第48話:壇上での土下座
大ホールを揺るがす万雷のスタンディングオベーションは、数分が経過してもなお、衰える気配を見せなかった。
八百名の株主たちが立ち上がり、惜しみない拍手と歓声を壇上へと送り続けている。全国から駆けつけたOBたちが涙を拭い、現場の社員持株会のメンバーたちが肩を抱き合い、未来への希望に満ちた熱狂が会場を満たしていた。
演壇の中央に立つ鷹司誠一郎は、漆黒のスリーピースを完璧に着こなし、その熱狂を泰然自若とした威厳をもって受け止めていた。正面の二百インチスクリーンには、賛成八十四・二%という歴史的な圧勝を示す黄金の数字が輝き続けている。
だが――
その光り輝く舞台の片隅、役員席の最奥に置かれた冷たいパイプ椅子の周りだけは、まるでこの世のすべての光を吸い取って腐敗した底なしの泥沼のように、重苦しく淀んだ闇に閉ざされていた。
「…………っ」
鳴神貴之は、まるで糸の切れた操り人形のように、パイプ椅子から滑り落ちて床の絨毯の上に崩れ落ちていた。
両膝が力なく投げ出され、肘を床について辛うじて上半身を支えている。
イタリア製の最高級ウールで仕立てられた濃紺のスーツは、昨夜からの脂汗と泥に汚れ、ネクタイは引きちぎれ、胸元のボタンは弾け飛んでいた。
無精髭の浮いた青白い頬を、汗と涙と鼻水がとめどなく濡らし、顎の先からポタポタと床の深紅の毛氈へと落ちていく。
終わった。
文字通り、自分の人生のすべてが、跡形もなく消滅したのだ。
解任。
第1号議案の可決により、鳴神物産代表取締役社長という肩書きは、公的に、法的に、この瞬間に完全に消滅した。
登記簿謄本から自らの名前は抹消され、何億という巨額の役員報酬も、役員専用車も、銀座や赤坂のクラブで湯水のように使っていた経費の特権も、すべてが泡と消えた。
それだけではない。
六本木の月額二百五十万円のタワーマンションはすでに家主から退去勧告が出され、愛人の瑠璃華には五千万円の現金とブラックカードの枠を限界まで持ち逃げされた。
そして――手元に残されたのは何か。
ベーカー&スターンズとの契約に個人連帯保証として差し入れさせられていた数十億円の債務保証。
大東京フィナンシャルグループをはじめとする銀行団からの、損害賠償請求と不正流用資金の求償請求。
さらには、本日この場で安西専務や真鍋苑子によって白日の下に晒された、特別背任、横領幇助、労働基準法違反、脅迫罪という、幾重にも連なる刑事告発の網。
自己破産すら免れない。
否、浪費と背任による免責不許可事由が適用されれば、一生涯かかっても返済しきれない数十億円の借金を背負い、刑事罰による実刑判決を受け、刑務所の冷たい雑居房の中で人生を終えることになる。
「あ……が……あ……」
貴之の喉から、空気の抜けるような引き攣った呻きが漏れた。
呼吸ができない。
肺が縮み上がり、心臓が早鐘のように狂い打っている。
周囲を取り囲む四名の警備員たちは、貴之が暴れ出さないよう無言で腕を組み、冷徹な壁となって彼を見下ろしていた。
壇上に座る創業家寄りの社外取締役たちも、親族たちも、誰一人として貴之に手を差し伸べようとはしなかった。皆、視線を逸らし、汚物を見るかのように身を引いている。
先ほどまで「若き三代目社長」とおべっかを使っていた人間たちが、一瞬にして掌を返し、自分をただの疫病神として切り捨てたのだ。
(嘘だ……嘘だろ……。俺が……俺が、なんでこんな目に……)
貴之の濁った脳髄の中で、現実を受け入れられない自己愛の悲鳴が渦巻いていた。
俺は鳴神剛造の息子だぞ。
創業家の正統な血を引く、選ばれし後継者だ。
泥臭い現場の連中とは違う、スマートなグローバルエリートとして、賞賛と富と美女に囲まれて生きるはずだったんだ。
それが、なぜ。
なぜ、すべてを奪われ、こんな公衆の面前で晒し者にされ、刑務所行きの手前で震えなければならないのか。
(誰か……誰か、俺を助けろ……!)
