第27話:救い出し
翌朝、午前九時。
秋晴れの澄んだ青空とは対照的に、鳴神物産本社ビル最上階・新社長室には、朝一番から耳障りな怒号が響き渡っていた。
「おい、どういうことだ! 瀬尾のやつ、定刻を過ぎても出社してこないとは何のつもりだ! 昨日の税関への始末書はどうなったんだ!!」
鳴神貴之は、ネクタイを乱暴に緩めながら社長室のデスクを拳で叩いた。
昨夜、六本木でリチャード・神崎と祝杯を挙げ、二日酔いの重い頭を引きずって登社した貴之を待っていたのは、未処理のまま放置された書類の山と、鳴り止まない外為法関連のクレーム電話だった。
いつもなら、貴之が出社する三十分前にはデスクの上に湯気を立てるコーヒーが置かれ、その日のスケジュール表と優先対応すべき案件メモが完璧に整頓されていたはずだった。
だが今、デスクの上にあるのは、昨日散らかしたままの書類の残骸と、埃をかぶった空のカップだけだ。
「もぉ〜、本当にあり得ないですよねぇ〜」
ソファで高級ハンドクリームを両手に塗り拡げながら、江藤瑠璃華がこれ見よがしに唇を尖らせる。
「無断欠勤ですよ、無断欠勤! 昨日あんなに貴之社長に怒られたのに、反省するどころかサボるなんて、社会人として終わってますぅ! あんな使えないアシスタント、今日付で懲戒解雇にしちゃいましょうよぉ」
「当たり前だ! 損害賠償請求の裁判を起こして、一生かかっても返しきれない借金を背負わせてやる!」
貴之が息巻いた、まさにその時だった。
トントン。
控えめなノックとともに、総務課の男性社員が、まるで爆弾でも抱えているかのように両手を震わせながら社長室へ入ってきた。
「しゃ、社長……郵便局から、バイク便の書留……いえ、配達証明付きの『内容証明郵便』が、社長宛てに届きまして……」
「ああん? 内容証明だと? どうせ港湾倉庫の会社か、下請けメーカーの督促だろ。適当に法務に回しとけ!」
「そ、それが……差出人のお名前が……総務秘書課の、瀬尾千夏さんなんです……」
「……はあ!?」
貴之は耳を疑った。
「瀬尾だあ!? あの平の雑魚アシスタントが、俺に内容証明だと!? 寄越せ!」
引ったくるようにして受け取った、日本郵便の厳重な封筒。
封を乱暴に引き裂き、中から取り出した数枚の複写紙に視線を落とした瞬間――貴之の表情が、怒りから凍りついたような驚愕へと凍結した。
最上段に刻まれていたのは、法的な効力を持つ厳格な表題だった。
『通知書(即時雇用契約解除通知、ならびに未払い割増賃金等請求書)』
貴之の視線が、文字の上を滑る。
『通知人(瀬尾千夏)は、貴社代表取締役・鳴神貴之氏、ならびに社長室長・江藤瑠璃華氏から継続的に行われてきた、労働基準法違反の違法な長時間労働の強制、ならびに人格を否定する度重なるパワーハラスメントにより、心身の健康を著しく害し、就労の継続が不可能な状態に追い込まれました。
よって、民法第六百二十八条(やむを得ない事由による雇用の解除)に基づき、本日付をもって貴社との雇用契約を【即時解除】いたします。
あわせて、過去一年間にわたり不当に未払いとされている時間外労働割増賃金、深夜労働割増賃金、ならびに労働基準法第百十四条に基づく付加金、および不法行為(民法第七百九条)に基づく精神的苦痛に対する慰謝料として、金五百八十万円の即時支払いを請求いたします』
「な……な、なんだこれは……ッ!?」
貴之の指先が、ガタガタと震え出した。
即時退職? 未払い残業代? 慰謝料請求?
