第18話:守るべき境界線
深夜二時。
パレスホテル東京のプライベートラウンジは、深い静寂に包まれていた。
高い吹き抜けの窓の向こうには、皇居の広大な和田倉濠の水面が、街灯の光を反射して黒瑪瑙のように鈍く光っている。昼間の喧騒が嘘のように静まり返った空間に、ポットから立ち上るハーブティーの湯気が、柔らかな曲線を描いて消えていく。
「……佳乃さん」
千夏は両手で包んでいた磁器のカップをテーブルに戻すと、すがるような眼差しで佳乃を見つめた。
泣き腫らした瞼は赤く腫れていたが、佳乃の手から注がれた温もりと、清潔なリネンのハンカチの感触によって、激しかった過呼吸の発作はようやく完全に収まっていた。
だが、その瞳の奥には、なおも消えない切迫した恐怖が張り付いている。
「あの……明日の朝八時半からの、役員会なんです」
千夏は胸元から、くしゃくしゃになったスマートフォンを取り出そうとした。
「江藤室長から押し付けられた、新体制のサプライチェーン自動化構想の資料……数字がどうしても合わないんです。前年比の売上予測と、仕入れ原価の計算が完全に乖離していて……このままでは、明日の朝、会議室で私が吊るし上げられてしまいます。佳乃さん、お願いです……! どの項目の数字を直せば整合性が取れるのか、ほんの少しだけでも、アドバイスをいただけないでしょうか……!」
千夏の手が、必死の思いで佳乃のスーツの袖口へと伸びた。
鳴神物産にいた頃、どんな難解な財務資料であっても、どんな複雑怪奇な社内政治であっても、佳乃は一瞬で歪みを見抜き、魔法のように完璧な整合性を与えてみせた。
その超人的な手腕を知っているからこそ、千夏は藁にもすがる思いで救いを求めたのだ。
しかし――。
「千夏さん」
佳乃の声は、驚くほど静かで、そして氷のように冷徹だった。
佳乃は袖口を引く千夏の手を、自らの手のひらでそっと優しく包み込み、そして――静かに、だが確固たる力で押し戻した。
「お断りいたします」
「え……?」
千夏は息を呑み、ぽかんと口を開けた。
拒絶されるなど、夢にも思っていなかったのだ。あの優しく、常に後輩を庇い続けてくれた佳乃先輩が、なぜ。
動揺する千夏に対し、佳乃は背筋を寸分の狂いもなく伸ばし、チャコールグレーのスーツの襟元を正した。
野暮ったい眼鏡を外した切れ長の瞳が、一人の厳格なプロフェッショナルとしての光を宿して千夏を射抜く。
「私が代わりに数字を整え、完璧な資料を作って差し上げることは容易です。そうすれば、明日の朝の役員会で、あなたは貴之社長からの罵倒を免れることができるでしょう。一時的には、あなたは救われるはずです」
「な、なら……どうして……!」
「それは、あなたを破滅から救うことにはならないからです」
佳乃の一言は、静かなラウンジの空気を鋭利に切り裂いた。
「考えてみなさい、千夏さん。私が今夜、鳴神物産の資料を手直しすればどうなりますか? 貴之社長と江藤室長は『ほら見ろ、瀬尾でも徹夜させればこの程度の書類は作れるんだ』と嘲笑い、自らの無能と放漫経営に一切気づくことなく、さらにあなたへ過酷な違法残業と雑務を押し付け続けるでしょう。私が手を貸すことは、あなたを搾取しているあの二人を延命させ、あなたをより深い地獄の底へと縛り付ける片棒を担ぐことに他なりません」
「あ……」
千夏の喉から、かすかな息が漏れた。
「それに、コンプライアンスの観点からも絶対に許されません」
佳乃の口調は、一切の妥協を排していた。
