第25話:奪還の狼煙
西の空の果て、富士の稜線を鮮やかな朱に染め上げていた夕日が、ゆっくりと武蔵野の地平へと沈みゆく。
赤坂の超高層タワー四十八階、天井まで届く三面ガラス張りのCEO専用執務室には、黄昏時の濃密な紫紺と茜の残光が斜めに差し込んでいた。
昼間の喧騒から切り離された静謐な空間。だが、そこに漂う気圧は、大型台風の直撃を目前に控えた海面のように、重く、鋭く張り詰めていた。
窓際に立つ鷹司誠一郎の長身のシルエットが、夕暮れの街並みを背にして長く床に伸びている。
ジャケットを羽織り直し、ネクタイを完璧なディンプルで結び直した男は、両手をトラウザーズのポケットに滑り込ませたまま、眼下に広がる東京の摩天楼を見下ろしていた。
無数に点灯し始めたビルの灯火、首都高速を光の帯となって流れる車のテールランプ。
その光の海のただ中に、創業七十年の歴史を誇りながら、自らの愚かさによって処刑台へと転落しかけている鳴神物産の本社ビルが、静かに佇んでいた。
「……神崎の思惑通りには、一ミリたりとも動かさせん」
誠一郎の低く乾いた声が、静かな部屋に落ちた。
彼はゆっくりと踵を返し、執務室の中央に据えられたスモークドオークのテーブルへと歩み寄った。
そこには、タカツカサ・キャピタルの最高意思決定機関を構成する三人の精鋭――槇野佳乃、真鍋苑子、そして梶原康平が、寸分の狂いもない姿勢で着席していた。
誠一郎の切れ長の瞳が、獲物を狙う鷹のように研ぎ澄まされた光を放つ。
「リチャード・神崎が鳴神物産を窒息させ、本社ビルと物流子会社を毟り取って海外へ売り飛ばす前に――我々がすべてを飲み込む。鳴神物産に対する敵対的TOB(株式公開買付け)を仕掛ける」
――敵対的TOB。
資本市場における究極の宣戦布告。
標的企業の取締役会の賛同を得ず、市場の株主たちに対して直接、保有株式の買い取りを公に呼びかけて経営権を強奪する、資本主義における最も熾烈な全面戦争。
その言葉が総帥の唇から放たれた瞬間、室内の空気がバチバチと火花を散らすように帯電した。
「受けて立つわ。法的なスキームの青写真は、すでに組み上がっている」
口を開いたのは、法務統括の真鍋苑子だった。
プラチナフレームの眼鏡を指先で押し上げながら、苑子は手元のタブレットから三次元の企業統治ツリーをプロジェクターへと投影した。
「敵対的TOBを成立させるための最大の障壁は、創業家一族が固めている議決権株式よ。鳴神貴之本人、ならびにその親族が保有する株式比率は、全体の約三十二%。会社法上、単独で重要議案を拒否できる三分の一(三十三・四%)にはわずかに届かないけれど、極めて強固な岩盤ブロックよ。……これを崩すには、二正面作戦を展開する必要があるわ」
苑子は白く細い指先で、画面上の三つのブロックを指し示した。
「第一に、市場での隠密かつ電撃的な株式の買い集めよ。金融商品取引法が定める『五%ルール』――大量保有報告書の提出義務が発生する直前まで、複数のファンド口座を駆使して市場内で急速に買い進める。そしてTOBの公式発表と同時に、市場外での公開買付けを一気に開始するの。目標取得比率は、創業家を圧倒する【過半数(五十%超)】。これによって、株主総会における取締役の解任決議、ならびに新取締役の選任権限を完全に掌握する」
「神崎のメザニンローンに対する法的カウンターはどうする?」
梶原が腕を組み、鋭く問いかけた。
「奴が仕掛けたあの毒薬契約……売上未達を理由に本社ビルとナルカミ・ロジスティクスの株式を接収する担保権を、奴がTOBの途中で強制執行してきたら、いくら鳴神物産の親会社の株を握っても、肝心の心臓部が抜かれた空き殻を掴まされることになるぞ」
「当然、そこも先回りで塞ぐわ」
苑子の口元に、冷徹な法の番人としての不敵な笑みが浮かんだ。
「神崎が結ばせた契約書は、一見すると外資系の標準的な英文ファイナンス契約を装っているけれど、その実態は暴利行為であり、公序良俗に反する無効な契約(民法第九十条違反)よ。達成不可能な売上目標を意図的に設定して債務不履行を誘発させ、時価の半値以下で重要資産を収奪するスキームは、判例上、詐害行為および信義則違反として十分な抗弁が成り立つ」
