第26話:歪な組織の末路
午後二時。
本来であれば、最も活気にあふれているはずの鳴神物産本社ビル三十四階のオフィスには、まるで葬儀の直後のような重苦しく湿った沈黙と、壊れた機械が軋むような不穏な環境音が充満していた。
カタタッ、ターン……ッ。
ガタッ、バサバサ……。
誰一人として、顔を上げて挨拶を交わす者はいない。
すれ違う社員たちの瞳孔は開き、目の下には隈が幾重にも焼き付いている。
フロアの壁際に並ぶサイドボードの上には、承認印が押されないまま放置された『緊急伺い』『至急稟議』の朱色の付箋が貼られた書類ファイルが、膝の高さはおろか、大人の腰の高さまで幾重にも塔のように乱立していた。
社内イントラネットの電子稟議システムを開けば、画面には百件以上の未承認アラートが真っ赤に点滅している。
だが、その決裁権限を持つべき社長室長・江藤瑠璃華は、電子システムのパスワードすら「長くて覚えるのが面倒だから」と放置し、紙の稟議書も「字が小さくて頭が痛くなる」と私用デスクの引き出しの奥に突っ込んだままにしていた。
槇野佳乃がこの会社から理不尽に放逐されてから、早くも一ヶ月の月日が流れていた。
そのわずか三十日の間に、七十年の伝統を誇った名門商社の管理統制は、修復不可能なレベルまで徹底的に瓦解していた。
日常業務の麻痺は、もはや喜劇を通り越して企業の自殺行為の領域に達していた。
重要会議のダブルブッキングなど、今や日常茶飯事だった。
先週も、関西の有力地方銀行の頭取一行と、中東の国営エネルギー企業の特命全権大使を、同じ日の同じ午後三時に、しかも同じ特別応接室に招き入れるという前代未聞の失態をやらかした。
現場のアシスタントが青ざめて貴之に確認を求めても、「どっちも大事な客だから、大部屋で一緒に座らせて俺が同時に相手すりゃいいだろ」と、ビジネスのプロトコルを完全に無視した暴挙に出て、激怒した頭取一行が即座に席を立って融資の引き揚げを通告する事態に発展したばかりだった。
来訪した大口顧客を、受付やロビーで一時間以上放置する不祥事も頻発していた。
瑠璃華が「六本木のサロンにいるから、三十分遅れますぅ〜」と私用連絡を入れ、そのまま貴之と連絡がつかなくなり、待たされた上場企業の専務取締役が激怒して契約解除を叩きつける。
社外への機密情報の誤送信も連日のように発生していた。
他社の見積書を競合他社へ一斉同報メールで誤送信し、取引先からコンプライアンス違反の抗議文が内容証明で届く。
総務部と法務部には、朝九時から夜九時まで、取引先、金融機関、官公庁からの抗議とクレームの電話が怒濤のように鳴り止まなかった。
「……もう、限界だよ」
「今月の残業時間、百四十時間を超えたぞ……。タイムカードは定時で切られてるのに」
「給料明細見たら、残業手当がゼロだった。労基に駆け込みたいけど、社長に知られたら懲戒免職にするって脅されてるし……」
地下の社員食堂の片隅で、俯きながら冷めた定食を突く若手社員たちの口から漏れるのは、会社への絶望と、肉体的な悲鳴ばかりだった。
かつて「鳴神物産の社員であること」を誇りとし、胸を張って丸の内のオフィス街を歩いていたエリートたちの姿は、そこにはもうどこにもなかった。
あるのは、沈みゆく泥舟の底で、逃げ出す気力すら奪われた囚人たちの澱んだ吐息だけだった。
◇
そして――午後二時十五分。
その歪み切った組織の病理が、最悪の爆発を見せたのは、最上階の新社長室だった。
ガッシャアアアアアンッ!!