「私はすでに鳴神物産を退職した部外者であり、現在は競合ファンドであるタカツカサ・キャピタルの役員です。部外者である私が、鳴神物産の未公開の内部資料を閲覧し、実質的な作成に関与すれば、不正競争防止法違反、あるいは機密漏洩の幇助として、逆にあなたが刑事告発されるリスクすら生じます。……プロフェッショナルとして、越えてはならない境界線があるのです」
情に流されて小手先の救済を与えるのではなく、相手の将来と法的な安全を第一に考え、あえて突き放す。
それは、千夏が思っていた以上に深く、過酷なまでの「本物の優しさ」だった。
千夏は自らの浅はかさを恥じ、俯いて膝の上で拳を握り締めた。
「ご、ごめんなさい……。私、自分のことばかりで……佳乃先輩にそんなご迷惑をかけることまで、頭が回っていませんでした……」
「謝る必要はありません」
佳乃は柔らかく目を細め、千夏の強張った手をもう一度そっと握った。
「あなたが悪いのではないのです。法と倫理を平然と踏みにじり、一人の誠実な人間の尊厳を奪い続けている鳴神物産の現体制こそが、断罪されるべき悪なのですから。……だからこそ、千夏さん」
佳乃はテーブルの上に置いた自らのスマートフォンを手に取った。
「小手先の誤魔化しで泥舟にしがみつくのは、今夜で終わりにしましょう。あなたに今必要なのは、鳴神物産の書類を作ることではありません。あの理不尽な搾取者たちを法的に完膚なきまでに叩き潰し、正当な権利を奪還するための『武器』を手にすることです」
佳乃は手慣れた操作で、ある連絡先を呼び出した。
時刻は深夜二時十五分。常識で考えれば、他人に電話をかける時間ではない。
だが、佳乃は迷うことなく通話ボタンをタップし、スピーカーフォンへと切り替えた。
プルルル……プルルル……。
わずか二回のコール音の後。
ガチャリ、と重厚な接続音が響いた。
『――こんな時間に何の用かしら、佳乃さん』
スピーカーから流れてきたのは、眠気など微塵も感じさせない、剃刀のように冷徹で知的な女性の声だった。
千夏は思わず息を呑んだ。
タカツカサ・キャピタル法務・コンプライアンス統括副社長、真鍋苑子だった。
「夜分遅くに申し訳ありません、真鍋先生。急ぎ、先生のお知恵をお借りしたい案件が発生いたしました」
佳乃は簡潔に前置きすると、千夏の置かれている状況――鳴神物産における組織崩壊、連日の違法な長時間労働、残業代の全額未払い、タイムカードの改ざん、そして貴之と瑠璃華による人格否定の罵倒の実態を、感情を交えずに箇条書きで正確に伝えた。
電話の向こうで、カチャリと氷の浮いたグラスが置かれるような音がした。
苑子の低く、研ぎ澄まされた声が返ってくる。
『……絵に描いたような、典型的な悪質同族企業の労務倒錯ね。労働基準法第三十二条(労働時間)、第三十七条(時間外労働の割増賃金)、さらには安全配慮義務違反に、民法上の不法行為責任。どれをとっても、言い逃れの余地のない違法行為のオンパレードだわ』
「先生。彼女を、法的に完璧な形で救出し、あの会社から即座に離脱させたいと考えております。……今夜、彼女が取るべき具体的な手順をご教示いただけますでしょうか」
『いいでしょう。私の専門領域よ』
苑子の声は、冷徹な法医学者がメスを執るかのように、淡々と、だが一切の容赦のない具体策を紡ぎ出し始めた。
『瀬尾千夏さん、聞こえているかしら』
「は、はいっ……! 瀬尾です!」
千夏はスピーカーに向かって、直立不動の姿勢で返事をした。
『泣いている暇はないわよ。あなたを苦しめた連中を合法的に処刑したいなら、感情ではなく、裁判所と労働基準監督署を黙らせる「客観的証拠」だけを信じなさい。明日からあなたが退職届を叩きつけるその瞬間までに、以下の三つの証拠を、何が何でも完璧に保全しなさい』
