第30話:愛人の雲隠れ
翌朝、午前八時半。
秋の冷たい朝霧が、大手町や丸の内のビジネス街を白く包み込んでいた。
だが、鳴神物産本社ビル最上階の社長室に満ちていたのは、澄んだ朝の気配などではなく、一夜にして腐臭を放ち始めた巨大な生ゴミの山のような、絶望と頽廃の澱んだ空気だった。
ドサリ。
床に脱ぎ捨てられたライトグレーの高級スーツのジャケット。
割れたクリスタルの破片は片付けられることもなく放置され、ソファの座面には、前夜にこぼれた深紅のワインが赤黒い染みとなって乾き固まっていた。
成金趣味の白革ソファの中央で、鳴神貴之は膝を抱え、抜け殻のように小さく丸まっていた。
一睡もできなかった。
目を閉じれば、リチャード・神崎のあの爬虫類のように冷徹な琥珀色の瞳と、「金曜日の午後三時までに、百五十億円の全額着金を確認できなければ、本社ビルとナルカミ・ロジスティクスの全株式を即座に接収する」という死刑宣告が、耳の奥で狂ったようにリフレインする。
さらに、昨夕の瑠璃華の凶暴な罵声――「触るんじゃないわよ、このド三流が」「付き合って損したわ」という言葉が、鋭利なガラスの破片となって貴之のプライドをずたずたに切り裂いていた。
「……瑠璃華。瑠璃華、どこへ行ったんだよ……」
ボサボサに乱れた髪の隙間から、充血して濁りきった目を覗かせ、貴之は譫言のように呟いた。
昨夜、エルメスのバーキンを抱えて社長室を飛び出していった瑠璃華の背中。
きっと、頭を冷やしに六本木のタワマンへ戻っただけだ。一晩経てば、いつものように「貴之さぁん、昨日はごめんなさいぃ♡」と甘えて戻ってくるに決まっている。
彼女がいなければ、この地獄のような現実を一人で受け止めることなど、到底耐えられなかった。
貴之はすがるように、ローテーブルの上に放り出されていたスマートフォンへと手を伸ばした。
その時だった。
バァァァンッ!!
ノックすらなく、社長室の扉が悲鳴のような音を立てて跳ね開いた。
入ってきたのは、普段は冷静沈着を絵に描いたような銀縁眼鏡の男――鳴神物産の経理部長・加藤だった。
加藤はネクタイを歪ませ、額にびっしりと青筋と冷汗を浮かべ、手にした紙の束を握りつぶしそうになりながら、土足のまま絨毯の上を猛然と突進してきた。
「社長ッ!! 鳴神社長ッ!! 一体、これはどういうことですかッ!!」
鼓膜を破らんばかりの怒号。
貴之はビクッと肩を跳ね上げ、ソファから転がり落ちそうになりながら加藤を見上げた。
「な、なんだ加藤……! 朝から騒々しい! 経理部長のくせに、社長室に怒鳴り込んでくるなど――」
「騒々しいどころの話ではありませんッ!!」
加藤は貴之の目の前のガラステーブルへ、三枚の銀行取引明細シートを激しく叩きつけた。
バシィィンッ!
