第19話:深夜の執務室にて
午前二時四十五分。
千夏をパレスホテル東京の客室へと送り届け、タクシーで赤坂の超高層タワーへと戻った佳乃は、深夜の静寂に沈むタカツカサ・キャピタルの最上階執務フロアに足を踏み入れていた。
自動消灯された広大なオフィスの片隅、自身のデスクに置かれたスタンドライトのオレンジ色の灯りだけが、ぽつんと暗闇を照らし出している。
佳乃はジャケットを脱ぐこともせず、自席の革張りチェアへと腰を下ろした。
「……っ」
深く腰掛けた瞬間、鉛のように重い疲労が、四肢の末端から一気に這い上がってきた。
思考の輪郭が、微かに揺らぐ。
それもそのはずだった。鳴神物産の先代会長・剛造が急逝してから、今日に至るまでの日々は、まさに激流の如き修羅場の連続だったのだ。
剛造の密葬の取り仕切り、貴之からの理不尽な婚約破棄と即日解雇。
雨の車寄せで誠一郎に拾われ、年俸五千万円のエグゼクティブ契約書にサインを交わし、南青山のサロンでの「脱皮」。
その直後の役員会でライン・ロジスティクスの百三十億円の地雷を看破し、夕方からは料亭『千代乃』で九条副頭取を迎え撃つための完璧な迎撃態勢の構築。
そして翌朝の大東京フィナンシャルグループによる一千億円の出資調印――息つく暇もなく、今夜は千夏からの切迫したSOSを受け、真鍋苑子を巻き込んでの緊急脱出計画の策定。
精神の緊張の糸を、ただの一秒たりとも緩める瞬間がなかった。
アドレナリンだけで身体を動かし続けてきたツケが、深夜の冷気とともに、容赦なく肉体を蝕み始めていた。
(まだ……休むわけにはいかないわ)
佳乃は熱を帯び始めた両手で自らの両頬を強く叩き、強制的に意識を覚醒させた。
デスクの上の大型モニターには、大東京フィナンシャルグループのアンカー出資を受けて本格始動した『次世代脱炭素インフラファンド』の、海外機関投資家向けロードショー(案件説明会)のプレゼンテーション資料が開かれていた。
相手は、ロンドン、ニューヨーク、シンガポールの名だたるソブリン・ウエルス・ファンド(政府系投資ファンド)や巨大年金基金だ。
大東京フィナンシャルの出資によって国内の信用は盤石となったが、残る二千億円の調達を最短期間で完了させるためには、海外勢が最も注視する「日本のエネルギー政策の法改正リスク」と「地方自治体との環境アセスメント協約」の整合性を、完璧な英語の法務文書として整えておかねばならなかった。
カタタッ、カタ……カタカタッ。
キーボードを叩く乾いた音が、夜の執務フロアに響く。
だが、キーを叩くごとに、視界の端がチカチカと白く明滅した。
喉が、まるで砂漠のようにカラカラに渇いている。
先ほど千夏に勧めた温かいハーブティーの温もりとは対照的に、佳乃の体内では、骨の芯から冷え切るような悪寒と、皮膚の表面をじりじりと焼くような微熱が、不気味に入り乱れていた。
関節が軋むように痛み、首筋のリンパ腺がドクドクと脈打っている。
(熱が……上がってきている……?)
佳乃は奥歯を噛み締めた。
体調不良など、プロ失格だ。
鳴神物産にいた七年間、どんなに過酷なスケジュールであっても、決して風邪一つ引かず、倒れることもなく、完璧な健康管理を維持してきたことこそが佳乃の矜持だった。
ましてや、タカツカサ・キャピタルに破格の年俸で迎え入れられ、社内第二位の決裁権限を与えられたばかりの身なのだ。
真鍋苑子や梶原康平をはじめとするトッププレイヤーたちの前で、「過労で倒れました」などという無様な姿を晒すことなど、万死に値する恥辱だった。
「……あと、三ページ……。ロンドン市場が開く前までに、環境条項のディスクロージャー(情報開示)基準を修正して……誠一郎様のデスクへ……」
口の中で譫言のように呟きながら、佳乃はディスプレイを見つめ続けた。
だが、画面の英文が、まるで水面に揺れる陽炎のように二重、三重にブレていく。
肩が、小刻みに震えていた。
寒気と熱気。
マウスを握る指先が強張り、カチリとクリックする力すら入らなくなる。
「っ……あ……」
ついに支えきれなくなった頭部が、重力に引かれるように沈んだ。
佳乃は両腕をデスクの上に重ねると、その上に額を預け、小さく丸まるようにして突っ伏した。
キーボードのバックライトが、伏せられた佳乃の長い睫毛を青白く照らし出す。