心の中で叫んでも、応える父親はもういない。愛人は裏切った。銀行は手を引いた。
絶望の暗闇が、貴之の視界を真っ黒に塗り潰そうとした――まさにその時だった。
パシャシャシャシャシャシャッ!
一段と激しいストロボの閃光が、演壇の方向から炸裂した。
貴之は眩しさに顔を歪め、おそるおそる、濁りきった瞳を持ち上げた。
その視線の先に――
息を呑むほど神々しい光を浴びて、佇む女性の姿があった。
槇野佳乃。
演壇の脇、鷹司誠一郎のすぐ隣に歩み寄り、満面の拍手を送る株主たちに向かって、優美で気品に満ちた会釈を返している。
ミッドナイトネイビーの完璧なスーツ。
首筋をすっきりと見せる洗練された前下がりボブ。
意志の強さと慈愛を宿した、息を呑むほど美しい切れ長の瞳。
胸ポケットには、誠一郎から贈られたロイヤルサファイアブルーの特注万年筆が、スポットライトを浴びて青く神聖に瞬いている。
世界を動かす投資帝国の覇者・鷹司誠一郎が、その彼女の腰にそっと手を添え、誇らしげに、そして限りなく優しい眼差しで見つめ合っている。
「…………っ!!」
その光景が、貴之の網膜に焼き付けられた瞬間。
男の崩壊寸前の精神の奥底で、奇妙な、狂気じみた化学反応が爆発した。
(佳乃……)
そうだ。
あいつだ。
あいつがいるじゃないか。
七年間、自分の背後に控えていた女。
自分がどれほど理不尽に怒鳴り散らしても、どれほど無理難題を押し付けても、決して逆らわず、黙って頭を下げて完璧に後始末をしてくれた女。
親父が作ったどんなトラブルも、取引先とのどんな致命的な亀裂も、あの女が裏で帳尻を合わせ、笑顔で珈琲を差し出して解決してくれた。
あいつは、俺の婚約者だったんだ。
親父が病床で「貴之を支えてやってくれ」と頼み、あいつ自身も「お支えします」と誓ったはずだ。
(あいつなら……佳乃なら、俺を助けられる!)
(佳乃は今や、タカツカサのナンバーツーだ! あいつが一言『貴之さんを許してあげてください』と鷹司に言えば、百五十億の請求も、銀行の借金も、警察の捜査も、全部チャラにできるはずだ!!)
歪み切った認知の暴走。
自己愛性パーソナリティが完全に崩壊した人間が、最後に辿り着く絶対的な幼児退行――「かつて自分に無条件で尽くしてくれた母親のような存在」への狂気じみた依存と全能感の投影。
あの日、雨の中にダンボール一つで追い出したことなど、都合よく記憶の彼方へ吹き飛んでいた。
あいつは俺を愛していたはずだ。俺が頭を下げて、すがりつきさえすれば、あの情け深い女が俺を見捨てるはずがない――!
「あ……あぁ……」
貴之の口から、掠れた声が漏れた。
次の瞬間、彼は警備員たちの制止を振り切るように、床の上で身をよじった。
「おい、動くな!」
警備員が手を伸ばしたが、貴之はそれを獣のような動きで払いのけた。
立ち上がる力など、もはや脚には残っていなかった。
だから――男は、這った。
ズザッ……ズザザザッ!
深紅の絨毯の上を、四つん這いになり、両手と両膝を擦りむきながら、泥水をすする犬のように這い進んだのだ。
「佳乃……! 佳乃ぉぉぉぉぉっ!!」
喉が張り裂けんばかりの絶叫。
その異様な声に、演壇の周りにいた報道陣が息を呑み、会場の歓声がピタリと止まった。
八百名の視線が、一斉に壇上の床を這い回る男へと向けられた。
「おい、見ろ……!」「鳴神前社長が……這っているぞ!?」「何をする気だ!?」
ざわめきとカメラのフラッシュが、床を這う貴之の背中に集中する。
膝のスーツ生地が破れ、摩擦で皮膚から血が滲み出ているのも構わず、貴之は肘と爪先を狂ったように動かし、演壇の前に立つ佳乃の足元へと向かって一直線に這い寄っていった。
ネクタイが床の埃を掃き、引きちぎれたワイシャツから見苦しい胸板が覗く。
涎を垂らし、目を血走らせ、ただ一つの「救い」を求めて縋り付こうとするその姿は、上場企業の元社長としての尊厳など微塵も残っていない、完全なる生ける屍だった。
「佳乃! 佳乃ぉぉっ! 俺だ、貴之だ!!」
ズザッ!
