第16話:あれはただの雑用係だ
ジリリリリリッ! ジリリリリリッ!
ジリリリリリッ! ジリリリリリッ!
鳴神物産本社ビル三十四階、総務・秘書課フロアには、耳を塞ぎたくなるような電話のベルが、幾重にも重なり合って狂ったように鳴り響いていた。
普段であれば、コール音が二回鳴る前に誰かが受話器を取り、穏やかで洗練された声で取り次ぎが行われていたはずのフロアだ。
だが今、三十台以上並んだマルチビジネスフォンのランプは、赤や緑の激しい点滅を繰り返したまま放置され、まるで火災報知器のように悲鳴を上げ続けていた。
「はいっ、鳴神物産でございます! ……あ、東都重工の業務部様……! 申し訳ございません! 本日の定期連絡会議の件でございますね!? すぐに確認を――えっ、会議室の予約が入っていない!? 役員の方がロビーでお待ち……!? も、申し訳ございません!!」
「総務です! ……あ、中東プラント開発機構の理事長室様……! 時差……はい、ドバイ時間と東京時間の計算を……大変申し訳ございません! 社長の鳴神は今、外出しておりまして、オンライン会談の接続が……ヒィッ、少々お待ちください!」
「慶弔電報の手配が漏れていた!? 大同化成の会長様のご葬儀、今朝十時開式だったんですか!? 供花も届いていない……!? ど、どなたが担当を……!?」
フロア中の平社員たちが、充血した目を見開き、受話器を肩と耳で挟みながら書類の山をひっくり返して怒号を交わし合っている。
書類は散乱し、床には印刷ミスのコピー用紙が踏みにじられ、ゴミ箱からはコンビニの空き容器が溢れかえっていた。
先代・剛造が築き上げた国内有数の総合商社のヘッドクオーターは、槇野佳乃というたった一人の「心臓」を失ってからわずか二週間で、完全に機能を停止しかけた野戦病院と化していた。
「……っ、う……」
フロアの最前列、秘書課のアシスタントデスクで、瀬尾千夏は机に突っ伏しそうになる身体を、両手で必死に支えていた。
二十三歳。新卒二年目の華奢な身体は、連日の激務で見る影もなくやつれ果てていた。
目の下には墨を塗ったような濃い隈が広がり、血色の失せた唇はひび割れている。手首は腱鞘炎を起こして湿布が巻かれ、キーボードを叩く指先がかすかに痙攣していた。
佳乃が解雇されたあの日から、千夏はまともに自宅のベッドで眠っていなかった。
連日、深夜二時、三時までオフィスに残り、朝は七時に出社してクレームの一次対応に追われる。
睡眠時間は連日二時間足らず。食事はデスクの引き出しに突っ込んだゼリー飲料を喉に流し込むだけ。
佳乃が抜けた穴を、新任の秘書室長である江藤瑠璃華が埋めることなど、最初から期待できるはずもなかったのだ。
カツ、カツ、カツ。
フロアの騒乱を嘲笑うかのように、廊下の奥から優雅なヒール音が近づいてきた。
現れたのは、淡いラベンダー色のシフォンブラウスに身を包み、手入れの行き届いた巻き髪を揺らす江藤瑠璃華だった。
片手には、銀座の路面店で買わせたばかりのエルメスのバーキン。もう片方の手には、スターバックスのグランデサイズのフラペチーノが握られている。
壁掛け時計の針は、午後四時五十分を指していた。
「ふぅ〜、今日も外回り疲れちゃったぁ。貴之さんと表参道で新しい社用車の内装見てたんだけどぉ、やっぱりベントレーのシートって超座り心地いいですよねぇ〜」
瑠璃華はフロアの阿鼻叫喚など視界にも入れず、自分のデスクの上にドンッとバーキンを置いた。