昨日の今日で、あのおとなしい千夏が、なぜこれほど完璧な法的手続きを仕掛けてこられるのか。
だが、貴之の心臓を真底から鷲掴みにしたのは、書類の末尾に記された【代理人弁護士】の署名と職印だった。
『通知人代理人:弁護士 真鍋 苑子(第一東京弁護士会所属・ニューヨーク州弁護士)
タカツカサ・キャピタル パートナー兼法務・コンプライアンス統括副社長』
「ま……真鍋、苑子……ッ!? タカツカサの、法務トップ……!?」
貴之の喉から、ヒッと引き攣った悲鳴が漏れた。
なぜ、敵対するメガファンドの最高法務責任者が、うちの一平社員の代理人についているのか。
混乱と逆上の中で、貴之はポケットから私用のスマートフォンを引ったくり、千夏の携帯電話番号へと猛烈な勢いで発信ボタンを叩きつけた。
「ふざけるな……! 調子に乗りやがって! 誰に口を利いてるのか分からせてやる!!」
プルルル――とコール音が鳴るはずだった。
だが、スピーカーから流れてきたのは、機械的な無機質の音声ガイダンスだった。
『――ツーツーツー……おかけになった電話番号は、お客様のご都合によりおつなぎできません』
「着信拒否……!? あいつ、俺の番号を着信拒否しやがったのか!?」
コール音すら鳴らない。
一切の言い訳も、怒号も、脅迫も届かない壁の向こうへ、千夏は完全に逃げ切っていた。
貴之はスマートフォンを床へと叩きつけ、激昂の叫びを上げた。
「瀬尾ぉぉぉぉぉッ!! 絶対に許さんぞ!!」
◇
同じ時刻、午前九時十五分。
東京都港区芝五丁目、三田労働基準監督署。
正面玄関のガラス扉を押し開けて入ってきた二人の女性の姿に、受付の職員たちが思わず視線を奪われた。
一人は、仕立ての良い黒のスリーピーススーツを纏い、胸元に金色の弁護士バッジを煌めかせた、研ぎ澄まされた美貌の女性――真鍋苑子。
そしてその隣には、昨夜のパレスホテルで十分な睡眠を取り、清潔なネイビーのスーツに身を包んだ瀬尾千夏が立っていた。
千夏の顔からは、昨夜までの怯えと過呼吸の痕跡は完全に払拭されていた。
その両腕には、昨夜から今朝にかけて保全した、鳴神物産の労務不正を示す膨大な物的証拠のファイルが、ずっしりと抱えられていた。
「予約していた弁護士の真鍋です。方面監督官の席へ通していただけますか」
苑子の低く澄んだ声に、窓口の職員が慌てて立ち上がり、奥の特別相談室へと案内した。
相談室の重厚な机を挟んで対面したのは、ベテランの労働基準監督官だった。
「タカツカサ・キャピタルの真鍋先生が直接お見えになるとは……。一体、どのようなご用件でしょうか」
「単刀直入に申し上げます」
苑子は名刺を差し出すと、千夏に合図を送った。
千夏は深く一礼し、抱えていたファイルを机の上へと整然と広げた。
「上場企業・鳴神物産株式会社における、組織的かつ常習的な労働基準法違反、ならびに代表取締役・鳴神貴之氏による重大な安全配慮義務違反事案の申告です。監督官、こちらをご覧ください」
千夏が提示したのは、苑子の指導の下で完璧に保全された、動かぬ証拠の数々だった。
「第一に、客観的な在館ログです。鳴神物産本社ビルの入退館セキュリティゲートの電磁的記録を、ビル管理会社のシステムから直接照会したログ一式です。通知人である瀬尾千夏の直近三ヶ月の平均時間外労働時間は、月百四十二時間。いわゆる『過労死ライン』を大幅に超過しております」
苑子が指先でログシートの時間をなぞる。
「しかし、会社側のタイムカードシステム上では、全日において午後七時で一律に打刻され、残業時間はゼロとして改ざん処理されています。管理権限者による組織的なログ改ざんの証跡も、社内サーバーの管理者履歴から完全に抽出してあります」
「……これは、酷いな」
監督官の表情が、急速に険しいものへと変わる。
千夏は続けて、二つ目のファイルを差し出した。
「第二に、業務実態を示すPCのアクセスログ、ならびに深夜に送受信された業務命令メールのタイムスタンプです。昨日も、外為法の輸出管理申請の遅延を理由に、深夜まで資料作成を強制されておりました」
そして――千夏は胸ポケットから、あの超小型ボイスレコーダーを取り出した。
「最後に……昨日、鳴神貴之代表取締役、ならびに江藤瑠璃華社長室長から直接浴びせられた、暴言の全容を記録した音声データです」
カチリ。
千夏が再生ボタンを押す。
