第22話:見落とされたレベニューシェア条項
翌日、正午少し前。
前日の六本木の夜の熱狂を引きずったまま、鳴神物産本社ビル最上階の新社長室には、銀座の高級寿司割烹から届けられた特上握りの折り詰めと、華やかなシャンパングラスが広げられていた。
壁の大型モニターには、相変わらず無意味な世界為替チャートが派手なネオンのように明滅し、成金趣味の白革ソファの背もたれには、鳴神貴之が満足げに足を組んでふんぞり返っている。
「ハハッ、見たか瑠璃華! あいつらの青ざめた顔を! 朝イチで経理部長と営業部長を呼んで、『週明けには外資から百五十億円のキャッシュがドンと入る』と言ってやった時の、あの鳩が豆鉄砲食らったようなマヌケ面! 痛快だったぜ!」
貴之は箸で大トロを口に放り込み、極上の笑みを浮かべた。
その隣で、フリル付きのピンクのブラウスを着た江藤瑠璃華が、嬉しそうにワイングラスのミネラルウォーターを揺らしている。
「本当ですねぇ、社長ぉ! みんな『えっ、百五十億ですか!?』ってポカンとしちゃって! 大東京フィナンシャルの意地悪なババアに頭を下げる必要なんて、最初からなかったんですよぉ。神崎さん、本当に紳士で超カッコよかったし! やっぱり、グローバルな金融エリートとお付き合いするのが本物のステータスですよねぇ〜」
「当たり前だ。親父の時代のような、ドメスティックな銀行に媚びへつらう泥臭い商社ビジネスはもう終わりなんだよ。これからは外資のスマートマネーを活用して、全自動AIサプライチェーンで世界を制覇する。……俺の手腕に、全社員がひれ伏す日も近いな」
自らの虚栄心と万能感に完全に酔いしれる貴之。
その目の前のガラステーブルの中央には、昨夜、六本木の会員制バー『エクリプス』でリチャード・神崎から手渡された、あの黒革表紙の分厚い契約書――『メザニン・ローン・クレジット・ファシリティ・アグリーメント』が、重々しく鎮座していた。
全百二十ページ。微細な英文フォントで埋め尽くされた、五百億円の特別融資契約書。
貴之は内ポケットから、神崎から渡されたモンブランの限定万年筆を取り出し、キャップを外そうとした。
まさに、その時だった。
ドガァンッ!!
静寂を暴力的に引き裂いて、社長室の白い両開きドアが、蝶番が悲鳴を上げるほどの勢いで蹴破るように開け放たれた。
「な、なんだッ!?」
貴之が箸を取り落とし、飛び上がる。
転がり込むように入ってきたのは、専務取締役の安西源三郎、そしてその後ろに控える、顔面を土気色にした鳴神物産の法務課長・五十嵐だった。
五十嵐の手には、数十分前に役員フロアの複合機から急ぎ印刷されたとおぼしき、英文契約書のコピーの束が握りしめられている。紙の端は汗で湿り、五十嵐の指先は激しく震えていた。
「社長ッ! お待ちください! 絶対に、その書類にサインをしてはなりません!!」
五十嵐が悲鳴のような叫び声を上げ、ガラステーブルの前へと滑り込んできた。
五十歳を過ぎ、長年鳴神物産の企業法務を地道に支えてきたベテラン法務課長が、髪を振り乱し、ネクタイを曲げ、息を喘がせながら貴之の万年筆の前に両手を広げて立ちはだかる。
「おい、五十嵐! ノックもなしに入ってきて、何の真似だ!」
貴之は顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。
「お前のような平の課長風情が、社長室に土足で踏み込んでくるとはいい度胸だな! 安西専務、あんたが連れてきたのか!? 何の用だ!」
「社長……ッ!」
安西は鬼気迫る形相で大股に歩み寄り、テーブルの上の黒革の契約書を指差した。
「五十嵐課長から報告を受けました! ベーカー&スターンズからのメザニンローン契約書の写しを、法務課で緊急精査させたのです! ……社長、あなたはこの契約書の中身を、本当に一行でも読まれたのですか!?」
「ああん? 読んだに決まってんだろ!」
貴之は鼻を鳴らし、ふんぞり返った。無論、大嘘だった。彼が読んだのは、昨夜バーで神崎が指差した『調達総額:五百億円』と『初回実行額:百五十億円』という数字の箇所だけだ。
「神崎さんが分かりやすくプレゼンしてくれたよ! 我が社のAIスマート商社構想に対する五百億円の特別投資枠だ! 面倒な銀行審査も担保もなしで、月曜の朝には百五十億が着金する! 文句のつけようがない神ディールだろうが!」
「騙されているんです、社長!!」
五十嵐法務課長が、テーブルの上にドサリと書類の束を叩きつけた。
何箇所もの英文に、蛍光ペンで真っ赤なマーカーが引かれ、無数の手書きの付箋がびっしりと貼られている。
「これは融資などではありません! 巧妙な金融工学の専門用語で偽装された、極めて悪質かつ合法的な『会社略奪契約』です!!」
「……はぁ? 略奪だあ?」
貴之が怪訝そうに眉をひそめると、五十嵐は震える声で、その赤く塗られた条項を指差した。