佳乃の履く、磨き抜かれた黒革のポインテッドトゥパンプス。
そのわずか三十センチメートル手前の床へと到達した瞬間――
ゴォォォォンッッ!!!!
凄まじい、鈍い破壊音が演壇の床から響き渡った。
「…………っ!?」
最前列の株主たちが、息を呑んで立ち上がった。
貴之は、両手を床に突き、自らの額を、全体重を乗せて壇上の木の床へと激しく叩きつけたのだ。
ゴッ! ゴッ! ドォンッ!!
一度ではない。
二度、三度、四度――狂ったように、自らの頭蓋骨を床に打ち据え続ける。
毛氈越しであっても分かる、鈍い骨の軋む音。
額の皮膚が裂け、ツゥーッと赤い鮮血が滲み出し、鼻水と涙と混ざり合って絨毯の上に赤黒い水たまりを作っていく。
額から血を流しながら、貴之は床に顔を擦り付け、見苦しい号泣の声をホール全体に響かせた。
「佳乃ぉぉぉぉっ!! すまなかった! 俺が悪かったあああああっ!!」
唾液と血の泡を吹きながら、貴之は泣き叫んだ。
何百台ものテレビカメラが、その血みどろの土下座をアップで捉えている。
全国の株主、OB、社員たちの冷徹な視線が突き刺さる中、男は恥も外聞もプライドもかなぐり捨て、自らを徹底的に卑下して命乞いを始めた。
「俺が悪かった! お前の言う通りだったよ!! 俺はバカな無能だった! 親の七光りで調子に乗ってただけの、何もできないクズ野郎だったんだ!! お前がいなきゃ、会社は何一つ回らない! 俺一人じゃ、飯の食い方すら分からないんだよ!!」
貴之は血の混じった涙でぐしゃぐしゃになった顔を跳ね上げ、佳乃の足元へと手を伸ばそうとした。
だが、その指先は恐怖と懇願でガタガタと震え、触れることすらできずに空中を虚しく掻きむしる。
「頼むから、俺を捨てないでくれ!! 見捨てないでくれ佳乃!! 俺たち、あんなに仲が良かったじゃないか!! 七年間も一緒にいたんだぞ!? 親父の病床で、お前も俺を支えるって言ってくれただろ!? 親父だって、俺たち二人の結婚を誰よりも望んでいたんだ!!」
都合のいい記憶の捏造。
先代が病床で遺した「人の心の痛みが分からん息子を頼む」という苦渋の遺言を、あたかも自分たちの愛の誓いであったかのように歪曲し、盾にする。
貴之の口から次々と飛び出すのは、聴くに堪えない身勝手極まりない取引の言葉だった。
「今すぐ籍を入れよう!! 今すぐ役所へ行って、婚姻届を出そう!! お前を正式な鳴神の正妻にしてやる! いや、違う、お前が社長になればいいんだ!! 俺が社長の座をお前に譲る!! お前が代表取締役になって、俺はその下で、お前の下僕として何でも言うことを聞くから!!」
下僕。
かつて「お前は昭和の遺物だ」「代わりなどいくらでもいる」と切り捨てた相手に向かって、今度は「お前の下僕になるから結婚してくれ」と叫ぶ。
その徹底的な浅ましさ、徹底的な卑劣さ。
「お前のお茶汲みでも、靴磨きでも、何でもする!! 一生お前の足元にひれ伏して生きるから!! だから……だから頼む、鷹司代表に言ってあの百五十億の請求を止めてくれ!! 警察の捜査を取り下げさせてくれ!! 借金をチャラにしてくれぇぇぇっ!!」
本音が、すべて剥き出しになった。
愛でも、後悔でもない。
ただ、自らが背負うべき巨額の借金から逃げたい。刑務所に行きたくない。惨めな底辺の生活に落ちたくない。