そして、山のように積まれていた決裁書類のファイルタワーを、汚い虫でも払うように邪魔そうに脇へ押しやる。
「千夏ちゃぁん。これ、何? 机の上にこんな紙の束積み上げないでって言ったでしょ? せっかくアロマディフューザー置いたのに、紙埃で台無しじゃない」
「え……江藤、さん……」
千夏はかすれ切った声で顔を上げた。
「お、お戻りになられたんですね……! お願いです、社長の明日のスケジュールを確認してください! 明日の午前中、通商産業省の資源エネルギー庁との非公式協議が入っているはずなのに、社長のカレンダーには『六本木ヒルズ・パーソナルジム』としか登録されていません! 経産省の審議官をお待たせするわけにはいきません、すぐに社長に連絡を――」
「はぁ? 何言ってんの?」
瑠璃華はストローをちゅーっと吸い、心底鬱陶しそうに眉をひそめた。
「明日の午前中は、貴之さんのボディメイキングの日なの。社長の健康管理もエグゼクティブ秘書の重要な役目でしょ? お役所の人なんて、午後に適当にずらしてもらえばいいじゃない。千夏ちゃんから電話一本入れて、リスケしといてよ」
「り、リスケ……!? 審議官ですよ!? 国のエネルギー特区の許認可に関する、数ヶ月前から調整していた最重要面談なんです! そんな簡単に動かせるわけが――」
「うるさいわねぇ!」
瑠璃華はフラペチーノのカップをデスクに叩きつけた。
「私に指図しないでよ! 私、社長専属の『エグゼクティブ・オフィサー』なのよ? 社長の隣で華を添えて、海外のVIPをおもてなしするのが私のお仕事なの! 日程の調整とか電話番みたいな泥臭い雑務は、平のアシスタントであるあなたの仕事でしょ!? 私がやるわけないじゃない!」
「なっ……」
千夏は絶句した。
佳乃が残したあの門外不出の手帳を、「昭和の紙ゴミ」と称してシュレッダーに放り込んだ張本人が、この女だ。
手帳を失い、顧客の緊急連絡先も、各省庁との折衝プロトコルもすべて消失した中で、そのすべての尻拭いを千夏一人に押し付け、自分は「エグゼクティブ」を気取ってショッピングとサロン通いに明け暮れている。
「じゃあ私、もう定時だから上がるね〜。今夜は貴之さんと麻布十番でお鮨だからぁ。あ、その机の上のクレーム対応と、明日の役員会の資料のコピー、今夜中に全部やっといてね! 明日の朝イチで社長に見せるんだから、ミスがあったら承知しないわよ!」
瑠璃華はバーキンを持ち上げると、鼻歌交じりにフロアを後にした。
定時退社。
残された千夏のデスクには、瑠璃華が放置していったフラペチーノの結露が、重要な稟議書の上にポタポタと冷たい雫を垂らしていた。
「うぅ……っ……」
千夏は奥歯を噛み締め、両手で顔を覆った。
涙が指の隙間から零れ落ちる。
(佳乃先輩……っ)
胸の奥で、どれほど叫んでも届かない名前を呼んだ。
佳乃がいた頃は、こんな地獄は一度たりとも存在しなかった。
どんなに激務が重なっても、佳乃は常に完璧な先回りでスケジュールを組み、役員たちの体調や取引先の機嫌を察知し、トラブルの芽を事前にすべて摘み取っていた。
後輩である千夏に対しても、「千夏さん、今日はもう定時だから帰りなさい。あとの調整は私が引き受けるから」と、常に矢面に立って守り続けてくれた。
――その佳乃が、どれほどの重圧と責任を一人で背負っていたのか。
失って初めて、その「見えない仕事」の計り知れない偉大さが、骨の髄まで痛感させられていた。
ドタドタドタッ!
