第45話:愛人の証言
大東京フィナンシャルグループ取締役副頭取・九条雅恵が放った、三百億円の融資枠即時停止と既存融資四百二十億円の一括返済要求という、絶対の引導。
その言葉の余韻が、大ホールの重厚な空気の中に鉛のように沈み込んでいた。
演壇の脇、深紅の絨毯の上に膝をついたままの鳴神貴之は、まるで魂を抜かれた抜け殻のように口を半開きにし、視界を白くチカチカと明滅させていた。
終わった。
完全に終わったのだ。
メインバンクの信用という最後の防壁は、粉々に粉砕された。
ベーカー&スターンズへの百五十億円の債務に加え、メガバンクからの四百二十億円の即時償還要求。合計五百七十億円という、天文学的な負債の津波。
上場企業としての息の根は、公衆の面前で、衆人環視の中で完全にへし折られた。
だが――
自己愛の怪物にとって、自らの非を認めることは、死よりも耐え難い屈辱だった。
恐怖と絶望が極限を突破した瞬間、貴之の脳髄の奥底で、最後の理性のタガがバチンと音を立てて千切れ飛んだ。
貴之は演壇にしがみつき、爪を立て、まるで地獄の底から這い上がってきた悪鬼のような形相で立ち上がった。
整えられていたネクタイは引きちぎれ、白目が血走って異様に充血している。
「……あ……うああああああっ!!」
貴之は演壇の上のスタンドマイクを両手で力任せに鷲掴みにすると、前列の株主たちが耳を塞ぐほどの、引き裂かれた絶叫を轟かせた。
「俺は悪くないッ!! 俺は悪くないんだあああああっ!!」
口から泡を吹き、唾液の飛沫を前列へと撒き散らす。
八百名の株主たちが、呆気にとられて息を呑んだ。
壇上の役員たちも、報道陣のカメラマンたちも、そのあまりにも見苦しい狂乱の姿を、ただ冷徹にレンズで捉え続けている。
だが、貴之の暴走は止まらない。
彼は血走った目を狂ったように泳がせ、自らを破滅へと導いた「もう一つの元凶」の名を、喉が張り裂けんばかりに叫び立てたのだ。
「騙されたんだ!! 俺は……俺は全部、あの女に騙されていたんだよッ!!」
――あの女。
「江藤瑠璃華だ!! 社長室長だった、あの女の仕業だ!!」
貴之は演壇をバンバンと拳で叩き、ホール中に響き渡る声で喚き散らした。
「株主の皆さん、聞いてくれ!! 先代が亡くなった後、あの女が俺にすり寄ってきたんだ! 『これからはAIとペーパーレスの時代、古い紙の書類なんて邪魔なだけです』と甘言を弄し……先代の遺産であった槇野佳乃の引き継ぎ手帳や重要顧客の管理ファイルを、俺の知らぬ間に、勝手に大型シュレッダーへ放り込んで燃やしたのは、全部あの女なんだ!!」
議場が、ざわめきに包まれる。
貴之の必死の、そして醜悪極まりない責任転嫁の叫び。
「ベーカー&スターンズのリチャード・神崎を連れてきたのも瑠璃華だ! 『神崎さんは超一流のグローバルエリートだから絶対にサインすべきです』と、俺の腕にすがりついて唆したのもあいつだ!! それだけじゃない!! 会社の金庫から現金五千万円を不正に引き出し、俺のブラックカードを限界まで使い込んで貴金属を買い占め、夜逃げしたのも全部あの泥棒猫の仕業なんだよ!!」
貴之は胸を掻きむしり、涙と鼻水をボロボロと流しながら、自らを「悲劇の被害者」に仕立て上げようと絶叫を重ねた。
「俺は、悪女に騙されたんだ!! 会社を愛し、改革を進めようとしていた純粋な若き経営者が、一人の狡猾な愛人の罠に嵌められただけなんだ!! すべての責任は江藤瑠璃華にある!! 俺は被害者だ!! だから、俺を解任するなどという議案は間違っている!! 悪いのは全部、あの女なんだあああああっ!!」
一企業の代表取締役が。
自らの虚栄心と好色によって会社を破滅させながら、最後の最後に、自分が囲っていた愛人にすべての罪を擦り付け、自らを免責しようと喚き散らす。
そのあまりの器の小ささ、あまりの卑劣さに、会場のあちこちから深い溜息と、反吐が出るような侮蔑の嘲笑が漏れ出した。
「何をいまさら……」「自分が連れてきた愛人だろうが」「情けないにも程がある……!」
その、底知れぬ嫌悪感が議場を満たした――まさにその時だった。
「――相変わらず、見事な責任転嫁でいらっしゃいますね、鳴神前社長」
氷の刃を研ぎ澄ませたような、低く、冷徹な美声が、静まり返るホールに凛と響き渡った。
「…………え?」
貴之の絶叫が、喉の奥で詰まった。
最前列の特別指定席。
タカツカサ・キャピタルの陣営から、一人の女性が、優雅な所作でスッと立ち上がった。
タカツカサ・キャピタル パートナー兼法務・コンプライアンス統括副社長――真鍋苑子。
