第20話:過保護な総帥
革張りの大型ソファに沈み込んだ身体は、まるで鉛のように重く、自身の熱で輪郭が溶け出してしまいそうだった。
天井を見上げる佳乃の視界は、高熱によって微かに揺らぎ、ダウンライトの暖色系の光が幾重にも重なって滲んでいる。
耳朶を打つのは、自身の荒い呼吸音と、こめかみの奥でドクドクと警鐘を鳴らし続ける激しい脈拍。
――これは、CEO命令だ。
至近距離で叩きつけられた誠一郎の低く掠れた声が、まだ皮膚の表面に熱い余韻となってこびりついて離れなかった。
(命令……だなんて……)
佳乃は乱れた前髪の下から、執務室の奥へと続くパウダールームの方をぼんやりと見つめた。
カチャリ、と氷がぶつかり合う涼やかな音が響き、続いて水流の音が静かな深夜の空気を渡ってくる。
信じられなかった。
日本屈指の独立系巨大ファンド『タカツカサ・キャピタル』の頂点に君臨し、世界中の市場関係者から「氷のハゲタカ」「冷徹無比の死神」と恐れられる若き総帥が、自ら袖を捲り、水仕事をしているのだ。
執事でも、秘書でも、専属のハウスキーパーでもない。
数千億円のディールを秒単位で決断する男が、一介の雇われ秘書の看病のために、自らの手を冷水に浸している。
やがて、規則正しく重みのある足音が近づいてきた。
姿を現した誠一郎は、仕立ての良いスリーピースのベストすら脱ぎ捨てていた。上等な純白のドレスシャツのボタンを胸元まで二つ外し、両腕の袖を肘の上まで無造作に捲り上げている。
濡れた前腕の筋肉の筋が、薄暗い間接照明の下で艶やかに浮き彫りになっていた。
その両手には、銀のトレイに乗せられた氷嚢と、冷水で固く絞られた純白のリネンタオル、そしてガラスのピッチャーが運ばれていた。
「……動くなと言ったはずだ」
身じろぎをして起き上がろうとした佳乃の気配を瞬時に察知し、誠一郎が低く釘を刺した。
彼はソファのすぐ脇に片膝をつくと、トレイをサイドテーブルへと置き、氷嚢を手に取った。
シャラリ、と細かなクラッシュアイスが布越しに鳴る。
「冷たいぞ」
予告と同時に、額にそっと乗せられた氷嚢の冷気に、佳乃の身体がビクッと跳ねた。
だが、肌を刺すような衝撃は一瞬で去り、燃え盛るように熱を持っていた前頭部の熱を、心地よい冷涼感がじんわりと吸い上げていく。
続いて、誠一郎の手によって、冷水で絞られた冷たいタオルが佳乃の白いうなじの下へと滑り込ませられた。
首筋を走る太い血管が冷やされ、濁っていた意識の輪郭が、わずかに鮮明さを取り戻す。
「あ……っ、鷹司、様……」
「喋るな。息が上がっている」
誠一郎の所作は、驚くほど手慣れていた。
乱暴さは微塵もなく、まるで触れれば粉々に砕けてしまう最高級の吹きガラスを扱うかのように、極めて繊細に、慎重に、佳乃の熱を冷ましていく。
次に彼が手に取ったのは、サイドテーブルのグラスだった。
常温のミネラルウォーターに、常備薬用のアンプルから高濃度の電解質パウダーを素早く溶かし込んだ、特製の経口補水液。
誠一郎は小さな銀のスプーンにそれを掬うと、佳乃の唇の端へとそっと運んできた。
「少しずつ口に含め。一気に飲むと胃が拒絶する」
「……っ、そんな……! 自分で、持てます……!」
羞恥心で顔がさらに赤く染まりそうになるのを、佳乃は必死で押し留めようとした。
熱で朦朧としているとはいえ、二十七歳の大人の女性が、上司である男性からスプーンで一口ずつ水分を口に運ばれるなど、あまりにも無防備で、あまりにも倒錯した光景だった。
佳乃は震える右手を伸ばし、グラスを受け取ろうとした。
だが、誠一郎はその細い指先を空いた左手で軽く払いのけ、有無を言わせぬ眼光で彼女の瞳を射抜いた。
「君の今の握力では、グラスを落としてシーツを汚すだけだ。無駄なプライドで体力を消耗するな。……口を開けろ」
絶対の威厳。
