第21話:鳴神物産の失態②(契約書の罠)
午後八時三十分。
大東京フィナンシャルグループから突きつけられた「融資枠の凍結」という死刑宣告の余波が、鳴神物産の財務部門をじわじわと締め上げる中、新社長・鳴神貴之が足を運んでいたのは、自社の対策会議室などでは断じてなかった。
ネオンの光がアスファルトの濡れた路面に乱反射する、六本木七丁目の裏通り。
雑居ビルの狭間に隠されるように佇む、看板すら掲げていない重厚な真鍮の扉の前に、貴之と江藤瑠璃華の姿があった。
「ねえ貴之さん、ここ、本当にバーなんですかぁ? 看板もないし、暗くてなんだか怪しくないですかぁ?」
瑠璃華は、背中が大きく開いたボルドーのサテンキャミソールワンピースに、毛皮のストールを羽織った派手な装いで、貴之の腕に擦り寄っていた。
「バカ言え。ここはな、入会金だけで五百万円、現役の上場企業役員二名の推薦がなければ会員権すら発行されない、正真正銘の超VIP専用シークレットバー『エクリプス』だよ。政財界のフィクサーや、外資系プライベート・エクイティのトップ連中しか足を踏み入れられない場所なんだ」
貴之は自慢げに胸を張り、ポケットから取り出した艶消しチタン製のメンバーズカードを扉の脇のセンサーへとタッチした。
カチリ、と低く重い電子ロックの解除音が響き、音もなく分厚い防音扉が内側へと開く。
一歩足を踏み入れた瞬間、外界の喧騒は完全に断絶された。
足元を包み込むのは、足音の一切を消し去る最高級のペルシャ絨毯。
照明は極限まで落とされ、カウンターの奥に並ぶ数千本のオールドヴィンテージのボトルが、琥珀色の間接照明を浴びて宝石のように妖しく瞬いている。
案内されたのは、フロアの最奥、防音壁と分厚いスモークガラスで外部の視線から完全に遮断された、会員制バーの最高峰――ロイヤルVIPルームだった。
「――ようこそお越しくださいました、鳴神社長。お目にかかれて光栄です」
部屋の扉が開いた瞬間、ソファから立ち上がり、滑らかな英語混じりの完璧な日本語で出迎えた男がいた。
リチャード・神崎。
ウォール街に本拠を置く世界的巨大投資銀行『ベーカー&スターンズ』のアジア統括マネージングディレクターであり、国内外の大型M&Aや債権流動化市場でその名を轟かせる、三十五歳の金融ブローカーだった。
「…………っ」
貴之の隣にいた瑠璃華が、思わず息を呑んだ。
そこに立っていた男の放つオーラは、これまで彼女が港区の飲み会で群がってきた成金経営者たちとは、根本から次元が違っていたのだ。
ロンドンのサヴィル・ロウで仕立てられたであろう、完璧に身体のラインに吸い付くチャコールグレーのビスポークスーツ。
彫りの深い端正な顔立ちに、完璧な白さを誇る歯並び。
わずかにウェーブがかった黒髪を完璧に撫で付け、知的な琥珀色の瞳には、相手の懐へと滑り込むような、極上の甘さと危険な色気を湛えている。
シャツの袖口から覗く腕時計は、スイスの三大雲上ブランドの一つ――パテック・フィリップのグランド・コンプリケーション。それ一本で都内の超高級マンションが一室買えるほどの価格の芸術品が、嫌味なく腕に収まっていた。
「神崎さん……! 本日はお招きいただき、ありがとうございます」
貴之は思わずペコペコと頭を下げそうになるのを慌てて堪え、虚勢を張って手を差し出した。
神崎は柔らかく、だが骨太で確固たる力強さでその手を握り返すと、瑠璃華へと優雅な視線を向けた。
「お隣の美しいレディは……噂の新しい社長室長ですね。江藤瑠璃華様とお呼びしてよろしいでしょうか。パリのモデルかと思い、思わず息を呑んでしまいましたよ」