「これをご覧ください! 今朝一番、メインバンクである大東京フィナンシャルグループのオンラインバンキングから、当座勘定の残高アラートが飛んできたのです! ……社長秘書室の交際費予備口座から、昨夜の午後十一時四十五分、現金【五千万円】が、見知らぬペーパーカンパニーの口座へネット経由で全額送金されています!!」
「……は? ご……五千万……?」
貴之の口から、間の抜けた声が漏れた。
「それだけではありません!」
加藤は目を血走らせ、二枚目のクレジットカード利用明細の速報値を貴之の鼻先に突きつけた。
「社長ご自身の個人名義でありながら、会社の役員決済用として登録されているブラックカード――江藤瑠璃華室長へ追加カードとして貸与されていた家族カード枠で、昨夜の深夜二時から午前四時にかけて、銀座と六本木の高級貴金属店、ならびに外資系ハイブランドの二十四時間コンシェルジュデスクを通じて、限度額一杯の【三千八百万円】の決済が走っています! ハリー・ウィンストンのダイヤモンドリング、ロレックスのデイトナ、エルメスのクロコダイルバッグ……換金性の高い高額商品ばかりが、根こそぎ買い占められているのです!!」
「な……な、なんだと……ッ!?」
貴之の脳天を、雷鳴が直撃した。
五千万円の現金送金。
三千八百万円のカード決済。
合わせれば、九千万円近い巨額の資金が、たった一晩の間に闇の中へと消え去っていた。
「なぜ、こんなことが可能なんだ!?」
貴之はガタガタと震えながら叫んだ。
「秘書室の予備口座から送金するには、社内稟議と経理部のダブルチェックが必要なはずだろ! カードだって、限度額の引き上げには役員会の承認が――」
「そのダブルチェックをすべて破壊したのは、社長、あなたご自身でしょうがッ!!」
加藤経理部長の怒声が、社長室のガラス窓をビリビリと震わせた。
「先月、新体制が発足した直後、社長は私に何と仰いましたか!? 『昭和の判子リレーなど業務効率の邪魔だ。社長室長の江藤瑠璃華には、機動的なブランディング活動のために小口交際費口座の単独決裁権を与える。パスワードとワンタイムトークンもすべて彼女に渡せ』と、社内規程を無視して私に命令したではありませんか!!」
「あ……」
貴之の喉が、ヒュッと小さく鳴った。
「ブラックカードの追加カードもそうです! 『一流の社長秘書には一流の武装が必要だ』と、会社の信用枠を担保にしたブラックカードを、無条件で彼女に持たせたのは社長です! 先代・剛造会長の時代には、一万円のタクシー代の精算ですら、槇野佳乃室長代理が厳格に領収書と突き合わせ、使途を精査して不正の芽を完全に摘み取っていた! それを『地味女の細かいケチくさい管理』と嘲笑い、あの愛人に財布の紐を無制限に預けた結果が、この横領劇です!!」
加藤の指先が、怒りで激しく震えていた。
自らの虚栄心。
社内ガバナンスの完全な無視。
愛人を喜ばせるために、会社の金庫の鍵を自らの手で差し出した傲慢。
そのすべてが、最悪の形で跳ね返ってきたのだ。
「う……嘘だ……」
貴之はよろめきながら立ち上がり、頭を抱えた。
「何かの間違いだ! 瑠璃華がそんなことするはずがない! あいつは……あいつは俺を愛してるんだ! きっと、会社の資金繰りを心配して、一時的に資産を安全な場所へ移してくれただけに決まってる! そうだ、そうに違いない!!」
哀れなまでの現実逃避。
貴之は加藤を乱暴に突き飛ばすと、上着も羽織らず、ワイシャツ一枚のまま社長室を飛び出した。
「社長! どこへ行かれるのですか! 社長ッ!!」
背後から響く加藤の制止を無視し、貴之は役員用エレベーターへと転がり込んだ。
◇
午前九時四十分。
六本木三丁目。六本木通りの喧騒から一本奥に入った高台に聳え立つ、地上四十三階建ての超高級タワーレジデンス。
エントランスには制服を着たコンシェルジュが控え、大理石のロビーには静寂が漂っている。
タクシーから転がるように降りてきた貴之は、乱れたシャツのボタンも留めぬまま、息を切らして自動ドアを潜り抜けた。
「鳴神様、おはようございます。本日は――」
「どけッ!」
コンシェルジュの会釈を遮り、貴之はポケットから取り出した非接触型のスマートキーをセキュリティゲートに押し当てた。
最上階のペントハウス直通のプライベートエレベーターに乗り込み、四十階のボタンを狂ったように連打する。