第一東京弁護士会所属、ならびにニューヨーク州弁護士。
プラチナフレームの眼鏡を指先でスッと押し上げ、胸元の金色の弁護士バッジを照明の下で鋭利に煌めかせながら、苑子は書類バインダーを小脇に抱え、迷いのない足取りで壇上のスロープへと歩みを進めた。
カツン、カツン、カツン。
その足音には、逃れられない法の執行人特有の、冷酷な重みが宿っていた。
壇上に上がった苑子は、演壇の貴之からわずか二メートルの距離に立ち、薄い唇の端に、怜悧な三日月の笑みを刻んだ。
「鳴神前社長。あなたが今、壇上から涙ながらに訴えられた『すべては江藤瑠璃華に騙された』という見苦しい弁解……。大変興味深く拝聴いたしましたわ」
苑子の瞳の奥に、獲物を追い詰めた猛禽の光が宿る。
「ですが、あいにくでしたわね。……その江藤瑠璃華氏の身柄は、昨日午後十一時、逃亡先の港区内にあるタワーマンションの一室において、警視庁捜査二課、ならびに赤坂警察署の合同捜査本部によって、業務上横領および詐欺の容疑で完全に確保されております」
「な……っ!?」
貴之の全身の毛穴が、一瞬にして凍りついた。
「ほ……確保……!? 瑠璃華が、捕まった……!?」
「ええ。我がタカツカサ弁護団が、彼女の送金ルートとカード決済ログを先回りして特定し、警察当局へ緊急の告訴状と所在情報を提供させていただきましたの」
苑子は抱えていたバインダーを開き、一枚の書類を貴之の目の前へと突きつけた。
「そして――これが、警察署の取調べ室において、江藤瑠璃華氏が自署捺印した【供述調書】の謄本。ならびに、弁護士同席の下で録音された、彼女自身の生々しい【証言音声】です」
「しょ……証言音声……!?」
「お聞きになりたいかしら? あなたが『すべてあいつが勝手にやった』と主張するその事件の、真実の姿を」
苑子は貴之の返答など待たなかった。
手元に持っていた専用のタブレット端末の画面をタップし、壇上の音響ミキサーへと有線接続されたBluetoothアダプタを通じて、大ホールのメインスピーカーへ直接出力を流し込んだ。
カチリ。
再生ボタンが押された瞬間――
大ホール全体に、低品質な取調べ室の反響音とともに、泣き叫び、取り乱した女の甲高い肉声が、鮮明なボリュームで鳴り響いた。
『――うわぁぁぁん! 嘘です、嘘ですぅぅ! 全部、全部貴之社長の指示なんですぅぅぅ!!』
会場が、息を呑んだ。
江藤瑠璃華。
あの、かつて鳴神物産のオフィスでブランド服を揺らし、千夏たち平社員を顎で使っていた愛人の、生々しい肉声だった。
『――私、シュレッダーなんて自分からやりたいなんて言ってません! 社長が……貴之社長が、先代の葬式が終わった夜に、お酒を飲みながら言ったんです! “佳乃の顔を思い出すだけで虫唾が走る”“親父の影も、あいつの気配も、この会社から全部消し去ってやる”“あいつが残した手帳もマニュアルも、一文字残らず全部シュレッダーにかけて燃やせ”って……! 社長が私の目の前でバインダーを投げつけて命令してきたんですぅぅ!!』
「な……っ!?」
貴之の顔から、サーッと血の気が引いた。
『――会社の金だってそうです! 私、横領なんてしてません! 先月、社長が“俺の女なんだから一流の格好をしろ”“小口経費の口座から好きなだけ抜いてブランド品を買え、全部交際費で落としてやるから”って、パスワードとブラックカードを無理やり渡してきたんです! 神崎さんとの契約だって、社長が“これで親父を超えられる、五百億の男だ”って調子に乗ってサインしたんじゃないですか! それなのに、会社が危なくなったら全部私のせいにして……! ひどい、ひどすぎますぅぅぅ!!』
ピッ。
苑子が冷徹に停止ボタンを押した。
スピーカーからの音声が途切れた瞬間、大ホールは、まるで墓場のような恐ろしい静寂に包まれた。
全部、社長の指示。
『佳乃の顔を思い出すだけで虫唾が走るから、全部シュレッダーにかけて燃やせ』。
『俺の女なんだから好きなだけ抜け』。
警察の取調べ室で、保身のために泣き崩れながら吐き出された愛人の告白。
それは、貴之が先ほどまで演壇で喚き散らしていた「騙された被害者」というストーリーを、根底から粉々に粉砕する、動かぬ自爆の証言だった。
「う……あ……」
貴之の唇が、ガタガタと激しく痙攣した。
「ち、違う……! あいつは嘘をついている! 自分の罪を軽くするために、俺に濡れ衣を着せようとしているんだ!! 証拠はない! あんな売女の証言に、客観的な証拠なんてあるはずが――」
「証拠なら、ございます」
その時。
