第17話:千夏のSOS
深夜一時。
都心のオフィス街が死に絶えたような静寂に沈む中、鳴神物産本社ビル三十四階のフロアには、青白い非常灯と、わずか二区画だけ灯された蛍光灯の冷たい明かりが落ちていた。
フロア内の空調は午後十時に強制停止されており、澱んだ生ぬるい空気と、過熱した無数のデスクトップPCの排熱が混ざり合って、まるで温室の底に閉じ込められたかのような息苦しさが充満している。
カタタッ、カタ……ッ。
キーボードを叩く千夏の指先は、すでに自身の意志では止められないほど小刻みに痙攣していた。
画面に映し出されているのは、翌朝八時三十分から開催される『新体制第1回 経営戦略役員会』の提出資料だ。
表題には、鳴神貴之が好むバズワードが踊っている。
『全社的DX推進に伴うサプライチェーン自動化構想および四半期売上予測』。
だが、その中身は見るに耐えない代物だった。
江藤瑠璃華が夕方、千夏のデスクに投げつけていった手書きの指示メモ――『全体的にピンクとゴールドで可愛くして♡』『売上は前年比二〇〇%増ってグラフを右肩上がりにしといて!』という、ビジネス文書の体をなしていない殴り書き。
それに従って貴之が適当に口述した数字を打ち込んではみたものの、前提となる仕入れ原価の計算は完全に破綻しており、キャッシュフローの整合性などどこにも存在しなかった。
経理部に問い合わせようにも、この時間に残っている人間などいない。法務部も先代の死去に伴うゴタゴタで主要メンバーが休職や退職に追い込まれ、機能不全に陥っていた。
(合わない……。数字が、一億円単位でどうしても合わない……)
千夏は充血した目を擦った。
コンタクトレンズは乾燥しきって角膜に張り付き、針で刺されたような激痛が走る。
これをそのまま明朝の役員会に出せば、安西専務をはじめとする現場叩き上げの役員たちから徹底的に糾弾されるのは目に見えていた。
そして――糾弾された貴之と瑠璃華は、間違いなく会議室の壇上でこう叫ぶのだ。
『すべて、資料を作成したアシスタントの瀬尾千夏のミスだ』と。
――前の担当者が残した仕事すら満足に引き継げない、あいつの能力不足だ!
――槇野が特別だったんじゃない、そこの瀬尾が使えないゴミなだけだ!
――代わりなら、派遣村からでもいくらでも補充できる!
数時間前、エレベーターホールの前で貴之が唾を撒き散らして放った罵声が、頭蓋骨の内側でガンガンと鐘のように打ち鳴らされる。
「っ、ひ……っ、ふ……っ」
喉が、急速に狭窄していく感覚。
胸をいくら大きく上下させても、酸素が肺の奥まで届かない。
手足の先からスーッと体温が抜け落ち、氷水に浸けられたかのような痺れが指先から肘へと這い上がってくる。
過呼吸の発作だった。
この二週間、連日深夜までの違法な時間外労働。タイムカードは午後七時で強制的に打刻させられ、以降の残業はすべて「自主的な自己研鑽」として処理されていた。残業代など一円も支払われていない。
睡眠時間は連日二時間足らず。口にするのはコンビニのゼリー飲料と強壮剤ばかり。
心身の限界値など、とっくの昔に突破していた。
(もう……無理……)
(これ以上、息が……吸えない……)
千夏は椅子から崩れ落ち、カーペットの上に膝をついた。
視界が白くチカチカと明滅し、天井の蛍光灯が何重にも歪んで見える。
床に散らばったコピー用紙の束が、自分を嘲笑う無数の白い刃のように見えた。
誰も助けてくれない。
自分がここで倒れて死んだとしても、貴之と瑠璃華は「自己管理ができない無能が勝手に倒れた」と笑い、翌日には新しい派遣社員を使い潰すだけなのだ。
恐怖と絶望の中で、千夏の手が、制服のベストのポケットへと伸びた。
震える指先が掴み出したのは、私用のスマートフォンだった。
パスコードを解除する指が震え、何度もエラーを吐き出す。四度目にようやく開かれた画面。
メッセージアプリのトークルーム。
最上段に固定された、世界で一番尊敬し、憧れ、背中を追いかけ続けてきた女性の名前。
『槇野佳乃』。
深夜一時八分。
こんな非常識な時間にメッセージを送れば、迷惑がかかる。
佳乃先輩だって、鳴神物産を不当に追い出され、傷ついているはずなのだ。自分のような後輩の愚痴に付き合っている暇などないはずだ。
理性がそう叫んでいた。
だが、千夏の生存本能は、もはやその遠慮すら押し流していた。