静かな相談室に、貴之の濁った怒号と、机を叩きつける凄まじい衝撃音が、鮮明な高音質で響き渡った。
『――お前みたいな使えない無能は、今日で即刻クビだ!! 二十億円の損害賠償を請求されたくなければ、土下座して通関させてこい!!』
『――額から血が出るまで床に頭を擦り付けて、泣きついてこい!! できなければ、お前の一族郎党、路頭に迷わせてやるからな!!』
続いて流れる、瑠璃華の甘ったるく、悪意に満ちた責任転嫁の音声。
『――ひどぉい! 全部千夏ちゃんのせいです〜〜! 彼女がサボってたんですよぉ!』
静寂が、部屋を支配した。
監督官の眉間には、もはや隠しようもない激しい憤りが浮かんでいた。
拳を強く握りしめ、ボイスレコーダーを見つめる。
「……監督官。これだけの証拠が揃っていれば、もはや行政指導(是正勧告)のレベルに留まる事案ではないことは、明白ですね」
苑子の瞳が、剃刀のように鋭く光った。
「悪質極まりない強制労働、ならびに脅迫罪・名誉毀損罪に該当する明らかな刑事事案です。我がタカツカサ弁護団は、すでに東京地検への刑事告訴状の起案も完了させております。労働基準監督署として、即時の立ち入り臨検、ならびに強制捜査に入っていただけますね?」
「……承知いたしました、真鍋先生」
監督官は力強く頷き、机の上の資料を一括して引き寄せた。
「これほどの客観的証拠が揃っている以上、一刻の猶予もありません。直ちに署内で臨検隊を編成し、鳴神物産本社への事前通告なしの立ち入り調査(臨検)の手続きに入ります」
カチリ、と法の歯車が噛み合った。
鳴神物産の頭上に、労働基準法という国家権力の鉄槌が、音もなく振り下ろされようとしていた。
監督署の階段を降りた外の通りで、千夏は立ち止まり、深く息を吸い込んだ。
胸を締め付けていたあの息苦しさは、完全に消え去っていた。
秋の冷たい風が、驚くほど心地よく頬を撫でていく。
「……お疲れ様、千夏さん」
苑子がプラチナの眼鏡を外し、柔らかな笑みを浮かべて千夏の肩をポンと叩いた。
「見事だったわ。あなたの勇気が、あの腐った組織の心臓を射抜いたのよ。……さあ、行きましょう。新しい職場が、あなたを待っているわ」
「はい……! 真鍋先生、ありがとうございました!」
千夏は満面の笑みで、力強く頷いた。
◇
午後一時三十分。
港区赤坂の超高層タワー、タカツカサ・キャピタルの最上階エグゼクティブフロア。
ガラス張りのエントランスをくぐり抜けた千夏は、あまりの空間の洗練と静けさに、思わず息を呑んでいた。
足音を完全に吸い込むダークグレーのウールカーペット、整然と並ぶ最新のマーケットモニター、そして無駄な怒号や電話のベルが一切鳴り響かない、研ぎ澄まされたプロフェッショナルたちの世界。
鳴神物産のあの混沌と暴力が渦巻くオフィスとは、まるで天国と地獄ほどの隔絶があった。
「こちらへどうぞ、瀬尾様」
受付のコンシェルジュに案内され、人事執務室のドアが開かれた。
部屋の中央、パノラマガラスから差し込む午後の柔らかな光を背に受けて立っていたのは――
首筋を白くすっきりと見せる洗練された前下がりボブに、チャコールグレーのオーダーメイドスーツを完璧に着こなした、槇野佳乃だった。
「……佳乃、先輩」
千夏の声が、震えた。
「千夏さん」
佳乃は机から離れ、穏やかな、慈愛に満ちた微笑みを浮かべて千夏の元へと歩み寄ってきた。
そして――
迷うことなく、千夏の細い身体を、自らの両腕で優しく、しっかりと抱きしめたのだ。
「っ……!」
佳乃のスーツから漂う、上質な白檀と微かな珈琲の香り。
そして、何よりも温かな先輩の体温が、千夏の全身を包み込む。
「よく頑張りましたね、千夏さん。……もう、理不尽に怯える必要はありません。誰にも怒鳴られず、誰の身代わりにされることもない。ここは、あなたの誠実さと努力が、正当に報われる場所です」
「佳乃さん……っ! うぅ……っ、佳乃さん……!!」
千夏は佳乃の胸元に顔を埋め、再び涙を溢れさせた。
昨夜の絶望の涙ではない。
地獄から救い出され、失いかけていた尊厳を取り戻したことに対する、歓喜と救済の涙だった。
佳乃は千夏の背中を優しく撫でながら、彼女の流した涙をすべて受け止めていた。
やがて涙を拭った千夏を、佳乃はソファーへと優しく導いた。