苑子は淀みなく、指を折るように三つの鉄則を告げた。
『第一に、オフィスの客観的な在館記録よ。鳴神物産本社ビルの入退館セキュリティゲートは、ICカードのタッチでログが記録されているはずね。タイムカードが改ざんされていても、ビル管理会社が保持している物理的な入退館ログ、ならびに最終退館時の警備日誌の写しを、総務課の権限を使って端末からエクスポートしなさい。これが「深夜までビル内に滞在していた動かぬ物理的証拠」になるわ』
「は、はい……! 総務の端末から、警備ログの照会権限は持っています!」
『第二に、貴之社長と江藤瑠璃華からの、理不尽な業務命令とハラスメントの全記録よ。社内メール、チャットツールの履歴、ならびに深夜に送られてきた非常識な業務指示のスクリーンショットを、すべて私有のUSBメモリ、および私用のクラウドストレージへとバックアップしなさい。会社の端末から転送するのではなく、スマートフォンのカメラで画面そのものを撮影しておくのも極めて有効よ。改ざんの疑いを排除できるからね』
苑子の指示は、現場の実務を熟知した弁護士ならではの緻密さだった。
『そして、暴言よ。貴之社長があなたを「代わりのいるゴミ」と罵倒した際の音声、あるいは明日以降、あなたを怒鳴りつけてくる場面があれば、胸ポケットにスマートフォンを忍ばせ、ボイスレコーダーで一言一句違わず録音しなさい。相手の同意のない秘密録音であっても、労働係争や民事訴訟においては、違法収集証拠として排除されることはまずないわ。判例上、百パーセントの証拠能力が認められる』
「録音……わかりました、常にアプリを起動しておきます!」
『第三に、あなたの労働実態を証明する電子ログよ。オフィスのPCのログイン・ログオフ履歴、送受信したメールのタイムスタンプ、ならびにファイルの更新日時ログ。これらを一覧表にして保存しなさい。「自主的な勉強のために残っていた」という会社の反論を粉砕するために、深夜に現実に業務を行っていた痕跡を積み上げるのよ』
苑子の理路整然とした講義に、千夏の背筋がゾクゾクと震えた。
理不尽に怒鳴られ、ただ怯えて泣くしかなかった自分が、今、法律という絶対の盾と矛を手に入れつつあるのだという強烈な実感が湧き上がってくる。
『これら三つの証拠が揃った瞬間、鳴神物産は法的に死体になるわ。残業代の未払い請求、付加金の請求、ならびに精神的苦痛に対する慰謝料請求……総額で数百万円規模の支払命令が下るだけでなく、労働基準監督署による即時の臨検(立ち入り調査)が入り、是正勧告が新聞沙汰になるわね。上場企業としては致命傷よ』
「……真鍋先生、ありがとうございます」
佳乃が静かに割って入った。
「退職の手続きについては、民法第六百二十八条を適用する形でよろしいでしょうか」
『ええ、当然よ』
電話の向こうで、苑子が満足げに頷いた。
『通常、民法第六百二十七条では退職の二週間前の予告が必要とされるけれど、度重なる違法な長時間労働とパワハラによって心身の健康を害している明白な事実がある場合、民法第六百二十八条(やむを得ない事由による雇用の解除)に基づき、即日での退職が可能よ。退職通知書、ならびに未払い賃金の請求書は、私の法律事務所の名義で、鳴神物産の代表取締役宛てに「配達証明付き内容証明郵便」で送達してあげるわ』
「真鍋先生自らが……代理人に……!?」
千夏は信じられない思いで声を漏らした。
タカツカサ・キャピタルの法務トップであり、日本屈指の国際渉外弁護士が、一介の平社員の退職劇の代理人に立ってくれるというのだ。鳴神物産の法務部ごときが束になってかかっても、足元にも及ばない最強の布陣だった。