苑子は鞄から、すでに起案を終えていた分厚い訴状の束を取り出し、テーブルの上へ置いた。
「東京地方裁判所民事第九部(保全部)に対し、担保権の実行停止を求める『仮処分命令の申立て』を電撃的に行う準備を進めているわ。さらに、佳乃さんが暴いてくれた神崎のアメリカやシンガポールでの過去のインサイダー取引と不正資金洗浄の証拠……これらを材料に、米SEC(証券取引委員会)と日本の証券取引等監視委員会(SESC)へ、一斉に告発状を突きつける。……神崎が担保権を行使しようと一歩でも踏み出せば、その瞬間に奴自身のブローカー生命が法的に爆破される仕掛けよ。奴に、鳴神の資産へ手を出させる隙は一秒たりとも与えない」
完璧だった。
日本最高峰の国際渉外弁護士が張り巡らせた、逃げ場のないリーガル包囲網。
神崎がいくら狡猾な金融ブローカーであろうとも、国家機関の捜査のメスと裁判所の仮処分を同時に突きつけられれば、身動きを取ることは不可能だった。
「法務の防壁は完璧だな。……だが、どれほど法理が美しくても、最後にモノを言うのは『弾薬の量』だ」
COOの梶原康平が、ニヤリと歯を見せて笑った。
彼は手元の大型電卓を指先で弾き、メインモニターに巨大な資金シミュレーションシートを展開した。
「現在の鳴神物産の株価は、連日の不祥事と港湾倉庫の混乱、大東京フィナンシャルの融資保留報道で暴落を続け、一株あたり千二百円。時価総額にして約千億円まで叩き落とされている。……ウチが敵対的TOBを仕掛けるとなれば、市場の浮動株や機関投資家を確実にこちらの陣営に引き込むため、直近の終値に対して最低でも四十五%のプレミアム(上乗せ)を提示する必要がある」
「一株あたり、千七百四十円ね」
苑子が計算を合わせる。
「そうだ。全株式の完全取得、ならびに過半数の確実な奪取を目指す場合、必要となるTOBの買収総額は――概算で【約八百億円】だ」
八百億円。
上場企業一つを丸ごと市場から買い上げるための、天文学的な巨額マネー。
並の国内ファンドであれば、数ヶ月かけてシンジケート団を組成し、銀行の顔色を伺わなければ一円たりとも動かせない金額だった。
だが、梶原は手元のタブレットの画面をトントンと叩き、豪快に笑い飛ばした。
「だが、心配はゼロだ。ウチには何がある? ……昨日、大東京フィナンシャルの九条副頭取から直接勝ち取った、『次世代脱炭素インフラファンド』の一千億円のアンカー出資マネーがある!」
梶原はテーブルをバンッと叩いた。
「大東京フィナンシャルの拠出承諾書が届いた瞬間、腰の引けていた国内の大手損保や信託銀行が雪崩を打って追随してきやがった。今朝の時点で、ファンドの募集枠三千億円は完全に満額札止めだ! そのうち、自由に動かせるキャッシュの即時実行可能枠は千五百億円以上! 八百億のTOB資金なんて、全額キャッシュの一括払いで即日調達できる!」
梶原の精悍な瞳が、野性的な歓喜を帯びて光る。
「資金力で、今のタカツカサに勝てる相手は国内に一社もいねえよ。神崎のポケットマネーだろうが、鳴神貴之のちっぽけな創業家の資産だろうが、札束の津波で跡形もなく押し流してやるぜ!」
法務の絶対防御。
そして、メガバンクの女帝を味方につけたことによる、桁外れの圧倒的資金力。
二週間前、雨の夜に傘すら持たされずに追放された一人の女性秘書が、その類まれな知性と人脈によって引き寄せたすべてのカードが、今、鳴神物産を完全に制圧するための「絶対の布陣」として完璧に結実していた。
室内の視線が、自然と一人の女性へと集まる。
チャコールグレーのスーツを纏い、背筋を凛と伸ばして立つ槇野佳乃。
七年間、理不尽に搾取され、感情を殺し、黒子として先代を支え続けてきた彼女の胸の中に、今、かつてないほどの激しい感情の奔流が渦巻いていた。
復讐のためではない。
