第51話:鳴神物産の解体と再編
株主総会における劇的な勝利から、わずか十数時間後。
午前七時三十分――秋の澄み切った朝日が、東京都中央区銀座に聳え立つ旧・鳴神物産本社ビルのガラスウォールを金色に染め上げていた。
昨日のあの狂乱と怒号、そして鳴神貴之が泥水の中へ這い蹲ってマスコミのフラッシュに晒された車寄せには、すでに打ち水が打たれ、秋風が何事もなかったかのように乾いたアスファルトを吹き抜けている。
だが、本社ビル最上階・三十四階の役員フロアに漂っていたのは、嵐が去った後の安息などでは断じてなかった。
そこにあったのは、巨大な腐敗した城を解体し、真の巨艦として生まれ変わらせるための、過酷で研ぎ澄まされた戦場――すなわち『PMI(Post Merger Integration:買収後統合プロセス)』の凄まじい熱気だった。
「――おい、財務アナリスト部隊! 第三四半期の資金繰り表の洗いは終わったか!? 旧体制が隠蔽していた簿外債務の洗い出し、コンマ一秒でも早く突合させろ!」
「法務チーム、契約無効通告の書留は本日午前必着で発送手配完了! 内容証明の謄本をこちらへ!」
三十四階の役員会議室のドアには、仮設のプレートが掲げられていた。
『株式会社ナルカミ・グローバル 統合準備本部』。
かつて貴之が白い革張りソファを並べ、愛人の瑠璃華とカプチーノを啜りながら現場の報告を握り潰していた空間は、一晩にして完全に作り変えられていた。
成金趣味の調度品はすべて廊下の隅へと撤去され、部屋の四方を取り囲む壁には、巨大なホワイトボードが何台も隙間なく連結されていた。
机の上には数十台のノートパソコンとセキュア通信端末が並び、タカツカサ・キャピタルから送り込まれた財務・法務・労務・サプライチェーンの精鋭部隊二十数名が、ジャケットを脱ぎ捨てて腕まくりをし、怒涛の勢いでキーボードを叩き続けている。
「……おはようございます、皆様」
午前八時ちょうど。
重厚な防音扉が開き、ミッドナイトネイビーの仕立ての良いパンツスーツを凛と着こなした槇野佳乃が、足音を吸い込むようにして入室してきた。
首筋をすっきりと見せる前下がりの黒髪ボブは艶やかに整えられ、その素顔には、昨日の激戦の疲弊など微塵も残っていなかった。
胸ポケットには、昨日の壇上で新会社の設立協定書にサインを刻んだ、あのロイヤルサファイアブルーの特注万年筆が鈍い光を放っている。
その隣には、漆黒のスリーピースを纏った鷹司誠一郎が、絶対の威厳を漂わせて並び立っていた。
背後には、プラチナフレームの眼鏡を指先で直す法務統括の真鍋苑子、そして分厚い資産査定レポートの束を抱えたCOOの梶原康平が従っている。
「佳乃さん、鷹司代表!」
部屋の最奥、ホワイトボードの前で指示を飛ばしていた安西源三郎が、顔を輝かせて駆け寄ってきた。
五十八歳の叩き上げの重鎮は、昨日の涙の土下座から完全に脱皮し、現場を統括する副社長兼COO補佐としての鋭い眼光を取り戻していた。
「徹夜で社内サーバーの全アクセスログ、ならびに隠蔽されていた経理伝票のサルベージを完了させました。……酷いものです。貴之の愚息が食い散らかした膿の全貌が、白日の下に晒されましたぞ」
「ご苦労だった、安西副社長」
誠一郎が低く滑らかな声で労うと、部屋の中央、ホワイトボードの正面へと歩み寄った。
ホワイトボードには、赤と黒の油性マーカーで、旧鳴神物産を取り巻いていた異様極まりない組織系統図が、蜘蛛の巣のように書き殴られていた。
「さて、始めようか」
梶原が赤ペンを指先で回しながら、ホワイトボードの前に進み出た。
「タカツカサの数字部隊が徹夜で精査した、旧体制の『資産査定』の最終報告だ。……結論から言おう。あのバカ息子が『新時代のスマート経営』と称して乱立させた新規事業とペーパーカンパニー群……これらは事業などと呼べる代物じゃねえ。ただの個人的な横領と、愛人への利益供与のパイプラインだ」
梶原は太い赤ペンで、ホワイトボードの最上部に書かれた六つの法人名を、容赦なく×印で塗り潰した。
「第一に、貴之が愛人・江藤瑠璃華の取り巻きや、港区の怪しげな人脈のために設立した幽霊会社六社だ。『株式会社ナルカミ・AIラボ』『グローバル・ブランディング・パートナーズ』などとご立派な看板を掲げちゃいるが、実態はオフィスすら存在しないバーチャルオフィスの登記のみ。行われていたのは、実体のない『経営コンサルティング料』『AI開発基本調査費』名目での、月額数千万円規模の資金還流だ」
