第49話:完全なる決別
大ホールを埋め尽くす八百名の株主たちの呼吸音が、一瞬にして凍りついた。
壇上を激しく照らし出す数十台のテレビカメラのライト。その眩悪な光のただ中で、額を床の絨毯に打ちつけ、流血と涙と鼻水に塗れた鳴神貴之の伸ばした右手が、ピクピクと痙攣しながら空気を掻きむしっていた。
かつて鳴神物産の頂点に君臨し、銀座の高級クラブで取り巻きに札束をばら撒いていた傲慢な御曹司の指先。
その血に汚れた爪先が、すがりつく最後の藁を求めるように、槇野佳乃の履く磨き抜かれた黒革のポインテッドトゥパンプス――その爪先へと触れようとした。
触れれば、許されると信じていたのだ。
かつて七年間、自らの背後に控え、何を言っても静かに頭を下げて泥を被り続けてくれた女。
その靴にすがりつき、涙を流して命乞いをすれば、かつての情が彼女の心を動かし、鷹司誠一郎に口利きをして、この地獄のような債務と刑事告訴の山から救い出してくれるはずだと――その歪み切った甘えが、男の指先を動かしていた。
だが――。
スッ……。
佳乃は、息を乱すことすらなく、わずかに靴先を後方へと引いた。
距離にして、わずか数センチメートル。
羽毛が宙を舞うかのような、完璧で無駄のない、優美なステップバック。
貴之の伸ばした血まみれの指先は、佳乃の靴先に触れることすら叶わず、冷たい壇上の床クロスをガリッと虚しく引っ掻いただけに終わった。
ミリ単位の、絶対的な回避。
一ミリの接触すら、生理的な嫌悪とプロフェッショナルとしての拒絶によって、完全に遮断されたのだ。
「……え?」
貴之が呆気に取られ、血の混じった涙でぐしゃぐしゃになった顔を跳ね上げた。
その視線の先に立ちはだかったのは――
ドサッ、と重厚な仕立ての生地が擦れ合う微かな音とともに、横合いから割り込んできた、圧倒的な巨躯の影だった。
漆黒のスリーピーススーツ。
寸分の乱れもない幅広の肩、鍛え上げられた分厚い胸板。
タカツカサ・キャピタル代表取締役CEO――鷹司誠一郎が、佳乃の前に完璧な盾となって立ちはだかっていた。
誠一郎は両手をトラウザーズのポケットに滑り込ませたまま、床に這いつくばる貴之を、完全に自らの影の下へと呑み込んでいた。
「っ……ひ……!?」
見上げる貴之の喉から、息の詰まるような悲鳴が漏れた。
至近距離で見下ろしてくる、鷹司誠一郎の切れ長の双眸。
そこに宿っていたのは、資本主義の覇者としての冷徹さすら超越した、獲物の息の根を止めんとする獰猛な捕食者の、底知れない殺気だった。
室内の温度が、一瞬にして絶対零度まで叩き落とされたかのような錯覚。
誠一郎の薄い唇から、低く、地を這うようなドスの利いたバリトンボイスが落ちてきた。
「――触るな」
たった一言。
だが、その声に含まれた威圧の質量は、巨岩のように貴之の頭上へと圧しかかった。
「君のような薄汚い敗者が……その薄汚れた手で、触れていい人ではない」
「ひっ……! あ……う……」
貴之の全身の筋肉が硬直した。
誠一郎の瞳には、怒りすら浮かんでいなかった。
あるのは、道端の泥水に這い蹲る汚らわしい害虫を、靴の裏で踏み潰す価値すら認めない、絶対的な侮蔑と排除の意思だけだった。
赤坂のエントランスで、この男が佳乃に執着を見せたあの夜、誠一郎が執務室で見せた激しい独占欲と嫉妬――そのすべてが今、この敗残者に対する容赦のない鉄壁の遮断となって発露していた。
誠一郎は貴之から視線を切ることなく、背後を庇うようにわずかに右腕を広げていた。
だが――
その逞しい背中の後ろから、トン、と柔らかな気配が寄り添ってきた。
「……鷹司様」
鈴の鳴るような、澄み切った声。
佳乃の手が、誠一郎の漆黒のベストの背中へと、そっと優しく添えられた。
