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第43話:数字が語る真実

大ホールの空気が、完全に凍結していた。

二百インチの巨大スクリーンに投影された『トラブル発生率 42・0%』という毒々しい真紅の数字。

過去五年間の平均0・02%という実績と並べられたその数字は、もはや単なる経営判断の誤りなどという言葉では片付けられない、組織の完全な自爆を証明していた。

八百名の株主たちの喉から、言葉を失った掠れ息が漏れ、報道陣のカメラマンたちが息を殺してファインダーを覗き込んでいる。


「う……あ……」


壇上の議長席で、鳴神貴之は演壇にしがみついたまま、開いた口を塞ぐことができずにいた。

顎からボタボタと滴り落ちる脂汗が、手元の原稿の上に染みを作っていく。

だが、その濁りきった瞳の奥で、追い詰められた鼠のような狂気が再び爛々と光を放ち始めた。


「で、でたらめだッ!!」


突然、貴之は演壇を両手でバンッと激しく叩いた。

マイクがガタガタと軋み、耳障りなハウリングがホールを劈く。

貴之は目を血走らせ、唾を撒き散らしながら、最前列のマイクスタンドの前に凛と立つ槇野佳乃を指差した。


「株主の皆様、騙されてはいけません!! こんなものは、タカツカサの悪質なハッカー部隊がでっち上げた、完全な偽造データです!! 数字を都合よく改ざんし、グラフを歪め、我が社の業績を不当に貶めて株価を暴落させようとする、下劣な株価操縦の手口だ!!」


貴之の必死の絶叫。

だが、その声は上ずり、震え、壇上のマイクを握る指先は小刻みに痙攣していた。


「だいたい、港湾倉庫の遅延や輸出管理の一時的な遅れなど、世界的な物流混乱と地政学リスクの影響に過ぎない! 我が社の経営努力とは無関係の不可抗力だ!! それを一秘書が辞めたせいにするなど、笑止千万! お前一人に、そこまでの力があるはずがないだろうが!!」


哀れなまでの現実否定。

客席の株主たちの中には、その喚き散らす姿に不快感を露わにする者が増え始めていたが、まだ一部の古参株主や親族の席からは「そうだ、外資ファンドの作った資料を鵜呑みにするな!」「証拠を見せろ!」という野次が飛んでいた。


その混乱のただ中で。

槇野佳乃は、感情を一切波立たせることなく、手元のプレゼンテーション用リモコンを静かに握り直した。

首筋をすっきりと見せる前下がりの黒髪ボブをわずかに揺らし、佳乃は壇上の貴之を、絶対零度の眼差しで見据えた。


「不可抗力、でございますか」

佳乃の涼やかな声が、貴之の怒号をいとも容易く切り裂いて響き渡る。

「港湾倉庫の優先利用枠の失効、ならびに外為法包括輸出許可の期限切れが、すべて事前の管理不全による人災であることの証跡は、すでに東京地方裁判所、ならびに経済産業省へ提出済みの公的文書にて完全に立証されております。……ですが、鳴神社長。問題の本質は、そのような日常実務の崩壊だけに留まりません」