「キャッ……! もぉ、神崎さんったらお上手なんですからぁ!」
初対面の男から放たれた極上のエスコートと殺し文句に、瑠璃華は一瞬で頬を染め、蕩けたような笑みを浮かべて身をくねらせた。
自分の愛人が他人の男に鼻の下を伸ばしているというのに、貴之は「どうだ、俺の女は一流だろ」と言わんばかりに得意満面で鼻を鳴らしている。
百戦錬磨の捕食者である神崎の目には、この二人がいかに浅はかで、いかに操りやすい「最高のカモ」であるかが、最初の十秒で完全に看破されていた。
「さあ、お座りください。お二人をお迎えするために、特別なものを用意しておきました」
神崎が指を鳴らすと、黒服のバーテンダーが銀のアイスペールを運んできた。
氷水の中に鎮座していたのは、漆黒のボトルに銀のエンブレムが刻まれたシャンパン――『ドン・ペリニヨン P2』。二十年近い熟成を経た、一本数十万円の幻のヴィンテージだった。
細身のフルートグラスに注がれた黄金色の液体が、きめ細やかな泡の筋を立ち上らせる。
「鳴神社長の新体制の船出、そして我がベーカー&スターンズとの、輝かしいパートナーシップを祝して――チアーズ」
「チアーズ!」
「かんぱぁ〜い!」
カチン、と極上のクリスタルが澄んだ音を響かせる。
口に含んだ瞬間、完熟した洋梨とローストしたアーモンドの芳醇なアロマが広がり、貴之は喉を鳴らして飲み干した。
極上の酒と、洗練された空間、そして世界屈指の投資銀行のトップからの歓待。
昼間、大東京フィナンシャルの審査部から「融資保留」を突きつけられ、社内で安西専務から怒鳴り散らされて傷ついていた貴之のプライドは、この甘美な演出によって瞬く間に修復され、肥大化していった。
「ふぅ……やはり、本物のエリートが選ぶ酒は違いますね。昼間、うちの頭の固い古参役員共から、昭和の説教を散々聞かされてうんざりしていたところなんですよ」
貴之は足を組み、ソファの背もたれにふんぞり返った。
神崎は微笑みを崩さず、自らのグラスを指先で弄びながら、相槌を打つ。
「ええ、重々お察しいたしますよ、社長。日本のオールド・エコノミーの大企業というのは、少しでも先進的な改革を進めようとする若きリーダーの足を引っ張ることしか能がありませんからね。……しかし、私は感動いたしましたよ」
「ほう? 何にです?」
「鳴神社長が掲げられた、『全社的DX推進に伴う次世代AIスマート商社構想』ですよ」
神崎は身を乗り出し、琥珀色の瞳に真剣そのものの熱を宿してみせた。
「素晴らしいビジョンです。先代の剛造氏が遺された、あの泥臭くて不透明な『昭和の人脈頼みの商社ビジネス』など、今のグローバル資本市場では一円の価値もありません。取引先へのご機嫌取りや、紙の引き継ぎ帳に頼ったアナログな経営など、百害あって一利なしだ。……それを、就任早々に全否定し、AIによる全自動サプライチェーンの構築へと舵を切られた。あの英断を下せる経営者は、日本中を探しても鳴神社長、あなたしかいません」
神崎の巧みな言葉のナイフが、貴之の最も肥大化した承認欲求の核心を、寸分の狂いもなく抉り抜いた。
先代の否定。
佳乃が残した泥臭い実務の否定。
そして、自分自身の浅薄な思いつきを「世界的な先進性」として絶賛してくれる言葉。
「ハハッ! 分かりますか、神崎さん! いやあ、さすがはウォール街の一流エリートだ! そうなんですよ! うちの古臭い役員共は、前任の地味な秘書が残していった紙のファイルを後生大事に抱えて、『根回しが足りない』だの『手土産がどうだ』だの、くだらない雑務にばかりしがみついてるんです! あんなものは全部ゴミ箱に放り込んで、AIに任せれば秒で終わる話なんですよ!」