熱い吐息が、デスクの木目を湿らせていく。
――五分だけ。五分だけ目を閉じれば、きっと頭の芯の熱は引いてくれるはず……。
そう自分に言い聞かせながら、佳乃の意識は、底知れない暗闇の中へと急速に吸い込まれていった。
◇
午前三時十五分。
ガランとしたエグゼクティブフロアのガラス扉が、静かなセキュリティ解除音とともに開いた。
入ってきたのは、政界の長老との深夜の極秘会合を終え、タカツカサ本社へと戻ってきた鷹司誠一郎だった。
コートを左腕に掛け、漆黒のスリーピースのベスト姿。
深夜の会合の疲れなど微塵も感じさせない、彫刻のように研ぎ澄まされた横顔。
誠一郎は長身の脚を大股に運び、自らの執務室へと向かおうとしていた。
だが――
フロアの中央、佳乃のデスクの前に差し掛かった瞬間、誠一郎の鋭い足音がピタリと止まった。
「…………」
スタンドライトの淡い光の下。
モニターを点灯させたまま、デスクの上に両腕を投げ出し、机に突っ伏して微動だにしない佳乃の姿があった。
仕立ての良いチャコールグレーのスーツの背中が、浅く、速い呼吸に合わせて、小刻みに震えている。
露わになった白いうなじには、薄っすらと玉のような汗が浮かんでいた。
誠一郎の切れ長の瞳が、一瞬にして険しく細められた。
彼は音もなくコートを近くのパーティションへ放り出すと、大股で佳乃のデスクへと詰め寄った。
カツン、と革靴が床を叩く微かな音。
その気配に、佳乃の眠りかけていた防衛本能が過剰に反応した。
「っ……!? だ、誰……っ」
佳乃は弾かれたように顔を上げ、朦朧とする意識の中で立ち上がろうとした。
視界の端に映ったのは、見慣れたスリーピースのシルエット。
「た、鷹司……様……? お、お戻りでしたか……っ。申し訳、ありません……私、少しだけ目を――」
言い訳を口にしながら、佳乃は背筋を伸ばそうと床を蹴った。
だが、その瞬間。
フッ……と、視界から色が消えた。
急激な起立に伴い、高熱で拡張していた血管から脳への血流が一気に途絶えたのだ。
重力感覚が狂い、上下左右が反転する。
耳の奥でキーンという凄まじい金属音が鳴り響き、足首から完全に力が抜け落ちた。
「あ――」
声にならなかった。
ぐらりと、佳乃の身体が横倒しに傾ぐ。
硬質な大理石のタイル張りの床へと、無防備な頭部から吸い込まれるように落下していく。
受け身を取る手すら動かない。
激突の衝撃を覚悟し、佳乃がぎゅっと瞼を閉じた、その刹那だった。
バシィッ!!
空気を切り裂くような鋭い風圧とともに、鋼鉄のように強靭な腕が、佳乃の細い腰を横合いから強引に巻き取った。
「っ……!?」
床に叩きつけられる寸前、佳乃の身体は宙でピタリと制動された。
続いて、強い力で一気に引き寄せられる。
ドサリと、佳乃の額がぶつかったのは――冷たい床ではなく、厚みのある極上のウールベストと、その下にある熱く硬い男の胸板だった。
「…………っ」
息が詰まった。
佳乃の腰を抱き留める誠一郎の左腕は、微動だにしない絶対の力で彼女の体重を支え切っていた。
そして、誠一郎の右手は、佳乃の背中をしっかりと包み込み、彼女の身体を自分の胸元へと密着させている。
耳元にダイレクトに響いてくるのは、トクン、トクンと、力強く、だが普段よりも遥かに速いテンポを刻む誠一郎の心音。
鼻腔を満たしたのは、高級な白檀の芳香と、わずかに混ざり合うビターな深煎り珈琲の香り。
そして――何より、スーツ越しに伝わってくる、男の圧倒的な体温だった。
「……無茶をするなと言ったはずだ」
降ってきたのは、夜の底を震わせるような、低く掠れたバリトンボイスだった。
耳朶を直接震わせるその声には、冷徹な仮面をかなぐり捨てた、剥き出しの憤怒と、隠しきれない激しい動揺が混ざり合っていた。
「た、鷹司……様……離して、ください……私、自分で立て――」
「黙れ」
制止の言葉とともに、誠一郎の革手袋を外した素肌の右手が、佳乃の額へと直接伸びてきた。
長い指先が、汗ばんだ前髪を乱暴に払いのけ、佳乃の熱い額の上にピタリと重ねられる。
「っ……あ……」
佳乃の身体がビクッと跳ねた。
誠一郎の掌は、驚くほど熱かった。だが、その掌の熱さを上回るほどに、佳乃の額は燃え盛るように熱を持っていた。
誠一郎の眉間が、苦痛に耐えるかのように深く、険しく歪められる。