その手のひらの温もりに、誠一郎の全身を包んでいた刺々しい殺気が、わずかに解きほぐされる。
誠一郎が静かに振り返ると、佳乃は切れ長の瞳を穏やかに細め、小さく頷いてみせた。
――大丈夫です、誠一郎様。
言葉はなくとも、その視線が語っていた。
私自身の過去に、私自身の手で、最後の引導を渡させてください、と。
「…………」
誠一郎は佳乃の強い意志を汲み取り、わずかに半歩、横へと身を引いた。
だが、その右手はいつでも佳乃を引き寄せられるよう、彼女の腰のすぐ近くに控えさせられていた。
カツン。
佳乃は、誠一郎の肩越しに、ゆっくりと一歩前へと進み出た。
ミッドナイトネイビーの仕立ての良いパンツスーツが、壇上の照明を浴びて深い紺碧の光を放つ。
胸ポケットに差されたロイヤルサファイアブルーの特注万年筆――昨夜、誠一郎から託された『Y. MAKINO』の刻印が、スポットライトの下で青く神聖に瞬いていた。
佳乃は、床に這いつくばり、額から血を流す元婚約者の前、わずか五十センチメートルの位置に立った。
そして――
両手を身体の前で美しく重ね、静かに、見下ろした。
「…………」
静寂が、大ホールを支配していた。
八百名の株主たち、壇上の役員たち、そして無数の報道陣のカメラマンたちが、誰一人として呼吸することすら忘れ、佳乃の一挙手一投足を見守っている。
見下ろす佳乃の素顔。
野暮ったい銀縁眼鏡を完全に外し、手入れの行き届いた艶やかな前下がりの黒髪ボブを揺らすその美貌には――
怒りも、なかった。
恨みも、なかった。
復讐を成し遂げたことに対する浅薄な嘲笑や快感すらも、何一つ浮かんでいなかった。
ただ――底知れない静寂。
千丈の氷河の底のように澄み渡り、一切の感情の波風を削ぎ落とした、絶対の平穏。
その瞳に映っていたのは、かつて七年間を捧げた婚約者の姿ではなく、ただ自らの愚行によって自滅し、法と正義の裁きを待つだけの、無機質な「過去の残骸」に過ぎなかった。
「佳乃……!」
貴之はすがるように顔を上げ、血と涙に塗れた顔を歪ませた。
佳乃が自分を見下ろしている。怒っていない。冷たい顔をしているが、声を荒らげてはいない。
その静けさを、この男はまたしても「許しの兆し」だと都合よく解釈したのだ。
「佳乃……! 頼む、許してくれ……! 俺が悪かった! お前も分かってるだろ!? 俺たち創業家同士、切っても切れない仲なんだ! 親父だって、お前が俺の妻になることを望んでた! 俺を助けてくれ! お前のその頭脳で、鷹司代表を説得してくれ! 俺の借金を……俺の会社を……元に戻してくれえええっ!!」
見苦しい懇願。
死にかけた豚のような叫び。
だが、その濁った絶叫を、佳乃は一言も遮ることなく、すべて聞き届けた。
そして――
貴之が息を切らし、唾液を垂らして言葉を詰まらせた、まさにその沈黙の瞬間。
佳乃は、鈴を転がすような、清冽で涼やかな声で、静かに唇を開いた。
「――鳴神前社長」
「っ……!」
貴之の呼吸が止まった。
「あの日……先代の密葬が終わった深夜の会長室で。冷たい雨が降りしきる中、私に対して解雇予告手当の一円すら支払わず、ダンボール箱一つを投げつけて追い出しながら……」
佳乃の声は、驚くほど静かに、だが大ホールの隅々、最後列の壁にまで寸分の狂いもなく響き渡った。
一言一句が、定規で測られたかのように正確で、研ぎ澄まされた刃のように空気を切り裂いていく。
「あなたは……勝ち誇った笑みを浮かべながら、私に向かって、こう仰いましたね」
佳乃の切れ長の瞳が、冷徹な光を帯びて細められた。
そして――
あの日、深夜のオフィスで貴之が放った、最も残酷で、最も下劣な侮蔑の言葉を、寸分違わぬ響きをもって、そのまま男の眉間へと叩き返したのだ。
「――『お前程度の代わりなど、いくらでもいる』と」
ドクンッ……!!