佳乃はリモコンのボタンを、冷酷にクリックした。


ピピッ。


スクリーンの画面が瞬時に切り替わった。

投影されたのは、一通の分厚い英文契約書のデジタルスキャンデータだった。

契約書の表題には、金色のエンブレムとともに、冷徹な国際金融の文言が刻印されていた。


『CREDIT FACILITY AND MEZZANINE LOAN AGREEMENT(融資枠設定ならびにメザニンローン契約書)』

『Lender: Baker & Stearns Asia Limited / Borrower: Narukami Products Co., Ltd.』


その画面が現れた瞬間、貴之の顔面から、文字通り一切の血の気が引いた。

心臓を冷たい氷の杭で直接貫かれたかのように、貴之の身体がビクンと大きく硬直した。


「な……ッ!? な、なぜ……なぜその契約書が……!?」


貴之の喉から、掠れた悲鳴が漏れた。

外資系投資銀行ベーカー&スターンズとの極秘契約。

法務のチェックを一切通さず、顧問弁護士の目すら届かない場所で、六本木のバーでリチャード・神崎と密かに交わしたはずの、門外不出の最高機密ファイル。

なぜ、敵対するタカツカサの元秘書が、その原本データを手元に持っているのか。


佳乃はレーザーポインターを起動し、契約書の第七十二ページ、赤枠で囲まれた条項へと赤い光点を当てた。


「株主の皆様。新体制発足から一ヶ月後、鳴神社長は『次世代AIスマート商社構想』を掲げ、外資系投資銀行ベーカー&スターンズより、総額五百億円の資金調達枠(メザニンローン)を取り付けたと、大々的にプレスリリースを発表されました。……しかし、その契約の実態を、皆様はご存知でしょうか」


佳乃の声は、厳格な裁判官が断罪の判決主文を読み上げるかのように、静かにホールを満たしていった。


「これは融資などという生易しいものではありません。極めて悪質かつ周到に仕組まれた、鳴神物産の心臓部を合法的に強奪するための【資産収奪(アセット・ストリッピング)契約】でございます」


会場が、水を打ったように静まり返る。

佳乃はポインターの光を、第十四条第二項へと這わせた。


「契約書第十四条第二項、財務制限条項(コベナンツ)。……『第一四半期における新規AI事業の売上高実績が、計画値五十億円の七〇%――すなわち【三十五億円】を下回った場合、債権者は何らの通知・催告を要せず、直ちに期限の利益を喪失させることができる』。さらに付属別紙Dにおいて、年利【十八%】の遡及ペナルティ金利が加算され、元利金合計【百五十億円】の一括即時返済義務が発生する仕掛けとなっております」


「百五十億円……!?」

前列の機関投資家たちが、息を呑んで身を乗り出した。


「それだけではありません」

佳乃は画面をスクロールさせ、第十六条――担保権実行条項を大写しにした。


「返済期日までに着金が確認できない場合、ベーカー&スターンズは裁判所の競売手続きを経ることなく、即座に担保権を実行できる特約が結ばれております。……その担保物件として鳴神社長が差し出されたのは――中央区銀座一等地に建つ、この【鳴神物産本社ビルの敷地および建物の一切】。そして、我が国の低温輸送網の中核を担い、全社営業利益の四割を稼ぎ出す優良中核子会社、【ナルカミ・ロジスティクス株式会社の全発行済株式】でございます」


――本社ビル。

――ナルカミ・ロジスティクスの全株式。


その二つの言葉がスピーカーから放たれた瞬間、会場全体に、背筋を凍りつかせるような凄まじい衝撃が走った。

銀座の本社ビルは、創業家と社員たちが七十年の歴史の中で守り抜いてきた、会社の象徴であり最大の含み資産だ。

そしてナルカミ・ロジスティクスは、全国の食品メーカーや製薬会社と直接結ばれた、鳴神物産の屋台骨そのものだ。

それを――外資の怪しげな融資の担保として、丸ごと差し出していたというのか。


「そして、株主の皆様。……その運命の第一四半期決算が、先週、確定いたしました」

佳乃は画面を切り替えた。

スクリーンに、先ほどまで貴之が必死で隠蔽しようとしていた、あの絶望的な実績シートが巨大に映し出された。


【新規AIスマート商社事業 第一四半期売上計画】:金 伍拾億円(¥5,000,000,000-)


【第一四半期売上実績】:金 壱億弐千万円(¥120,000,000-)


【計画達成率】:【2・4%】


「売上達成率、わずか二・四%。計画の三十分の一にも満たない壊滅的失敗でございます。……これに伴い、先週末をもって百五十億円の債務不履行(デフォルト)が確定いたしました。もしタカツカサ・キャピタルが介入しなければ――本日ただ今この瞬間にも、本社ビルは接収され、物流子会社は海外市場で競売にかけられ、鳴神物産は債務超過に転落して倒産していたのです」


