第29話:パニックの役員フロア
大会議室の重厚な防音扉が閉ざされた直後、フロアの空気は音を立てて砕け散った。
這うようにして大会議室を抜け出した鳴神貴之は、青ざめた顔で爪を噛みながら、よろめく足取りで最上階の社長室へと逃げ帰っていた。背後からは、役員たちの怒声と狼狽、そして内線電話の鳴り響く音が、津波のような地鳴りとなって追いすがってくる。
バタンッ!!
社長室の白い両開きドアを背中で乱暴に閉め、貴之は鍵を回そうとした。
だが、その震える手がサムターンにかかるよりも早く、外側から凄まじい力でドアが押し戻された。
「逃げるなッ、鳴神貴之!!」
入ってきたのは、専務取締役の安西源三郎だった。
先ほどまでの大会議室での憔悴は消え失せ、叩き上げの重鎮の顔は、怒髪天を突く激怒の紅潮に染まり上がっていた。
安西は逃げ場を失って後ずさる貴之の胸倉を掴まんばかりに詰め寄り、手にした『期限の利益喪失通知書』の分厚い束を、成金趣味のガラステーブルへと叩きつけた。
ドガァンッ!!
ガラス天板が悲鳴のような鈍い音を立て、テーブルの上に飾られていたクリスタルの置物が倒れて床へと転がり落ちる。
「だから私は止めたんだ!!」
安西の怒号が、四方の壁を震わせた。
「三ヶ月前、五十嵐法務課長と私が、膝を屈してまでサインを思いとどまらせようとしたはずだ! なぜ外部の渉外弁護士によるリーガルチェックも通さず、こんな悪魔のような契約書に独断で調印したッ!! 売上未達で年利十八%の遡及ペナルティ、期限の利益喪失、そして担保権の即時実行……! すべて、あの時警告した通りではないか!!」
「ひっ……、あ……」
貴之は息を詰まらせ、白革のソファへと崩れ落ちるように腰を落とした。
額からは脂汗が滝のように流れ落ち、ライトグレーの高級スーツの胸元をぐっしょりと濡らしている。
震える指先でネクタイを千切れるほど引っ張り、ネクタイピンを床へと引きちぎり落とした。
「安西、貴様……っ、社長に向かって、なんという口を……!」
「社長だと!?」
安西は目を血走らせ、貴之の鼻先に指を突きつけた。
「今週末の金曜日までに、百五十億円を一括で用意できるのか!? 大東京フィナンシャルからの融資枠は凍結され、市中銀行はどこも相手にしてくれない! 手元の当座預金は、港湾倉庫の違約金と貨物滞留ペナルティで底をつきかけているんだぞ! どこに百五十億円ものキャッシュがある!!」
「そ、それは……っ!」
「払えなければ、今週末をもって本社ビルは接収される! 我が社の営業利益の四割を稼ぎ出すナルカミ・ロジスティクスの全株式も、神崎のペーパーカンパニーへすべて奪われるんだ!!」
安西は机を拳で激しく叩いた。
「本社を追い出され、物流網を奪われたら、鳴神物産に残るのは何だ!? 全国に抱える何千人もの社員、その家族、そして数百億円の借金だけだ! 創業七十年の歴史を誇る名門が、一瞬にして債務超過の空き殻となり、倒産するんだぞ!! 貴様は、先代が命を削って遺した城を、自らの手で木っ端微塵に爆破したんだ!!」
倒産。
その二文字が、貴之の脳髄を金槌で殴りつけたかのように打ちのめした。
視界が白くチカチカと明滅する。
耳の奥で、キーンという金属音が鳴り止まない。
自分が、会社を潰した?
この俺が、創業家の選ばれしプリンスである俺が、無能の烙印を押されて市場から追放される?
