第42話:無能の証明
鳴神物産本社ビル二階大ホールを埋め尽くした八百名の株主たちの視線が、演壇中央の議長席と、最前列中央の特別指定席との間を、激しい緊張を孕んで往復していた。
天井のシャンデリアから降り注ぐ冷たい人工光の下、大通路を堂々と進み、最前列へと着席したタカツカサ・キャピタルの四名――鷹司誠一郎、槇野佳乃、真鍋苑子、そして梶原康平。
彼らがその場に腰を下ろしただけで、怒号渦巻いていた会場の空気は一変していた。
何千億円もの国際資金を動かす絶対の覇者・誠一郎の放つ威厳と、かつての地味な会長秘書から息を呑むほど洗練されたエグゼクティブ・ウーマンへと脱皮した佳乃の神々しいオーラ。二人が並び立つその佇まいは、まるでこれから始まる審判の執行人を思わせる静謐さに満ちていた。
「…………っ」
壇上の議長席で、鳴神貴之は全身の毛穴から冷汗を噴き出させていた。
手元の原稿を持つ指先が、ガタガタと目に見えて震えている。
正面五メートル先から、一切の感情を交えずに自分を見据えてくる佳乃の切れ長の瞳。昨日、自らが「もう一度婚約してやる」と見苦しく命乞いをした相手が、今や自らの会社の命運を握る筆頭株主の総指揮官として、真正面に座っているのだ。
逃げ出したい。
この場から今すぐ逃げ出して、六本木のペントハウスのベッドに潜り込みたい。
だが、退路はすでに完全に断たれていた。背後には会社の役員たち、前方には八百名の殺気立った株主たち、そして左右の壁際からは無数のテレビカメラと記者たちの冷徹なレンズが、貴之の一挙手一投足を一秒の隙もなく記録し続けている。
(……やるしかないんだ)
貴之の濁った脳髄の奥底で、最後の破滅的な防衛本能が鎌首をもたげた。
(ここで押し切るしかない! 株主総会を仕切っている議長は俺なんだ! あいつらは敵対的買収者で、佳乃は裏切り者だ! そのストーリーを株主たちに信じ込ませさえすれば、創業家を支持する古参株主たちが俺の味方をしてくれるはずだ……!!)
認知の歪みが、貴之の引き攣った唇に、狂気じみた歪んだ笑みを貼り付けさせた。
貴之は演壇の上に落ちていた木槌を力任せに握り直すと、木台へと激しく叩きつけた。
ガァンッ! ガァンッ!
耳障りな破壊音がホールに反響する。
貴之は胸元のスタンドマイクを乱暴に手元へ引き寄せると、演壇に覆いかぶさるように身を乗り出し、息を荒らげて絶叫した。
「静粛にッ!! 株主の皆様、静粛に願います!!」
スピーカーから割れた音が響き渡り、会場の前列にいた株主たちが不快そうに耳を塞いだ。
貴之は血走った目を剥き出しにし、最前列に座る誠一郎と佳乃へ向けて、唾を撒き散らしながら激しい指差しを放った。
「株主の皆様! 騙されてはいけません!! 本日、事前のアポイントメントもなく、議場へと乗り込んできたそこの一団……タカツカサ・キャピタルは、創業七十年の歴史を誇る我が鳴神物産を、安値で市場から解体し、優良なサプライチェーンを海外ファンドへ売り飛ばそうと画策する、極めて悪質かつ下劣なハゲタカ集団であります!!」
貴之の口から放たれた、先制のプロパガンダ。
敵対的買収者に対する敵意を煽り、自らを「外敵から会社を守る創業家の若き盾」として演出するための古典的なアジテーションだった。
だが、貴之の攻撃はそれだけに留まらなかった。
彼の濁った視線は、誠一郎の隣に静然と腰掛ける佳乃の顔面へと、ドス黒い怨嗟を込めて突き刺された。
「そして――!! その悪辣なハゲタカの手先となり、最前列に座っているあの女……槇野佳乃の正体を、株主の皆様はご存知でしょうか!?」
貴之の声が、裏返るほどの高音に跳ね上がる。
壇上の役員席に座る安西源三郎が、怒りに眉を跳ね上げて身を乗り出そうとしたが、貴之はそれを遮るように演壇を両手で叩いた。
「あの女は、先代会長・鳴神剛造の傍らで、長年にわたり秘書室の末席に置いてもらっていた、ただの雇われ事務員に過ぎません! 先代の慈悲によって拾われ、手厚い給与と待遇を与えられていながら……先代が急逝されたその直後、我が社の重要機密と取引先名簿を不正に持ち出し、あろうことか、長年の宿敵であったタカツカサ・キャピタルへと売り渡した、前代未聞の卑劣な裏切り者であります!!」
