第31話:すがりつき
午前十一時。
港区赤坂の再開発エリアに聳え立つ超高層タワーのグランドエントランスは、秋の透明な陽光を四方の巨大なガラスウォールから浴びて、神殿のような静謐と荘厳さを漂わせていた。
三層吹き抜けの広大なアトリウム。磨き抜かれた白大理石の床には、天井から吊り下げられた現代彫刻の幾何学的な影が落ち、世界中の金融市場や多国籍企業と渡り合うトップエグゼクティブたちが、寸分の狂いもないスーツ姿で足音を吸い込ませるように行き交っている。
無機質で、知性と秩序だけが支配する完璧な空間。
そこに――突如として、その調和を根本から叩き壊すような「異物」が乱入してきた。
「どけッ! 俺を通せ!! 離せよ、触るな!!」
自動ドアが左右に開いた瞬間、けたたましい怒号が吹き抜けのフロアに反響した。
自動改札型のセキュリティゲートの前へ、つんのめるような足取りで転がり込んできた男の姿に、行き交うビジネスマンたちが一斉に眉をひそめ、足を止めた。
鳴神物産代表取締役社長――鳴神貴之。
だが、そこにいたのは、かつて創業家の御曹司として銀座のクラブで尊大に振る舞っていた男の面影など、微塵も残っていない「生ける廃人」だった。
仕立ての良いはずのライトグレーのスーツは、昨夜のペントハウスの床を這い回ったせいで皺だらけになり、膝のあたりには黒ずんだ埃がこびりついている。
ワイシャツの第ボタンは千切れ飛び、ネクタイは結び目が大きく歪んで胸元でだらしなく垂れ下がっていた。
整髪料もつけずに振り乱れた髪、剃り残した無精髭、そして何より――白目が充血して血走り、瞳孔が異様に開いたその眼差しは、誰が見ても明らかに精神の均衡を失っている者のそれだった。
指先からは、昨夜フォトフレームのガラス片で切り裂いた生傷から、乾いた血の塊が赤黒くこびりついている。
「お客様、困ります! 入館証をお持ちでない方のセキュリティゲート内への立ち入りは固くお断りしております!」
総合受付の女性コンシェルジュが、怯えを押し殺しながらカウンターから身を乗り出して制止の声を上げた。
だが、貴之は受付カウンターの天板をバンッと両手で激しく叩いた。
「客だと!? 俺を誰だと思ってるんだ!! 鳴神物産の代表取締役社長、鳴神貴之だぞ!! 鳴神物産を知らないとは言わせんぞ!!」
口の端から白い泡を飛ばし、貴之は受付嬢の顔面へと詰め寄った。
「アポなんているわけないだろ! 俺はここにいる槇野佳乃に会いに来たんだ! 佳乃を今すぐここへ呼べ! あいつは俺の秘書だ! 俺の婚約者なんだよ!!」
エントランスロビーに居合わせた数十人の視線が、一斉に貴之へと突き刺さった。
日系・外資系を問わず、日本のビジネスの中心地である赤坂のランドマークタワーだ。行き交う人々は、経済紙やマーケットニュースを日常的に追っているプロばかりである。
「鳴神物産……? あの大東京フィナンシャルから融資凍結を食らったっていう……」
「あの男が社長か? まるで浮浪者じゃないか……」
「秘書? 婚約者? タカツカサの役員フロアにいる槇野シニア・エグゼクティブ・オフィサーのことか?」
周囲から漏れ聞こえるさざ波のような囁きと失笑。
だが、極限状態に追い詰められた貴之の耳には、それらの嘲笑すら届いていなかった。
「呼べって言ってるのが聞こえないのかッ!! 佳乃を出せ!! 一刻を争うんだよ!!」
貴之は受付嬢の制止を腕で乱暴に払いのけると、フラップ式のガラスゲートを手で力任せに押し開け、強引にロビー内へと侵入した。
ピピッ! ピピッ! ピピッ!