痙攣する親指が、液晶のキーボードを掠めるように叩く。
『佳乃さん……助けてください。もう、息ができません……』
送信。
文字が右側の吹き出しに吸い込まれた瞬間、千夏は力尽き、スマートフォンを床へと取り落とした。
ツゥー、と涙が頬を伝い、カーペットの毛足へと吸い込まれていく。
これで終わりだ。
自分は会社を放り出し、憧れの先輩に惨めな泣き言を垂れ流しただけの、救いようのない落伍者だ――。
ブブッ。
静寂の中、床の上に落ちたスマートフォンが、短い振動を上げた。
送信完了から、わずか三十秒足らず。
千夏は涙で霞む目を瞬かせ、床を這うようにして画面を覗き込んだ。
画面に表示されていたのは、即座についた『既読』のマーク。
そして、一切の躊躇も動揺も感じさせない、研ぎ澄まされた刃のように明確で力強い、佳乃からの返信だった。
『今すぐ私物だけをバッグに詰め、オフィスのパソコンをシャットダウンして退館しなさい。
通用口を出た正面の車道に、日本交通の黒塗りハイヤー(品川330・た・88-21)がすでに手配してあります。
ドライバーに行き先は伝えてあります。
千夏さん、何も心配いりません。私がすべて引き受けます』
「っ……あ……!」
声にならない嗚咽が、千夏の喉から漏れた。
深夜一時過ぎのSOSに対し、三十秒で状況を察知し、退去の手順を指示し、すでに会社の目の前に救出のハイヤーを配車してみせた。
この超人的な即応力。
相手が何を求め、何を必要としているかを瞬時に先回りし、安全な退路を敷き詰める――千夏が七年間見てきた、あの完璧で偉大な槇野佳乃の仕事そのものだった。
千夏は這い上がり、デスクの上の私用バッグを掴んだ。
会社の資料には一切手を触れず、自らの財布とスマートフォンだけを放り込む。
PCの電源ボタンを長押しして強制終了させると、千夏は振り返ることもせず、非常階段の重い扉へと向かって駆け出した。
◇
通用口を抜けると、春の冷たい夜風が汗ばんだ千夏の顔を打った。
暗い車道に、ハザードランプを点滅させて停車していた一台の漆黒のセダン。
千夏が近づくや否や、白手袋をはめたドライバーが素早く降りて後部座席のドアを開けた。
「瀬尾千夏様ですね。槇野様より伺っております。どうぞお乗りください」
「は、はい……っ」
滑り込んだ車内は、信じられないほど静かで、柔らかな暖房が効いていた。
ドアが閉まると同時に、セダンは音もなく夜の大通りへと滑り出していく。
深夜の首都高を抜け、車が向かった先は――皇居の緑と広大な和田倉濠を間近に臨む、日本屈指の格式を誇るラグジュアリーホテル、『パレスホテル東京』だった。
正面エントランスを抜け、エスコートされたのは、宿泊者や限られたVIPのみが入場を許されるプライベートラウンジの奥深く、水鏡を望む半個室のソファー席だった。
「……千夏さん」
柔らかな間接照明の光の下、静かに立ち上がった女性の姿を見た瞬間、千夏は足が止まり、息を呑んだ。
そこにいたのは、千夏の知る「鳴神物産の地味な佳乃先輩」ではなかった。
後頭部で頑なに結い上げられていた黒髪は、首筋のラインを息を呑むほど美しく見せる、洗練された前下がりのボブへと整えられている。
野暮ったい銀縁眼鏡は外され、露わになった切れ長の瞳は、澄み切った秋の夜空のように深く、理知と気品を湛えていた。
身に纏うのは、最高級ウールで仕立てられたチャコールグレーのパンツスーツと、胸元で優美に結ばれた純白のシルクボウタイブラウス。
どんな政財界の女性リーダーよりも凛としていて、神々しいまでのオーラを放つ一人の完成されたエグゼクティブ・ウーマン。
「か……佳乃、先輩……?」
千夏が呆然と呟くと、佳乃の端正な唇が、かつてオフィスで見せてくれたのと同じ、どこまでも温かく優しい弧を描いた。
「よく無事に出てこられましたね。……さあ、ここに座りなさい」
佳乃は千夏の手を取り、上質なベルベットのソファーへと優しく座らせた。
テーブルの上には、すでに湯気を立ち上らせる純白の磁器のポットとカップが用意されていた。
注がれたのは、甘いカモミールと清涼感のあるペパーミントが絶妙にブレンドされたハーブティー。立ち上る香りを吸い込んだだけで、千夏の過呼吸で強張っていた喉の奥が、ふわりと弛緩していくのが分かった。
「飲んで。気道を温めて、ゆっくりと深呼吸をしなさい。吸うことよりも、長く吐き出すことを意識して」
