第33話:誠一郎の嫉妬
午後五時四十五分。
赤坂の超高層タワー四十八階、地上二百メートルに位置するタカツカサ・キャピタルCEO専用執務室には、黄昏の濃密な陰影が音もなく忍び寄っていた。
三面を囲む巨大なパノラマガラスの向こう、西の空を切り裂くように沈みゆく夕日は、血のような茜色から深い紫紺のグラデーションへと急速にその色を変えている。眼下に広がる東京の街並みには、無数のオフィスビルの窓に明かりが灯り始め、まるで黒いベルベットの上に撒き散らされたダイヤモンドのように瞬いていた。
だが、その広大で豪奢な空間に漂っていたのは、黄昏時の優美な静けさなどでは断じてなかった。
肌を刺すような、針の筵の上に立たされているかのような、異様な重圧。
気圧計が目に見えて狂い始めたかのように、室内の空気は濃密に淀み、呼吸をすることすら躊躇われるほどの冷え切った緊張感が、床から天井までを隙間なく支配していた。
(……鷹司様?)
スモークドオークの大型ワークデスクに向かい、端末のディスプレイを見つめていた槇野佳乃は、伏せていた長い睫毛をかすかに震わせ、視線だけを斜め前方へと向けた。
午前十一時のグランドエントランスでの騒動――鳴神貴之による狂乱の押し入りと、警察への現行犯引き渡しから、すでに六時間近くが経過していた。
佳乃はその間、一度たりとも取り乱すことなく、欧州系ソブリン・ウエルス・ファンドとの戦略提携ミーティングを完璧に完遂し、真鍋苑子とともに鳴神物産に対する敵対的TOBの買い付け価格シミュレーションの最終確認を行っていた。
そして夕刻、定例の業務進捗報告を行うため、この最上階の執務室へと入室したのだが――
部屋に入った瞬間から、部屋の主である鷹司誠一郎の様子が、明らかに常軌を逸していた。
誠一郎はデスクには着かず、西向きのガラス窓の前に直立したまま、夕日に染まる街並みを見下ろしていた。
仕立ての良い漆黒のスリーピースのベスト越しにも分かる、鍛え上げられた広い背中。
両手をトラウザーズのポケットに滑り込ませ、彫刻のように微動だにしないそのシルエットからは、普段の冷徹な理性とは根本から異なる、刺々しく荒れ狂うオーラが黒煙のように立ち上っていた。
普段の誠一郎であれば、佳乃がノックをして入室した瞬間に振り返り、わずかに口元を緩めて「入管の件、報告を聞こう」と低く滑らかな声で促すはずだった。
あるいは、自らハンドドリップした珈琲のカップを差し出し、「無理をしていないな?」と、過保護なまでの眼差しで佳乃の体調を確かめるのが常だった。
だが、今日の誠一郎は違った。
佳乃が入室してから二十分間、書類をめくる乾いた音だけが室内に響く中、彼はただの一言も発していなかった。
窓の外を見据えたまま、一度として振り返ることもなく、まるで背後にある佳乃の存在を頑なに拒絶しているかのようでいて、その実、背中に鋭利な刃物のような意識を張り付かせている。
(……何か、ディールに予期せぬ不都合が生じたのかしら)
佳乃は胸の奥で小さく呟いた。
大東京フィナンシャルグループの九条雅恵からの出資枠は盤石だ。神崎に対する法的な告発状の起案も、苑子の手によって寸分の隙もなく整えられている。外的な要因で、彼をここまで苛立たせる要素など見当たらないはずだった。
「…………」
佳乃は小さく息を吸い込み、デスクの上のレザートレイに整頓されていた書類の束を両手で抱え上げた。
『鳴神物産株式会社に対する敵対的公開買付け(TOB)実施要項・最終稿』、ならびに『東京地方裁判所民事第九部宛て 担保権実行停止仮処分命令申立書写し』。
これ以上の沈黙は、ビジネスの進行を滞らせる。
佳乃は自らの心臓の不穏な高鳴りをプロの矜持で押し殺すと、静かに席を立ち、窓際に立つ誠一郎の背中へと歩み寄った。
カツン、カツン。
ウールカーペットの上でも微かに響く、端正なヒールの足音。
誠一郎の背後、三歩手前で足を止め、佳乃は完璧な角度で頭を下げた。
「鷹司様。……本日の定例報告を取りまとめさせていただきました。大東京フィナンシャルグループとの共同歩調に関する確認、ならびに週明け月曜日のTOB発表スケジュールの最終タイムラインでございます。……ご確認いただけますでしょうか」
淀みのない、涼やかなビジネスボイス。
だが――
誠一郎からの返答はなかった。
ただ、窓ガラスに映る夕闇の中に、男の端正な顎のラインが、ギリッと奥歯を噛み締めるように引き締まるのが見えた。
沈黙。
部屋の隅に置かれたアンティークの置時計の振り子が、コチ、コチと重苦しく秒を刻む音だけが響く。
「鷹司、様……?」
佳乃が怪訝そうに眉を寄せ、抱えていたファイルを差し出そうと、もう半歩、距離を縮めた――その刹那だった。
バシィッッ!!