即座にセキュリティセンサーが反応し、エントランス全体に鋭い警告音が鳴り響く。
「おい、不審者だ! 取り押さえろ!」
ロビーの左右に待機していた、屈強な体躯のセキュリティガード三名が、無線機を手に猛然とダッシュしてきた。
「止まりなさい! 建造物侵入です!」
「離せッ! 俺は鳴神の社長だぞ! 警備員ごときが俺の身体に触るなあああっ!!」
貴之は狂乱状態で腕を振り回し、暴れ回った。
だが、専門の訓練を受けた警備員たちに敵うはずもない。瞬く間に背後から両腕をねじり上げられ、屈強な男たちによって完璧に羽交い締めにされた。
床に組み伏せられそうになりながらも、貴之は首筋に青筋を浮き上がらせ、エレベーターバンクの方を血走った目で見つめ、絶叫を上げ続けた。
「佳乃ぉぉぉぉっ!! 出てこい、佳乃ッ!! 俺だ、貴之だ!! 佳乃ぉぉぉぉぉっ!!」
その、狂気じみた叫び声が、三層吹き抜けのアトリウムに反響した――まさにその時だった。
チィン……。
役員専用エレベーターバンクの最奥、ダークブロンズの化粧板で覆われた高速シャトルエレベーターの扉が、滑らかに、音もなく左右へと開いた。
エレベーターホールからロビーへと続く大理石の通路に、コツン、コツンと、乾いた、規則正しいヒール音が響き渡る。
「…………っ!?」
その足音を聞いた瞬間、貴之の呼吸がピタリと止まった。
羽交い締めにされたまま、必死で顔を跳ね上げる。
エレベーターから姿を現したのは、欧州系ソブリン・ウエルス・ファンド(政府系投資ファンド)の幹部たちとの大規模な投資ラウンドを終えたばかりの一行だった。
その先頭を、堂々たる歩調で進んでいたのは――
槇野佳乃だった。
身に纏っているのは、英国マーチャントの最高級ウールで仕立てられた、濃紺のテーラードスーツ。
ウエストラインは美しくシェイプされ、胸元には肌に吸い付くような純白のシルクブラウス。
首筋をすっきりと見せる前下がりのボブヘアは、艶やかな黒髪が歩くたびに光を反射して軽やかに揺れている。
野暮ったい銀縁眼鏡は外され、露わになった素顔は、誰もが見惚れるほどの気品と、知性の炎を宿した切れ長の瞳を湛えていた。
その両脇には、タブレットを手にした瀬尾千夏と、もう一人のアシスタントが、誇らしげに従っている。
七年間、鳴神物産の会長室の片隅で、誰の目にも留まらぬよう気配を消し、地味なお団子頭で書類を抱えていた「都合のいい女」。
その面影など、どこにもなかった。
そこにいたのは、何千億円もの国際資金を動かす巨大メガファンドの最高幹部として、世界中の投資家たちを魅了し、畏怖させる、完成された一人のエグゼクティブ・ウーマンだった。
「あ……」
貴之の濁った瞳に、その神々しいまでの姿が焼き付けられた瞬間。
彼の脳内で、最後の理性のタガが完全に吹き飛んだ。
恐怖も、恥辱も、自らの置かれたみじめな境遇すらも吹き飛び、歪み切った歓喜と執着が、全身の毛穴から噴き出した。
「佳乃……! 佳乃ぉぉぉぉぉっ!!」
警備員たちの拘束を、火事場の馬鹿力で引きちぎらんばかりに身をよじり、貴之は唾を飛ばして叫んだ。
「佳乃! 会いたかった! おい佳乃、見ろ、俺だ! 貴之だぞ!!」
騒然となるグランドエントランス。
ロビーを歩いていた佳乃は、その異様な怒号に反応し、ふっと歩みを止めた。
同行していた外国人投資家たちが眉をひそめて立ち止まるのを、千夏が流暢な英語で「申し訳ございません、セキュリティがすぐに対応いたします」と制し、エレベーターホールへと誘導する。
佳乃はアシスタントたちをその場に残し、一人、ゆっくりと踵を返した。
そして――警備員に両脇を固められ、床に膝をつきかけている貴之の方へと、静かに視線を向けた。
その瞳。
秋の夜空のように澄み渡り、だが絶対零度の氷河のように冷え切った、光のない双眸。
その視線が自分に向けられたのを見た瞬間、貴之は完全に「自分は許された」「佳乃はまだ俺を想っている」と錯覚したのだ。
自己愛性パーソナリティの極致。
都合の悪い現実はすべて他人のせいにし、自分にとって都合の良い妄想だけを真実だと信じ込む、哀れな怪物の認知の歪み。
「佳乃! よかった、やっと会えた……!」
貴之は警備員に腕を掴まれながらも、顔を歪ませて満面の笑みを作ってみせた。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔。