佳乃は凛とした横顔で、壇上の貴之へと視線を向けた。


「現場の営業基盤が崩壊している中で、到底達成不可能な売上目標を設定し、会社の心臓部を人質に差し出す契約に、取締役会の承認も経ず、独断で調印した……。鳴神社長、これのどこが『新時代のスマート経営』なのでしょうか。貴方が行われたのは、会社の命運をギャンブルに晒し、先代の遺産を外資に売り飛ばそうとした、明白なる【特別背任行為】ではありませんか?」


「っ……!!」


会場が、怒りと驚愕の坩堝と化した。

「おい、本当なのか!?」「本社ビルと物流子会社を担保に入れていただと!?」「百五十億の借金を背負わされて、会社が潰れかけていたのか!?」

株主たちが立ち上がり、怒号が嵐のように壇上へと叩きつけられる。


追い詰められた貴之は、狂乱状態で演壇の木槌を振り回した。


「嘘だッ! 偽造だ!! 偽造書類だああああっ!!」

貴之の口から、泡のような唾が飛び散る。

「そんな契約書にサインした覚えはない! 俺を陥れるための捏造だ! 株主の皆さん、騙されてはいけない!! そいつはタカツカサのスパイだ!! 誰か、その女をつまみ出せ!! 発言を止めろ!! 役員の連中も何とか言え!! これは全部、タカツカサの罠なんだよおおおおっ!!」


理性を完全に失い、喚き散らす三代目社長。

壇上の創業家寄りの社外取締役たちも青ざめ、客席からの殺気立った視線に耐えかねて縮こまっている。

誰も貴之を止められない。誰も真実を語ろうとしない。

狂気と混沌が、議場を呑み込もうとした――その刹那だった。


「――偽造書類ではありませんッッ!!!!」


ドォォォォォンッ!!


八百名の怒号を力づくでねじ伏せるような、凄まじい大音量の怒声が、役員席の中央から轟き渡った。


ガタアアアアンッ!!


椅子を後ろへ蹴り倒し、立ち上がったのは――専務取締役・安西源三郎だった。

五十八歳の叩き上げの重鎮は、スーツの胸元を鷲掴みにするようにして演壇の前に進み出ると、備え付けられていた役員用マイクを両手で力任せに引き寄せた。


「ぜ、専務……!?」

貴之が目を丸くし、怯えたように後ずさる。

安西はそんな貴之を一瞥のもとに睨み据えると、充血した両目をカッと見開き、客席の八百名の株主たちに向かって、魂を削り出すような声で叫んだ。


「株主の皆様! 営業統括責任者、ならびに専務取締役の、安西源三郎であります! ……先ほど槇野君が提示したベーカー&スターンズとのメザニンローン契約書は、一文字たりとも偽造などではありません!!」


――ドワッ……と、会場が大きく波打った。

役員席からの、公的な内部告発。

安西は演壇の上に自らの拳をドカンと叩きつけ、涙を浮かべて言葉を叩きつけた。


「三ヶ月前! 五十嵐法務課長と私が、ベーカー&スターンズの契約条項に仕組まれた毒薬を発見し、社長室で膝を屈してまでサインを思いとどまらせようとした現物そのものであります!!」


「安西ッ!! 貴様、何を喋っているッ!!」

貴之が演壇の端から手を伸ばし、安西のマイクを奪い取ろうとした。

だが、安西は現場叩き上げの屈強な体躯で、貴之の腕をバンッと乱暴に払い飛ばした。


「触るな、鳴神貴之ッ!!」

安西の怒号が、貴之を射すくめる。

「貴様はあの時、五十嵐と私に向かって何と言った!? 『頭の硬い老害は黙っていろ! 神崎さんはウォール街の一流エリートで、このビジネスを絶賛してくれたんだ!』と、専門家の警告を嘲笑ったではないか!!」