その一心だけで、かつて自らが踏みにじった女性の靴先に額を擦り付け、命乞いをしているのだ。
「俺を助けてくれぇぇぇぇっ!! 佳乃ぉぉぉぉぉっ!! うわぁぁぁぁぁんっっ!!」
床に突っ伏し、額から血を流しながら、子どものように泣きじゃくる鳴神貴之。
その見苦しい土下座と絶叫が、静まり返る大ホールに虚しく木霊していた。
「…………」
客席の八百名の株主たちから漏れたのは、怒りすら通り越した、深い、深い沈黙だった。
軽蔑。
嫌悪。
そして、哀れみすら湧かない、ただただ胸の悪くなるような醜態への拒絶。
「見ろよ、あの姿を……」
「あれが、名門・鳴神物産の社長だった男か……」
「自分の犯した罪の責任を何一つ取ろうとせず、かつて追い出した女性にすがりついて泣き叫ぶなんて……」
「人間のクズだな」
冷ややかな囁きが、無数のカメラのシャッター音とともに、土下座する貴之の背中へと降り注ぐ。
フラッシュの白い光が、床に広がる血と涙の染みを残酷なまでに鮮明に浮かび上がらせていた。
その、地獄のような醜態の中心で。
血を流して床に突っ伏す男の、わずか数十センチメートル先。
槇野佳乃は――
一歩も退かず、だが一歩も近づかず、ただ静かに、冷徹な静寂を湛えて立ち尽くしていた。
そのミッドナイトネイビーのスーツの裾には、貴之の飛ばした血の飛沫一つ触れていなかった。
完璧なまでの隔絶。
見下ろす佳乃の切れ長の瞳の奥に宿っていたのは、怒りでも、恨みでも、復讐の快感ですらなかった。
ただ――道端に転がる汚れた石ころを眺めるような、完全なる、絶対零度の「無」。
かつて自分を縛り付けていた婚約者。
自分から青春のすべてを奪い、雨の夜に嘲笑いながら追い出した男。
その男が今、自らの足元で泥を舐め、額から血を流して慈悲を乞うている。
だが、その姿を見ても、佳乃の心には波風一つ立たなかった。
哀れみも、同情も、過去の情愛の欠片すらも、この冷え切った魂の氷河を揺るがすことはできなかった。
すべては、自業自得。
他人の誠実さを踏みにじり、他人の痛みを嘲笑ってきた人間が、自らの蒔いた種を刈り取っているだけの、資本主義の冷徹な必然に過ぎなかったからだ。
ズズッ……と。
貴之が再び顔を上げ、血に汚れた震える手を、佳乃の靴先へと伸ばそうとした。
「佳乃……頼む……手を……俺の手を取ってくれ……!」
その指先が、佳乃のパンプスの革に触れようとした、まさにその刹那だった。
ザッ――。
重厚な革靴の足音が、静寂を切り裂いて割り込んできた。
横合いから伸びてきた長身の影が、佳乃の前へと立ちはだかり、床に這いつくばる貴之との間を、鉄壁の防壁となって完全に遮断したのだ。
「…………っ!?」
貴之が恐怖に目を見張った。
見上げれば――
そこに立っていたのは、仕立ての良い漆黒のスリーピースを纏った男。
タカツカサ・キャピタル代表取締役CEO――鷹司誠一郎だった。
誠一郎は佳乃を自らの背後へと完璧に庇うように立ち、両手をポケットに入れたまま、絶対零度の眼光で、床に這いつくばる貴之を虫けらのように見下ろしていた。
その切れ長の瞳に宿っていたのは、他人の存在を塵芥として消し去るほどの、圧倒的な威圧感と、剥き出しの殺気。
処刑台の刃は、すでに首筋へと押し当てられていた。
七年間の搾取と侮蔑に対する、完全なる、そして生涯二度と覆ることのない「最後の決別」の瞬間が、今まさに訪れようとしていた。