――機密漏洩。
――恩を仇で返した裏切り者。
その刺激的な単語がマイクを通じてスピーカーから叩きつけられた瞬間、会場の空気が目に見えてざわめき始めた。
事情を詳しく知らない一般の個人株主たち、あるいは創業家への漠然とした崇拝を抱いている地方の高齢株主たちが、ざわめきながら視線を交わし合う。
「裏切り者なのか……?」「先代の機密を盗み出して敵に売り渡したって、本当か?」「もしそれが本当なら、背任行為じゃないか……!」「おい、説明しろ! 本当はどうなんだ!?」
客席の後方から、散発的な野次が飛び交い始める。
それを見た貴之の顔に、明確な勝ち誇った笑みが浮かび上がった。
手応えがあったのだ。
事実などどうでもいい。法理など関係ない。この場に集まった何百人もの群衆の感情を「外敵への怒り」と「裏切り者への義憤」へと誘導できれば、取締役解任決議の過半数など絶対に阻止できる――貴之はそう信じ切っていた。
「見なさい、あの身なりを!!」
貴之はさらに勢いづき、嘲弄を込めて佳乃を指弾した。
「先代の存命中には、地味なお団子頭に野暮ったい眼鏡をかけ、無能を装って会長室の機密文書を漁っていた女が……敵対ファンドに寝返った途端、派手なスーツに身を包み、鷹司代表の隣に侍っている! 自らの色仕掛けで敵の総帥を籠絡し、自分を正当に指導していた鳴神物産を私怨で破滅させようとしているのだ!! このような不当な乗っ取り劇に、我々誇り高き鳴神の株主が屈していいはずがありません!!」
下劣極まりない人格否定。
事実を百八十度歪曲し、自らの放漫経営とハラスメント、そして愛人による重要書類破棄の罪を、すべて被害者である佳乃の背中へと押し付ける、醜悪な責任転嫁の極致。
壇上に座る創業家寄りの社外取締役たちが、貴之の演説に我が意を得たりと頷き、客席の一部からも同調するような声が上がりかけた――
まさに、その時だった。
「…………」
最前列の中央。
その嵐のような誹謗中傷を真正面から浴びながら、槇野佳乃は、眉毛一つ動かしていなかった。
動揺の欠片もない。
怒りに顔を染めることも、恥辱に俯くこともない。
ただ、静まり返った深い湖面のように、貴之の喚き散らす姿を、哀れな虫を見るかのような底知れない静寂で見つめていた。
トントン。
佳乃の右隣、鷹司誠一郎の逞しい指先が、テーブルの上を二度だけ軽く叩いた。
佳乃が視線を横に向けると、誠一郎は静かに、だが絶対の信頼と慈愛を込めて、佳乃へと頷いてみせた。
――行け、佳乃。
言葉はなくとも、その切れ長の瞳が雄弁に語っていた。
君の知性で、君の誇りで、あの哀れな怪物を完全に葬り去ってこい、と。
「……はい」
佳乃は小さく唇を動かし、誠一郎に一礼を返した。
そして、ミッドナイトネイビーのジャケットのボタンを一つ留めると、優雅な所作で椅子から立ち上がった。
カツン。
硬質なヒールの音が、騒然とする議場に凛と響いた。
佳乃は一度、背後の客席を振り返った。
八百名の株主たち、そして無数のカメラのレンズが、息を呑んで立ち上がった彼女の姿を凝視している。
佳乃は両手を身体の前で美しく重ねると、背筋を寸分の狂いもなく伸ばし、三層吹き抜けの宮殿で女王が歩むかのような、完璧な歩調で大通路へと進み出た。
目指したのは――壇上の貴之の真向かい、客席の最前列中央に設置されていた【株主質問者用マイクスタンド】。
「な……な、何をする気だッ!?」
貴之が演壇を叩き、マイク越しに怒鳴りつけた。
「着席しろ! まだ株主からの質疑応答の時間には入っていない! 勝手に発言席へ立つことは議場秩序の混乱だ! 警備員、その女を元の席へ戻せ!!」
貴之の命令を受け、壁際に控えていた警備員が動こうとした。
だが、その瞬間――
「議長、その指示は明白な違法行為よ」
タカツカサの席から、真鍋苑子が立ち上がることすらなく、手元のマイクを通じて低く、研ぎ澄まされた声を響かせた。