「っ……!?」
空気を切り裂くような鋭い風圧とともに、鋼鉄のように強靭な熱い掌が、佳乃の華奢な右の手首を横合いから強引に巻き取った。
ファイルを取り落とす暇すら与えられない、電光石火の制動。
続いて、引き千切らんばかりの強い力で、一気に前方へと身体を引き寄せられた。
「きゃっ……!?」
思わず短い悲鳴が唇からこぼれ落ちる。
視界が目まぐるしく回転し、足元のバランスが奪われる。
連れ去られた先は――執務室の壁面を埋め尽くす、最高級のイタリア産トスカーナ大理石で組まれた重厚なブックシェルフの飾り棚の前だった。
ドサリ。
背中が、冷たく硬質な大理石の壁面に押し当てられた。
抱えていた分厚い報告書の束が手から滑り落ち、バサバサバサッと無残な音を立てて、二人の足元のカーペットへと散らばっていく。
そして――
ドンッッ!!
佳乃の耳元、わずか数センチ横の大理石の天板へと、誠一郎の逞しい右腕が渾身の力で叩きつけられた。
凄まじい衝撃音。石の冷気が、佳乃の耳朶をかすめる。
逃げ場は、完全に塞がれていた。
背後には逃げようのない大理石の壁。左右は、誠一郎の張り出した逞しい腕と、壁のように立ちはだかる長身の肉体によって完全に退路を断たれていた。
「た、鷹司……様……!?」
佳乃は息を呑み、見開かれた瞳で目の前の男を見上げた。
至近距離。
二人の距離は、わずか十数センチメートルしかなかった。
触れ合うほどの間近で見下ろしてくる誠一郎の顔。
いつも完璧に整えられているはずの黒髪が、わずかに額に乱れ落ち、彫刻のように端正なその双眸の奥には――
かつて佳乃が一度たりとも見たことのない、理性を焼き尽くさんばかりの凶暴な熱と、暗く濁った感情の嵐が渦巻いていた。
ハァッ……ハァッ……と、低く荒い呼吸音が、誠一郎の厚い胸板からダイレクトに伝わってくる。
男の放つ、高級な白檀の芳香と、ビターな深煎り珈琲の香り。
そして何より――スーツ越しに肌を焦がすような、暴力的なまでの圧倒的な男の体温。
捕食者の檻の中に完全に閉じ込められた小動物のように、佳乃の全身の毛穴がキュッと収縮し、心臓が早鐘のように跳ね上がった。
「鷹司様、何を……離して、ください……報告書が……」
佳乃は動揺を隠すように、大理石に突かれた誠一郎の胸元を押そうと両手を伸ばした。
だが、その指先が触れるよりも早く、誠一郎の自由になっていた左手が、佳乃の左手首をも無慈悲に掴み上げ、頭上の大理石へと押し付けた。
「っ……あ……」
両手首を捕らえられ、大理石の壁に縫い付けられる。
完全に無防備な体勢で、長身の男に見下ろされる屈辱と恐怖、そして――背筋を甘く痺れさせるような、未知の戦慄が佳乃の全身を駆け巡った。
「……報告書だと?」
降ってきたのは、夜の底から響いてくるような、低く掠れたバリトンボイスだった。
その声音の震えには、冷徹無比の投資帝国の総帥としての面影など、微塵も残っていなかった。
ただ、一人の飢えた男が、自らの魂の底を抉り出されるような苦痛に耐えかねて絞り出した、狂気じみた響き。
「そんな紙切れの報告など……今の私に、聞く余裕があると思うか」
「鷹司……様……?」
誠一郎の顔が、さらに至近距離へと近づいた。
互いの熱い吐息が、唇の端をかすめ合う。
誠一郎の切れ長の瞳が、獲物を射抜く猛禽のように佳乃の潤んだ瞳孔を捉えて離さない。
「……ロビーでのこと、耳に入った」
ドクンッ、と佳乃の心臓が激しく跳ねた。
エントランスでの騒動。
鳴神貴之がアポなしで乗り込んできて、暴れ回ったあの一連の事件。
誠一郎の執務室のモニターには、全館のリアルタイム防犯カメラ映像が映し出されている。彼がその一部始終を把握していないはずがなかったのだ。
「あいつが……あの無能な男が、我が社のロビーに土足で踏み込み、君の前に現れたと聞いた」
誠一郎の声が、一段と低く沈み込む。
掴まれた手首に、ギリッと骨が軋むほどの力が込められる。痛くはない。だが、絶対に逃がさないという狂おしいまでの執着が、皮膚を通して骨の髄まで染み込んでくる。
「……あいつは、君に何と言った?」
「え……」
「答えろ、佳乃」
誠一郎の唇が、佳乃の耳朶を掠めるほどの至近距離へと寄せられた。
耳元にダイレクトに吹き込まれる、男の熱く湿った吐息。
「あいつは……大勢の人間が見ている前で、君に向かって……『もう一度婚約してやる』と、そう喚き散らしたそうだな」
その言葉を口にした瞬間、誠一郎の全身の筋肉が、怒りと屈辱で硬く強張るのを佳乃は間近で感じ取った。
嫉妬。
剥き出しの、隠しようもない、醜悪なまでの独占欲。