逆らう余地など、どこにも残されていなかった。
佳乃は屈辱と、それを上回る抗いがたい甘美な敗北感に苛まれながら、震える唇をわずかに開いた。
スッと、冷たい銀のスプーンが唇の隙間から差し入れられる。
舌の上に落ちた液体は、わずかに塩気を含み、レモンの爽やかな酸味が広がった。
乾き切って張り付いていた喉の粘膜が、恵みの雨を得た土壌のように水分を吸い上げていく。
一口。
また一口。
誠一郎は佳乃の嚥下のペースを完璧に見極めながら、一滴も零すことなく、極めて丁寧にスプーンを運び続けた。
グラスの半分ほどを飲み干したところで、誠一郎はスプーンを置き、清潔なリネンで佳乃の濡れた口元を優しく拭った。
「……よく飲んだ」
低く、掠れた声音。
その響きには、冷徹な仮面を剥ぎ取った男の、安堵に満ちた深い熱が滲み出ていた。
誠一郎は立ち上がると、壁際に置かれていた重厚なアームチェアを引き寄せ、ソファのすぐ真横へと据え直した。
そして、ドサリと腰を下ろすと、佳乃の掛け布団の上に投げ出されていた細い左手を、自らの両手でそっと包み込んだのだ。
「っ……あ……」
佳乃の指先が、ビクンと小さく震えた。
男の掌の熱さ。
骨太で逞しく、硬いタコがわずかに指の腹に触れる。
世界中の富を動かす冷徹な投資家の手が、まるで失うことを何よりも恐れる宝物を確かめるかのように、壊れ物を抱くような力加減で、佳乃の手を温め、包み込んでいる。
「鷹司……様……」
佳乃は重い瞼を持ち上げ、至近距離に座る誠一郎を見つめた。
シャツの胸元から覗く男の鎖骨、端正な顎のライン、そして夜の深淵よりもなお深く自分を見つめ返す、切れ長の黒い瞳。
どうしても、聞かずにはいられなかった。
胸の奥底で澱のように溜まり続けていた、最大の疑問。
「なぜ……そこまで、してくださるのですか……」
掠れた声が、静かな部屋に落ちる。
「私は……敵対していた鳴神物産の元社員です。破格の年俸で買い取っていただいたとはいえ……所詮は、雇われの身に過ぎません。体調を崩したなら、救急車を呼んで病院へ放り込めば済むはずです。それなのに、なぜ……代表自らが、ここまで……」
佳乃の問いかけに、誠一郎はすぐには答えなかった。
ただ、包み込んだ佳乃の冷えた指先を、親指の腹でゆっくりと、慈しむように撫でる。
静かな部屋に、壁の掛け時計の針が刻むチクタクという乾いた音だけが響いていた。
やがて、誠一郎は自嘲気味にわずかに口元を歪め、低く滑らかな声で語り始めた。
「……五年前のことだ」
その言葉の滑り出しに、佳乃の耳がピクリと反応した。
「私の父――タカツカサの初代代表が、欧州出張中に脳溢血で急逝した。当時、私はまだ二十六歳だった。金融工学の学位を取り、ロンドンの投資銀行から呼び戻されたばかりの若造だ。……市場の反応がどうだったか、君なら想像がつくだろう」
誠一郎の視線が、遠い記憶の底を手繰り寄せるようにわずかに細められる。
「ハゲタカどもの狂乱だったよ。創業者を失ったタカツカサ・キャピタルを安値で解体し、運用資産を奪い取ろうと、国内外のファンドや銀行が群がってきた。社内の古参役員たちすら、私を若輩と侮り、裏で競合他社への寝返りを画策していた。……味方など、世界中のどこにもいなかった」
佳乃は息を呑んだ。
今の絶対無敵に見える誠一郎からは想像もつかない、孤独と重圧の歴史。
「私は毎日、睡眠薬を酒で流し込みながら、二十時間以上働き続けた。弱みを見せれば、その瞬間に群がる獣たちに喉笛を噛み千切られる。だからこそ、誰の前でも完璧な氷の仮面を貼り付け、一切の感情を殺して数字だけを武器に戦った。……だが、肉体は精神ほど傲慢にはできていなかったようだ」
誠一郎の指の力が、微かに強くなった。