「会社法第三百十四条、ならびに東京地方裁判所の直近判例。……当社タカツカサ・キャピタルは、本株主総会の招集通知受領後、法定の期日までに事前質問状を会社側へ提出しており、かつ議決権保有比率二十八%を有する筆頭株主として、議事進行に関する緊急動議の提出権を行使しているわ。……適法な質問者の発言を議長が不当に封殺した場合、会社法第八百三十一条第一項第一号(株主総会等の決議取消事由)――議決方法の著しい不公正に直ちに該当する。……どうしても彼女の発言を止めたいのなら、今日の総会決議のすべてが法的に無効化される覚悟でやりなさい」
「うっ……!?」
貴之の言葉が喉に詰まった。
法務の絶対の防壁。
苑子の完璧な法理の前に、貴之の浅薄な職権乱用は一瞬で無力化された。
その間に、佳乃は質問者用マイクスタンドの前に到達していた。
マイクの高さは、佳乃の口元へと完璧に合っていた。
佳乃は壇上の貴之を見上げるのではなく、背筋をすっきりと伸ばした姿勢のまま、正面の演壇、そして左右を取り囲む八百名の株主たちへ向けて、深々と、優美な四十五度の角度で一礼を捧げた。
シーン……と。
その礼節の美しさと、揺るぎない気品。
先ほどまで貴之のアジテーションに煽られて野声を上げていた客席のざわめきが、まるで魔法をかけられたかのように、急速に静まり返っていった。
佳乃はゆっくりと顔を上げた。
胸ポケットから、昨夜、誠一郎から贈られたサファイアブルーの特注万年筆のクリップが、スポットライトを浴びて青く神聖に瞬いている。
佳乃は右手の人差し指で、手元に持っていた薄型のプレゼンテーション用リモコンのグリップを確かめると、マイクへと口元を近づけた。
「――鳴神物産株式会社、株主の皆様」
スピーカーから流れたその声は、驚くほど澄み渡り、鈴を転がすような透明感を帯びながら、大ホールの最後列の壁にまで寸分の狂いもなく響き渡った。
感情的な高ぶりなど微塵もない。
怒りも、恨みも、焦燥すらもない。
ただ、真実だけを携えた者のみが持つことのできる、絶対の静謐。
「大株主タカツカサ・キャピタルの代理人、ならびに一株主の、槇野佳乃でございます」
凛とした名乗り。
佳乃は視線を壇上の貴之へと静かに向けた。
「ただいま、議長である鳴神貴之社長より、私個人に対する『社内機密の漏洩』、ならびに『背任行為』という、極めて重大なご指摘をいただきました。……さらには、タカツカサ・キャピタルによる本公開買付けを『会社を解体するための不当な乗っ取り』であるとのご発言がございました」
佳乃の切れ長の瞳が、冷徹な光を帯びて細められる。
「しかしながら、上場企業の最高意思決定機関である株主総会の場において、経営者が語るべきものは、中身の伴わない感情論や、他者への根拠なき誹謗中傷であってはなりません。……株主の皆様が真に判断の拠り所とすべきは、ただ一つ。――独立した監査法人、ならびに第三者調査委員会が承認した【客観的事実データ】のみでございます」
「な……客観的事実だと……!?」
貴之の顔が、わずかに強張った。
佳乃は貴之の動揺を一瞥することすらなく、手元のリモコンのボタンを、迷うことなくクリックした。
ピピッ。
その瞬間――
壇上の背後、演壇の真上に掲げられていた、縦五メートル、横十メートルにおよぶ二百インチの超大型高精細スクリーンが、青白く点滅した。
貴之が事前に投影させていた、中身のないバズワードだらけの会社側スライド――『新体制によるAIスマート商社構想の未来』というタイトルが強制的にブラックアウトし、次の瞬間、会場中のすべての明かりを奪い去るかのような、巨大な分析チャートがスクリーン全体へと大写しに投影されたのだ。
最上段に刻まれていたのは、冷徹な太文字の表題だった。
『鳴神物産株式会社 過去5年間における業務執行体制別 リスク発生・業績推移検証報告書』
(作成:有限責任監査法人トーマツ元パートナー調査チーム/検証:第一東京弁護士会所属 外部調査委員会)
「っ……!? な、なんだこれはッ!?」
貴之が絶叫し、演壇から身を乗り出した。