「契約書第七十二ページ、第十四条第二項(財務制限条項および期限の利益喪失規定)……ならびに、付属別紙Dに記載された『レベニューシェア・ペナルティ特約』です! 社長、神崎氏は『AIスマート商社構想の将来キャッシュフローを担保にする』と仰ったそうですね?」
「ああ、そう言ってたぜ。先進的で素晴らしいスキームじゃないか」
「その将来キャッシュフローの基準値が、どこに設定されているかご覧になりましたか!?」
五十嵐は叫んだ。
「新規AI事業の『第一四半期における目標売上』が、なんと五億円や十億円などではなく――【五十億円】に設定されているのです! しかも、四半期の売上実績がその七〇%……すなわち【三十五億円】を一日でも下回った場合、即座に『重大な債務不履行』とみなす、と明記されています!」
「な……三十五億……?」
貴之の喉が、微かに引き攣った。
「馬鹿げているにも程があります!」
安西専務が拳をテーブルに叩きつけた。
「まだシステム開発のベンダーすら決まっていない新規事業ですよ!? 実績ゼロの絵に描いた餅の事業が、立ち上げからわずか三ヶ月で三十五億円の売上を叩き出せるわけがないでしょうが! 営業現場を預かる私から言わせれば、達成率は一%にも満たない、絶対に不可能な数字です!」
「だ、だが……」
貴之は動揺を隠すように声を荒らげた。
「神崎さんは『目標は高く設定するのがウォール街の流儀だ』って言ってたぞ! 多少未達になったところで、ペナルティなんて利息をちょっと上乗せされるくらいだろ!?」
「そのペナルティ金利が、悪魔の所業なのです!!」
五十嵐課長が身を乗り出し、契約書の条文を突きつけた。
「売上未達によるデフォルトが発生した瞬間、融資元利金に対して――年利【一八%】の遅延損害金利が、契約調印日にまで【遡及】して適用されます! 百五十億円を借りていれば、それだけで年間二十七億円の金利負担です! サラ金の上限金利スレスレの暴利ですよ!? そして――」
五十嵐の顔から、完全に血の気が引いていた。
唇を震わせ、最後の「死刑宣告」の条項を読み上げる。
「……第十六条(担保権の包括的実行規定)。……『期限の利益を喪失し、違約金および元利金の即時一括返済が期日までになされない場合、債権者であるベーカー&スターンズは、事前の裁判手続きを経ることなく、以下の対象資産を自動的に差し押さえ、処分する絶対的権利を有する』」
五十嵐は、息を呑んで貴之を凝視した。
「……対象資産の第一位。鳴神物産が保有する、中央区銀座の【本社ビル敷地および建物の一切】。……そして対象資産の第二位。我が社の売上の四割を叩き出し、全国のサプライチェーンの要となっている優良子会社――【ナルカミ・ロジスティクス株式会社の全株式】です!!」
シーン……と。
広大な社長室の空気が、一瞬にして凍りついた。
冷房の微かな稼働音だけが、耳鳴りのように響く。
「……な……」
貴之の口から、掠れた声が漏れた。
「ほ、本社ビル……と、ナルカミ・ロジスティクス……?」
「そうです!!」
安西専務が目を血走らせ、貴之の胸倉に迫らんばかりに叫んだ。
「お分かりですか、社長!? 神崎の狙いは、最初から五百億円の融資の利息などではない! 達成不可能な売上目標をあらかじめ契約書に忍ばせておき、三ヶ月後に債務不履行に追い込んで、時価数百億円の価値がある我が社の本社ビルと、心臓部である物流子会社を、二束三文で合法的に巻き上げることなんだ!!」
「っ……!」
「本社ビルを奪われ、物流網を奪われたら、鳴神物産に残るのは数千人の余剰人員と巨額の借金だけだ! 創業七十年の歴史が、たった一枚の契約書で完全に解体され、外資のハゲタカに胃袋の中まで食い荒らされるんだぞ!!」
安西の魂の叫び。
五十嵐法務課長の精密な法的指摘。
これ以上ないほど明白な、破滅への警告だった。
普通の人間の知性と理性があれば、この瞬間に顔面を蒼白にし、万年筆を床に投げ捨て、契約書を破り捨てて警察や弁護団に駆け込むところだった。
――かつての鳴神物産であれば、そうしていた。
先代会長・剛造が生きていた頃。
このような外資系金融機関特有のクロス・デフォルト条項やレベニューシェアの罠が持ち込まれた際、会長秘書室長代理であった槇野佳乃は、常に誰よりも早く英文契約書の行間から悪意を嗅ぎ分けていた。
彼女は徹夜で欧米の投資銀行の過去の係争判例を洗い出し、問題の条項を赤ペンで囲み、
『※警告※ 本契約は実質的な資産接収を目的としたプレデタリー・レンディング(略奪的融資)の疑いが極めて濃厚です。即時交渉を打ち切るべきです』
と端正な文字で箇条書きにした報告書を剛造のデスクに差し入れ、会社の危機を未然に防ぎ続けていたのだ。
だが――。
今の社長室に、槇野佳乃はいない。
座っているのは、肥大化したプライドと劣等感の塊である、鳴神貴之という男だった。
「…………」
貴之の瞳が、激しく揺らぎ始めた。
本社ビルの差し押さえ。優良子会社の接収。
その言葉の重みに、一瞬だけ恐怖の冷汗が背筋を伝った。
だが――その恐怖を上回る毒が、貴之の脳髄を急速に蝕み始めた。
(……ここで、契約をやめたらどうなる?)
