第41話:臨時株主総会
午前九時四十五分。
東京都中央区銀座、鳴神物産本社ビル二階大ホール。
天井高六メートル、最大八百名を収容可能なその巨大な扇形のコンベンションホールは、開会までまだ十五分以上あるというのに、すでに一階席から後方バルコニー席に至るまで、黒山の人だかりによって完全に埋め尽くされていた。
ジリジリと肌を焼くような、異様な熱気。
通路の壁際や後方の立ち見スペースには、テレビ東京、NHK、キー局各社の腕章を巻いた報道クルーが大型のENGカメラを何十台も三脚に据え付け、カメラマンたちが緊迫した面持ちで壇上へとレンズの照準を合わせていた。
スチールカメラマンたちの手にする一眼レフのモータードライブが、動作確認のために時折カタカタと鋭い電子音を鳴らす。
客席を埋めているのは、定年退職した鳴神物産の古参OBたち、創業家一族の親族、全国から駆けつけた下請け・取引先の経営者たち、そして何より――スーツに身を包み、鋭利な眼光で手元のタブレットと招集通知を睨みつける、国内外の大手機関投資家や信託銀行のアセットマネージャーたちだった。
「おい、今日の総会、本当に無事に終わるのかよ……」
「無事に終わるわけがないだろう! 先代が亡くなってからわずか一ヶ月だぞ!? 港湾倉庫の契約を落として海上輸送はストップ、外為法の申請を放置して貨物は税関で差し押さえ、大東京フィナンシャルからは融資枠を凍結され、挙句の果てに社長自身がタカツカサのロビーで暴れて警察沙汰だ!」
「株価を見てみろよ! タカツカサのTOB発表でストップ高にはなったが、それまでの暴落でどれだけの個人株主が損切りさせられたと思ってるんだ!」
「説明しろ! 今日の総会で、現経営陣に徹底的に責任を取らせてやる!」
開会前であるにもかかわらず、客席のあちこちから怒号と罵声が噴き上がっていた。
手に持った株主総会招集通知の冊子を丸めて膝を叩く老株主、腕を組んで殺気立った視線を正面へ突き刺す元支店長たち。
その怒りと絶望の嵐が、ホール全体を底揺れするような重低音のざわめきとなって支配していた。
そして――
その嵐の視線の集中砲火を浴びる壇上には、深紅の毛氈が敷かれ、横長の長い演壇が設えられていた。
十数名並ぶ取締役席。
その中央、ひときわ高い位置に置かれた【議長席】に、一人の男が深く沈み込むように腰掛けていた。
鳴神物産代表取締役社長――鳴神貴之。
(……くそっ、くそっ、なんなんだよ、この人ゴミは……!)
貴之の額からは、冷房が効いているはずの会場内で、じっとりと冷たい脂汗が滲み出ていた。
この数日間、まともな睡眠など一分たりとも取れていなかった。
警察署の留置場から釈放されて以来、六本木のペントハウスはもぬけの殻、愛人の瑠璃華には五千万円の現金と貴金属を持ち逃げされ、頼みの外資ブローカー・神崎からは百五十億円の即時償還を突きつけられ、昨日の取締役会では安西専務から解任動議を叩きつけられた。
精神の防壁など、とっくの昔に粉々に粉砕されていた。
濃紺の最高級スーツを着てはいるものの、その肩は小さく窄まり、無精髭を剃り落とした頬は青白く引き攣っている。
充血して血走った両目の下には、墨を刷り込んだような黒褐色の隈が張り付き、テーブルの上に置いた両手は、膝の上で握りこぶしを作ってもなお、ガタガタと目に見えて震えていた。