「う、嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だッ!!」
貴之は頭を抱え、獣のようなうめき声を上げながら髪を掻きむしった。
「俺は悪くない! 俺の経営判断は完璧だったはずだ! AIスマート商社構想は世界を制覇するはずだった! 神崎だって、六本木で俺のビジョンを絶賛してくれたじゃないか! あいつが……あいつが俺を騙したんだ!!」
「騙されただと!? 一企業の代表取締役が、相手の甘言を真に受けて契約書も読まずにサインしたなどと、株主や市場に通ると思っているのか!!」
安西の容赦ない追及。
逃げ道は、一寸たりとも残されていなかった。
自分の無知、自分の浅薄さ、自分の肥大化した虚栄心。
そのすべてが、冷徹な数字と法的文書の鎖となって、貴之の首を絞め上げていた。
耐えられない。
認めるわけにはいかない。
自分が無能だったなどと、自分の判断が間違っていたなどと、天地が裂けても認めるわけにはいかないのだ。
誰かのせいにしなければ、精神が破裂してしまう。
誰かを身代わりに仕立て上げ、この耐え難い汚辱と恐怖をすべて押し付けなければ、自分が壊れてしまう――。
その時。
貴之の血走った視界の端に、ソファの片隅で小さく縮こまり、息を潜めていた女の姿が映り込んだ。
江藤瑠璃華。
胸元の大きく開いたピンクのブラウス。
手入れの行き届いた巻き髪と、スワロフスキーのラインストーンが輝く長い爪。
神崎から「三流の泥人形」と罵倒され、手を払いのけられて以来、一言も発さずにその場に固まっていた女。
(……そうだ)
貴之の脳内で、悪魔の閃きが火花を散らした。
(あいつだ。すべて、あいつのせいだ……!!)
「……おい」
貴之の喉から、低く濁った、毒の滴るような声が漏れ出た。
貴之はゆっくりと立ち上がると、獲物を見定めた狂人のような足取りで、瑠璃華の座るソファの前へと歩み寄った。
「……え? た、貴之さん……?」
瑠璃華がおそるおそる顔を上げる。
その瞬間――
ドンッ!!
貴之は履いていた革靴の爪先で、瑠璃華の足元にあったガラステーブルの脚を激しく蹴り飛ばした。
テーブルが大きく軋み、瑠璃華の肩がビクッと跳ね上がる。
「お前だあああああっ!!」
貴之の口から、唾液が機関銃のように噴き出した。
形相を変え、両手を振り回しながら、貴之は瑠璃華の顔面へと詰め寄った。
「お前が唆したんだろッ!! 六本木のバーで、お前が『神崎さんは超一流のグローバルエリートだからサインすべき』って、俺の腕に抱きついて煽り立てたんじゃないか!! 法務のチェックを通そうとした五十嵐を『嫉妬で見苦しい』って嘲笑ったのもお前だ!! お前がサインしろって言ったから、俺は判子を押したんだよッ!!」
「ひっ……!」
瑠璃華はソファの背もたれに背中を押し付け、怯えたように身を縮こまらせた。
だが、貴之の狂気じみた責任転嫁の怒号は止まらない。
「百五十億だぞ!? どうすんだよ、この金を!! お前が責任を取れ!! お前のせいで会社が潰れるんだ!! お前があの時、余計な口を挟まなければ、こんなことにはならなかったんだ!! 全部、全部お前のせいだあああああっ!!」
貴之は瑠璃華の肩を掴み、狂ったように前後に揺さぶろうと手を伸ばした。
自らの罪をすべて女に擦り付け、自らを「悪女に騙された悲劇の被害者」に仕立て上げるための、あまりにも見苦しく、あまりにも醜悪な八つ当たり。
だが――。
パシィィィィンッッ!!
乾いた、鋭利な破裂音が、社長室に響き渡った。
「…………え?」
貴之の動きが、完全に停止した。
伸ばしかけた右手。その手首を、下から強烈な力で払いのけられたのだ。
見上げれば。
そこにいたのは、先ほどまで怯えて縮こまっていた「愛らしく無知な愛人」ではなかった。
「……触んじゃないわよ、このド三流が」
低く、冷酷で、底知れない侮蔑を孕んだドスの利いた声。
瑠璃華はゆっくりとソファから立ち上がった。
その顔から、あの甘ったるい媚笑も、猫撫で声のぶりっ子の仮面も、綺麗さっぱり剥ぎ取られていた。
露わになったのは――港区の夜の街で何十人もの男たちの財布をしゃぶり尽くし、冷酷に乗り換えてきた、肉食獣の凶暴で醜悪な地金だった。
「る……瑠璃華……?」
貴之が呆気に取られて声を漏らす。
瑠璃華は冷笑を浮かべ、細めた瞳で貴之を上から下へと値踏みするように見下ろした。
その唇から紡ぎ出されたのは、貴之の自尊心を微塵切りにする言葉の散弾銃だった。
「はぁ!? 何言ってんのよ、この無能男。私が責任を取れぇ? 冗談言わないでよ」
