人生において一秒たりとも残されておりません』という、絶対零度の決別。
その言葉が、貴之の肥大化した自尊心の心臓部を粉々に粉砕していた。
七年間、都合よく搾取し、都合よく踏みにじってきた女性から、一片の憎しみすら向けられず、ただ「無価値な過去の亡霊」として完全に切り捨てられたという事実。
男の精神は、耐え難い拒絶の衝撃によって完全に崩壊し、呆然と開かれた瞳孔には、もはや焦点すら結ばれていなかった。
顎の先からは、血の混じった涎がタラタラと絨毯へと垂れ落ち、指先は力なく床クロスを掻きむしるように痙攣している。
その哀れな泥人形の姿を、壇上中央の議長席に座る安西源三郎は、一切の私情を交えぬ冷徹な眼差しで見下ろしていた。
安西は静かに議長用マイクを引き寄せると、壇上の左右に待機していた鳴神物産の警備責任者たちへ向けて、威厳に満ちた声で下命した。
「――警備員」
安西の野太い声が、静まり返るホールに響く。
「前代表取締役・鳴神貴之氏は、株主総会の決議によりすでにすべての役職を解任され、議場の秩序を著しく乱した退場対象者である。……ただちに、その男を壇上、ならびに本ビルから物理的に排除しなさい」
「は、はいッ!」
直立不動で応じた屈強な警備員二名が、迷うことなく壇上へと踏み込んだ。
かつてなら「社長」としてかしずいていた相手だ。だが今や、その男は会社を破滅寸前まで食い荒らし、株主たちの前で醜態を晒したただの不審者、ただの解任された罪人に過ぎない。
二人の警備員は、床に倒れ込む貴之の両脇へと容赦なく太い腕を差し入れると、まるで壊れた粗大ゴミを処分するかのように、力任せにぐいと引き上げた。
「ぐ……っ、あ……!?」
貴之の身体が宙に浮き、破れたスラックスの膝から、擦りむいた皮膚の赤い生傷が覗いた。
両足の爪先は力なく床を引きずられ、靴の片方は脱げ落ちて演壇の下へと転がった。
引きずり上げられた貴之は、焦点の合わない目を泳がせ、首を力なく左右に揺らしながら、消え入りそうな掠れ声を小さく呟いた。
「離せ……離せよ……。俺は……社長だぞ……。鳴神物産の……創業家の……トップだぞ……。おい……親父を呼べ……佳乃……佳乃はどこだ……」
譫言。
耳元で繰り返されるその虚しい妄言に、警備員たちは視線一つ合わせず、無言のまま大ホールの退場用スロープへと男の身体を引きずり下ろしていった。
ズザッ、ズザザザッ……。
片足の靴下を引きずり、床の絨毯を擦る乾いた音。
大通路を運ばれていく貴之の背中へ、客席の八百名の株主たちから、怒号すら通り越した、冷ややかな侮蔑の視線が一斉に浴びせられた。
「見苦しいな……」「最後まで自分が社長だと喚いているのか」「先代の剛造さんが草葉の陰で泣いているよ」「二度と敷居を跨ぐな、この恥晒しが」
誰一人として、手を差し伸べる者はいなかった。
創業家の親族たちも、かつて取り入っていた社外取締役たちも、皆、汚物から身を清めるように顔を背け、男が通り過ぎるのをただ沈黙して見送っていた。
大ホールの分厚い防音扉が左右に開かれ、みじめな敗残者の姿が、ホワイエの暗がりの中へと完全に呑み込まれていく。
バタンッ。
重厚な扉が完全に閉ざされた瞬間、大ホールと鳴神貴之との間の絆は、物理的にも、社会的にも、永久に切断されたのだった。
◇
役員用エレベーターで一階へと降ろされた貴之は、まるで荷物のように両脇を固められたまま、鳴神物産本社ビルの一階正面エントランスへと運ばれていた。
ガラス張りの巨大なエントランスロビー。
自動ドアがセンサーに反応して左右へと開いた瞬間――
カッッッ!!!!
