第46話:株主たちの怒号
千夏の手にしたボイスレコーダーの停止ボタンが押された瞬間、大ホールを覆ったのは、真空地帯に放り出されたかのような恐ろしい静寂だった。
二百インチの巨大スクリーンには、鳴神貴之のアカウントから深夜に送信された隠蔽指示メールの生々しい文面。
スピーカーから流れた、警察の取調べ室で愛人・江藤瑠璃華が泣き叫んだ告白。
そして――千夏に対して「額から血が出るまで床に頭を擦り付けて土下座してこい」「一族郎党、路頭に迷わせてやる」と喚き散らした、貴之本人の濁った罵倒音声。
すべての証拠が、逃げ場のない四方の壁となって、壇上の男を完全に包囲していた。
先ほどまで「すべては愛人に騙された」「俺は純粋な被害者だ」と演壇で叫んでいた三代目社長の言葉が、自らの保身のために仕組まれた真っ赤な嘘であったことが、白日の下に晒されたのだ。
「…………っ」
客席の最前列から最後列まで、八百名の株主たちの顔が、一瞬にして怒気で赤黒く染まり上がっていった。
誰かが息を呑む音が聞こえた。
誰かが拳をギリッと握り締め、指の骨を鳴らす音が聞こえた。
そして――
「……ふざけるな」
前列に座る、鳴神物産の古参OBの老人が、絞り出すように呟いた。
その呟きは、導火線に触れた火薬のように、瞬く間にホール全体へと引火した。
「ふざけるなああああああっっっっ!!!!」
ドッガァァァァァァンッッ!!!!
爆発した。
それは、もはや「野次」や「抗議」などという生易しいものでは断じてなかった。
八百名の怒りと憎悪が、天井のシャンデリアを物理的に揺さぶるほどの凄まじい衝撃波となって、壇上の演壇へと真正面から叩きつけられたのだ。
「先代が一代で築き上げた会社を、愛人と遊ぶ金のために潰したのかッ!!」
「現場の社員を何だと思ってるんだ! 土下座してこいだと!? 路頭に迷わせてやるだと!?」
「泥棒社長! 背任社長!!」
「即刻辞任しろ! 今すぐ壇上から降りろ!!」
「警察を呼べ! 特別背任と脅迫の現行犯で今すぐブタ箱へ叩き込めええええっ!!」
怒号。罵声。怒りの足踏みによる重低音の地鳴り。
立ち上がった株主たちが、演壇に向かって詰め寄ろうと大通路へとなだれを打った。
手元の招集通知の冊子、丸められた資料、飲みかけのペットボトルが、雨あられのように壇上へ向かって投げ込まれる。
バシッ、ボコッ、と演壇の木台に物が当たり、紙片が吹雪のように舞い散る。
「きゃっ……!?」
「危ない、下がってください!」
壁際に控えていた数十名の専属警備員たちが、青ざめた顔で壇上へと駆け上がり、腕を組んで人間の防護壁を作った。投げ込まれるペットボトルをスーツの背中で受け止めながら、必死の形相で株主たちの突入を押し留める。
だが、八百名の怒りの奔流の前には、警備員たちの制止など小川の杭にも等しかった。
「どけッ! 警備員、貴様らもそんな犯罪者を庇う気か!!」
「鳴神物産の恥晒しを引きずり下ろせ!!」
その怒涛の最前列を突き破るようにして、壇上のスロープへと駆け上がってきた一団があった。
鳴神物産OB会、ならびに全国の主要支店長OBの代表たちだった。
先代・鳴神剛造とともに高度経済成長期の荒波を越え、砂漠や極寒の地で油と泥に塗れながら会社を支え抜いてきた、白髪の歴戦の重鎮たち。
その先頭に立つ、かつて剛造の右腕として営業部門を率いた元副社長の長老が、杖を突きながら演壇の至近距離まで詰め寄り、鬼瓦のような憤怒の形相で貴之を一喝した。
「貴之君ッッ!!!!」
耳を劈くような老将の一喝。
警備員たちすら、そのあまりの気迫に思わず道を開けた。
長老は震える杖の先を、演壇の陰で縮こまる貴之の鼻先へと突きつけた。
「君には……剛造さんの血が流れている誇りも、恥というものもないのかッ!!」
「ひっ……!」
貴之の喉が、ヒュッと小さく鳴った。
「剛造さんが、どれほどの血と汗を流してこの会社を築き上げたと思っている! 現場の何千人もの社員たちが、どんな誇りを持って『鳴神』の看板を背負ってきたと思っているんだ!!」
長老の目から、激しい悔し涙が零れ落ちる。
「それを……自分の虚栄心と女遊びのために外資の毒牙に売り渡し、会社の心臓だった槇野君を足蹴にして追い出し、あまつさえ若い社員を身代わりに仕立てて脅迫しただと!? このザマは何だ!! 創業家の看板に胡坐をかき、泥棒のような真似をして……先代に、あの世で顔向けができると思うのかッ!!」