耳を劈くような陶器の破砕音が、白革のソファで彩られた悪趣味な部屋に響き渡った。
イタリア製の重厚な灰皿が、大理石の床に激突して粉々に砕け散り、吸い殻と灰が撒き散らされる。
「ふざけるなッ!! おい、どういうことだッ! 説明しろ、瀬尾!!」
怒号を撒き散らし、肩で息を荒らげているのは、新社長・鳴神貴之だった。
特注のライトグレーのスーツは乱れ、充血した目を剥き出しにして、執務デスクの上に山積みされていた書類の束を片っ端から床へ薙ぎ払っていた。
バサバサバサッと紙の束が宙を舞い、床に散らばる。
「なぜ、今月の輸出管理申請が通っていないんだッ!? 横浜税関からさっき直接電話があったぞ! 『御社の貨物は外為法に基づく包括許可の期限が先週末で切れているため、本日の通関手続きは一切受け付けられない』だと!? ドイツとアメリカ向けの半導体製造装置用特殊バルブ、合計二十億円相当の貨物が、埠頭のコンテナヤードで完全に差し押さえられてるんだぞ!!」
貴之の唾が、床に平伏している瀬尾千夏の頭上に容赦なく降り注いだ。
千夏は、ボロボロの制服のスカートに両手をつき、青ざめた顔で床を見つめていた。
この一ヶ月、睡眠時間を削り、一人でフロア中の尻拭いを背負わされてきた千夏の身体は、風が吹けば吹き飛んでしまいそうなほど細くやつれていた。
だが、その瞳の奥には、怯えとは異なる、冷徹で研ぎ澄まされた光が静かに宿っていた。
「……社長。輸出管理申請につきましては……」
千夏は震える声を抑え、正確な事実を告げた。
「外為法(外国為替及び外国貿易法)に基づく経済産業省への『一般包括輸出許可』の更新申請は、有効期限の三ヶ月前から準備を進め、所定の社内コンプライアンス審査調書に代表取締役の承認印をいただいた上で、先月末までに経産省安全保障貿易管理課へ必着で提出しなければならない規程になっております」
「ああん!? 規程だあ!?」
貴之は耳元をほじるように指を動かし、嘲笑を浮かべた。
「そんな細かいお役所仕事のルールなんて知るか! お前が秘書室のアシスタントなら、期限が切れる前に勝手に書類を作って役所へ持っていけば済む話だろ! なんで提出してねえんだって聞いてんだよ!!」
「提出できなかったのは……」
千夏は視線を上げ、貴之のすぐ隣――白革のソファに座り、怯えたふりをしてわざとらしく口元を押さえている江藤瑠璃華を、真っ直ぐに凝視した。
「……江藤室長が、申請書に必要な【社長印】を、私用バッグに入れたまま紛失されたからです」
「えぇ〜〜〜っ!? 何言ってるのよ、千夏ちゃん!!」
キーッという甲高い悲鳴を上げ、瑠璃華が立ち上がった。
胸元が大きく開いたフリルワンピースの裾を揺らし、派手なラインストーンのネイルを千夏の鼻先へと突きつける。
「ひどぉい! 全部千夏ちゃんのせいです〜〜! 貴之さん、聞いてくださいよぉ! 私、先週から何度も千夏ちゃんに『経産省の申請書、早く出してね』って優しく言ってあげてたんですよぉ! それなのに、彼女が『今忙しいから無理です』ってサボってたんですよぉ!」
息を吐くように飛び出す、完璧な虚偽。
瑠璃華はわざとらしく目に涙を浮かべ、貴之の腕にしがみついた。
「社長印だって、先週、銀座の宝石店で外商の人と商談した時に、領収書に押すために私がちょっとお借りしただけじゃないですかぁ! その後、ちゃんと秘書室のキャビネットに戻しておいてねって千夏ちゃんに渡したのに、千夏ちゃんがどこかに置き忘れたんじゃないですかぁ! 自分の不手際を私のせいにするなんて、性格悪すぎますぅ〜〜!」
「な……ッ!」
千夏は唇を噛み締めた。
嘘八百だった。