安西は客席に向き直り、胸ポケットから一枚の領収書と稟議書の写しを取り出して天に掲げた。


「現場の営業部員たちが、港湾倉庫の枠を失って夜を徹して頭を下げ、泥水を啜って荷物を運んでいた裏で……この男は何をしていたか!! 愛人として秘書室長に据えた江藤瑠璃華の甘言に乗り、銀座のクラブでシャンパンを開け、六本木のペントハウスを会社の交際費で借り上げ、会社の金を湯水のようにばら撒いていたのだ!!」


「な……っ!?」

客席のOBたちから、信じられないという悲鳴が上がった。


「さらに! 先代会長の遺産である重要な接待カルテや契約書の留意点を、江藤瑠璃華が『昭和の紙ゴミ』と称してシュレッダー破棄するのを、この男は『ペーパーレスの推進』と称賛して見過ごした! そして百五十億円の債務不履行が確定した途端、責任をすべて江藤瑠璃華に擦り付け、彼女に現金五千万円とブラックカードを持ち逃げされて雲隠れを許したのだ!!」


安西の暴露は、止まらなかった。

三ヶ月間にわたり、社内で隠蔽され続けてきた腐敗と横領、そして無能の極致。

現場のトップである専務取締役の口から、客観的な証拠とともに語られる生々しい真実に、もはや言い逃れができる余地など、地球上のどこを探しても存在しなかった。


「現場を裏切り、社員を踏みにじり、先代が三十年かけて築いた城を、自らの女遊びと虚栄心のために外資の生贄に捧げようとした……!!」

安西の目から、熱い大粒の涙が零れ落ちた。

安西は深く腰を折り、客席の株主たちに向かって、直角に頭を下げた。


「株主の皆様、本当に申し訳ございませんでした!! 私の力不足ゆえに、この愚息の暴走を止めることができず、会社を破滅の淵へと追い込んでしまった! ですが……この会社を真に救い、外資の担保権を命懸けで外してくれたのは、敵対者と罵られているタカツカサ・キャピタルであり、かつて不当に追い出された槇野佳乃君ただ一人なのです!! どうか……どうか、真実を見誤らないでいただきたい!!」


シーン……と。

安西の魂の叫びが、八百名の大ホールに深く、重く染み渡っていった。


そして――

次の瞬間。


「……ふざけるな」


前列の株主席から、低く、押し殺したような呟きが漏れた。

続いて――


「ふざけるなああああああっっ!!」


ドッガァァァァァンッ!!


爆発した。

それは、先ほどまでのざわめきや散発的な野次とは根本から異なる、真実を知った株主たちの、底知れない激怒の咆哮だった。


「先代の会社を愛人のために売り飛ばそうとしたのかッ!!」

「泥棒社長! 背任社長!!」

「即刻辞任しろ! 逮捕しろ!!」

「現場の社員を何だと思ってるんだ! 恥を知れ、鳴神貴之!!」


八百名の怒号が、津波となって壇上へと押し寄せた。

客席から丸められた招集通知や資料の束が壇上へ向かって投げ込まれ、警備員たちが盾となって貴之の前に飛び込む。

会場の空気は、「疑念」から――鳴神貴之という無能な暴君に対する、完全なる【殺気】へと反転していた。


「ひっ……! ひいっ……!!」


貴之は演壇の下へと潜り込むようにして腰を抜かし、両腕で頭を抱えてガタガタと震え上がっていた。

手元のマイクからは、貴之の浅く激しい過呼吸の音だけが、虚しく議場に響き渡っていた。


数字の証明。

そして、身内からの決定的な内部告発。

完璧な布石によって、鳴神貴之の退路は完全に灰燼に帰した。


最前列のマイクスタンドの前で、槇野佳乃は静かにマイクを切り、凛とした横顔で崩れ落ちる元婚約者を見下ろしていた。

断罪の幕は、すでに上がっている。

そして、この混乱の極みに達した議場へ、最後の引導を渡すための「絶対の女王」が、今、静かに席を立とうとしていた。

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