続いて、全国の現場を代表して駆けつけた社員持株会の若手・中堅リーダーたちが、壇下の通路から叫びを上げた。
「社長! 俺たちが連日、港湾倉庫のトラブルで頭を下げ、夜を徹して貨物を運んでいた時、あんたは六本木で豪遊していたのか!!」
「残業代も払わず、違法な労働を押し付け、文句を言えばクビだと脅して……俺たちの生活を、人生を何だと思っているんだ!!」
「返せ! 俺たちの会社を返せ!!」
身内からの、完全なる反乱。
創業家を最も支持し、会社の屋台骨を支えてきたはずのOBたちと現場の社員たちから、一滴の容赦もない糾弾の刃が突き立てられたのだ。
味方など、この広いホールのどこを探しても、ただの一人も存在しなかった。
壇上に並んでいた創業家寄りの社外取締役たちも、長老たちの剣幕に震え上がり、もはや貴之を庇う言葉など一言も発することができず、椅子から滑り落ちるようにして頭を抱えていた。
「う……あ……ああああ……っ」
壇上中央、議長席。
鳴神貴之のプライドは、完全に、跡形もなく粉砕されていた。
かつて自分が「代わりなどいくらでもいる」と見下していた人々。
自分が「親父の遺産」として当然のように搾取できると思い込んでいた社員たち、株主たち。
そのすべてが、巨大な怪物となって自分を押し潰そうと迫っている。
「や、やめろ……」
貴之は両手で自らの両耳を塞ぎ、椅子から転がり落ちるようにして床へと膝をついた。
演壇の重厚なマホガニーの机の下。
書類が散乱し、埃の溜まった狭い隙間へと、まるで光に怯える害虫のように身体を丸め、頭を深く潜り込ませたのだ。
「見るな……! 俺を見るなあああっ!!」
貴之の口から、涎と涙と鼻水が混ざり合い、床の絨毯へと垂れ落ちていく。
全身がガタガタと激しく痙攣し、歯の根が噛み合わずにカチカチと音を立てている。
「ひっ……やめろ、来ないでくれ! 俺は社長だぞ……! 鳴神の代表取締役なんだぞ……! 俺が神なんだ、俺の言うことを聞けよ……! 親父、助けてくれ……! 佳乃……佳乃ぉぉぉっ……!!」
もはや、言葉の体をなしていなかった。
かつて銀座のクラブで尊大に振る舞い、赤坂の高級ホテルで他人の尊厳を踏みにじっていた傲慢なプリンスは、今、自らが招いた自業自得の業火に焼かれ、机の下で耳を塞いで震えるだけの、ただの哀れな泥人形へと成り果てていた。
そのあまりにも無様で、あまりにも醜悪な姿に、会場中のカメラが一斉にフラッシュを浴びせかける。
世界中に配信される、名門商社三代目の完全なる精神崩壊の瞬間だった。
「…………」
最前列の株主席の中央。
鷹司誠一郎は、腕を組んだまま、氷のような冷徹な眼差しでその光景を見届けていた。
その隣に立つ槇野佳乃の切れ長の瞳にも、一片の動揺も、哀れみすらも浮かんでいなかった。
ただ、自らの蒔いた種を自らの身で刈り取る男の末路を、静かに、毅然と見据えていた。
だが、このままでは株主総会という公的な手続きが、完全な暴動によって流会(中止)してしまう恐れがあった。
流会となれば、買収の手続きは遅延し、現場の混乱はさらに長引くことになる。
その時――
壇上にいた真鍋苑子が、冷徹な足取りで、机の下に潜り込む貴之の背後へと歩み寄った。
苑子は床に散らばっていた議長用マイクを拾い上げると、凛とした、通る声で宣言した。
「株主の皆様、ならびに出席役員の皆様。……静粛にお願いいたします」
苑子の研ぎ澄まされた声が、怒号渦巻くホールに一本の楔のように打ち込まれた。
株主たちが息を呑み、壇上の長老たちも足を止めて苑子を注視する。
「現議長・鳴神貴之氏は、極度の精神的錯乱、ならびに著しい職務放棄により、これ以上の公正かつ円滑な議事運営を行う能力を完全に喪失しております」
苑子はプラチナの眼鏡を指先で押し上げ、会社法の条文を淀みなく読み上げた。
「会社法第三百十五条、ならびに当社定款第二十一条。……議長が著しく不公正な議事運営を行ったり、心身の故障等により議長席を放棄した場合、株主総会の決議により、議長を解任し、新たな議長を選任することが法的に認められております」
苑子は最前列の株主席、そして壇上の安西源三郎へと視線を送った。
「これより、筆頭株主タカツカサ・キャピタルの権利に基づき、緊急動議を提出いたします。……現議長・鳴神貴之に対する【議長不信任動議】、ならびに議長職の即時剥奪。あわせて、後任の臨時議長として、専務取締役・安西源三郎氏を選任する件!!」
――議長不信任動議!