「全くその通りです」
神崎は深く頷き、隣の瑠璃華へも甘い視線を送った。
「江藤室長のような、華やかでトレンドに敏感なインフルエンサーを経営中枢に抜擢されたのも、実に現代的でスマートな判断だ。これからの企業価値は、古臭い財務諸表ではなく、どれだけ洗練されたブランディングを発信できるかで決まりますからね」
「キャーッ! 神崎さん、本当に分かってらっしゃるぅ!」
瑠璃華はすっかり有頂天になり、貴之の腕をぎゅっと胸元に抱きしめた。
「貴之さん、すごぉい! やっぱり、古い日本の銀行にペコペコ頭下げてる場合じゃないですよぉ! 外資系の一流バンカーと組むのが、本当のグローバル経営者ですよねぇ!」
「ああ、その通りだとも!」
貴之は完全に理性を麻痺させ、有頂天になってグラスのシャンパンを煽った。
九条雅恵への屈辱も、安西の警告も、港湾倉庫の契約が切れて沖合で船が立ち往生している現実すらも、この甘い幻覚の前にはすべて霧の彼方へと吹き飛んでいた。
そして――。
魚が完全に疑似餌を丸呑みしたことを確認した瞬間、神崎の口元に、冷酷で完璧なビジネスマンの弧が刻まれた。
「……さて、鳴神社長。ここからが本題です」
神崎はグラスを大理石のテーブルへ置くと、スッと背筋を伸ばした。
その声音のトーンが、わずかに一段、低く研ぎ澄まされたものへと変わる。
「大東京フィナンシャルグループの九条副頭取が、貴社の包括融資枠三百億円の更新を保留にしたという情報は、すでに我が社のリサーチチームも把握しております」
「うっ……」
痛いところを突かれ、貴之の顔がわずかに強張った。
神崎はそれを優しく手で制するように微笑んだ。
「ご安心ください。あんなものは、古い利権にしがみつく老害銀行の、下劣な嫌がらせに過ぎません。……あのようなドメスティックな銀行の顔色を伺って、社長の崇高なAIビジネスの進捗を止めるなど、世界の損失です。そこで――」
神崎は足元に置いてあった、最高級カーフスキンで仕立てられたベルルッティのブリーフケースを開けた。
そして、カチャリと真鍮の留め金を外すと、中から極めて分厚い、革装丁のプレゼンテーション・フォルダーを取り出した。
表紙には、金文字で『ベーカー&スターンズ 特別ファイナンス提案書』と刻まれている。
「我がベーカー&スターンズが、鳴神物産の新事業に対し――総額五百億円の特別調達枠を、単独で設定させていただきます」
「ご、五百……億円……!?」
貴之の喉から、裏返った声が出た。
五百億。
大東京フィナンシャルが渋っていた三百億円を遥かに凌駕する、桁外れの巨額資金。
「ええ。銀行融資のような面倒な審査や、役員の個人保証などは一切不要です。社長のビジョンと、AIスマート商社の将来キャッシュフローそのものを担保とする、極めて先進的なストラクチャード・ファイナンスです」
神崎は淀みなく、甘やかな毒を含んだ言葉を紡ぎ出していく。
「五百億あれば、AIサプライチェーンのシステム構築など一瞬で完了します。それどころか、タカツカサ・キャピタルのような敵対ファンドを市場から完全に締め出し、九条副頭取の大東京フィナンシャルすら足元にひれ伏せさせることができる。……鳴神社長、あなたはこの国の経済界の、真の覇者となられるのです」
「お、おおぉ……! 覇者……! 五百億……!!」
貴之の目は完全に血走り、興奮で鼻息を荒くしていた。
タカツカサを見返せる。
九条のババアを土下座させられる。
そして何より――自分を捨てて敵に寝返ったあの地味女、槇野佳乃の目の前に五百億円の札束を叩きつけて、「俺の勝ちだ」と見下ろしてやることができる!