世界中の富を動かし、政財界の大物たちを冷笑一つで手玉に取ってきた『氷のハゲタカ』が、今、たった一人の落ちぶれた男が放った下劣な言葉に、正気を失い、激しく動揺しているのだ。
「鷹司様、落ち着いてください……!」
佳乃は必死で呼吸を整え、誠一郎の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「あれは……鳴神社長が、自らの破滅に錯乱して口走っただけの戯言です! 神崎氏からの百五十億円の請求に怯え、私を都合の良い道具として利用しようとしただけの、浅ましい身勝手な懇願に過ぎません! 私は……あのような言葉、一ミリたりとも相手にしておりません!」
佳乃の明確な否定。
プロフェッショナルとしての冷徹な事実の提示。
それによって、誠一郎の怒りが鎮火することを佳乃は期待した。
だが――現実は、まったくの逆だった。
「分かっている」
誠一郎の口から漏れたのは、自嘲の混ざった深い吐息だった。
「そんなことは……君が言うまでもなく、分かっている。君があいつの手をミリ単位で躱し、ゴミを見るような目で一瞥し、警察に引き渡したことなど……防犯カメラの映像で、この目で最初から最後まで見届けていた」
「な、なら……なぜ……」
「分かっていても……理性が焼き切れるんだよ!!」
誠一郎の怒声が、至近距離で爆発した。
彼は佳乃の手首を掴んでいた左手を解くと、その震える長い指先を、佳乃の白く柔らかな右の頬へと、そっと滑り込ませた。
「っ……あ……」
佳乃の身体がビクンと跳ねた。
頬に触れる、男の指先の熱さ。
いつも完璧に冷徹な判断を下す男の指先が――信じられないほど、細かく、小刻みに震えていた。
恐れているのだ。
この絶対の帝王が、まるで今にも砕け散りそうな宝物を前にした子どものように、激しい恐怖に震えている。
「あいつが……かつて君の『婚約者』だったという事実だけで、私は発狂しそうになる」
誠一郎の声が、苦痛に満ちて掠れていた。
指先が、佳乃の頬から耳元へ、そして乱れた前髪を慈しむようにすくい上げる。
「鳴神剛造が遺言で取り決めた政略まがいの契約だったとしても……あいつは七年間、君の隣にいた。君のその類まれな知性を、その細やかな気配りを、その澄んだ声を……誰よりも近くで独占していたのだ」
誠一郎の瞳の奥に、暗い炎が揺らめく。
「君がどれほど完璧に拒絶しようと……あいつのみじめな姿を見て、君の心の奥底にあるかつての情が、ほんの少しでも揺らいだのではないか……。雨の夜に捨てられた痛みを思い出し、あいつの泥水をすするような哀れな姿に、一瞬でも同情を抱いたのではないか……。そう考えただけで、胸の奥が焼き爛れるように痛くて、気が狂いそうだったんだ」
「鷹司……様……」
息が、止まりそうだった。
佳乃の胸の奥底が、激しい衝撃で打ちのめされていた。
あの鷹司誠一郎が。
冷酷無比のハゲタカと恐れられ、他人の感情など数字のパラメータとしてしか扱わないはずの男が、自分を巡って、これほどまでに無様で、これほどまでに純粋な嫉妬に身を焦がしている。
かつて鳴神貴之は、佳乃の七年間を「誰にでもできる雑用」「代わりのいくらでもいる歯車」と切り捨てた。
だが、この男は――
自分が誰かの過去に触れることすら許せないほどに、自分の心の一片に他人の影が差すことすら耐えられないほどに、激しい執着と独占欲で自分を求めている。
「……君を、あんな男の視界に二度と入れたくない」
誠一郎の大きな手が、佳乃の後頭部へと回り込み、その豊かな黒髪を優しく、だが逃れられない力で包み込んだ。
至近距離で見つめ合う二人。
互いの心臓の鼓動が、静まり返った執務室の中で重なり合い、共鳴するように激しく打ち鳴らされる。
「君の視界を、あんな薄汚い男で一秒たりとも汚させたくない。君の知性も、その美しい瞳も、その声も……すべて私のものだ。誰にも、指一本触れさせない」
剥き出しの告白。
それは、ビジネスの契約を遥かに踏み越えた、一人の男としての魂の略奪宣言だった。
大理石の冷気と、男の圧倒的な熱量。
その狭間に閉じ込められた佳乃の瞳から、ツゥーッと、一筋の熱い雫が音もなくこぼれ落ちた。
恐怖ではなかった。
屈辱でもなかった。
七年間、都合の良い道具として消費され、愛されることを諦めていた一人の女性の魂が、この男の不器用で狂おしいほどの情熱によって、芯から溶かされていく歓喜の涙だった。
佳乃の乱れた吐息が、誠一郎の唇のすぐ間近で震える。
夕闇が完全に落ち、執務室は深い夜の帳へと包まれようとしていた。
二人の間に横たわっていた「雇用主と秘書」という境界線が、今まさに、跡形もなく消え去ろうとしていた。




