第32話:氷の眼差し
三層吹き抜けのアトリウムに、針が一本落ちても響き渡るほどの静寂が満ちていた。
天井の天窓から降り注ぐ秋の透明な陽光が、白大理石の床を鏡面のように輝かせている。その壮麗な空間の中央で、数十人のビジネスマンや各国の機関投資家たちが完全に足を止め、息を殺して事の推移を見守っていた。
床に這いつくばり、警備員たちに両腕を押さえつけられながら、唾と涙を撒き散らして復縁を乞う男――鳴神貴之。
そして、その数メートル先。
ミッドナイトネイビーの完璧なスーツを纏い、首筋をすっきりと見せる前下がりの黒髪ボブを微かに揺らして佇む、一人の女性――槇野佳乃。
カツン。
硬質なハイヒールの音が、静まり返ったロビーに一度だけ響いた。
佳乃は背後に控える瀬尾千夏と二人のアシスタントへ、視線すら向けずに左手をわずかに掲げて制した。
「ここで待っていなさい」
「……はい、佳乃さん」
千夏は息を呑み、静かに頭を下げてその場に控えた。千夏の瞳には、かつて自分たちを地獄の底へと突き落とした元凶に対する恐怖は、もはや一片も残っていなかった。あるのは、憧れの先輩がこれから下すであろう「絶対の審判」を見届ける確信だけだった。
カツン、カツン、カツン。
足音には、一切の躊躇も、焦燥も、怒りの乱れすらもなかった。
定規で測ったかのように正確な歩幅。背筋は天に向かって真っ直ぐに伸び、無駄な揺らぎのない完璧なウォーキング。
佳乃は一人、大理石の床を踏みしめ、床に組み伏せられている貴之の前へと歩み寄っていった。
「佳乃……!」
近づいてくるその美しい姿を見て、貴之の濁りきった瞳に、狂気じみた歓喜の光が爆発した。
彼は血の気の引いた唇を卑屈に歪め、引き裂けんばかりの笑顔を作ってみせた。
(やっぱりだ! やっぱり、あいつは俺を拒めないんだ!)
(七年間、俺の影として生きてきた女だぞ? 俺が直々に迎えに来て、『もう一度婚約してやる』とまで言ってやったんだ! 感激して泣きついてくるに決まっている!!)
歪み切った自尊心が、現実のすべてを都合のいい妄想へと書き換えていく。
貴之は警備員の拘束を強引に振りほどこうと身をよじり、床に膝を擦りつけながら、泥で汚れた右手を佳乃の足元へと伸ばした。
昨夜のフォトフレームのガラス片で切り裂かれ、乾いた赤黒い血がこびりついた、みじめな手。
「佳乃……! やっぱり、お前しかいないよ! 俺たち創業家同士、切っても切れない運命なんだ! さあ、その手を――」
貴之の指先が、佳乃の履く黒革のポインテッドトゥパンプスの爪先へ触れようとした、まさにその刹那だった。
スッ……。
佳乃は、寸分の狂いもない動作で、靴先をわずか数センチメートルだけ後方へと引いた。
ミリ単位の洗練されたステップバック。
貴之の伸ばした指先は、空気を空しく掻きむしり、冷たい大理石の床を爪でガリッと引っ掻いただけに終わった。
触れることすら、許されなかった。
一ミリの接触すら、生理的な拒絶として完璧に回避されたのだ。
「……え?」
貴之が呆気に取られて顔を跳ね上げる。
その視線の先にあったのは――
「…………」
見下ろす、二つの瞳だった。
野暮ったい銀縁眼鏡を外し、素顔を露わにした佳乃の、息を呑むほど美しい切れ長の双眸。
だが、その瞳の奥に宿っていたのは、怒りでも、恨みでも、かつて婚約者として向けられていた情愛の欠片でもなかった。
完全なる、絶対零度の静寂。
道端に転がっている汚れた石ころを見るような。
あるいは、オフィスビルの片隅で処理を待つ、無機質な産業廃棄物を眺めるような。
感情の一切を削ぎ落とした、底知れない虚無と侮蔑の光が、貴之の全身を頭頂から爪先まで冷酷に貫いていた。
「っ……!」
貴之の心臓が、まるで氷水を直接注ぎ込まれたかのように凍りついた。
言葉が、喉の奥で貼り付いて出てこない。
七年間、一度たりとも見たことのない佳乃の表情だった。
どんなに理不尽な暴言を浴びせても、どんなに過酷な雑務を押し付けても、常に静かに頭を下げ、感情を押し殺して耐えていた「黒子」の顔は、そこには影も形も存在しなかった。
「……鳴神社長」
静かに紡ぎ出された声は、冬の朝の湖面に張った薄氷が割れるような、清冽で、だが逃げ場のない冷たさを帯びていた。
ロビーの隅々にまで、鈴の音のように透き通った声が染み渡っていく。