『勘違いしないでね、瀬尾さん』
苑子の声は、どこまでも厳しく、だが温かかった。
『私はボランティアで動くつもりはないわ。あなたが命懸けで持ち帰ってくる鳴神物産の労務不正の証拠は、我が社が近いうちに進める「ある重大な戦略」において、極めて強力な武器になるのよ。……だから、自分を哀れな被害者だと思わないことね。あなたは、自らの手で腐った組織に引導を渡す、私たちの重要なインサイダー・パートナーよ』
「パートナー……」
その言葉が、千夏の胸の奥底に眠っていた誇りに、カッと火を灯した。
使い捨ての歯車。代わりのいくらでもいるゴミ。
そう罵られ続けてきた自分が、日本最高峰のプロフェッショナルたちから、対等な戦友として期待されているのだ。
『佳乃さん、私からは以上よ。……明日の朝の定例役員会、遅刻しないでね』
「承知いたしました、真鍋先生。深夜に本当にありがとうございました」
通話が切れた。
再びラウンジに静寂が戻る。
佳乃はスマートフォンをテーブルに置くと、身を乗り出し、千夏の目を真っ直ぐに見つめた。
その切れ長の瞳には、夜明けの光のような絶対の確信が宿っていた。
「千夏さん。これが、大人のビジネス社会における『本当の戦い方』です」
佳乃の手が、千夏の震える肩にそっと置かれた。
「感情で泣き叫んでも、相手は痛くも痒くもありません。ですが、事実と法理を積み上げれば、どんなに傲慢な巨大企業であっても、一撃で膝を屈服させることができます。……鳴神物産に、あなたの誠実さをこれ以上一秒たりとも捧げる価値はありません」
「佳乃先輩……」
「証拠を保全しなさい。そして、すべての準備が整ったその日、堂々とあの泥舟から脱出しなさい。……その後のあなたの席は、私がタカツカサ・キャピタルで必ず用意します」
佳乃は力強く、微笑みかけた。
「私のシニア・アシスタントとして、正式にお迎えします。給与は鳴神物産の二・五倍、完全週休二日、そしてあなたの細やかな配慮と実務のすべてを、正当に評価する環境を約束します。……私の隣で、もう一度一緒に働きませんか、千夏さん」
「っ……!」
千夏の視界が、熱い涙で再び滲んだ。
だが、今度の涙は、先ほどまでの絶望の涙ではなかった。
胸の底から湧き上がる、抑えきれない希望と、自らの尊厳を取り戻すための歓喜の涙だった。
千夏は袖口で乱暴に涙を拭い、背筋をピンと伸ばした。
その顔から、怯えと絶望の影は完全に消え去っていた。
佳乃の教えを受け継ぎ、地獄のようなオフィスで耐え抜いてきた、誇り高き万能秘書の愛弟子の顔が、そこに戻っていた。
「はい……! 佳乃さん、私、絶対に負けません!」
千夏は拳を固く握り締め、力強い声で答えた。
「明日一日、あの人たちに気づかれないよう、完璧にすべてのログと音声を回収して見せます! 先代会長の遺産を踏みにじり、佳乃先輩を侮辱したあの人たちに……自分たちが何を壊してしまったのか、思い知らせてやります!」
「ええ。その意気です」
佳乃は満足そうに頷き、立ち上がった。
「今夜は、このパレスホテルの客室を押さえてあります。温かいお風呂に入り、ふかふかのベッドで朝までぐっすり眠りなさい。睡眠不足の頭では、完璧な証拠保全はできませんから」
佳乃はカードキーを取り出し、千夏の手のひらへと握らせた。
どこまでも先回りをし、相手の安全と休息を完璧に担保する差配。
千夏はその重みを受け止め、深々と、心からの頭を下げた。
東の空が、かすかに白み始めていた。
搾取されるだけの哀れな犠牲者は、もうここにはいない。
鳴神物産という腐敗した城の内部に、最も鋭利で、最も忠実な「内なる復讐者」が、静かに誕生した瞬間だった。