息を呑むほどの、無数の白銀の閃光が炸裂した。
「出てきたぞ! 鳴神貴之だ!!」
「社長解任が決議されたんですか!?」
「背任について一言お願いします!!」
「ベーカー&スターンズとの悪質な契約、認識はあったんですか!?」
「愛人の江藤瑠璃華への資金流出について答えてください!!」
怒号のような怒声と、津波のように押し寄せるマスコミの群れ。
テレビ各局のワイドショーのレポーター、新聞社の社会部記者、週刊誌のカメラマン――総勢百名を超える報道陣が、車寄せを完全に封鎖するように取り囲んでいたのだ。
無数の指向性マイクが、まるで無数の槍のように貴之の顔面へと突きつけられ、モータードライブのけたたましいシャッター音が機関銃のように鳴り響く。
「う……あ……やめろ……! 撮るな……!!」
貴之は顔を手で覆おうとしたが、警備員たちは車寄せのアスファルトの境界線に到達した瞬間、その両腕をパッと放した。
ドサッ!!
「ぐえっ……!?」
支えを失った貴之の身体は、前方の車寄せの地面へと、無様に前のめりに崩れ落ちた。
秋の冷たい雨は、数時間前に上がっていた。
だが、水はけの悪い車寄せのアスファルトの窪みには、黒ずんだ泥水が深い水たまりとなって溜まっていた。
ビシャァァンッ!!
泥水が激しく跳ね上がり、貴之の顔面、そして仕立ての良いはずの濃紺のスーツを容赦なく泥まみれに染め上げた。
両手と両膝を泥水の中につき、脱げた靴下の爪先が冷たい水たまりに浸かる。
額の割れた傷口に泥水が沁み、激痛が走るが、立ち上がる力などどこにも残っていなかった。
「鳴神社長! 株主総会で何があったんですか!?」
「タカツカサによる買収を受け入れるおつもりですか!?」
「警察の捜査が入るという噂は本当ですか!?」
容赦なく浴びせられるマイクの嵐。
激しいフラッシュの閃光の中で、泥水に塗れた貴之は、浅い呼吸を繰り返しながら、ふと、視線を上げた。
泥水に濡れたアスファルト。
見上げる、鳴神物産本社ビルの巨大なガラスキャノピー(車寄せの庇)。
そして――冷たい風が吹き抜ける、エントランスの正面玄関。
「…………っ!?」
その光景が、泥に濁った貴之の瞳に映し出された瞬間。
男の心臓が、氷の刃で直接抉られたかのように激しく凍りついた。
(ここは……)
ここは――
一ヶ月前。
先代・鳴神剛造の密葬が終わった深夜。
冷たい豪雨が降りしきる中、解雇予告手当の一円も払わず、退職届を投げつけ、傘すら持たせずにダンボール箱一つを抱えた槇野佳乃を、警備員を使って叩き出した――【まったく同じ車寄せ】だった。
あの日、自分は愛人の瑠璃華とハイタッチをして嘲笑いながら、二階の社長室の窓から見下ろしていた。
雨の中に傘もなく放り出され、寒さに震え、自分の七年間の尊厳を奪われて立ち尽くしていた、あの女性の姿を。
そして今――
同じ車寄せの、同じアスファルトの上で。
泥水の中に膝をつき、靴を奪われ、着の身着のままで放り出され、何百台ものカメラの前で恥辱の極みを晒しているのは、他ならぬ自分自身だった。
「あ……あぁ……あぁぁぁぁ……っ!!」
因果応報。
自分が他人に与えた理不尽な屈辱と絶望が、何十倍もの質量を伴って、寸分違わぬ場所で、すべて自分自身に降りかかってきたのだ。
逃げ場など、最初からどこにもなかった。
天が下した完璧な審判。
「うわああああああああっっっっ!!!!」
貴之は自らの頭を両手で抱え、泥水の中に顔を突っ伏したまま、狂ったように慟哭した。
冷たい泥水を啜り、アスファルトを爪でガリガリと掻きむしりながら、涙と鼻水を撒き散らして叫び続ける。
だが、その男の慟哭を憐れむ者は、世界中のどこにもいなかった。
遠くから、赤色灯を激しく明滅させた警視庁捜査二課のパトカーのサイレンが、ウーウーと重く鳴り響きながら、車寄せへと近づいてきていた。
◇
同じ時刻。
二階大ホールの壇上には、外界の泥濘とは完全に隔絶された、眩いばかりの光と熱気が満ち溢れていた。
パチパチパチパチパチパチッッ!!