(安西や五十嵐の言う通りにしたら……俺は、またあいつらの言いなりになるのか?)
(『やっぱり若い社長はダメだ』『先代と槇野佳乃がいなければ何もできない無能だ』と、社中で笑い者にされるのか……!?)
先代へのコンプレックス。
そして何より、自分を捨ててタカツカサの総帥の隣に立った、槇野佳乃への狂気じみた憎悪。
あいつを見返さなければならない。
あいつの目の前に五百億円を叩きつけ、俺の経営判断が正しかったと証明しなければならない。
その歪んだプライドが、冷徹な危機回避の警告を、すべて「自分を否定する敵の攻撃」へと変換させていく。
「……フン」
貴之の口の端が、ピクリと歪んだ。
「……社長?」
五十嵐が訝しげに顔を上げる。
「フハッ……ハハハッ! ギャハハハハハッ!!」
突如として、貴之は腹を抱えて大笑いし始めた。
狂気じみた甲高い笑い声が、社長室に反響する。
「お、おいおいおい! 安西専務、それに五十嵐! あんたたち、本気でそんな寝言を言ってるのか!?」
貴之はテーブルをバンッと叩いて立ち上がると、五十嵐の胸を乱暴に小突いた。
「三十五億の売上が不可能ですとぉ? 達成率が一%未満だあ? ふざけるなッ! それはあんたたち昭和の老害営業マンが、足で稼ぐことしか能がない無能だからだろ!!」
「な……何を仰っているのですか、社長!!」
「俺が立ち上げるのは、最先端の全自動AIサプライチェーンだぞ!? ビッグデータとアルゴリズムを駆使して、世界中の物流マッチングを一瞬で完了させるスマートビジネスだ! 旧態依然としたあんたたちの営業成績と一緒にすんな! 三十五億どころか、五十億、いや百億円の売上だって秒で達成できるに決まってんだろ!!」
貴之の口から飛び出す、中身の伴わないバズワードの乱射。
彼は本気で信じているのだ。
AIという魔法の言葉を唱えさえすれば、現実の泥臭い物流の調整も、港湾の利権も、顧客の信頼関係も、すべてプログラムが勝手に解決して巨額の金を産み落としてくれると。
「それにだ!」
貴之は五十嵐の持っていた契約書のコピーを引ったくり、床へと投げ捨てた。
「神崎さんはウォール街の頂点に立つ、ベーカー&スターンズのアジア統括マネージングディレクターだぞ!? 年俸何十億円も稼ぎ、世界中の超一流企業とディールをまとめてきた本物のグローバルエリートだ! そんな雲の上の超人が、わざわざ我が社を騙してビルを奪うようなチンケな詐欺を働くわけがないだろ!!」
「社長、相手は金融ブローカーです! 弱肉強食の投資銀行が、慈善事業で金を貸すはずが――」
「うるさいんだよ、ドメスティックな田舎弁護士がッ!!」
貴之は唾を撒き散らして怒鳴り散らした。
「あんたたちのような、英語の契約書もろくに読めない、海外でディールを一本もまとめたことのない負け犬が、嫉妬で超一流エリートの足を引っ張るな! スケールの大きなグローバルファイナンスを理解できない自分の無能を恥じろ!!」
「そうですよぉ〜!」
それまでソファで退屈そうに爪を磨いていた瑠璃華が、待ってましたとばかりに立ち上がり、貴之の腕に抱きついた。
胸元を押し当て、勝ち誇ったような意地悪な笑みを安西と五十嵐に浴びせる。
「五十嵐課長ぉ〜、難しい英語の書類読んで頭痛くなっちゃったんですかぁ? 嫉妬で見苦しいですよぉ! 神崎さんはね、昨夜私にもすっごく優しくエスコートしてくれた、本物のジェントルマンなんですから! 月曜日に百五十億円が入れば、港湾倉庫の違約金も全部払えて、会社のみんなにお給料もいっぱい配れるのに、それを邪魔するなんて、あんたたちこそ会社の敵じゃないですかぁ!」