「は、はい……っ、ふぅ……っ」
佳乃が千夏の背中にそっと温かい手を添え、一定のリズムで優しく撫でる。
カップを持ち、熱いハーブティーを一口、二口と喉へと滑り込ませる。
胃の腑へと温もりが落ちていくにつれ、指先の冷たい痙攣が治まり、濁っていた視界が次第にクリアになっていった。
そして――
温かな安堵が全身を満たした瞬間、張り詰めていた千夏の感情の防波堤が、音を立てて決壊した。
「佳乃さん……っ! 佳乃さん……っ!!」
千夏はカップをテーブルに置くと、佳乃の胸元へとすがりつき、子供のように泣きじゃくった。
「私……もう、ダメです……! 息が苦しくて、頭がおかしくなりそうで……っ! 会社が、会社がもうメチャクチャなんです……!!」
ボロボロの制服を着た千夏が、極上のスーツを濡らすのも構わず涙を零す。
佳乃は嫌な顔一つせず、千夏の細い肩をしっかりと両腕で抱きしめた。
上質な白檀と、深煎り珈琲の清冽な香りが千夏を包み込む。
「大丈夫よ、千夏さん。もう一人で耐えなくていいの。……全部、話してごらんなさい。何があったのかを」
佳乃の低く落ち着いた声に促され、千夏は途切れ途切れに、だが堰を切ったように真実を吐露し始めた。
「……手帳が……佳乃先輩が残してくださった、あのバインダーが……っ」
千夏は拳を握り締め、悔しさに唇を震わせた。
「先輩が追い出された翌朝……新しく来た江藤瑠璃華が、『昭和の紙ゴミ』『不潔で邪魔』って言って……大型シュレッダーに、全部放り込んでしまったんです……っ!」
佳乃の抱きしめる腕の力が、わずかに強張った。
だが、佳乃は声を荒らげたりはしなかった。ただ、切れ長の瞳の奥に、氷河のような冷徹な光がスッと宿るのを、千夏は間近で感じ取った。
「……私の引き継ぎ資料を、シュレッダーに」
「はい……! 私が必死で止めようとしたのに、貴之社長は『業務効率化だ、ペーパーレスの推進だ』って笑って……! 今週中に更新しなきゃいけなかった大東京フィナンシャルの特約条項のメモも、港湾倉庫の連絡網も、取引先の慶弔カルテも……全部、粉々にしてゴミ箱に捨ててしまったんです……!」
千夏は涙を拭い、続けた。
「それなのに……仕事が回らなくなったら、全部私のせいにされて……! 江藤室長は『私はエグゼクティブ秘書だから雑務はやらない』って定時で銀座や六本木へ遊びに行って、残された膨大なクレーム対応と資料作りを、全部私一人に押し付けて……! 貴之社長からは『お前は使えないゴミだ』『代わりなら派遣村からいくらでも補充できる』って怒鳴られて……残業代も、一円も出なくて……っ!」
すべてが明かされた。
鳴神物産の新体制がひた隠しにしようとしていた、組織の崩壊と、底知れない腐敗の実態。
先代が築き上げた信用のネットワークを自らの無知で切り刻み、生じた破綻の責任をすべて立場の弱い若い社員に擦り付け、違法な労働環境で使い潰す。
千夏の話をすべて聞き届けた佳乃は、静かに千夏の身体を離し、その涙に濡れた顔を両手で優しく包み込んだ。
その瞳には、怒り狂うような浅薄な感情はなかった。
あるのは――かつて先代・剛造が最も信頼した『冷徹な知性』と、自らの大切な後輩を決して見捨てないという『絶対の慈愛』だった。
「千夏さん。よく、今まで耐え抜きましたね」
佳乃の声は、どこまでも澄み渡り、千夏の魂の底へと沁み入っていった。
「あなたが苦しむ筋合いなど、何一つありません。会社の心臓を自ら切り刻み、泥舟を沈没させようとしているのは、あの無能な社長と愛人です。あなたの誠実さは、あんな者たちに搾取されていいものではありません」
佳乃はテーブルの上のハンドバッグから、清潔なリネンのハンカチを取り出し、千夏の濡れた目元を丁寧に拭った。
そして、テーブルの上に置かれた自身のスマートフォンへと、静かに視線を落とした。
「……夜明けまで、まだ時間があります。千夏さん、これからはあなたが泣き寝入りする番ではありません」
佳乃の唇の端に、冷たく、だが圧倒的な確信を秘めた笑みが浮かんだ。
「あの傲慢な者たちに、奪われたすべての対価を法的に支払わせるための――反撃の準備を始めましょう」
静かなホテルのラウンジに、深夜の風が窓を微かに揺らしていた。
鳴神物産の崩壊は、もはや止めることのできない必然の坂道を、一気に転がり落ちようとしていた。