周囲を取り囲む役員たちも同様だった。
貴之を擁護して昨日の解職動議に反対票を投じた創業家の長老や、御用の社外取締役たちは、客席からの突き刺さるような殺気に耐えかね、視線を泳がせながら手元のメモ用紙を無意味にめくり続けている。
唯一、議長席の二つ隣に座る専務取締役・安西源三郎だけが、寸分の揺らぎもない姿勢で腕を組み、冷徹な眼差しで正面の客席を見据えていた。
ジャスト、午前十時。
ホールのスピーカーから、開会を告げる冷たいチャイムの音が響き渡った。
キィィィィン……。
マイクのスイッチを入れた瞬間、不快なハウリングの金属音がホールに反響した。
貴之はビクッと肩を跳ね上げ、震える右手を伸ばして木槌を握りしめた。
掌の汗で滑りそうになる木槌を、演壇の木台へと恐る恐る叩きつける。
コン、コトッ……。
頼りない、鈍い音が二度鳴った。
貴之は引き攣った唇をマイクへと近づけ、掠れた声を絞り出した。
「え、えー……。定刻と、なりましたので……。ただいまより、鳴神物産株式会社……臨時株主総会を、開会、いたします……」
声は、最初の一言から完全に上ずっていた。
手元の進行原稿を持つ指先が小刻みに痙攣し、紙がパサパサと音を立てて震えているのが、最前列の株主たちからもはっきりと見て取れた。
そのあまりにも無様で、威厳のかけらもない姿に、客席の前方から即座に怒号の第一波が叩きつけられた。
「声が小さいぞ、社長! もっと堂々と喋れ!!」
「マイクを握る手が震えてるぞ! やましいことがあるから怯えてるんじゃないのか!?」
「株価暴落の責任はどうなってるんだ! まず株主に頭を下げて謝罪するのが先だろうが!!」
「ひっ……!」
貴之の喉が小さく鳴った。
怒号の衝撃波に気圧され、貴之は思わず椅子ごと後ずさりそうになった。
だが、ここで取り乱せば、昨日までの苦労がすべて水泡に帰す。
貴之は奥歯をガチガチと鳴らしながら、原稿にしがみつくように目を落とした。
「し、静粛に……! 株主の皆様におかれましては、議事の進行にご協力を……! 本日の議事は、事前に配布いたしました招集通知の通り――」
貴之が震える声で事務的な進行を強行しようとした、まさにその時だった。
ギィィィィィッ……。
総会場の最後方。
分厚い防音仕様のチーク材で組まれた、高さ三メートルを超える正面メインエントランスの大扉が、左右へと音もなく、重々しく押し開かれた。
「…………っ!?」
壇上の貴之の言葉が、喉の奥で完全に途切れた。
会場内のざわめきが、まるで巨大な潮が引くかのように、一瞬にして音を失った。
八百名の視線が、そして報道陣の無数のテレビカメラと望遠レンズが、吸い寄せられるようにして後方の扉へと一斉に向けられた。
逆光のホワイエの光を背に受けて。
大理石の通路を踏みしめ、会場内へと足を踏み入れたのは――
四つの影だった。
先頭を進むのは、仕立ての良い漆黒のスリーピーススーツを完璧に着こなした長身の男――タカツカサ・キャピタル代表取締役CEO、鷹司誠一郎だった。
彫刻のように研ぎ澄まされた端正な顔立ち。
八百名の怒号渦巻く会場の殺気など、道端の小石ほどにも意に介さない、絶対零度の冷徹な眼光。