「父が死んで三ヶ月が過ぎた頃、経団連主催の大型財界パーティーが開かれた。帝国ホテルの大広間だ。各界の首脳陣、政界の大物、メガバンクの頭取たちがひしめく壇上で、私は新代表としてのスピーチを求められた。……だが、壇上に上がる直前、舞台裏の袖で、激しい胃痙攣を起こした」
「胃痙攣……」
「急性胃潰瘍の穿孔寸前だった。脂汗が滝のように流れ、視界が真っ暗になり、その場に膝をついて倒れかけた。呼吸すらできなかったよ。……周囲には、名だたる大企業の重役たちが何十人もいた。だが、誰一人として私の異変に気づかなかった。いや――気づいていても、見て見ぬ振りをしたのだ。『タカツカサの若造が壇上で卒倒すれば、それだけでファンドの信用は地に落ちる』と、内心で失脚を期待していた連中ばかりだったからな」
誠一郎の口調には、当時の冷酷な企業社会に対する、乾き切った怒りが滲んでいた。
弱肉強食の資本主義。他人の失脚こそが最大の利益となる世界。
その孤独な処刑台の袖で、二十六歳の男は、一人で死にかけていたのだ。
「その時だ」
誠一郎の瞳が、ふっと熱い光を帯びて、佳乃の顔を正面から見据えた。
「暗闇の中でうずくまり、すべてを諦めかけた私の背中に……音もなく、一人の女性が歩み寄ってきた」
「……え?」
「黒髪をきっちりと結び、地味な銀縁眼鏡をかけた、鳴神物産の会長秘書室の娘だ。……当時、まだ二十二歳だった君だ、佳乃」
ドクン、と佳乃の心臓が大きく跳ね上がった。
「わ……私、ですか……?」
「そうだ。君は、先代会長・剛造の随行としてその場に控えていた。……君は、周囲の誰もが気づかなかった私の荒い呼吸と、シャツを濡らすほどの冷汗を、遠くからただ一人で見逃さなかった」
誠一郎の声が、熱を帯びて微かに震える。
「君は騒ぎ立てることもなく、誰の注目も集めない完璧な死角を選んで私の元へ滑り込んできた。そして、先代の持病用として常備していたのであろう薬嚢から、胃粘膜を保護する医療用の即効薬と、人肌に温められた白湯をすっと差し出したのだ」
「あ……」
佳乃の記憶の澱から、遠い日の情景が急速に浮かび上がってきた。
五年前。帝国ホテルの大宴会場。
先代会長の鞄を持ち、壁際に直立していた駆け出しの秘書時代。
壇上の袖で、異様なほど青白い顔をして柱に手をついていた若い男の姿。
周囲の役員たちが冷笑を浮かべて遠巻きに見ている中、佳乃はただ純粋に「一人の人間が苦しんでいる」という事実だけに反応し、黒子としての所作で薬と湯を差し入れたのだ。
「君は言ったよ。『鷹司代表。スピーチの順番を、先代のお名前を使って事務局に交渉し、十分間だけ後ろへずらしてまいりました。あちらの非常口の奥に、人の来ない空調の効いた控室がございます。どうぞ、三分間だけ目を閉じてお薬をお飲みください』とな」
誠一郎の唇が、懐かしそうに、そして狂おしいほどの愛しさを込めて綻んだ。
「完璧だった。君の敷いた動線のおかげで、私は誰にも醜態を晒すことなく薬を飲み、呼吸を整え、何食わぬ顔で壇上に上がってスピーチを完遂することができた。タカツカサの株価は守られ、敵どもは舌打ちをして引き下がったよ」
「……あ、あれは……」
佳乃は戸惑い、掠れた声を絞り出した。
「あれは……秘書としての、ただの……突発的なトラブルに対する、応急手当に過ぎません。誰に対しても……同じように動いただけの、雑務です……」
「君にとってはそうだろうな」
誠一郎は佳乃の手をぎゅっと力強く握り締めた。
その瞳の奥にある熱量は、もはや隠しようもなく剥き出しになっていた。
「だが、私にとっては違った。……周囲のすべてが敵であり、誰一人として信用できず、暗闇の底で息絶えようとしていた私にとって……君が差し伸べてくれたその温かい手と、誰にも知られないように守ってくれたその知性は、生涯で唯一の、魂を救い上げてくれた光だったのだ」
「…………っ!」
「君が立ち去る際、胸元に光っていた社章と名札――『鳴神物産・槇野佳乃』の八文字を、私はその夜、自らの心臓の裏側に深く刻み込んだ」