瑠璃華は腕を組み、鼻でせせら笑った。
「サインしたのは社長、あなたでしょ!? 契約書に代表取締役の判子を押したのは、あんたのその汚い手じゃない! 私はただの秘書よ? 一企業の代表が、女の『素敵〜♡』って一言で百五十億円の借金背負う契約を結んだわけ!? 頭沸いてんじゃないの!? 恥を知りなさいよ、このマザコンボンボンが!!」
「な……な、なんだとッ!?」
貴之の顔が屈辱で真っ赤に沸騰した。
「貴様、誰に向かって口を利いている!! 俺が買い与えてやった高級バッグも、六本木のタワマンも、全部会社の金だぞ!? 俺の庇護がなければ、お前なんてただの読者モデル上がりのアバズレだろうが!!」
「アバズレぇ? 結構じゃない!」
瑠璃華は躊躇なく踏み込み、履いていたハイヒールの爪先で、貴之の足元のデスクをドンッと蹴り飛ばした。
凄まじい衝撃に、デスクの上のパソコンがガタガタと揺れる。
「あんたが金持ってる社長だから相手にしてあげてただけよ! 親の七光りで社長の椅子に座らせてもらっただけのくせに、経営の『け』の字も分からない、現場の社員からも馬鹿にされてる無能男! ベッドの上でも経営でも、一人じゃ何一つ満足にできない役立たずの分際で、偉そうに威張り散らさないでよ!!」
「っ……ぐ……あああああっ!!」
男としての急所を、最も残酷な言葉で抉り抜かれ、貴之の喉から言葉にならない絶叫が漏れた。
安西専務の目の前で、自分が愛人として侍らせていた女から、人格の根底まで唾を吐きかけられたのだ。
「あんたみたいな落ち目の泥舟に、これ以上付き合ってられるわけないでしょ」
瑠璃華は吐き捨てるように言い放つと、迷うことなく社長室のプライベートクローゼットへと大股で歩み寄った。
そして、扉を乱暴に開け放つと、中に置いてあった私物のエルメスのバーキンと、貴之に買わせたばかりの数十万円する毛皮のコートを引っ張り出した。
「お、おい! 何をしてるんだ瑠璃華! どこへ行く気だ!!」
貴之が慌てて追いすがろうとする。
瑠璃華は振り返り、ゴミを見るような絶対零度の眼差しを貴之に浴びせた。
「決まってるでしょ。こんな倒産寸前の沈没船、今すぐ降りるわよ。あんたとなんか一緒にいたら、借金取りに捕まってこっちまで巻き添え食らうじゃない。……付き合って損したわ。時間の無駄だった」
「待て! 逃げるな!! お前には共犯としての責任があるんだぞ!!」
貴之が伸ばした手を、瑠璃華はバーキンの角で思い切り殴りつけた。
バシィッ!
「痛っ……!!」
貴之が手を引っ込め、床にうずくまる。
瑠璃華はコートを肩に引っ掛けると、鏡の前で髪をサッと払い、完璧な冷酷さで言い放った。
「共犯? バッカじゃないの。法的な責任は全部、代表取締役であるあんた一人にあるのよ。神崎さんの言う通り、せいぜい一人で借金地獄に落ちて、刑務所の中で反省しなさい。じゃあね、無能元社長」
カツ、カツ、カツ、カツ。
ピンヒールの硬質な足音が、静まり返った社長室を切り裂いていく。
瑠璃華は振り返ることもせず、重厚な扉をバーンと蹴り開け、役員フロアの廊下へと足早に出ていった。
バタンッッ!!
凄まじい音を立てて扉が閉ざされた。
後には――
散らばった契約書の残骸、割れたクリスタルの破片、そして床に手をついて肩を震わせる貴之の荒い呼吸音だけが残されていた。
「…………」
安西源三郎は、腕を組んだまま、微動だにせずその光景を見届けていた。
その瞳には、もはや怒りすら湧いてこなかった。
あるのは、ただ底知れない軽蔑と、先代が心血を注いだ会社をこんな男に継がせてしまったことに対する、深い絶望だけだった。
「……鳴神社長」
安西の低く冷え切った声が、静寂に落ちた。
「これが……あなたが選んだ『新時代の華やかな秘書』の、真の姿です。……あなたが足蹴にして追い出した槇野佳乃君が、どれほどの忠誠心と誇りを持ってこの会社を守っていたのか……少しは、身に染みて理解できましたかな」
「う……あ……」
床に突っ伏したまま、貴之は震える手で自らの顔を覆った。
指の隙間から、みっともない涙と鼻水が畳へと零れ落ちる。
金も、権力も、愛人も、プライドも。
自分が信じていたすべての幻影が、たった数分間で、跡形もなく崩壊した。
残されたのは――金曜日午後三時という絶対のタイムリミットと、百五十億円という絶望的な債務の山。
鳴神物産本社ビルの外には、秋の穏やかな夕暮れが迫っていた。
だが、この部屋を支配する闇は、もはや二度と明けることのない、完全なる破滅の深淵へと沈み込んでいた。