「公共の場において、大声を上げて喚き散らすのはお控えいただけますか。……当ビルの品位を損なうだけでなく、世界中からお越しいただいている他のお客様への、重大なご迷惑となります」
「な……な……」
貴之は息を呑み、ぽかんと口を開けた。
他のお客様。
当ビルの品位。
まるで、駅のホームで泥酔して暴れている見知らぬ酔っ払いに対する、鉄道職員のような事務的で機械的な対応。
「佳乃……? な、何を言ってるんだよ……!」
貴之は取り乱し、床に手をついたまま必死で叫んだ。
「なんでそんな他人行儀なんだよ! 俺だぞ!? 鳴神物産の社長、鳴神貴之だぞ!? 俺たち、結婚する約束だったじゃないか! 親父の病床で、お前も『貴之さんをお支えします』って誓っただろ!? それを……なんだよ、その目は!!」
親父の病床。
先代会長・鳴神剛造の名が出た瞬間、佳乃の眉が、わずかにピクリと動いた。
だが、それは哀傷の揺らぎではなかった。
敬愛する先代の思い出を、保身の盾として都合よく利用しようとする目の前の男に対する、純粋な軽蔑の兆しだった。
佳乃は両手を身体の前で美しく重ね、背筋をわずかに正した。
そして、グランドエントランスに居合わせる何百人もの人々が、一言一句たりとも聞き逃すことのないよう、澄み渡るクリアな声音で、冷酷な宣告を下した。
「鳴神社長。……私のスケジュールは現在、分単位で数千億円を動かす国家規模のプロジェクトで埋まっております」
静かな一撃。
だが、その言葉に込められた現実の重みは、巨岩のように貴之の頭上へと圧しかかった。
「大東京フィナンシャルグループをはじめとする国内外の機関投資家連合、各国の政府系ファンド、そして経済産業省との間で進める次世代エネルギーインフラの組成――これが、現在の私の責務です。……そのような場において、自らの不始末で破滅に瀕し、アポイントすら取らずに押し入ってきた、あなたのような【不審者】の相手をする時間は、一秒たりとも存在いたしません」
「ふ……不審者……!? 俺を、不審者だと……!?」
貴之の顔が屈辱と驚愕で真っ白に染まった。
創業七十年の歴史を持つ名門商社の代表取締役社長が、一介の元秘書から、公衆の面前で「不審者」と断定されたのだ。
「佳乃ぉっ! ふざけるなッ! 俺は鳴神のトップだぞ!! お前を雇って、飯を食わせてやってたのは誰だと思ってんだ!! 調子に乗るなよ! 外資のハゲタカに尻尾振って、ちょっと良いスーツ着せてもらったからって、偉そうに上から目線で説教垂れてんじゃねえぞ!!」
貴之は狂乱状態で罵声を浴びせた。
だが、その声は上ずり、震え、ただの負け犬の遠吠えとしてアトリウムの天井に空しく消えていくだけだった。
佳乃の表情は、微動だにしなかった。
眉一つ動かさず、感情の波風を一切立てることなく、ただ冷淡に貴之を見下ろし続けた。
そして、その薄い唇から、かつて貴之が放った「呪いの刃」が、何倍もの質量を伴ってそのまま返済された。
「……『代わりなど、いくらでもいる』」
「っ……!?」
貴之の呼吸が、喉の奥で詰まった。
「あの日、先代の密葬が終わった深夜のオフィスで。私に対し、解雇予告手当すら支払わず、ダンボール箱一つを投げつけて雨の中に放り出しながら……そう仰ったのは、鳴神社長、あなたご自身です」
佳乃の声には、恨みがましい響きなど微塵もなかった。
ただ、裁判官が確定判決の主文を読み上げるかのような、揺るぎない客観的事実の陳述。
「『スケジュール調整とお茶汲みしかできない地味女』『昭和の遺物』『代わりなど派遣村からでもいくらでも補充できる』……すべて、あなたが私に下された評価でございましたね」
佳乃は静かに目を伏せ、そして再び冷徹な眼差しを貴之へと注いだ。
「どうぞ、ご自身の言葉の重みを、その身をもって味わってください。……私という『代わりのいくらでもいる雑務係』を切り捨てた結果、あなたの会社が今どうなっているのか。そして、ご自身が連れてこられた『華やかな秘書室長』が、あなたに何をもたらしたのか」
「あ……ぐ……っ」
貴之の喉から、血を吐くような苦悶の呻きが漏れた。
反論の余地など、どこにもなかった。
佳乃を追い出してからわずか一ヶ月。
港湾倉庫の枠は消失し、大口顧客の信用は失墜し、外為法の輸出許可は失効して二十億円の貨物が差し押さえられ、大東京フィナンシャルからの融資枠は凍結された。
そして、自分が信じた愛人・瑠璃華には五千万円の現金と貴金属を持ち逃げされ、残されたのはリチャード・神崎からの百五十億円の死刑宣告。