――臨時議長に安西専務!
その瞬間、大ホール全体が、割れんばかりの拍手と歓声で揺れ上がった。
「賛成だッ!!」
「不信任に大賛成だ!!」
「即刻クビにしろ! 安西専務に議長をやってもらえ!!」
「議長不信任動議に対する賛成の拍手と認めます」
苑子は淀みなく告げた。
「会社法に基づき、出席株主の議決権の圧倒的多数の賛成をもって、鳴神貴之氏の議長職解任、ならびに安西源三郎氏の臨時議長選任が【可決・成立】いたしました」
カチリ、と法の歯車が完全に切り替わった。
鳴神貴之から、総会を取り仕切るすべての権限が、公的に剥奪されたのだ。
「警備員」
苑子は冷淡に指示を出した。
「前議長を、議長席から排除しなさい。……これ以上、神聖な株主総会の場を汚すことは許されません」
「は、はいッ!」
警備員四名が演壇の内側へと踏み込み、机の下でガタガタと震える貴之の両脇を力任せに抱え上げた。
「ひっ……離せ! 俺は社長だ! 俺は議長だぞ……!!」
消え入りそうな譫言を呟きながら、足をもつれさせて引きずり出される貴之。
彼は議長席から完全に排除され、壇上の最奥、役員席の隅のパイプ椅子へと乱暴に押し込められた。
その姿は、もはや一企業のトップなどではなく、裁きを待つだけの惨めな罪人に過ぎなかった。
そして――。
ザッ、ザッ、ザッ。
重厚な足音とともに、安西源三郎が歩み出た。
五十八歳の叩き上げの重鎮は、乱れたスーツの襟元を力強く正し、壇上中央の議長席へと歩み寄った。
椅子を深く引き、堂々たる体躯で席に着く。
その顔には、先ほどまでの苦渋と涙の痕跡は消え失せていた。
あるのは――先代・剛造とともに三十年間この会社を支え抜いてきた歴戦の猛将としての、揺るぎない覚悟と威厳だけだった。
安西は演壇の上に置かれていた木槌を右手に握り直した。
そして――
ドォォォォンッ!!
重く、力強い一撃を、演壇の木台へと打ち鳴らした。
その澄んだ、肚の据わった重低音が、ホールの隅々にまで染み渡っていく。
荒れ狂っていた八百名の株主たちのざわめきが、その一撃によって、まるで魔法のように静まり返った。
議場の秩序が、本物のリーダーの手によって完全に奪還された瞬間だった。
安西はマイクを引き寄せ、正面の株主たち、そして最前列で見守る槇野佳乃と鷹司誠一郎を、真摯な眼差しで見据えた。
「――株主の皆様」
安西の野太く、力強い声が、静まり返る大ホールを満たした。
「臨時議長に選任されました、専務取締役の安西源三郎であります。……これまでの前議長による著しい不手際、ならびに数々の無礼と不祥事に対しまして、役員の一人として、改めて心より深くお詫び申し上げます」
安西は立ち上がり、深々と、直角の頭を下げた。
客席から、温かい拍手が静かに湧き起こる。
安西は再び席に着くと、木槌をしっかりと握り締め、正面を見据えた。
「これより、本来あるべき株主総会の審議へと移行いたします。……議案の審議に入ります」
安西は手元の議事日程を掲げ、凛とした声音で宣言した。
「株主提案に基づき、提出された議案の上程であります。……これより、第1号議案『現代表取締役社長・鳴神貴之の【取締役解任】の件』、ならびに第2号議案『タカツカサ・キャピタルによる敵対的TOBへの賛同、および同社推薦の取締役選任の件』の――【一括採決】に入ります!!」
――採決!
運命の瞬間が、訪れた。
八百名の株主たちの表情が、一斉に引き締まる。
壇上の隅で頭を抱える鳴神貴之の処刑を執行し、タカツカサ・キャピタルによる買収を正式に成立させるための、最後の審判。
最前列の特別指定席で、槇野佳乃は背筋を寸分の狂いもなく伸ばし、胸ポケットのサファイアブルーの万年筆にそっと手を当てた。
隣に座る鷹司誠一郎が、冷徹な、だが確固たる勝利を確信した微笑みを口元に浮かべる。
舞台は整った。
知性と実務、そして現場の絆が、傲慢なる無能を完全に葬り去る歴史的な採決の幕が、今まさに切って落とされようとしていた。