八百名の株主たちによるスタンディングオベーションは、貴之が退場した後も、途切れることなく鳴り響いていた。
それは、過去の腐敗した亡霊を完全に追い払い、新しい時代の誕生を寿ぐ、心からの喝采だった。
演壇の脇。
ミッドナイトネイビーのスーツを完璧に着こなした槇野佳乃の元へ、駆け寄ってくる足音があった。
「佳乃さん……っ! 佳乃さん!!」
瀬尾千夏だった。
千夏は手にしたタブレットを胸に抱きしめ、大粒の涙をボロボロと溢れさせながら、佳乃の前へと駆け寄ってきた。
その両手は、興奮と感動で激しく震えている。
「やりました……! やりましたね、佳乃さん……!! 八十四%……完全な圧勝です!! 鳴神物産が……私たちの現場が、本当に救われたんですね……!?」
「ええ、千夏さん」
佳乃は穏やかな、限りなく温かい微笑みを浮かべると、千夏の震える両手を自らの手で優しく包み込んだ。
「あなたが勇気を出して、あの地獄のようなオフィスの中で証拠を守り抜いてくれたからです。……千夏さん、本当によく戦ってくれましたね」
「う……うぅ……っ、佳乃さん……!!」
千夏は佳乃の胸元に顔を埋め、声を上げて泣き崩れた。
理不尽に怒鳴り散らされ、徹夜を強いられ、尊厳を奪われかけていた日々の暗闇が、この温かな先輩の腕の中で、完全に光へと昇華されていく。
「お見事だったわ、佳乃さん」
真鍋苑子が、プラチナフレームの眼鏡を直しながら歩み寄ってきた。
その切れ長の瞳には、無二の戦友に対する深い敬意が湛えられていた。
「会社法上の手続き、委任状の集計、そして敵の言動の封殺に至るまで……百点満点、完璧なテイクオーバーよ。……これほどの美しい株主総会は、私の弁護士人生の中でも初めてだわ」
「真鍋先生の完璧な法的防御があってこそです」
佳乃が頭を下げると、苑子は柔らかく首を横に振った。
「いいえ。現場を動かしたのは、あなたの知性と誠実さよ。胸を張りなさい」
「槇野君……!!」
議長席から演壇の前に進み出てきた安西源三郎が、皺だらけの顔をくしゃくしゃにして、佳乃の前に立った。
五十八歳の重鎮の目からは、熱い涙が止めどなく溢れていた。
安西は佳乃に向かって、深々と、腰を九十度に折って頭を下げた。
「ありがとう……! 本当に、ありがとう、槇野君……!! 剛造さんの遺産を……現場の何千人もの社員たちの生活を、君が守り抜いてくれた……! 私は……私はこの恩を、生涯忘れない……!!」
「顔をお上げください、安西専務」
佳乃は安西の腕をしっかりと支え、力強い眼差しで見つめ返した。
「戦いは、ここからが本番です。現場のサプライチェーンを立て直し、社員たちが誇りを持って働ける新しい城を、専務と一緒に築いてまいります」
「あぁ……! 誠心誠意、お仕えする!!」
安西の力強い返答に、周囲にいた梶原康平も豪快に笑いながら、安西の肩をポンと叩いた。
「頼りにしてるぜ、安西副社長! ウチの数字部隊も総動員して、来期のV字回復を叩き出してやるからな!」
壇上に満ちる、熱い絆と連帯の空気。
搾取されていた者たちが、自らの知性と正義によって手を取り合い、巨大な勝利を掴み取った瞬間だった。
その時――。
ザッ、と重厚な靴音が響き、一同が自然と左右へと道を開けた。
歩み寄ってきたのは、タカツカサ・キャピタル代表取締役CEO――鷹司誠一郎だった。
漆黒のスリーピースを纏った男は、壇上の喧騒を抜け、まっすぐに佳乃の前へと立った。
彫刻のように端正な顔立ち。
その切れ長の瞳には、市場の覇者としての冷徹さではなく、愛しい女性を見つめる、熱く、限りなく深い情愛が灯っていた。
「……佳乃」
「鷹司様」
見つめ合う二人。