「江藤室長……っ! 貴女のような素人が、会社の命運に関わる契約に口を挟むな!!」
安西専務の怒号が響く。だが、瑠璃華はわざとらしく貴之の背後に隠れ、「キャッ、怖いぃ〜! 貴之さん、専務が怒鳴って脅してきますぅ〜!」と甘えた声を上げた。
「安西ッ!! 俺の瑠璃華に怒鳴るな!!」
貴之の理性のタガが、完全に吹き飛んだ。
彼はデスクの引き出しを乱暴に開けると、重厚な桐箱から、鳴神物産の【代表取締役社長印】――会社の全財産と法的権限を象徴する、純金の巨大な印鑑を取り出した。
「専務だろうが課長だろうが、文句があるなら今すぐ懲戒免職にしてやる! この会社の代表取締役は俺だ! 決定権を持つのは俺一人なんだよ!!」
「おやめください、社長!!」
五十嵐課長が床に膝をつき、両手を合わせて叫んだ。
「せめて……せめて外部の四大法律事務所に、一晩だけでも緊急リーガルチェックを依頼してください! 第三者の客観的な意見を聞いてからでも、サインは遅くありません!!」
「スピードが命のビジネスにおいて、一晩待つなど愚の骨頂だと言ったのは神崎さんだ! 俺は一流のグローバルリーダーとして、今ここで決断を下す!!」
貴之はモンブランの万年筆のキャップを、パチンと音を立てて引き抜いた。
白金と金のバイカラーのペン先が、間接照明の光を浴びて冷酷に瞬く。
安西が駆け寄り、万年筆を掴もうとした。
「貴之君ッ!! 剛造さんが命を懸けて守ってきた鳴神物産を、お前自らの手で殺す気かあああああっ!!」
「親父の名前を出すなああああっ!!」
ドゴッ!
貴之は狂乱状態で肘を振り抜き、安西の胸板を強く突き飛ばした。
五十八歳の安西の身体がよろめき、サイドテーブルの花瓶をなぎ倒して床へと激しく崩れ落ちる。
「専務ッ!!」
五十嵐が悲鳴を上げて駆け寄る。
その二人の視線の前で――
貴之はテーブルの上の黒革の契約書、百二十ページの最終署名欄へと、躊躇うことなく万年筆の切先を突き立てた。
ガリッ……ガリガリガリッ!
紙を引き裂くような荒々しい筆致で、自らの名を書き殴る。
『鳴神 貴之』。
そして――
真っ赤な朱肉をべっとりとつけた代表取締役社長印を、署名の真上へと、渾身の力を込めて叩きつけた。
ダンッ!!
鈍く、重い音が、社長室に響き渡った。
金印の重厚な印影が、白銀の契約書の末尾に、鮮血のように赤黒く刻印される。
――調印完了。
「ハァ……ハァ……ハァ……!」
肩で荒い息を吐きながら、貴之は万年筆を放り出し、勝ち誇った狂気の笑みを浮かべた。
「やった……! サインしたぞ! これで五百億円は俺のものだ! 月曜日の朝九時には、百五十億が着金する!!」
「キャーッ! 貴之さん、最高ぉぉっ!!」
瑠璃華が抱きつき、貴之の頬にキスを浴びせる。
床に倒れ伏したままの安西源三郎は、その光景を、血の涙を流さんばかりの絶望で見つめていた。
五十嵐法務課長が、両手で顔を覆い、声もなく泣き崩れる。
終わったのだ。
悪魔の契約書は、完全に発効した。
売上未達によるデフォルトまで、残りわずか九十日。
鳴神物産本社ビルと、物流子会社の全株式。
創業七十年の歴史を誇る名門総合商社の首筋に、外資のギロチンの刃が、自らの社長の手によって、カチリと音を立てて固定された瞬間だった。
窓の外には、どこまでも広がる東京の青空。
だが、その晴天の真下で、鳴神物産という巨大な城の崩壊のカウントダウンが、決定的なゼロに向けて、狂気的に加速し始めていた。




