第28話:牙を剥く契約
鳴神物産本社ビル最上階・大会議室。
かつて先代・鳴神剛造が国内外の重役たちを集め、国家プロジェクトの命運を賭けた戦略を議論していたその荘厳な空間は、今や冷たい死の気配に覆い尽くされていた。
三十二人が着席できる重厚なオーバルテーブルの上には、紙の資料はほとんど置かれていない。正面の二百インチ壁掛け大型スクリーンに投影されていたのは、本日迎えた運命の日――『新体制・第一四半期 決算実績報告書』の総括スライドだった。
そこに並んでいた数字は、もはや「不振」や「下振れ」といった言葉で表現できる生易しいものではなかった。
【新規AIスマート商社事業 第一四半期売上計画】:金 伍拾億円(¥5,000,000,000-)
【同事業 第一四半期売上実績】:金 壱億弐千万円(¥120,000,000-)
【計画達成率】:【2・4%】
赤く強調された『2・4%』の文字が、まるで血塗られた墓標のように、薄暗い会議室の中で青白く発光していた。
テーブルの上座、中央の社長席に座る鳴神貴之の額からは、脂汗がタラタラと顎へと伝い落ちていた。
イタリア製のオーダーメイドスーツの襟元は汗で湿り、手元のペーパーナイフを弄ぶ指先が小刻みにカタカタと音を立てている。
だが、その濁った瞳の奥には、いまだ自らが引き起こした現実を受け入れられない、醜悪な現実逃避の色がへばりついていた。
「えー……まあ、見れば分かる通りだ」
貴之は咳払いを一つし、わざとらしく背もたれに体重を預けてみせた。
「数字の表面だけを見れば、計画未達に見えるかもしれない。だが、これはあくまでシステム移行期の過渡期特有の誤差だ。ほら、AIというのはディープラーニング……機械学習の期間が必要だからな。過去の取引データをアルゴリズムに読み込ませている最中なんだから、最初の三ヶ月で即座に売上が立たないのは、IT業界では当たり前のプロセスなんだよ」
貴之の口から次々と飛び出す、中身の伴わない苦し紛れのバズワード。
その隣の席で、相変わらず胸元の開いたピンクのブラウスを着て、手持ち無沙汰にスワロフスキーのペンを回していた江藤瑠璃華が、待ってましたとばかりに甲高い声で同調した。
「そうですよぉ〜! 役員の皆さん、難しい顔しすぎですぅ! AIだって最初は赤ちゃんと同じなんですからぁ、いきなり五十億円なんて稼げるわけないじゃないですかぁ。システム開発の会社の人も『今はデータの蓄積フェーズです』って言ってましたしぃ、来期になれば指数関数的にギュイーンって伸びるに決まってますよぉ!」
赤ん坊。データの蓄積。指数関数的な伸び。
一企業の取締役会で発せられるとは到底思えない、救いようのない無知と浅薄さ。
テーブルを囲む十数名の取締役たちは、誰一人として口を開かなかった。
開けなかったのだ。
彼らの視線は、ただ絶望と恐怖に凍りつき、手元の空白のメモ帳へと落とされていた。
「……社長。江藤室長」
重苦しい静寂を破り、低く、地を這うような声を絞り出したのは、専務取締役の安西源三郎だった。
五十八歳の叩き上げの重鎮は、深く刻まれた眉間の皺を寄せ、充血した目で貴之を射抜いた。その両手は、テーブルクロスが引き裂けそうなほど強く握りしめられている。
「何を寝言を仰っているのですか。……実績の一億二千万円という数字すら、既存の顧客が義理で発注してくれた従来型の資材取引を、無理やりAI事業の勘定科目に付け替えただけの、粉飾まがいの数字ではありませんか」
「なっ……! 安西、貴様、また俺の経営方針にケチをつける気か!」
「ケチなどという次元の話ではないッ!!」
安西は立ち上がり、机を両手で激しく叩いた。ドォンッという重い音が会議室に反響する。
「三ヶ月前、五十嵐法務課長と私が命懸けで警告したことを忘れたのですか!? ベーカー&スターンズと結んだ五百億円のメザニンローン契約……! 第一四半期の売上が計画の七〇%――三十五億円を下回った場合、どうなるか!!」
安西の叫び。
その瞬間、会議室にいた役員たちの背筋に、氷柱を突き立てられたかのような悪寒が走った。
三十五億円。
実績は、わずか一億二千万円。
未達どころの騒ぎではない。目標の十分の一、いや三十分の一にも満たない、完全なる壊滅。
「そ、それは……」
貴之の喉が、ヒュッと小さく鳴った。