すべては、自分が「代わりなどいくらでもいる」と傲慢に吐き捨て、この女性の類まれな知性と防波堤を自らの手で破壊したことから始まったのだ。
「どうぞ、ご自身の代わりをどこかでお探しください」
佳乃は氷の刃のような言葉を、容赦なく突き立てた。
「神崎氏との契約書の処理も、百五十億円の資金調達も、すべてあなたご自身でおやりになればよろしいでしょう。……かつて私を無能と嘲笑ったあなたのその才覚で、どうぞご自由に、鳴神物産を救ってみせてください」
「か、佳乃……っ! 頼む、待ってくれ!!」
貴之はプライドを完全に粉砕され、床に額を擦り付けて泣き叫んだ。
鼻水を垂らし、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、みっともなく這い寄ろうとする。
「悪かった! 俺が悪かったよ!! お前の言う通りだ、俺はバカだった! お前がいないと、会社は何一つ回らないんだよ!! 百五十億なんて払えるわけがない! 金曜日に会社が乗っ取られちゃうんだよ!! 頼むから助けてくれ! 土下座でも何でもする! 俺の婚約者に戻ってくれぇぇぇっ!!」
何百人ものトップビジネスマンたち、エリートアナリストたちが見守る前での、上場企業社長の哀れ極まりない土下座と命乞い。
居合わせた人々から漏れるのは、もはや嘲笑すら通り越した、胸の悪くなるような嫌悪と軽蔑の溜息だった。
だが、その醜態を前にしても、佳乃の心が一ミリたりとも揺らぐことはなかった。
佳乃は伸ばされた貴之の手から完全に視線を逸らすと、背後に控えていたセキュリティガードの責任者へと、凛とした横顔を向けた。
「警備の方」
「はっ、はい!」
ガードマンのチーフが直立不動で応じる。
「警察へ、直ちに通報をお願いいたします。……事前のアポイントメントなく、セキュリティゲートを物理的に強行突破して侵入した、建造物侵入罪の現行犯です。あわせて、ロビー内での大声による暴言、および居座りによる、威力業務妨害の被害届を提出いたします」
「しょ、承知いたしました!!」
チーフが無線機を取り出し、即座に警察への緊急要請(一一〇番通報)を指示した。
「な……け、警察……!? 佳乃、お前、本気か!?」
貴之が絶望に目を見開いた。
「警察を呼ぶだと!? 俺は鳴神の社長だぞ! 警察沙汰になんてなったら、マスコミに嗅ぎつけられて、株価が……株価が完全に紙屑になっちまう!!」
「あなたの会社の株価がどうなろうと、私には何の関係もございません」
佳乃は冷淡に言い放ち、一瞥もくれずに踵を返した。
完璧な所作で身を翻す。
ミッドナイトネイビーのジャケットの裾が、夜空の帳のように美しく翻った。
「佳乃ーーーッ!! 待て、佳乃ぉぉぉぉぉっ!!」
床に転がり、暴れる貴之を、三名の屈強な警備員たちが完全に押さえ込んだ。
「暴れるな! 大人しくしろ!」
「離せッ! 佳乃! 佳乃ぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
みっともなく叫び声を上げながら、大理石の床を引きずられていく鳴神貴之。
その断末魔のような絶叫を背中に浴びながら、佳乃は一度たりとも振り返ることはなかった。
背筋を寸分の狂いもなく伸ばし、前だけを見据えて、歩みを進める。
エレベーターホールの前で待機していた瀬尾千夏が、誇らしげに目を輝かせて駆け寄ってきた。
「……佳乃さん」
「行きましょう、千夏さん。次のミーティングの資料の最終確認をします」
「はいっ!」
チィン、と澄んだ音を立てて役員専用エレベーターの扉が開き、佳乃と千夏を吸い込んでいく。
扉が閉まる直前、ロビーの遠くでパトカーのサイレンの音がかすかに響き渡っていた。
過去の亡霊は、完全に排除された。
自分を縛り付けていた過去の鎖は、今この瞬間、跡形もなく粉々に打ち砕かれたのだ。
だが――
最上階のエグゼクティブフロアへと上昇していくエレベーターの中で、佳乃はまだ気づいていなかった。
このエントランスでの一部始終を、防犯カメラのリアルタイム映像を通じて、自らの執務室から食い入るように凝視していた「ある男」の存在を。
そして、その冷徹な投資帝国の総帥の胸の中に、かつてないほどの激しい感情の嵐――暗く、熱く、狂おしいまでの『独占欲』と『嫉妬』が、音を立てて渦巻き始めていることを。