その時、廊下から重い足音が響き、営業フロアから一人の男が血相を変えて飛び込んできた。
専務取締役兼営業本部長・安西源三郎だった。
額に脂汗をびっしりと浮かべ、手には分厚い契約書の束を握りしめている。
「瀬尾君! 社長は!? 鳴神社長はどこにおられる!?」
「あ、安西専務……! 社長は、先ほど外出先からそのまま……夜のご会食へ向かわれました……」
「会食だとッ!?」
安西は怒髪天を突く勢いで怒鳴り声を上げた。
「こんな時に会食など行っている場合か!! 全国の港湾倉庫の優先利用枠が、今朝九時をもって他社に奪われた! 我が社のコンテナ船三隻が、横浜と神戸の沖合で荷揚げできずに立ち往生しているんだぞ! 違約金だけで一日に数千万円が吹き飛んでいるんだ!!」
安西は千夏のデスクに拳を叩きつけた。
「なぜ倉庫会社への更新手続きが滞っていた!? 港湾倉庫の契約更新は、毎年この時期に秘書室から根回しをして、港湾運送協会の幹部へ挨拶状と手土産を入れて枠を確保するのが絶対の慣例だったはずだ! なぜ誰も動いていなかったんだ!!」
「も、申し訳ございません……!」
千夏は椅子から立ち上がり、涙をボロボロと流しながら頭を下げた。
「その……港湾倉庫の更新管理簿も、各港の組合長様の個人連絡先も……全部、佳乃先輩のデスクのバインダーにしか残っていなくて……江藤室長が、全部シュレッダーにかけてしまって……誰も、更新期限が今日だということを知らなかったんです……!」
「な……ッ!!」
安西は息を呑み、言葉を失った。
またしても、佳乃の手帳の破棄による致命傷だ。
現場の営業マンたちがどれほど泥水を啜って商品を仕入れても、物流の心臓部を動かす「根回しのデータ」が消滅したせいで、すべてが水泡に帰している。
「あいつらは……あの愚息と愛人は、どこまで会社を破壊すれば気が済むんだ……!」
安西はワナワナと唇を震わせ、苦悶の表情で頭を抱えた。
その時だった。
ポーン、と澄んだチャイムが鳴り、役員フロア直通のVIP専用エレベーターの扉が開いた。
中から現れたのは――
最高級テーラー『ブリオーニ』の大きな紙袋を提げ、上機嫌で鼻歌を歌いながら歩いてくる鳴神貴之だった。
「おや? 安西専務、こんなところで何をしてるんですか? 顔色が悪いですよ。もっとスマートに仕事をしなきゃ、部下がついてきませんよ」
貴之は何事もなかったかのようにヘラヘラと笑い、スーツの襟元を撫でた。
その呑気な姿を見た瞬間、安西の理性のタガが完全に吹き飛んだ。
「社長ッ!!」
安西は大股で詰め寄り、エレベーターホールの前で貴之の行く手を塞いだ。
「呑気に服など買っている場合ですか! 港湾倉庫の枠が喪失し、海上で貨物が止まっています! さらに大東京フィナンシャルからの包括融資枠の凍結を受け、三菱も三井も我が社への短期融資の姿勢を急激に硬化させています! 現場はパニックです! このままでは、今月末の決済すら乗り切れませんぞ!!」
安西の鬼気迫る怒号。
だが、貴之は鬱陶しそうに眉をひそめ、紙袋を持ち直して溜息をついただけだった。
「あーあ、また始まった。安西専務、あんたは本当に騒ぎ立てるのが好きですね。港湾倉庫の枠が取れなかった? そんなもん、金を積んで民間のスポット倉庫を借り直せばいいだけの話でしょ。融資枠の話だって、前に言ったはずですよ。外資系のベーカー&スターンズから五百億円の特別調達枠を引っ張る交渉が進んでるんです。古いメガバンクの顔色なんて伺う必要はないんですよ」
「外資のメザニンローンなど、高利で担保を毟り取られる危険極まりない毒薬です!」
安西は貴之の胸元に迫り、目を血走らせて叫んだ。
「目を覚ましてください、社長! 会社が回っていたのは、先代の威光と、そして……何より槇野君が水面下で張り巡らせていた、人脈とリスク管理の防波堤があったからです! 彼女が去ってわずか二週間で、この惨状です! 今すぐプライドを捨てて、槇野君の元へ行き、土下座してでも連れ戻すべきです!!」