家賃、月額二百五十万円。
鳴神物産の社長室交際費から全額を捻出させ、瑠璃華を囲うために貴之が契約した、広さ二百平米を超えるメゾネットタイプの豪邸だった。
チィン、と高い電子音が鳴り、最上階のフロアに扉が開く。
貴之は長い廊下を駆け抜け、突き当たりの重厚なオーク材のドアの前に立った。
電子錠のタッチパネルに暗証番号を打ち込む。
ピピピッ、ガチャリ。
「瑠璃華! 瑠璃華、いるんだろ!? 俺だ、貴之だ!!」
ドアを勢いよく押し開け、玄関の三和土へと踏み込んだ。
だが――
返ってきたのは、貴之自身の甲高い声の反響だけだった。
「……え?」
貴之の足が、敷居を越えたところでピタリと止まった。
室内に漂っていたのは、瑠璃華がいつも好んで焚き染めていた甘ったるいホワイトムスクの香りではなかった。
ただ、人の気配が完全に消え去った部屋特有の、冷え切った、埃っぽい無機質な空気。
靴を脱ぐことすら忘れ、貴之は白大理石の廊下を駆け抜け、広大なリビングルームへと飛び込んだ。
「…………っ!?」
視界に飛び込んできた光景に、貴之の呼吸が止まった。
もぬけの殻だった。
リビングの中央に置かれていた、イタリア製のカッシーナの特注ソファの上には、クッション一つ残されていない。
ガラス張りのワインセラーは扉が開け放たれ、貴之が買い集めた数百万円相当のロマネ・コンティや五大シャトーのボトルが、一本残らず消え去っていた。
「る、瑠璃華……? 嘘だろ……?」
貴之はふらつく足取りで、奥のマスターベッドルームへと向かった。
両開きのウォークインクローゼットの扉を開け放つ。
ガラン……。
広さ十畳以上あるクローゼットの中は、異様なまでの完全な空虚に包まれていた。
ハンガーパイプに掛かっていたはずの、シャネルやディオール、フェンディの高級ドレス。
棚に美しく並べられていたはずの、エルメスのバーキンやケリー、数十個のブランドバッグ。
アクセサリーケースの中に収められていた、ハリー・ウィンストンやカルティエのダイヤモンドジュエリー。
そのすべてが、綺麗さっぱり、痕跡すら残さずに持ち去られていた。
残されていたのは――床に無造作に散らばった、空になったオレンジ色や黒色のブランドの紙箱と、緩衝材のプチプチだけだった。
「あ……あぁ……」
貴之の喉から、掠れた悲鳴が漏れた。
その散乱するゴミの山の中央に、何かが落ちていた。
貴之は膝をつき、震える手でそれを拾い上げた。
それは、先月、社長就任の祝いに二人でハワイへプライベートジェットで旅行した際に撮影した、銀無垢のフォトフレームに入った記念写真だった。
ワイキキの夕日をバックに、シャンパングラスを掲げて笑い合う貴之と瑠璃華。
だが――
そのフォトフレームのガラスは、鋭利なピンヒールの踵で何度も執拗に踏み躪られたのか、蜘蛛の巣のようにバキバキに粉砕されていた。
写真の中の貴之の顔の部分には、黒い油性マジックで、ぐちゃぐちゃに塗りつぶされた上に、大きな赤い文字で、こう殴り書きされていたのだ。
『死ね、無能』
「ひっ……!!」
貴之は悲鳴を上げてフォトフレームを床へと放り出した。
ガラスの破片が飛び散り、貴之の指先を浅く切り裂く。
ツゥーッと赤い血が滲み出たが、痛みを感じる余裕などなかった。
「な、なんで……なんでだよ……! 瑠璃華……! 俺はお前に、何千万円も貢いだじゃないか! タワマンも、カードも、バッグも、全部お前の思い通りにしてやったじゃないか!!」
貴之は床に這いつくばり、ポケットからスマートフォンを取り出した。
震える指で、短縮ダイヤルに登録されていた瑠璃華の番号を押す。
神様、頼む、繋がってくれ。
何かの間違いだと言ってくれ。
祈るようにスピーカーを耳に押し当てた。
だが――
コール音すら鳴らなかった。
『――ツーツーツー……おかけになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめになって、もう一度おかけ直しください』
「解約……!?」
貴之の全身から、体温という体温がすべて蒸発していった。
「スマホまで、解約してる……!? 昨日の今日で、そんな……手際が良すぎる……!」
そう、あまりにも手際が良すぎたのだ。
昨夕、社長室を飛び出してから、わずか十数時間。