梶原のペン先が、ホワイトボードを強く叩く。
「この幽霊会社六社に対して垂れ流されていた不当な支出だけで、年間なんと【十八億四千万円】にのぼる。……本日付で、これら六社はすべて特別清算の手続きへ回し、契約を即時解除する。これだけで、新会社のキャッシュフローは即座に年間十八億円以上浮く計算だ」
「法務面からの措置も、すでに完全に完了しているわ」
真鍋苑子がファイルを開き、冷徹な声で言葉を継いだ。
「貴之体制下において、取締役会の決議を経ずに独断で締結された外部コンサルティング契約、ならびに江藤瑠璃華室長名義で発注されていたハイブランド品や高級外車のリース契約、計四十二件。……これらはすべて会社法第三百五十六条(競業および利益相反取引の制限)、ならびに民事法上の公序良俗違反(民法第九十条)を根拠として、本日午前九時付で【無条件の契約無効通告】を発送したわ」
苑子の瞳の奥に、剃刀のような光が宿る。
「さらに、江藤瑠璃華が交際費口座から持ち逃げした現金五千万円、ならびに貴之が会社の信用枠を私的流用して買い漁らせた貴金属三千八百万円相当については、すでに警視庁捜査二課の押収手続きにより、ほぼ全額の所在が保全されている。……これらは不法行為に基づく損害賠償請求(民法第七百九条)の保全処分として、新会社の口座へ全額強制還流させるわ」
「完璧だ、真鍋」
誠一郎が短く頷く。
不要な利権、腐敗した寄生虫たちへの資金パイプは、わずか一晩の法務・財務のメスによって、完全に根元から切断されたのだ。
だが――
槇野佳乃の視線は、そうした「削ぎ落とすべき膿」ではなく、ホワイトボードの最下段、青い枠線で囲まれた巨大な事業ブロックへと向けられていた。
そこには、太い文字でこう記されていた。
『株式会社ナルカミ・ロジスティクス』。
そして、その下に連なる『東京湾・横浜・神戸・門司 全国主要港湾倉庫ネットワーク』の文字。
「……真鍋先生、梶原COO。膿の切除、見事な手腕に感謝いたします」
佳乃は静かに歩み出ると、青い枠線の前に立った。
背筋をすっきりと伸ばし、その澄み切った瞳でボードを見つめる。
「ですが、私たちの真の目的は、コストカットではありません。……この会社が七十年かけて現場で築き上げ、そしてリチャード・神崎のような外資ブローカーに切り売りされようとしていた【真の心臓部】を、いかに無傷で防衛し、再生させるかです」
佳乃は振り返り、安西専務と視線を交わした。
安西が力強く頷き、手元の分厚いファイルを広げた。
「槇野君の言う通りだ。……神崎とのメザニンローン合意解約により、ナルカミ・ロジスティクスの全株式、ならびに銀座本社ビルの担保権抹消登記は、今朝一番で東京法務局において無事に完了した。……物流の心臓部は、無傷で我々の手元に戻ってきたのだ」
「ええ。そして、ここからが再生の第一歩です」
佳乃の声は、淀みなく、確信に満ちていた。
「本日付で、ナルカミ・ロジスティクスを、タカツカサ・キャピタルの統括持株会社の直下に位置づける中核事業会社として正式に編入いたします。……第三者への事業譲渡や切り売りは、定款の変更をもって恒久的に禁止いたします。あわせて――」
佳乃は手元のタブレットを操作し、プロジェクターに全国の港湾マップを映し出した。
「貴之前社長の失政により、更新手続きが途絶えて競合他社に奪われかけていた、全国主要港湾における『優先利用枠』。……横浜港、神戸港、門司港の港湾管理組合、ならびに国土交通省の港湾局に対し、本日午前十時をもって、新体制による再契約の手続きを完了させます」
「再契約だと……!?」
梶原が目を見張った。
「おいおい、佳乃さん! 港湾倉庫の優先枠なんてもんは、一度手放したら順番待ちで何ヶ月も空かねえのが業界の常識だぞ!? 相手の役所や組合が、そんなに簡単に枠を戻してくれるのか!?」
「問題ございません」
佳乃の唇の端に、極めて優雅な、万能秘書としての誇りに満ちた笑みが浮かんだ。