テーブルの上には、金箔押しのエンブレムが刻印されたネイビーのバインダー――タカツカサ・キャピタルの正規雇用契約書が置かれていた。
「千夏さん。我が社の条件です。目を通してください」
佳乃に促され、千夏は震える手でバインダーを開いた。
そこに記されていた条項を見た瞬間、千夏の大きな瞳が、零れ落ちそうなほど見開かれた。
【役職】:シニア・アシスタント(シニア・エグゼクティブ・オフィサー直属特命補佐)
【報酬】:基本年俸八百万円(前職の二・五倍/賞与・インセンティブ別)
【勤務形態】:完全週休二日制(土日祝)、フレックスタイム制、所定外労働に対する一分単位での完全割増賃金支給
【福利厚生】:社宅家賃補助(月額十五万円上限)、自己研鑽・資格取得支援費用の全額補助、年次有給休暇二十日付与(入社日付与)
「は……八百万円……!? 前職の、二・五倍……!?」
千夏は絶句し、何度も契約書の数字を指で数え直した。
「佳乃さん……これ、何かの間違いじゃありませんか!? 私、資格もMBAも持っていない、ただの商社のアシスタントですよ!? こんな大金をいただけるような仕事なんて……」
「間違いではありません」
部屋の扉が開き、低く、威厳に満ちた滑らかなバリトンボイスが響いた。
入室してきたのは、タカツカサ・キャピタル代表取締役CEO――鷹司誠一郎だった。
完璧なスリーピースを纏い、彫刻のような端正な顔立ちに、知的な光を湛えた切れ長の瞳。
その背後には、COOの梶原康平、そして法務統括の真鍋苑子が従っていた。
「た、鷹司……代表……!」
千夏が慌てて立ち上がろうとするのを、誠一郎は静かに手で制した。
「座ったままでいい、瀬尾千夏」
誠一郎はテーブルの対面へと腰を下ろすと、冷徹な、だが一切の侮蔑を含まぬ真摯な眼差しで千夏を見据えた。
「我が社は、数字に表れない現場の真の価値に対して、適正な対価を支払うファンドだ。君が鳴神物産の崩壊の中で保全してくれた労務不正の証拠、そして社内サーバーのアクセスログ……それらが我が社にもたらす戦略的価値は、八百万円などという端た金では到底計り知れない」
誠一郎の口元に、冷徹な笑みが浮かぶ。
「君が労基署に放り込んでくれた爆弾によって、鳴神物産のガバナンスは公的に完全崩壊した。市場の信用は失墜し、株価はさらに急降下する。……我が社が仕掛ける敵対的TOBにおいて、これ以上ない強力な援護射撃だ。八百万円は、君の勇気と知性に対する、正当な初任報酬だ」
「誠一郎の言う通りだぜ、千夏ちゃん!」
梶原が豪快に笑いながら、千夏の肩をポンと叩いた。
「真鍋から話は聞いたぜ。あのクソボケ新社長の怒号を、胸ポケットのレコーダーで完璧に録音して持ってきたんだろ? 度胸満点じゃねえか! 数字の分析も、佳乃さんの仕込みを受け継いでるってんなら、ウチのポンコツなジュニアアナリスト共よりよっぽど頼りになるぜ!」
「法務の観点からも、あなたの身分は我が社が完全に保障するわ」
苑子もプラチナの眼鏡を直しながら、微笑みかけた。
「鳴神物産がもしあなたに対して嫌がらせの損害賠償訴訟などを起こしてきたら、我が社の弁護団総出で受けて立ってあげる。逆に名誉毀損と不当訴訟で徹底的に締め上げて、貴之社長個人のポケットマネーから億単位の賠償金を毟り取ってあげるから、安心して働きなさい」
日本最高峰のプロフェッショナルたちからの、温かく、力強い承認。
千夏の胸の奥底に、熱い誇りと勇気が満ち溢れていく。
千夏はバインダーの署名欄へ視線を落とした。
佳乃から手渡された万年筆を握り締める。
震える指先で、だが一文字一文字、自らの誇りを取り戻すように名前を刻み込んだ。
『瀬尾 千夏』
調印が完了した瞬間、佳乃が優しく千夏の手を握った。
「ようこそ、タカツカサ・キャピタルへ。……千夏さん、これから私の右腕として、大暴れしてくださいね」
「はい……! 佳乃さん、誠心誠意、お仕えいたします!!」
千夏の合流により、タカツカサの陣営には、鳴神物産の内部実態――粉飾寸前の資金繰り、隠蔽された労務トラブル、そして社内サーバーの機密ログを隅々まで熟知した、最強のインサイダー・パートナーが加わった。
外堀は、完全に埋め立てられた。
リチャード・神崎が仕掛けた悪魔のメザニンローンが牙を剥く、第一四半期決算の日――
鳴神物産を完全に葬り去るための破滅の舞台装置が、寸分の狂いもなく、完璧に整えられたのだった。