「誰がそんなスライドの投影を許可したッ!! 勝手にシステムの回線を切り替えるな!! 消せ、今すぐその画面を消せえええっ!!」
だが、佳乃はリモコンを握ったまま、壇上の狼狽など完全に無視して、会場全体へ向けて淀みないプレゼンテーションを開始した。
「株主の皆様、スクリーンをご覧ください」
佳乃の涼やかな声が、貴之の怒号をいとも容易く押し流していく。
「これは、先代・鳴神剛造会長が指揮を執り、私が会長秘書室長代理として実務の最終統括を行っていた過去五年間と――現社長・鳴神貴之氏が就任した直後からの二ヶ月間の実績を、完全に同条件で比較検証した【公式の統治データ】でございます」
客席の八百名、そして報道陣のカメラが一斉に巨大スクリーンへと向けられた。
そこに並んでいたのは、もはや言い逃れの余地など一ミリも残されていない、残酷なまでの「有能」と「無能」の圧倒的な格差だった。
佳乃の指先が、最初のブロックをレーザーポインターで赤く照射する。
スクリーンに浮かび上がったのは、巨大な折れ線グラフと、幾何学的な対比表だった。
【過去5年間の年平均 重大契約遅延・違約金発生率】:【0・02%】
(※年間数千件に及ぶ国内外の貿易契約中、納期遅延・違約金発生は年間わずか1〜2件に抑制)
【過去5年間の法令違反・行政処分・労基署是正勧告件数】:【0件】
【過去5年間の主要取引先・金融機関との契約更新成功率】:【99・8%】
「私が先代の傍らで実務の防波堤を務めていた五年間、鳴神物産の契約トラブル発生率は、業界平均の十分の一以下である『〇・〇二%』を維持し続けておりました。各省庁への許認可申請、外為法の安全保障管理、そして港湾倉庫の優先利用枠の確保に至るまで、すべてのリスクは事前に先回りで処理され、会社が違約金を支払う事態は徹底的に排除されてまいりました」
会場から、感嘆のざわめきが漏れる。
そうだった。先代が生きていた頃の鳴神物産は、どれほど世界経済が激動しようとも、決して足元を掬われることのない難攻不落の要塞だったのだ。
そして――
佳乃はリモコンのボタンを、もう一度クリックした。
カチリ。
スライドが切り替わった瞬間、スクリーン全体が、毒々しい真っ赤な警告色で染め上げられた。
「しかしながら、株主の皆様。……現社長による新体制が発足し、私が不当に解雇された直後からの、わずか【六十日間】の数字をご覧ください」
スクリーンに映し出された数字に、会場の全株主が、文字通り息を呑んで凍りついた。
【新体制発足後60日間の 重大契約遅延・違約金発生事案】:計【14件】
【契約トラブル発生率】:驚異の【42・0%】(※前年同期比・2100倍に急増)
【港湾倉庫枠喪失に伴う 貨物滞留損害・違約金総額】:金【四十八億六千万円】
【外為法包括輸出許可失効による 貨物差し押さえ損害】:金【二十億円相当】
【労働基準監督署による 立ち入り臨検および是正勧告】:【即日発令(違法残業・パワハラ認定)】
「な……っ!?」
「トラブル発生率、四十二%……!?」
「違約金だけで……数十億円が吹き飛んでいるだと……!?」
客席から、悲鳴に近いどよめきが爆発した。
佳乃の冷徹な声が、そのどよめきの中を矢のように貫いていく。
「現社長が『スケジュール調整とお茶汲みしかできない雑用』と切り捨てた実務の防波堤が消滅した結果――我が社の誇る基幹サプライチェーンはわずか二ヶ月で完全に麻痺し、すでに七十億円近い巨額の損害が現場に発生しております。……鳴神社長。これだけの破滅的な損害をもたらした原因が、私の『機密漏洩』によるものだと、貴方はこの八百名の株主の前で、誓って仰ることができますでしょうか?」
佳乃の切れ長の瞳が、壇上の貴之を冷酷に射抜いた。
逃げ場のない、数字という名の絶対の鉄槌。
貴之の顔から、完全に血の気が引いていた。
開いた口が塞がらず、手元のマイクがガタガタと震え、歯の根が合わなくなっていた。
完全なる無能の証明。
虚飾のベールを剥ぎ取られた三代目の首筋に、処刑台の冷たい刃が、カチリと音を立てて落ちてきた瞬間だった。