「昨夜、株主総会が終わった後、全国主要港湾の組合長様、ならびに歴代の港湾OBの皆様へ、私から直接お電話を差し上げました。……先代会長が遺された『槇野手帳』のプロトコルに従い、皆様のこれまでのご苦労に対する感謝をお伝えし、新体制における適正な利用計画と雇用維持の方針をご説明したところ、すべての港湾において『槇野君と安西君が指揮を執るなら、全面的に最優先枠を復活させる』と、即座にご快諾をいただきました」
「な……ッ!?」
梶原が呆然と口を開け、やがて頭を抱えて唸った。
「一晩で……全国の港湾枠を電話一本で取り戻したってのかよ……。おい誠一郎、お前の特命秘書殿は、本当に人間なのか? 神様か何かの化身じゃねえのか!?」
誠一郎は誇らしげに目を細め、静かに佳乃の肩へと手を置いた。
「言ったはずだ。現場を動かしているのは規約や数字ではない。信頼という名の生身の人間関係だとな。……佳乃の差配は、何千億円の資金をも凌駕する」
「鷹司様……」
佳乃の頬が、わずかに熱く染まる。
「さらに、安西副社長」
佳乃は安西に向き直り、最も重要な条項を告げた。
「ナルカミ・ロジスティクスに所属する三千二百名のトラックドライバー、全国の冷凍倉庫で働く現場作業員、ならびに現場管理職の皆様……。本日付で、希望者全員の雇用を【百パーセント維持】することを、会社として正式にプレスリリースいたします」
「おお……!」
安西の目に、再び熱いものが込み上げた。
「あわせて、前体制下において不当にカットされていた危険手当や時間外割増賃金を適正に復元し、来月度より一律五・五%のベースアップを断行いたします。……現場で泥水を啜り、トラックのハンドルを握り続けてくれた方々こそが、この会社の真の宝です。彼らが報われない経営など、断じて存在してはなりません」
現場の救済。
ハゲタカのように会社をバラバラにして売り払うのではなく、現場の血肉を守り、真の強靭なサプライチェーンとして世界へ解き放つ。
これこそが、佳乃が七年間の苦節の中で胸に秘め続け、誠一郎とともに成し遂げようとした、真の経営の姿だった。
部屋にいたタカツカサの精鋭アナリストたち、法務の弁護士たち、そして安西をはじめとする現場の重鎮たちから、誰からともなく自然と熱い拍手が湧き起こった。
冷徹な企業買収の現場が、今、人間への深い敬意と愛によって、奇跡のような再生の熱気に包まれていた。
拍手が静まるのを見届け、鷹司誠一郎がゆっくりと会議室の中央、上座のデスクへと歩み寄った。
デスクの上には、真新しい本革のバインダーに収められた、法務局へ提出するための『定款変更ならびに商号変更登記申請書』が置かれていた。
誠一郎は内ポケットから、万年筆を抜き取った。
そして、室内の全員を見渡し、威厳に満ちた声で静かに語りかけた。
「――諸君。我々は昨日、腐敗した暴君を処刑台から引きずり下ろした。だが、真の再生を果たすためには、過去の亡霊が遺した呪縛を、名実ともに完全に断ち切らねばならない」
誠一郎の切れ長の瞳が、ホワイトボードに掲げられた『鳴神物産』という四文字を鋭く射抜いた。
「先代・剛造氏が築いた誇り高き歴史は尊ぶべきものだ。だが……愚息が自らの女遊びと私利私欲のために泥水を啜らせ、私物化の象徴と化した『鳴神』という一族の看板は、本日ただ今をもって、永遠に下ろす」
カサリ、と書類がめくられる。
誠一郎は机の上の申請書の商号欄へと、迷いのない筆致でペン先を走らせた。
「これより――我が社は、現場の汗と知性を世界へと繋ぐ新たな巨艦として、生まれ変わる」
サリサリとインクが紙に染み込んでいく。
誠一郎が顔を上げ、凛とした眼差しで見つめる槇野佳乃へと、至高の笑みを向けた。
「――【株式会社ナルカミ・グローバル】。これが、君と私が共に創り出す、新しい会社の名前だ」
ダンッ、と職印が力強く捺された。
その瞬間、会議室全体から、割れんばかりの歓声と拍手が巻き起こった。
創業家の私物化を許した『鳴神物産』は、死んだのだ。
そして、現場のプロフェッショナルたちと、互いを唯一無二とする二人の至高の愛によって統治される『ナルカミ・グローバル』が、今、秋の青空の下で産声を上げた。
窓の外を見下ろせば、東京の街並みがどこまでも雄大に広がっている。
過去の傷跡は、すべて輝かしい未来の糧へと変えられた。
そして――
この新会社の頂点に立つべき真のリーダーを世界に向けて公式に発表するための、歴史的な記者会見の時間が、静かに迫っていた。