市場から「氷のハゲタカ」と恐れられる若き帝王が放つ、人を圧する圧倒的な覇気と威厳の前に、通路脇の株主たちが思わず息を呑み、無意識のうちに身体を引いて道をあけた。
だが――
会場に居合わせたすべての人々の魂を真底から奪い去ったのは、誠一郎のすぐ隣に並び立ち、堂々たる歩調で絨毯を踏みしめる女性の姿だった。
カツン、カツン、カツン。
静寂を切り裂いて響く、凛としたヒールの足音。
身に纏っているのは、英国最高峰マーチャントの極上ウールで仕立てられた、濃紺のテーラードスーツ。
細身のパンツスタイルは、均整の取れたすらりとした脚線美を際立たせ、胸元の純白のシルクブラウスが、知的な華やかさを優美に添えている。
艶やかに手入れされた黒髪は、首筋の白さを息を呑むほど鮮烈に見せる、洗練された前下がりのボブへと整えられていた。
そして――野暮ったい銀縁眼鏡を完全に外し、露わになったその素顔。
意志の強さを秘めた、澄み切った秋の夜空のように美しい切れ長の瞳。
筋の通った高い鼻梁と、引き結ばれた気品あふれる唇。
かつて鳴神物産の会長秘書室で、目立たぬよう、誰の記憶にも残らぬよう、頑なに気配を殺して黒子に徹していた「地味な事務員」の面影など、そこには微塵も存在しなかった。
世界の頂点で数千億円を動かすメガファンドの最高幹部として。
そして、この腐敗した城のすべてをその手で正しく解体し、救済するために舞い戻ってきた、孤高の最高司令官――槇野佳乃の姿が、そこにあった。
その背後には、プラチナフレームの眼鏡を光らせ、分厚い訴訟記録のファイルを抱えた法務統括の真鍋苑子。
そして、腕まくりをしたスーツ姿で不敵な笑みを口元に浮かべるCOOの梶原康平が、鉄壁の護衛のように従っていた。
バシャシャシャシャシャシャシャッッ!!
次の瞬間、堰を切ったように無数のフラッシュが炸裂した。
白銀の閃光の嵐が、薄暗い大ホールを真昼の雷光のように照らし出す。
記者席から、そして株主席から、地鳴りのような驚愕の声が爆発した。
「タ、タカツカサの鷹司誠一郎だ……!」
「本物が乗り込んできたぞ! 敵対的TOBの買収者が、直接総会に来たんだ!」
「……待て、おい! 横にいるあの女性は……誰だ!?」
「信じられない……! あ、あの人……先代の剛造会長の傍らにいつも控えていた、秘書の槇野さんじゃないか!?」
「嘘だろ!? あの野暮ったい眼鏡をかけて、いつも書類を抱えて頭を下げていた槇野さんだと!? まるで別人のような美しさじゃないか……!」
「オーラが違う……! あれが、本当にクビになった事務員なのか……!?」
どよめきが、波のように議場全体を呑み込んでいく。
かつて佳乃の細やかな根回しや気配りに助けられていた役員OBたち、現場の社員持株会のメンバーたちが、目を見張り、息を呑んで立ち上がった。
自分たちを救うために全国を行脚してくれたあの女性が、今、日本屈指の投資ファンドの総帥と対等に肩を並べ、神々しいまでの存在感を放って堂々と凱旋してきたのだ。
「あ……あ……っ」
壇上の議長席で、鳴神貴之は完全に腰を浮かせ、椅子から立ち上がりかけていた。
手にした木槌が、指の間から滑り落ち、演壇の上でゴトッと情けない音を立てて転がる。
貴之の顎が外れたように下がり、濁った瞳孔が狂ったように痙攣していた。
(佳乃……!? な、なんで……なんであいつが、あんなところに……!?)