そして、グランドエントランスに居合わせる何百人もの人々が見守る前で、貴之の口から飛び出したのは――誰もが耳を疑うような、身勝手極まりない言葉の数々だった。
「お前、こんなところで何をしてるんだ! 敵のファンドなんかで、そんな偉そうな格好をして! 早く、早く鳴神物産に戻ってこい!!」
ざわっ……と、ロビーの空気が波打った。
警備員たちすら、あまりの言葉に呆気にとられて腕の力を一瞬緩めそうになる。
だが、貴之の妄言は止まらなかった。
彼はまるで、迷子のペットを寛大に許してやる飼い主のような口調で、上から目線の言葉を重ね続けたのだ。
「俺が悪かった! あの日、お前をクビにしたのは、俺の一時的な気の迷いだ! 親父が死んで、社長就任のプレッシャーでおかしくなってたんだよ! だから、あの解雇通告は全額……いや、完全に【取り消し】にしてやる!!」
取り消しにしてやる。
深夜のオフィスで暴言を浴びせ、退職届を投げつけ、傘すら持たせずに雨の中に放り出した男が、今、破滅に瀕して「解雇を取り消してやる」と言い放ったのだ。
「江藤瑠璃華とは別れた! あんな女、最初から遊びだったんだ! あいつは俺の金を横領して逃げた泥棒猫だ! もう切った! 俺の隣に相応しいのは、やっぱりお前しかいないんだよ、佳乃!」
貴之は床を這うように身を乗り出し、唾を飛ばしながら、生涯最大の「慈悲」であるかのように叫んだ。
「お前と、もう一度【婚約】してやる!!」
「…………」
「親父の遺言通り、正式に結婚してやるって言ってるんだ! 籍を入れて、鳴神の創業家の妻にしてやる! お前だって、ずっとそれを望んでいただろ!? 俺と結婚できるんだぞ!? こんな外資のハゲタカのところで愛人まがいの秘書をやるより、鳴神の社長夫人になる方が、よっぽど幸せに決まってる!!」
周囲にいたビジネスマンたち、受付の女性たち、そして警備員たちから、息を呑む音の後に――
クスクス、と。
嘲笑と失笑の波が、エントランスのあちこちから漏れ出した。
「おい、聞いたか……?」「解雇を取り消してやる?」「もう一度婚約してやる……?」「自分が捨てて追い出した相手に、この期に及んであの言い草かよ……」「頭がおかしいんじゃないのか?」
失笑の嵐。
だが、貴之にはその嘲笑の真意すら理解できていなかった。
彼は本気で信じていたのだ。
自分が「婚約してやる」とさえ言えば、かつて七年間、自分の背後に控えて頭を下げ続けていたあの地味な女は、泣いて喜び、自分の足元にひれ伏して感謝するはずだと。
「だから佳乃、今すぐ荷物をまとめて戻ってこい!」
貴之は必死の形相で、自らの本音――真の目的を喚き散らした。
「戻って、あのリチャード・神崎の契約書をなんとかしてくれ!! 百五十億の請求を止めてくれ!! お前ならできるだろ!? 昔からそうだった! 親父が作ったどんなトラブルも、契約書のどんな罠も、お前が裏で全部揉み消して解決してきたじゃないか!! 今回も同じだ! お前のその頭脳で、神崎を追い払って、鳴神物産を救え!! 俺を……俺を助けろおおおおっ!!」
すべてが、白日の下に晒された。
愛の告白でも、復縁の懇願でもない。
ただ、自分が犯した致命的な失敗の責任を押し付け、百五十億円の借金地獄から自分だけが助かりたいがために、かつて捨てた女を再び「便利な道具」として使い潰そうとする、底知れない利己主義。
その剥き出しの醜悪さに、ロビー中の人々が胸糞の悪さに顔を背けた。
貴之はぜえぜえと肩で息を荒らげ、すがるような、狂気を帯びた目で佳乃を見つめ続けた。
「さあ、佳乃……! 早く警備員に言え! 『その人は私の婚約者です、離しなさい』って言えよ! 俺の手を取れ!! 俺をここから助け出せぇぇっ!!」
静寂が、落ちた。
広大なグランドエントランスに、冷房の微かな風の音だけが流れる。
その狂乱の中心で。
ミッドナイトネイビーの完璧なスーツを纏った槇野佳乃は――
一歩も動かず、ただ静かに、床に這いつくばるかつての婚約者を見下ろしていた。
その表情には、怒りも、恨みも、動揺すらもなかった。
ただ――
道端に落ちている汚れたゴミ屑を眺めるような、完全なる虚無と、絶対零度の静寂だけが湛えられていた。
佳乃のポインテッドトゥパンプスの爪先が、カツン、と大理石の床を一度だけ鳴らした。
処刑台の階段を降りるような、静かな一歩。
万能秘書による、最も残酷で、最も美しい「断罪の宣告」が、今まさに下されようとしていた。