先週、瑠璃華が私用の宝石購入のために会社の社長印を持ち出し、そのまま私用のエルメスのバーキンの中に放り込んで行方不明にしたのだ。
千夏が「社長印がなければ、外為法の申請書に押印できません! 至急探してください!」と何度も懇願したにもかかわらず、瑠璃華は「私、今からエステだからぁ〜。千夏ちゃんが私の部屋行って勝手に探してよ」と鍵すら渡さずに放置した。
結局、社長印が見つかったのは昨日の夕方、瑠璃華のデスクの足元に転がっていたゴミ箱の底からだった。
その時にはすでに、経産省の申請窓口の受付時間は過ぎ去り、包括許可の期限は切れていたのだ。
かつて――槇野佳乃が在職していた頃。
こうした国の安全保障貿易管理に関わる極めてセンシティブな許認可申請は、佳乃の『門外不出の管理台帳』に基づき、期限の三ヶ月前から機械的にアラートが鳴る仕組みが整えられていた。
経産省の担当官の異動情報、過去の審査で突っ込まれた該非判定書の記載傾向、さらには税関の検査スケジュールに至るまで、佳乃は完璧に先回りして根回しを完了させ、先代会長の押印を期限の二ヶ月前には確実に受領していたのだ。
だからこそ、鳴神物産の貨物が港湾や空港で止められることなど、過去七年間、ただの一度たりとも起きたことがなかった。
だが、その佳乃の手帳を「昭和の紙ゴミ」と嘲笑い、シュレッダーに放り込んだのが、目の前にいるこの無知な愛人なのだ。
外為法の包括許可という概念すら知らず、「紙一枚出すだけでしょ」とタカをくくっていたツケが、二十億円の貨物差し押さえという国家レベルの事故となって跳ね返ってきたのだ。
「おい、瀬尾……」
貴之の低い、濁った声が頭上から降ってきた。
貴之はデスクの脇にあった、厚さ十センチを超える未処理書類の束を両手で持ち上げると――
バシィィィィンッッ!!
千夏のすぐ真横、スチール製のサイドテーブルの天板へと、渾身の力で叩きつけた。
凄まじい轟音。金属が歪む音とともに、紙の破片が千夏の頬を鋭くかすめ、パラパラと床に散らばった。
「瑠璃華の言う通りじゃないか!! お前がトロトロサボっていたから、うちの二十億の貨物が税関で止まったんだろ!!」
貴之は千夏の襟首を掴まんばかりに顔を近づけ、目を血走らせて叫んだ。
口から飛ぶ唾が、千夏の額にかかる。
「お前みたいな使えない無能は、今日で即刻クビだ!! 懲戒解雇だ!! 二十億円の損害賠償を請求されたくなければ、今すぐ横浜税関へ行って、担当官の足元に土下座してでも今夜中に通関させてこい!! 額から血が出るまで床に頭を擦り付けて、『私が無能なせいで遅れました、通してください』って泣きついてこい!! できなければ、お前の一族郎党、路頭に迷わせてやるからな!!」
理不尽の極み。
暴力的なまでの言葉の暴力。
一企業の代表取締役が、自らの無能と愛人の失態を隠蔽するために、二十三歳の女性社員を身代わりに仕立て上げ、人格を徹底的に踏みにじる。
その時だった。
「――そこまでにしてください、社長ッ!!」
ドタドタと足音を響かせ、社長室の開け放たれた扉から飛び込んできた男がいた。
専務取締役・安西源三郎だった。
息を乱し、スーツの胸元を抑えながら、安西は千夏と貴之の間に割って入るようにして立ちはだかった。
「安西……!? あんた、また勝手に入ってきやがって!」
貴之が苛立たしげに舌打ちをする。
安西は床に散らばった書類の束と、頬を赤く染めて俯く千夏の姿を一瞥し、激しい怒りに肩を震わせた。
「社長! 外為法の包括輸出許可の失効は、総務や秘書課の一アシスタントに責任を負わせるような問題ではありません! 法令遵守責任者である代表取締役、そして実務を統括すべき社長室長が、手続きを完全に放置していたことがすべての原因です! 瀬尾君は先週から、何度も押印を求めて社長室へ足を運んでいたのを、私自身が目撃しております!」