自分を捨てた元婚約者を嘲笑うためでもない。
先代・鳴神剛造が命を懸けて築き、何千人もの誠実な社員たちが汗を流してきた現場のサプライチェーンを、悪辣な金融ブローカーと無能な二代目の手から救い出し、真にあるべき姿へと再生させる。
その大義のために、自らが戦いの中心に立とうとしているのだ。
コツン、と静かな足音が響いた。
窓際に立っていた誠一郎が、ゆっくりと歩み寄り、佳乃の正面に立った。
二人の距離は、わずか数十センチ。
誠一郎は見下ろすように佳乃の瞳をじっと覗き込んだ。
その切れ長の瞳には、絶対零度の冷徹さの裏に、佳乃だけに向けられる底知れない熱い信頼と、狂おしいほどの情愛が宿っていた。
「……佳乃」
誠一郎は低く、甘やかな声でその名を呼ぶと、自らの大きな右手を差し出した。
そして、佳乃の細く白い指先を、壊れ物を包むかのような優しさで、だが力強く握り締めた。
「っ……」
掌から伝わってくる、男の圧倒的な体温と力強い鼓動に、佳乃の肩が微かに跳ねた。
「このディールの総指揮は、君に執ってもらう」
誠一郎の言葉が、静かな執務室に重く、厳かに響き渡った。
「鳴神物産の組織の血管の隅々までを知り、誰よりもその現場を愛し、そして……誰よりも深く裏切られた。君以上に、あの会社を正しく解体し、真に再生させる資格を持つ人間は、この世のどこにも存在しない」
誠一郎は佳乃の手を握り直すと、もう一歩、距離を詰めた。
至近距離で交差する二人の視線。
「君の手で、奪還しろ。君を無能と嘲笑い、ゴミのように道端に捨てた者たちに……自分たちが何を捨てたのかを、その骨の髄まで思い知らせてやれ」
胸が、熱い焔で満たされた。
かつて鳴神貴之は言った。
『お前は親父の介護係兼お茶汲みだっただけだ』
『お前程度の代わりなど、派遣村からでもいくらでも補充できる』と。
自分の七年間を、自分の知性を、自分の尊厳を、あの男は泥の中に投げ捨てて踏みにじったのだ。
だが、今、目の前にいるこの男は。
世界を動かす投資帝国の若き総帥は、自らの帝国の全軍の指揮権を、数百億円の命運を、すべて自分の一手に預けようとしている。
もう、誰かの影に隠れる必要はない。
自分の爪を隠し、身を縮こまらせて生きる黒子の時代は、永遠に終わったのだ。
佳乃は伏せていた長い睫毛を持ち上げ、澄み切った秋の夜空のような切れ長の瞳で、誠一郎を真っ直ぐに見つめ返した。
その瞳の奥にあった迷いは、完全に消え去っていた。
「……はい、誠一郎様」
鈴の鳴るような、だが大地をも揺るがすほどの確信に満ちた声が、夕闇の執務室に響き渡った。
「謹んで、総指揮の命をお受けいたします。鳴神物産を食い物にするすべての害虫を排除し、先代の遺志と現場の誇りを、この手で必ず取り戻してみせます」
佳乃は握られた誠一郎の手を、自らの指先でギュッと強く握り返した。
二人の視線が、熱く、深く絡み合い、言葉のない絶対の誓約が結ばれる。
パチ、パチ、パチ……。
静寂を破ったのは、梶原の力強い拍手の音だった。
「へっ、決まりだな! 最高だぜ、佳乃さん! あんたが前線に立つなら、俺は後ろからいくらでも札束の弾薬を撃ち込んでやるよ!」
「法務の準備も万全よ」
苑子もまた、満足げに微笑みながら立ち上がった。
「月曜日の朝九時、神崎からの百五十億円が鳴神の口座に着金するその瞬間を待って……東京証券取引所、ならびに全メディアへ、敵対的TOBの開始予告通知を一斉に叩きつけるわ。市場の歴史に残る、完璧な奇襲攻撃(電撃戦)を見せてあげる」
窓の外を見下ろせば、茜色の夕焼けは完全に夜の帳へと溶け去っていた。
漆黒の闇の中、無数に煌めく東京の街。
その中心で、自らの破滅が迫っていることすら知らず、六本木のクラブで愛人とシャンパンを開けているであろう鳴神貴之。
そして、甘い罠で名門商社を丸呑みしようと舌なめずりをしているリチャード・神崎。
彼らが立つ砂上の楼閣の真下には、すでにタカツカサ・キャピタルという巨大な捕食者が、口を大きく開けて迫っていた。