五千万円の送金、三千八百万円の貴金属の買い占め、部屋中の高級品とワインのパッキング、引っ越し業者による秘密裏の搬出、そして携帯電話の即時解約――
突発的な喧嘩の末の家出などで、これほど完璧な資産の持ち逃げができるはずがなかった。
最初から、仕組まれていたのだ。
リチャード・神崎。
あの悪魔のような男が、六本木のバーで貴之に接触してきたあの日から、瑠璃華は神崎と裏で繋がっていたのだ。
神崎から事前に「鳴神物産がいつ破滅するか」「第一四半期の決算で会社が窒息する時期」を正確に耳打ちされていた瑠璃華は、船が沈没するその瞬間を見計らい、先手を打って会社の口座と貴之のカードから限界まで金を搾り取り、持ち逃げする計画を周到に進めていたのだ。
そして今、彼女は――
貴之から奪い取った一億円近い現金と宝石を抱え、神崎から紹介された別のパトロン――港区で羽振りの良い暗号資産系ITベンチャーの若き会長の腕の中に、何食わぬ顔で滑り込んでいた。
鳴神貴之という無能なボンボンは、最初から最後まで、金と地位を吸い尽くすためだけに利用された、ただの「使い捨ての踏み台」に過ぎなかったのだ。
「あ……あああ……ああああああああっ!!」
貴之は荒れ果てたベッドルームの床に突っ伏し、自らの頭を両手で激しく掻きむしった。
狂ったような絶叫が、誰もいないペントハウスに虚しく木霊する。
すべてを失った。
会社は、神崎からの百五十億円の即時請求により、今週末の金曜日をもって倒産することが確定している。
社内は、千夏が労働基準監督署に叩き込んだ爆弾によって、強制捜査と臨検が入り、役員たちからは社長解任と損害賠償を突きつけられている。
そして、唯一の心の拠り所であり、自慢のトロフィーだった愛人には、会社の金を持ち逃げされ、最後の資産すら根こそぎ奪い去られた。
手元に残ったのは――
指先から滴る赤い血と、百五十億円の債務超過、そして誰一人として味方のいない、完全なる孤独だけだった。
「嘘だ……こんなはずじゃない……」
貴之は床を爪で掻きむしり、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、床の埃を舐めるようにして這い回った。
「誰か……誰か俺を助けろ……! 親父……! 安西……! 誰でもいい、俺を助けてくれぇぇっ!!」
どれほど叫んでも、返ってくるのは冷たい静寂だけだった。
かつて周囲に群がっていた取り巻きたちも、おべっかを使っていた取引先も、愛人も、誰も助けてはくれない。
自分が他人を足蹴にし、他人を踏み躪ってきたその報いが、今、一滴の容赦もなく自分自身に降り注いでいた。
その、底知れない絶望の暗闇の中で。
貴之の濁りきった脳裏の奥底に、ふっと、一つの情景が浮かび上がった。
――雨の夜。
鳴神物産の本社ビルの車寄せ。
土砂降りの雨の中、ダンボール箱を一つ抱え、傘すら持たされずに追い出された、あの女性の姿。
先代会長の病床の傍らで、どんな無理難題にも顔色一つ変えず、完璧な先回りでトラブルを未然に防ぎ続けてくれた人。
自分がどれほど理不尽に当たり散らしても、決して声を荒らげることなく、静かに頭を下げて泥を被り続けてくれた人。
どんな絶望的な危機にあっても、その類まれな知性と人脈で、会社を、そして自分自身を、裏から守り続けてくれていた、たった一人の女性。
――槇野佳乃。
「佳乃……」
貴之の唇から、掠れた、渇望に満ちたその名が漏れ出た。
「そうだ……佳乃だ……! あいつなら……あいつなら、何とかしてくれる……!」
認知の歪みが、最後の狂気となって貴之の瞳にギラリと灯った。
あいつは、俺の婚約者だったんだ。
親父が認めた、俺の女だったんだ。
俺が頭を下げて、「もう一度婚約してやる」と言えば、あいつが喜んで戻ってこないはずがない。
戻ってきさえすれば、あいつのあの超人的な実務能力で、神崎の契約書も、百五十億の借金も、全部チャラにしてくれるはずだ!
「佳乃ぉ……っ! 佳乃、俺を助けろ……!!」
床に転がっていたスーツの上着を引ったくり、貴之は血走った目で立ち上がった。
自らが犯した罪の重さも、相手が今や宿敵・タカツカサの最高幹部であるという現実すらも、完全に都合よく忘却したまま。
哀れな怪物は、自らを破滅へと導く最後の引き金を引くために、赤坂の超高層タワーへと向かって、狂乱の足取りで駆け出していったのだった。