貴之の心臓が、激しく跳ね上がった。
脳天を、巨大な杭で直接打ち抜かれたかのような衝撃。
喉の奥から、ヒッ、と引き攣った小さな音が漏れた。
(あ……あぁ……)
記憶が、鮮烈に蘇っていた。
先代・鳴神剛造の遺影の前で、喪服を着崩してブランデーを傾け、愛人の瑠璃華を抱き寄せながら、七年間会社を支え続けてくれた婚約者に向かって吐き捨てた、あの傲慢な言葉。
『お前がやってる仕事なんて、アプリ一つで代替できるんだよ』
『顔も地味、気利かせたつもりでお節介ばかり。俺の横に立つ女は、もっと華がなきゃ困るんだ』
『お前はただの代えが利く歯車なんだよ。代わりなどいくらでもいる』
自分が他人を足蹴にし、他人の尊厳をゴミのように踏みにじるために放った、あの呪いの刃。
それが今――何百倍もの質量と、絶対の正義を纏った巨岩となって、自らの頭蓋骨へと真っ直ぐに跳ね返ってきたのだ。
佳乃は両手を身体の前で重ねたまま、背筋をわずかに正した。
そして、客席の八百名の株主たち、全国のOBたち、そしてテレビカメラの向こうにいる世界中の市場関係者が見守る前で、鳴神貴之という男の全存在を永遠に葬り去る、究極の宣告を下した。
「どうぞ、ご自身の代わりを、どこかでお探しください」
静かな一撃。
だが、その言葉に込められた破壊力は、核爆弾のように貴之の魂を粉々に打ち砕いた。
「神崎氏との契約の処理も、百五十億円の資金調達も、メインバンクへの返済も……すべて、あなたご自身でおやりになればよろしいでしょう。……かつて私を『昭和の遺物』と嘲笑い、自らの才覚を信じて疑わなかったあなたのその手で、どうぞご自由に、ご自身の代わりを見つけ出し、破滅から這い上がってみせてください」
佳乃の唇の端に、冷徹で、この上なく優美な笑みが刻まれた。
「市場が……あなたという人間をどう評価するか。せいぜい、楽しみにしております」
「あ……が……あ……っ」
貴之の顔面が、屈辱と絶望で土気色に変色していった。
市場の評価。
先ほど大スクリーンに投影された、反対わずか三・一%という壊滅的な数字。
そして、これから始まる特別背任罪での逮捕、全財産の差し押さえ、自己破産。
市場はすでに、鳴神貴之という人間に「完全なる無価値」という確定判決を下していたのだ。
だが、佳乃の宣告は、それだけでは終わらなかった。
佳乃は、かつて赤坂のエントランスでこの男に下した拒絶を、さらに一段と高い次元へと昇華させ、絶対の引導として叩きつけた。
「そして――鳴神前社長」
佳乃の澄んだ声が、静まり返るホールに凛と響く。
「現在の私のスケジュールは、分単位で数千億円を動かす国家規模のプロジェクト、ならびにここに集まってくださった誠実な社員の皆様の未来を守るための仕事で、完全に埋まっております」
佳乃は一歩、後方へと身を引いた。
そして、一切の躊躇なく、冷ややかに言い放った。
「あなたという【過去の亡霊】に割く時間は――私の人生において、一秒たりとも残されておりません」
――一秒たりとも残されていない。
ドォォォォォンッ!!
完全なる、永遠の決別。
許しを乞うことすら、憎まれることすら、もはや許されない。
この女性の人生において、鳴神貴之という男は、もはや何の感情も揺り動かすことのできない、ただの道端の塵芥として、完全に切り捨てられたのだ。
「う……あああああああああああああっっっっ!!!!」
貴之の喉から、言語を絶した断末魔の絶叫が迸った。
男は自らの髪を両手で狂ったように掻きむしり、額を床に何度も打ちつけながら、獣のように咆哮した。
心が、精神が、自尊心が、粉々に砕け散り、修復不能の瓦解を起こしていた。
自分が捨てた女が、手の届かない神座へと登り詰め、自分には見向きもしない。
自らの放った「代わりなどいくらでもいる」という傲慢な言葉の檻の中に、自分自身が永遠に閉じ込められたのだという絶望に、貴之は床をのたうち回った。
「…………」
佳乃は、のたうち回る貴之を一瞥することすらなく、静かに背筋を伸ばして踵を返した。
完璧な身のこなし。
ミッドナイトネイビーのジャケットの裾が、夜空の帳のように美しく翻る。
その佳乃の隣に、鷹司誠一郎が音もなく寄り添った。
誠一郎は佳乃の肩を自らの逞しい腕でそっと抱き寄せると、愛おしさと誇りに満ちた眼差しで、彼女の美しい横顔を見つめた。
佳乃もまた、誠一郎を見上げ、柔らかく、確信に満ちた微笑みを返した。
会場の八百名の株主たちから、息を呑むような感嘆の溜息が漏れた。
悪辣な過去を自らの知性と言葉で完全に断罪し、新しい時代の光の中へと並び立つ二人。
その姿は、誰の目から見ても、これ以上ないほど気高く、完璧な「至高のエグゼクティブ・パートナー」そのものだった。
パシャシャシャシャシャシャッッ!!
怒涛のようなフラッシュの嵐が、二人を祝福するかのように白銀の光で包み込む。
壇上に座る安西専務が、胸ポケットから白いハンカチを取り出し、溢れ出る涙を力強く拭った。
客席の最前列で、瀬尾千夏が両手を胸の前で合わせ、憧れの先輩の凛とした後ろ姿を見つめて涙を流している。
真鍋苑子が満足げに頷き、梶原康平が力強く拳を握りしめていた。
過去の清算は、終わった。
七年間にわたる理不尽な搾取、雨の夜の屈辱、そして傲慢なる無能の支配は、今この瞬間、跡形もなく完全に終焉を迎えたのだ。
あとは――
この神聖なる議場から、醜悪な敗残者を物理的に排除し、新しい会社の誕生を正式に宣言することだけだった。