誠一郎は身を乗り出し、佳乃の耳元へと顔を近づけた。
男の熱い吐息が、佳乃の火照った耳朶をくすぐる。
「あの時からだ。君という存在が、鳴神剛造という巨木の下で、誰からも正当に評価されず、ただ都合のいい黒子として使い潰されていくのを見るのが……耐え難い苦痛だった。シンガポール案件で君の底知れない能力を確信した時も、歓喜すると同時に、激しい嫉妬を覚えたよ。『なぜ、あんな古臭い商社が、剛造のような老人が、君の価値を独占しているのだ』と」
誠一郎の告白は、もはやビジネスの領域を遥かに踏み越えていた。
五年間。
冷徹な投資家として世界の頂点を目指しながら、この男はずっと、陰ながら一人の地味な女性秘書の足跡を、焦がれるような執着で見つめ続けていたのだ。
「剛造が生きていた間は、君の忠誠を奪うことはできなかった。だが……あの愚息が君を捨てた夜、私は神に感謝したよ。ようやく、私の光を、私のこの手で奪い返すことができる、とな」
誠一郎の手が、佳乃の手から離れ、そっと彼女の頬へと伸びた。
熱を帯びた佳乃の柔らかな皮膚を、大きな指先が慈しむように撫でる。
「君は他人の体調ばかりを気遣い、他人の顔色ばかりを先回りし、自分の命を平気で削る。鳴神物産での七年間で、そうやって自分を殺すことだけを美徳として刷り込まれてきたのだろう。……だが、私の前でそんな真似は二度と許さない」
誠一郎の切れ長の瞳が、絶対の誓いを宿して光った。
「君のその知性も、その身体も、その命のすべては、私が買い取ったのだ。君が自分自身を粗末に扱うことなど、この私が断じて許さない。……これからは、私が君を守る。君が誰かを支えてきた何倍もの熱量で、私が君を管理し、愛し抜いてやる」
「た、鷹司……様……」
声が、震えた。
胸の奥深く、七年間ずっと冷たい氷の棺の中に閉じ込められていた佳乃の心が。
誰からも愛されず、誰からも見返りを求められず、ただ便利な道具として消費され続けてきた誇りが。
この男の放つ、狂おしいまでの熱情と献身によって、音を立てて砕け散り、温かな涙となって溶け出していく。
氷嚢の冷たさと、男の掌の熱さ。
二つの刺激が交差する中で、佳乃の瞳から、ポロポロと大粒の雫が溢れ出した。
病気の熱のせいだけではない。
生まれて初めて、一人の人間として、一人の女性として、絶対の愛と庇護を与えられたことに対する、魂の慟哭だった。
「……泣くな。熱が上がるぞ」
誠一郎は困ったように小さく笑うと、親指の腹で佳乃の涙を優しく拭い去った。
その触れ方は、先ほどよりも遥かに柔らかく、甘かった。
「眠れ、佳乃。明日の朝の役員会も、海外ロードショーの資料も、すべて私が引き受ける。君が目覚めるまで、世界は私が止めておく」
「で、でも……お仕事、が……」
「まだ言うか」
誠一郎は佳乃の掛け布団を首元まで引き上げると、彼女の額の氷嚢をそっと整え直した。
「眠れ。……これは、私の最初で最後の、絶対の命令だ」
至近距離で囁かれた、抗いがたい子守唄のような低音。
誠一郎の大きな手が、佳乃の耳元を包み込むように添えられる。
男の放つ白檀の香りと、守られているという絶対の安心感が、佳乃の限界を迎えていた意識を、温かな微睡みの海へと静かに沈み込ませていった。
トクン……トクン……。
佳乃の呼吸が、次第に深く、穏やかな寝息へと変わっていく。
その安らかな寝顔を、誠一郎は椅子に座ったまま、夜が明けるまで一秒たりとも離れることなく、ただ愛おしそうに見つめ続けていた。
タカツカサの最上階を包む、甘やかで静謐な深夜の時間。
だが、この二人が確かな絆を結び合ったその裏で――
破滅へのカウントダウンを止める術を完全に失った鳴神物産には、外資の悪魔・リチャード神崎による、最も残酷な「死の罠」が、音もなく口を開けて待ち構えていた。