「だ、だが、神崎さんは言っていたぞ! 『目標は高く設定するのがウォール街の流儀だ』と! 神崎さんは俺のビジョンを深く理解してくれているパートナーだ! 多少の未達くらい、次の四半期にリスケジュール……猶予してくれるに決まっている! 外資系の一流バンカーが、そんな杓子定規なことで騒ぎ立てるはずが――」
貴之がそう言い募った、まさにその刹那だった。
ガチャリ。
静かな、だが重厚な金属の擦れ合う音が、会議室の入口から響いた。
ノックの音は、なかった。
役員用セキュリティカードを持たない部外者が立ち入るはずのない最上階の扉が、何の躊躇もなく、静かに左右へと開け放たれた。
「――おやおや。随分と都合の良いファンタジーに浸っていらっしゃるようだ、鳴神社長」
室内の温度が、一瞬にしてマイナス二十度まで急降下したかのような錯覚。
響き渡ったのは、流暢で冷徹な、完璧なバリトンボイスだった。
入室してきた男の姿を認めた瞬間、貴之の顔から、わずかに残っていた血の気がサーッと引いていった。
リチャード・神崎。
ウォール街の巨大投資銀行『ベーカー&スターンズ』アジア統括マネージングディレクター。
身に纏っているのは、ロンドンの名門テーラーで仕立てられた、針の狂いもない漆黒のスリーピーススーツ。
だが――
三ヶ月前、六本木の会員制バーで貴之を極上のシャンパンで歓待し、甘美な賛辞を囁いていた「洗練されたジェントルマン」の面影は、そこには一片たりとも残っていなかった。
撫で付けられた黒髪の下、琥珀色の瞳は、爬虫類のように冷たく、獲物の喉笛を切り裂く瞬間を値踏みする捕食者の光をギラギラと宿していた。
その背後には、寸分の狂いもない足取りで、黒いブリーフケースを手にした三人の大柄な外国人弁護士――ニューヨーク州弁護士資格を持つ、国際債権回収の冷酷なスペシャリストたちが、死神の従者のように無言で控えていた。
「か……神崎、さん……!?」
貴之は椅子から立ち上がろうとしたが、腰が抜け、ドサリと座面に尻餅をついた。
「ど、どうしてここに……! アポイントは午後三時からのはずでは……!」
神崎は貴之の狼狽など意にも介さず、大股で歩み寄ってきた。
カツ、カツ、カツ。
硬質な革靴の足音が、死刑台の階段を登る足音のように、静まり返った役員会議室に響き渡る。
神崎はオーバルテーブルの最前列、貴之の正面の席に立つと、椅子を引くことすらなく、冷ややかな眼差しで貴之を見下ろした。
「アポイント? 債務者の勝手なタイムスケジュールに、債権者が合わせる義務などあるとお思いですか?」
神崎の唇が、嘲弄の形に歪む。
「モニターの数字を拝見しましたよ、鳴神社長。……第一四半期実績、一億二千万円。計画比2・4%。……実に素晴らしい。ウォール街の三文喜劇ですら、ここまで無様な数字にはお目にかかれませんよ」
「あ、あの、神崎さん!」
貴之はすがりつくように身を乗り出し、両手を震わせた。
「違うんです! これは一時的なシステムトラブルと、現場の営業マンの引き継ぎ不足が重なっただけでして! 次の四半期には、必ず挽回します! 俺のAIビジネスの将来性は、神崎さんも絶賛してくださったじゃないですか! ですから、ペナルティの適用を少しだけ猶予して――」
「神崎さぁん♡」
空気を読めない瑠璃華が、すがるような甘えた声を出して立ち上がった。
「ひどいですぅ、そんな怖い顔しないでくださいよぉ! 私たち、六本木でおいしいシャンパン飲んだ仲じゃないですかぁ! ちょっと数字が遅れたくらいで意地悪言わないで、優しく相談に乗ってくださいよぉ〜」
瑠璃華が猫撫で声で神崎の腕に手を伸ばそうとした、その瞬間だった。
ピシャッ!!
「触るな、三流の泥人形が」
神崎は手にした黒いレザートレイで、瑠璃華の伸ばされた手を躊躇なく払いのけた。
乾いた鋭い打擲音。
瑠璃華は「痛っ……!」と短く悲鳴を上げ、後ずさって椅子に倒れ込んだ。
神崎は瑠璃華を一瞥することすらなく、ポケットから純白のシルクチーフを取り出すと、彼女の手がかすめたスーツの袖口を、汚物でも払うように冷淡に拭い去った。
「誰がいつ、貴様らのような無能な家畜と『友達』になったと言った?」
絶対零度の声音。
先ほどまでの甘美な微笑みは完全に剥ぎ取られ、剥き出しの牙が、貴之と瑠璃華の頸動脈へと突きつけられた。
「神崎……さん……?」
貴之の瞳孔が開き、ガチガチと歯の根が合わなくなる。
神崎は背後の弁護士に短く顎をしゃくった。
最前列の弁護士が、ブリーフケースから一通の極めて分厚い法的通知書を取り出し、テーブルの上へと滑らせた。
バシィィンッ!