貴之の苦し紛れの絶叫を遮って、もう一つの声が凛と響き渡った。
最前列の通路。
タカツカサ・キャピタルの席から、すっきりと背筋を伸ばし、壇上のマイクスタンドへと歩み寄ってきた若い女性の姿があった。
瀬尾千夏。
かつて鳴神物産の総務秘書課で、貴之と瑠璃華からすべての理不尽な尻拭いを押し付けられ、深夜のオフィスで泣き崩れていた、あのアシスタントだった。
だが今、千夏が身に纏っているのは、仕立ての良い清潔なネイビーのスーツ。
その瞳には、怯えも、過呼吸の痕跡も、微塵も残っていなかった。憧れの先輩・槇野佳乃に救い出され、プロフェッショナルとして自らの尊厳を取り戻した女性の、確固たる正義の光が宿っていた。
「せ……瀬尾……!?」
貴之が目を剥き出しにした。
千夏は壇上へと上がり、苑子の隣、マイクの前に立った。
そして、客席の八百名の株主たちに向かって、深々と一礼を捧げた。
「元・鳴神物産 総務秘書課アシスタント、現タカツカサ・キャピタル シニア・アシスタントの、瀬尾千夏でございます」
千夏の声は、驚くほど堂々としていた。
千夏は手元のタブレットを掲げ、正面の二百インチスクリーンへと無線接続した。
ピピッ。
スクリーンに投影されたのは――
鳴神物産の社内グループウェアのチャットログ、ならびに深夜に送受信された業務命令メールのタイムスタンプだった。
【日時:先月12日 深夜0時24分】
【送信者:代表取締役 鳴神貴之】
【宛先:江藤瑠璃華、瀬尾千夏】
『おい、会長室に残ってる槇野の私物と書類、全部処分しろ。あいつの痕跡を見るだけでイライラする。シュレッダーの箱が一杯になったら業者の溶解便に回せ。明日の朝までにオフィスから完全に消し去れ。これは社長命令だ』
【日時:先月18日 深夜2時15分】
【送信者:代表取締役 鳴神貴之】
【宛先:経理部】
『社長室交際費予備口座の管理権限を江藤室長へ一任する。小口決裁に関する事後精算ルールは本日付で免除。これに異論を挟む者は即刻懲戒処分とする』
スクリーンに映し出された、動かぬ電磁的記録。
貴之本人の社内アカウントから送信された、明確な隠蔽指示と、横領を幇助する特権付与のログ。
「それだけではありません」
千夏は胸元から、あの超小型ボイスレコーダーを取り出し、マイクへと近づけた。
「先月二十四日、外為法の包括輸出許可が失効し、税関で貨物が差し押さえられた際……社長室において、鳴神貴之社長が私に対して浴びせられた暴言の音声です」
カチリ。
再生されたのは、貴之が灰皿を床に叩きつけ、書類の束で千夏のデスクを殴打した、あの地獄のような怒号だった。
『――お前みたいな使えない無能は、今日で即刻クビだ!! 二十億円の損害賠償を請求されたくなければ、今夜中に税関へ行って、担当官の足元に土下座して通関させてこい!!』
『――額から血が出るまで床に頭を擦り付けて、泣きついてこい!! できなければ、お前の一族郎党、路頭に迷わせてやるからな!!』
続いて流れる、瑠璃華の甘ったるく、悪意に満ちた音声。
『――ひどぉい! 全部千夏ちゃんのせいです〜〜! 彼女がサボってたんですよぉ!』
会場中が、凍りついた。
一企業の代表取締役が、自らの無能と愛人の失態を隠蔽するために、二十三歳の女性社員を身代わりに仕立て上げ、人格を徹底的に踏みにじり、脅迫していた生々しい現実。
千夏は再生を止めると、毅然とした眼差しで貴之を見据えた。
「鳴神社長。……あなたが『昭和の紙ゴミ』と蔑んで捨てさせた槇野先輩の引き継ぎ手帳の中にこそ、外為法の更新期日も、港湾倉庫の契約条項も、すべて書かれていたのです。それを自らの手で破壊させ、すべての責任を現場の社員に押し付け、脅迫した……。その罪を、愛人のせいにして逃げることなど、断じて許されません」
千夏の言葉が、トドメの一撃となってホールに突き刺さった。
愛人の供述調書。
取調べ室の肉声。
社内サーバーの通信ログ。
そして、隠し撮りされたパワハラの決定的な音声データ。
四重の包囲網。
真鍋苑子が授け、千夏が命懸けで守り抜いた客観的証拠の数々が、今、総会という公の場において、寸分の狂いもなく完璧に結実したのだ。
「あ……が……あ……っ」
貴之の喉から、声にならない苦悶の呻きが漏れた。
嘘は、完全に剥ぎ取られた。
言い逃れの余地など、一ミリも、一ナノメートルも残されていなかった。
自らの口から吐き出したすべての言葉が、自分自身の首を絞める鋼鉄のワイヤーとなって、骨を軋ませていた。
壇上の議長席。
すべてを失った男の足元に、処刑台の底が完全に抜け落ちようとしていた。