「熱があるな。……三十八度は優に超えているぞ」
「そ、そんなはずは……ただの、軽い知恵熱です……ロードショーの資料が、まだ……」
「まだ口答えをするか」
誠一郎の切れ長の瞳が、至近距離から佳乃の潤んだ瞳を射抜いた。
その瞳の奥には、氷の総帥としての威厳など微塵もなかった。
ただ、目の前で壊れかけている愛しい存在を前にして、理性を焼き切られそうになっている、一人の飢えた獣のような熱情が渦巻いていた。
至近距離で見つめ合う二人。
互いの熱い吐息が、唇をかすめるほどの距離で交差する。
男の鍛え上げられた胸板の硬さと、自分を逃すまいと腰に食い込む腕の力強さに、佳乃の心臓が、熱のせいばかりではない激しい動悸を打ち鳴らしていた。
恥ずかしい。
こんな無様な姿を見られ、あろうことか敵対ファンドの頂点に立つ男の胸の中に抱きすくめられている。
逃げ出さなければならない。秘書としての境界線を守らなければならない。
頭ではそう理解しているのに、冷え切った身体に注ぎ込まれる誠一郎の圧倒的な熱量が心地よすぎて、佳乃の指先は誠一郎のベストの裾を弱々しく掴んだまま、離すことができなかった。
「……資料など、どうでもいい」
誠一郎の声が、一段と低く、喉の奥から絞り出された。
「君の代わりなど、この世のどこにもいないと言った私の言葉を……君自身が一番理解していないようだな」
「え……?」
佳乃が呆気にとられた、次の瞬間だった。
スッ……と、誠一郎の右手が佳乃の背中から膝の裏へと滑り込んだ。
一瞬の浮遊感。
「きゃっ……!?」
思わず甲高い悲鳴が零れ落ちた。
次の刹那、佳乃の身体は、まるで羽毛のように軽々と宙へと持ち上げられていた。
いわゆる、横抱き――お姫様抱っこ。
長身の誠一郎の腕の中に、佳乃の全身がすっぽりと収まり、その重みを感じさせない滑らかな動作で、床から抱き上げられたのだ。
「な、何をなさるのですか……!? お、降ろしてください!!」
パニックに陥った佳乃は、誠一郎の首筋に回りそうになる腕を慌てて引っ込め、彼の逞しい肩を押して抵抗しようとした。
だが、誠一郎の腕は、鋼の枷のように佳乃の身体を固定したまま、一ミリたりとも揺らがない。
「暴れるな。落とすぞ」
「鷹司様、滅相もありません! 私は秘書です、雇われの身です! このような無礼な真似……誰かに見られたら――」
「誰が見る?」
誠一郎は佳乃の抗議を一蹴し、長い脚を踏み出して、歩き始めた。
「ここは私のフロアだ。私の城で、私が私の最も大切な人間をどう扱おうが、誰にも文句を言わせる筋合いはない」
「っ……!」
最も大切な人間。
その言葉の破壊力に、佳乃の喉が完全に塞がれた。
耳朶から首筋にかけて、熱病のような紅潮が一気に広がっていく。
誠一郎は佳乃を抱いたまま、自らのCEO専用執務室の重厚な扉を足先で押し開けた。
向かったのは、デスクでも会議スペースでもない。
執務室の最奥、厚手のベルベットのカーテンで仕切られた、誠一郎専用のプライベート・リフレッシュスペースだった。
そこには、仮眠用として設えられた、最高級のイタリア製ブラックレザーの大型三人掛けソファが鎮座していた。
誠一郎は佳乃を抱きかかえたまま膝を折り、極めて繊細な所作で、柔らかなソファのクッションの上へと彼女の身体を横たえた。
足元のパンプスに手を伸ばし、七センチのヒールを一本ずつ、丁寧に脱がせていく。
ストッキング越しに足首を掴む誠一郎の指先の熱さに、佳乃の爪先がキュッと縮こまった。
「鷹司様、本当に……! 私、自分のデスクに戻って――」
身を起こそうとする佳乃。
だが、その肩を、誠一郎の両手が上からガッシリと押さえつけた。
ドン。
ソファの上に押し戻される。
見上げれば、覆いかぶさるように至近距離まで顔を近づけた誠一郎の、冷徹で、だが狂おしいほどの情熱を孕んだ双眸が、佳乃の視界を完全に支配していた。
「黙って寝ていろ」
至近距離で囁かれた声は、有無を言わせぬ絶対の威厳を帯びていた。
「これは、CEO命令だ」
逃げ場は、完全に塞がれていた。
冷徹無比な投資帝国の王が、たった一人の女性のために剥き出しにした、過保護で甘やかな独占欲。
その熱い檻の中に閉じ込められた佳乃は、ただ早鐘を打つ心臓を押さえながら、荒い息を繰り返すことしかできなかった。