誠一郎は何も言わず、スリーピースのベストの内ポケットへと手を差し入れた。
取り出されたのは――
紺碧の厚手のレザートレイに収められた、一通の極めて重厚な公式文書だった。
演壇のテーブルの上に、カサリ、と広げられる。
最上段に刻まれていたのは、金箔押しの荘厳な表題だった。
『株式会社ナルカミ・グローバル 設立ならびに統括事業基本協定書』
買収後の新会社の発足、腐敗した利権の完全排除、全社員の雇用継続、そして新たな統治機構の樹立を、法的に確定させるための絶対の協定書。
最下段の署名欄。
代表取締役会長の欄には、すでに流麗な筆致で、誠一郎の署名が刻まれていた。
『鷹司 誠一郎』。
そして――
そのすぐ隣。
新会社の最高意思決定者であり、全現場の全権を統括する欄――
【代表取締役最高執行責任者(COO)】の欄が、真っ白な空白のまま、主の到来を静かに待っていた。
「……約束通りだ、佳乃」
誠一郎の低く、熱いバリトンボイスが、佳乃の耳朶を心地よく震わせた。
誠一郎は佳乃の瞳を真っ直ぐに見据え、促すように顎を引いた。
「この会社を解体から救い、真に生まれ変わらせたのは君だ。……君の手で、この城の未来に、君の誇り高き名を刻んでくれ」
「…………っ」
佳乃の胸が、熱い衝撃で震えた。
会長秘書室長代理という、誰の目にも留まらない黒子として生きてきた七年間。
「代わりなどいくらでもいる」と捨てられたあの夜。
その痛みを乗り越え、今、自分は――名門メガ商社の真のトップとして、その命運を自らの手で動かす場所に立っている。
佳乃は背筋を寸分の狂いもなく伸ばすと、ミッドナイトネイビーのジャケットの胸ポケットへと、静かに指先を滑らせた。
スッ……。
抜き取られたのは、昨夜、ルーフテラスで誠一郎から託された、あの一本。
最高峰のプレシャスレジンで仕立てられた、深海のように神秘的な【ロイヤル・サファイアブルー】の万年筆。
スポットライトの光を浴び、純金のクリップが輝き、キャップの側面に刻まれた金文字の筆記体が鮮明に浮かび上がる。
『Y. MAKINO』。
佳乃はキャップを静かに外し、十八金のバイカラーニブを露わにした。
ずっしりとした金属の重みが、何万人もの社員とその家族の未来を背負う重責となって、掌に心地よく馴染む。
八百名の株主たちが、息を呑んで見守る中。
数十台のカメラが、その手元を大写しにする中。
佳乃は演壇へと進み出ると、協定書の代表取締役COOの欄へと、サファイアブルーのペン先を静かに落とした。
サリ……サリサリッ……。
上質な和紙に、深みのあるブルーブラックのインクが、滑らかに、迷いなく染み込んでいく。
一画、一画。
自らの七年間の誇りと、現場への愛と、そして未来への揺るぎない覚悟を込めて。
『槇 野 佳 乃』
最後の払いが美しく結ばれた瞬間――
カチリ、と協定書の末尾に調印の印が押された。
調印完了。
新生ナルカミ・グローバルの誕生。
そして、元万能秘書・槇野佳乃による、名門商社トップへの正当なる戴冠が、公的に完了した瞬間だった。
「おおおおおおおおっっ!!」
再び巻き起こる、地鳴りのような拍手と喝采。
フラッシュの嵐が、協定書の上に並ぶ二人の署名を眩いばかりに照らし出す。
佳乃は万年筆のキャップをパチンと静かに閉めると、顔を上げ、隣に立つ誠一郎を見つめた。
誠一郎の口元に、生涯で最も誇らしく、そして最も甘やかな微笑みが浮かんでいた。
二人の視線が重なり合い、言葉のない熱い対話が交わされる。
(……終わりましたね、誠一郎様)
(あぁ。完全なる勝利だ、私の佳乃)
完全なる断罪の第4幕は、今、これ以上ない完璧なフィナーレを迎えた。