――槇野を、土下座して連れ戻せ。
その言葉を聞いた瞬間、貴之の顔からヘラヘラとした笑みが消え失せた。
代わりに浮かび上がったのは、自尊心を傷つけられた子どものような、醜悪で冷酷な嘲笑だった。
「ハッ! ギャハハハハハッ!!」
貴之は腹を抱えて大笑いした。
エレベーターホールに響き渡る下品な笑い声。
貴之は紙袋を床に放り出すと、安西の胸倉を掴まんばかりに顔を近づけた。
「安西専務、あんたも完全に焼きが回ったな! あの地味女一人いなくなったくらいで、創業七十年の名門商社が傾くわけがないだろ! あいつがやってたことなんてな、お茶汲みとカレンダーへの予定の書き込み、あとは手土産のデパ地下巡りだぞ!? そんな『誰にでもできる雑用係』に、会社を左右する力なんてあるわけねえだろ!」
「社長……ッ!」
「港湾倉庫の枠が落ちただの、スケジュールが狂っただの……全部、あそこにいる無能なアシスタントの瀬尾がトロいせいだろ!」
貴之はフロアの奥で震えている千夏を、汚い指先でビシッと指差した。
「前の担当者が残した仕事すら満足に引き継げない、あいつの能力不足だ! 槇野が特別だったんじゃない、そこの瀬尾が使えないゴミなだけだ! 『代わりなら、派遣村からでもいくらでも補充できる』んだよ!!」
「っ……ひぐっ……!」
千夏は口元を手で押さえ、絶望の涙をポロポロと床に零した。
自分を庇ってくれるはずのトップから投げつけられた、あまりにも無慈悲で理不尽な侮蔑。
七年間、身を削って会社を支えてきた佳乃も、こうしてこの男に踏みにじられ、ゴミのように捨てられたのだと、千夏は痛烈に理解した。
「いいか安西、二度とあの裏切り者の名前を俺の前で出すな」
貴之は吐き捨てるように言い放ち、足元に落ちていたブリオーニの紙袋を乱暴に拾い上げた。
「俺は今夜、ベーカー&スターンズのリチャード・神崎さんと六本木の会員制バーで極秘会談なんだよ。五百億の資金調達が決まれば、あんたたち老害の鼻を明かしてやるから、大人しく指をくわえて待ってろ!」
チン、と再びエレベーターが到着し、扉が開く。
貴之は振り返ることもせず、靴音を鳴らして乗り込んだ。
そして、閉まりゆく扉の隙間から、冷ややかに千夏と安西を見下ろした。
「じゃあな。明日の朝までに、散らかったフロアを綺麗に片付けとけよ、無能ども」
バタンッ。
重厚な扉が完全に閉ざされ、インジケーターのランプが下降を始めた。
静まり返ったエレベーターホール。
残された安西は、悔しさに奥歯を噛み締め、ドスンと壁を拳で殴りつけた。
「……すまない、瀬尾君。……すまない……!」
叩き上げの専務が、若い女性社員の前で、屈辱の涙を滲ませていた。
フロアに戻った千夏は、自席のデスクに崩れ落ちるように座り込んだ。
鳴り止まない電話のベル。
散乱する書類の山。
そして、深夜二時を回ろうとしているデジタル時計の無機質な光。
もう、息が吸えなかった。
心臓が早鐘を打ち、視界がチカチカと白く明滅する。
過呼吸の発作が、限界を迎えた千夏の小さな身体を容赦なく襲っていた。
(もう……だめ……)
(助けて……誰か……助けて……)
千夏は震える手で、制服のポケットから私用のスマートフォンを取り出した。
ぼやける視界の中、メッセージアプリを立ち上げる。
トーク履歴の最上段にピン留めされていた、たった一人の憧れの先輩のアイコン。
『槇野佳乃』。
千夏は痙攣する指先で、文字を打ち込んだ。
涙で滲む画面に、命を絞り出すようなメッセージが送信される。
『佳乃さん……助けてください。もう、息ができません……』
送信ボタンを押した瞬間、千夏の力尽きたスマートフォンが、冷たいデスクの上へと滑り落ちた。
深夜一時の鳴神物産。
崩壊へのカウントダウンが、狂気的な速度で針を進めていた。