昨日、赤坂のエントランスで冷酷に自分を見下ろし、警察へと引き渡した時の姿。
だが、今日の佳乃は、あの時よりも遥かに研ぎ澄まされ、遥かに揺るぎない「支配者」の風格を纏っていた。
隣に立つ鷹司誠一郎の圧倒的な長身と、佳乃の凛とした美貌。
二人が並び立つその光景は、誰の目から見ても、完璧に調和した「至高のパートナー」そのものだった。
かつて自分が「お前は顔も地味で華がない」「代わりなどいくらでもいる」と切り捨てた女性が、今、自分など足元にも及ばない世界の頂点に立ち、自分を見下ろしている。
その事実が、貴之の脳髄を熱い焼き鏝で直接焼き焦がすかのような激痛となって襲いかかった。
「お、おいッ!!」
貴之はマイクを掴み、裏返った甲高い悲鳴をホールに響かせた。
口から唾を撒き散らし、通路を歩む四人に向かって震える人差し指を突きつける。
「な、何をしに来たんだッ!! 警備員! 警備員はどこにいる!! 不審者だぞ! そいつらは我が社を乗っ取ろうとする敵対的買収者だ!! 今すぐ議場から叩き出せ!! 退場させろおおおおっ!!」
貴之の狂気じみた絶叫。
会場の四隅に控えていた鳴神物産の専属警備員たちが、困惑した表情で顔を見合わせ、おずおずと通路へと足を踏み出そうとした。
だが――。
「動くな」
低く、刃のように冷徹な一言が、ホールの空気をピシリと凍りつかせた。
声を発したのは、誠一郎の背後に控えていた真鍋苑子だった。
苑子は歩みを止めることなく、胸元の弁護士バッジを照明の下で鋭利に煌めかせながら、手に持っていた一枚の書面を掲げた。
「会社法第二百九十一条、ならびに第三百十条。……タカツカサ・キャピタルは、すでに市場内取引を通じて鳴神物産株式会社の発行済株式の二十八%を保有する【筆頭株主】であり、かつ、本日出席できない多数の株主から適法な委任状を受領している【正規の株主代理人】よ」
苑子の理路整然とした声が、警備員たちを金縛りのようにその場に縫い止めた。
「株主総会への出席資格、ならびに発言権・議決権の行使において、法的な瑕疵は一ミリたりとも存在しないわ。……議長といえども、適法な株主およびその代理人の入場を不当に阻むことは、会社法違反であり、即座に決議取消事由に該当する。……警備員の方々、不当な指示に従って業務妨害の共犯になりたいのかしら?」
「っ……!」
警備員たちが息を呑み、即座に足を止めて壁際へと後ずさった。
完璧な法の盾。
貴之の浅薄なヒステリーなど、百戦錬磨の法務トップの前には、子どもの癇癪にも満たない紙屑に過ぎなかった。
誠一郎と佳乃は、警備員たちを一瞥することすらなく、堂々と大通路を直進した。
向かったのは――
壇上の真向かい、最前列中央に設けられた、筆頭株主および大株主のための特別指定席。
誠一郎が静かに椅子を引き、佳乃を促す。
佳乃は誠一郎に小さく会釈を返すと、ミッドナイトネイビーのスーツの裾を優雅に整え、最前列の中央の席へと腰を下ろした。
続いて誠一郎がその隣に座り、苑子と梶原が左右を固める。
壇上の議長席と、最前列の株主席。
わずか五メートルの距離を挟んで、二つの陣営が完全に視線を激突させた。
見上げる貴之は、額に脂汗を浮かべ、喉をヒューヒューと鳴らしながら、怨嗟と恐怖に塗れた目を剥き出しにしている。
見下ろす――いいえ、真正面から見据える槇野佳乃の切れ長の瞳は、一切の濁りもなく、澄み切った秋の夜空の静寂を湛えていた。
胸ポケットから、わずかに覗くサファイアブルーの軸。
昨夜、ルーフテラスで誠一郎から託された、あの『Y. MAKINO』の刻印が入ったモンブランの特注万年筆が、スポットライトを浴びて静かに瞬いていた。
(……始めましょう、鳴神貴之さん)
佳乃は胸の奥で、静かに呟いた。
感情的な復讐のためではない。
先代が築き上げた誇り高き現場を、そしてここに集まった誠実な社員と株主たちの未来を、自らの知性と法理の力で正しく奪還するために。
静まり返る八百名の議場。
逃げ場のない処刑台の壇上で、鳴神貴之の破滅の歯車が、決定的な音を立てて噛み合おうとしていた。