「すごぉい、貴之さん! 五百億の社長ですよぉ! かっこよすぎますぅ!」
瑠璃華が歓声を上げ、貴之の首に抱きつく。
二人の目は、完全に欲望と虚栄心で盲目になっていた。
その熱狂を見届けながら、神崎はブリーフケースの底から、もう一つの「塊」を取り出した。
ドサリ。
大理石のテーブルの上に置かれたのは、辞書のように分厚い、黒い革表紙で綴じられた書類の束だった。
厚さにして五センチ以上。
全百二十ページを超える、微細なフォントの英文で埋め尽くされた、極めて難解な金融契約書――『メザニン・ローン・クレジット・ファシリティ・アグリーメント』。
「社長。ビジネスにおいて、何よりも尊いのは『スピード』です」
神崎は微笑みながら、内ポケットから取り出したモンブランの限定万年筆を、契約書の上にカチリと音を立てて置いた。
「今週金曜日の正午までに、この契約書に社長のサインと社印をいただければ――週明けの月曜日の朝九時には、第一弾の実行資金として、現金百五十億円を貴社の指定口座へ着金させます」
「げ、月曜日に、百五十億が……!?」
貴之の指先が、興奮でガタガタと震え出した。
今月末の仕入れ代金も、港湾倉庫の違約金も、すべて一瞬で解決できる。それどころか、手元には百億円以上の自由なキャッシュが残るのだ。
「ええ。百五十億あれば、当面の運転資金など鼻歌交じりでクリアできるでしょう。……ただし、一つだけお願いがございます」
神崎はわずかに瞳を細め、親身な相談を持ちかけるような声音で言った。
「貴社の法務部や、外部の法律事務所にこの契約書を回すような、無駄な時間はかけないでいただきたいのです」
「……え? 法務を通さない……ですか?」
わずかに残っていた貴之の理性が、反射的に疑問の声を上げた。
だが、神崎はその疑念すら、流れるような論理のすり替えで瞬時に押し流した。
「日本の保守的な渉外弁護士というのは、英文契約書のコンマ一つの位置や、ウォール街では当たり前の標準的な免責条項に難癖をつけて、平気で審査に三週間も一ヶ月もかける人種です。そんな形式主義に付き合っていれば、月曜日の百五十億の着金には到底間に合わない。……ビジネスチャンスというのは、生鮮食品と同じです。躊躇している間に、市場のトレンドは他社へと移ってしまう」
神崎は貴之の目を真っ直ぐに見つめ、甘やかに囁いた。
「社長。決断できる者だけが、勝者になれるのです。形式的な法務チェックなどという官僚主義で、歴史的なディールをフイにするのは……真のリーダーのすることではありませんよね?」
「そ、それは……そうですけど……」
「そうですよぉ、貴之さん!」
瑠璃華が横から強く背中を押した。
「難しい英語の書類なんて、読んだってどうせ分かんないじゃないですかぁ! 神崎さんはウォール街の超エリートなんですよ? ゴールドマン出身の神崎さんが用意してくれた契約書に、おかしなところなんてあるわけないじゃないですかぁ! 早くサインして、月曜日に百五十億ゲットして、六本木でお祝いパーティーしましょ!」
「瑠璃華……」
愛人の無邪気な後押し。
そして、目の前に横たわる百五十億円の甘い果実。
貴之の心の中で、最後の警告を発していた防衛本能の細い糸が、プツリと音を立てて千切れた。
「……フッ、そうだな。神崎さんの言う通りだ。一流のグローバル経営者たるもの、直感とスピードで決断を下さなきゃ嘘だよな」
貴之は自嘲気味に笑い、テーブルの上の万年筆へと手を伸ばした。
掌に伝わる、ずっしりとした金属の重み。
百二十ページにおよぶ、その分厚い英文契約書の奥深く――
佳乃がいれば、最初の三分で赤ペンを走らせ、激怒して破り捨てていたであろう「悪魔の毒薬条項」が、極めて精緻な金融工学の罠として埋め込まれていることなど、この男は一行たりとも読もうとしなかった。
――新規事業の四半期売上が計画値の七〇%を下回った場合、年利一八%のペナルティ金利を遡及適用する。
――違約金が発生した際、鳴神物産が保有する「本社ビル」および「優良子会社ナルカミ・ロジスティクスの全株式」は、ベーカー&スターンズへ自動的に担保権実行(接収)される。
創業七十年の名門商社を、骨の髄まで綺麗にしゃぶり尽くすための、合法的な「死刑執行命令書」。
貴之はその最終ページ、署名欄の白銀の余白へと、まるで時代の勝者にでもなったかのような誇らしげな笑みを浮かべながら、ペン先を落とそうとしていた。
六本木の夜の底。
氷のグラスの中で溶けゆく気泡のように、鳴神物産の命運は、音もなく処刑台の階段を登り詰めていた。