「ああん!? 安西、お前、また俺の瑠璃華を悪者にする気か!?」
貴之は目を吊り上げ、安西の胸倉を小突いた。
「専務は黙っていろ!! この会社の神は俺だ! 社長は俺なんだよ!! 誰をクビにし、誰に損害を弁償させるかは、俺の胸先三寸で決まるんだ!! 文句があるなら、お前も今すぐ専務の椅子から引きずり下ろしてやるぞ!!」
「社長ッ……!!」
安西の額に青筋が浮かび、拳が小刻みに震える。
もはや、この男に理性的な対話など一ミリも通用しない。
権力に酔い、愛人に操られ、破滅へと向かって暴走する狂気そのものだった。
「……申し訳ございませんでした」
その怒号の嵐を切り裂いて。
静かな、鈴を転がすような澄んだ声が、床の上から凛と響いた。
「……え?」
安西が息を呑んで見下ろす。
床に手をついていた瀬尾千夏が、ゆっくりと、寸分の乱れもない美しい所作で頭を下げていたのだ。
「鳴神社長、江藤室長。私の至らなさゆえに、多大なるご迷惑をおかけいたしましたこと、深くお詫び申し上げます。……本日の通関トラブルに関する調査資料、ならびに経緯報告書は、責任を持って今夕までに取りまとめさせていただきます」
「フン! 最初からそうやって殊勝に頭を下げりゃいいんだよ!」
貴之は鼻を鳴らし、勝ち誇ったようにソファへドカリと座り直した。
「おい瀬尾、分かったらさっさとその散らかった書類を片付けて出ていけ! 顔を見るだけで虫唾が走るわ!」
「失礼いたします」
千夏は静かに立ち上がり、床に散らばった書類を一枚ずつ、丁寧に揃えて抱え上げた。
その横顔には、先ほどまでの絶望や涙は、微塵も浮かんでいなかった。
安西専務とすれ違う瞬間――千夏は、安西に向かって、誰にも気づかれないほどのわずかな瞬きで、確固たる『合図』を送った。
(専務、大丈夫です。……もう、すべて終わります)
その力強い光を宿した瞳に、安西はハッと息を呑んだ。
千夏は社長室の扉を静かに閉め、役員フロアの静かな廊下へと出た。
そして、胸元の制服のベスト――名札のすぐ裏側、内ポケットの奥へと、そっと指先を滑らせた。
カチリ。
小さな、爪先ほどのボタンを押す。
取り出されたのは、最新型の超小型高音質ボイスレコーダーだった。
液晶画面に表示されていた録音時間は――『〇〇:二四:一五』。
貴之が「お前みたいな使えない無能はクビだ」「二十億の損害賠償を請求されたくなければ土下座してこい」「一族郎党路頭に迷わせてやる」と怒鳴り散らした罵倒の全音声。
そして、瑠璃華が「私がハンコを無くしたんじゃない、千夏ちゃんがサボってた」と責任転嫁を企てた生々しい虚偽の証言。
その一言一句、息遣いに至るまでのすべてが、最高音質のデジタルデータとして、完全無欠に記録されていた。
(……録れました、真鍋先生。佳乃さん)
千夏は胸の奥で、強く呟いた。
昨夜、パレスホテル東京のラウンジで授けられた、法務の武器。
感情で泣き寝入りするのではなく、相手を法的に完膚なきまでに叩き潰すための、絶対の物的証拠。
オフィスの入退館記録のログ、深夜残業を示すPCのアクセス履歴、理不尽な業務指示メールの全バックアップ――そして、今手に入れた決定的なパワハラの音声データ。
役員フロアの窓の外を見上げれば、秋の澄み切った青空が広がっていた。
千夏の唇に、かつてないほど誇らしく、冷徹な微笑みが浮かんだ。
――もう、我慢する時間は終わった。
明日、鳴神物産という腐敗した城の門を、自らの手で内側から粉々に爆破してやる。
反撃の狼煙は、静かに、だが確実に、処刑台の真下へと着火されたのだった。