大理石の天板に叩きつけられたその書類の表題には、赤黒い太字で、冷酷な法的文言が刻印されていた。
『期限の利益喪失通知書、ならびに包括的担保権実行予告通知書』
「鳴神貴之社長」
神崎は腕を組み、冷酷無比に宣告した。
「貴社と我がベーカー&スターンズとの間で締結されたメザニンローン契約書、第七十二ページ・第十四条第二項(財務制限条項)。……『第一四半期における売上高実績が計画値の七〇%を下回った場合、債権者は何らの通知・催告を要せず、直ちに融資の期限の利益を喪失させることができる』」
神崎の琥珀色の瞳が、冷たく細められる。
「売上達成率、わずか2・4%。……弁解の余地のない、明白かつ重大な債務不履行です。よって、我が社は本日、ただ今この瞬間をもって、貴社に対するメザニンローンの期限の利益を完全に喪失させます」
「ひっ……!」
貴之の喉から、みっともない引き攣った息が漏れた。
「ついては」
神崎はテーブルの上の通知書を、指先でコンコンと叩いた。
「契約書付属別紙Dに基づき、調印日に遡及して年利一八%のペナルティ遅延損害金利を適用した融資元利金――合計【百五十億円】の一括即時返済を要求します」
「ひ……ひゃく、ごじゅう……おく……!?」
「期日は、今週末金曜日の午後三時必着です」
百五十億円。
今週末。
三日後。
あまりにも理不尽で、あまりにも絶望的な数字と期限。
上場企業であっても、三日間で百五十億円の現金を無担保で調達することなど、天地がひっくり返っても不可能だった。
大東京フィナンシャルからの融資枠は凍結され、市中銀行も一斉に手を引いている今の鳴神物産に、そんな天文学的なキャッシュを用意できる当てなど、地球上のどこを探しても存在しなかった。
「ま……待ってください! 待ってください神崎さん!!」
貴之は椅子から転がり落ち、テーブルに両手をついて這いつくばった。
額をテーブルの端に擦り付け、涙と鼻水を垂らしながら見苦しく懇願する。
「百五十億なんて、今すぐ払えるわけがない! そんなの分かってるでしょう!? どうか猶予を……! あと半年、いや三ヶ月待ってください! 金利ならいくらでも上乗せします! 親父の遺産を売ってでも払いますから、どうか、どうか返済期限を延ばしてください!!」
かつて鳴神剛造の息子として、創業家のプリンスとして傲慢に振る舞い、佳乃を「代わりなどいくらでもいる」と足蹴にして追い出した男が、今、外資の金融ブローカーの足元で、ただの哀れな物乞いのように命乞いをしていた。
その見苦しい醜態を、神崎はゴミ箱の底を見るような冷徹な眼差しで見下ろした。
「猶予? なぜ私が、貴様のような無能に猶予を与えねばならない?」
神崎の唇が、酷薄な三日月を描く。
「ビジネスにおいて、何よりも尊いのは『契約』だ。……三ヶ月前、自らの手でサインと社印を叩きつけたのは、鳴神社長、あなた自身ですよ? 『一流のグローバルリーダーとして決断を下す』と、自慢げにペンを走らせたのは、他ならぬあなただ」
「っ……あ……あ……!」
「今週末金曜日の午後三時までに、指定口座への百五十億円の全額着金が確認できない場合――」
神崎は身を屈め、床に這いつくばる貴之の耳元へと、死刑台の刃を落とすかのように囁いた。
「契約書第十六条に基づき、我が社は即座に包括的担保権を実行します。……中央区銀座一等地にある貴社の【本社ビル敷地および建物の一切】、ならびに貴社の優良子会社【ナルカミ・ロジスティクス株式会社の全株式】を、法的手続きを待つことなく即座に接収し、海外市場で競売にかけます」
「な……ッ!!」
「本社を追い出され、物流網を奪われ、巨額の負債だけを背負った抜け殻の会社で、せいぜいスマートなAI経営とやらを続けるがいい。……それでは、金曜日の午後三時に、着金確認の通知をお待ちしておりますよ」
神崎は冷笑を浮かべ、踵を返した。
三人の外国人弁護士を従え、漆黒のスリーピースを翻して、静かに会議室を出ていく。
バタンッ。
重厚な扉が完全に閉ざされた瞬間。
大会議室の中には、ただエアコンの無機質な唸り声と、床に突っ伏した貴之の浅く激しい過呼吸の音だけが、虚しく反響していた。
終わったのだ。
自らの虚栄心と無知によって招き寄せた、完全なる死刑宣告。
残り時間は、わずか七十二時間。
鳴神物産という創業七十年の巨艦は、今まさに、暗黒の深海へと真っ逆さまに沈没しようとしていた。




