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第15話:契約締結と疑念

午前八時五十分。

皇居の広大な濠を見下ろす大手町の一等地。日本の金融中枢の象徴として聳え立つ『大東京フィナンシャルグループ』本部タワーの最上階には、凛とした朝の光が降り注いでいた。

天井まで届く重厚な一枚ガラスの向こう、地上二百メートルから見下ろす東京の街並みは、朝の通勤ラッシュに蠢く車と人の波で埋め尽くされている。

その最上階の奥、防音壁で完全に守られた副頭取室の執務机に向かい、九条雅恵は静かに万年筆のキャップを外した。


身に纏うのは、昨夜の艶やかな大島紬とは一変した、仕立ての良いチャコールグレーのテーラードスーツ。

胸元にパールのブローチを一つだけ留めたその姿は、私情の一切を削ぎ落とし、三メガバンクの一角として数百兆円の資産を差配する「兜町の女帝」そのものの威厳を放っている。


机の上には、青革のフォルダーに収められた分厚い契約書――『タカツカサ・ネクストジェネレーション・グリーンインフラ投資事業有限責任組合 出資承諾調印書』が広げられていた。

出資金額欄に印字された数字は、英数字で正確に記されている。


――金 壱千億円也(¥100,000,000,000-)。


机を挟んだ対面には、寸分の狂いもない姿勢で鷹司誠一郎が腰を下ろしていた。

そしてその半歩後ろ、誠一郎の左斜め後方には、チャコールグレーのパンツスーツに身を包んだ槇野佳乃が、澄んだ瞳を書類へと注いで直立している。


サラ、サラサラ……。


室内に、十八金のペン先が上質紙の繊維を滑る音だけが小さく響いた。

雅恵は流麗な筆致で自らの署名と役職を書き記すと、印肉を丁寧につけた副頭取の職印を、寸分の傾きもなく押印した。

朱肉の鮮やかな紅が、白銀の契約書の上に鮮烈に浮かび上がる。


「……確かに、調印いたしました」

雅恵は万年筆を置くと、革のフォルダーを両手で押し出し、誠一郎へと手渡した。

「鷹司代表。我が大東京フィナンシャルグループは、タカツカサ・キャピタルの掲げる脱炭素インフラファンドに対し、総額一千億円のアンカー出資を正式にコミットいたします。……我々の預金者から預かった大切なお金です。期待以上の運用利回りと、日本経済の未来を切り拓く力強いリターンを約束してくださるわね」


誠一郎はフォルダーを両手で受け取り、深く、優雅に一礼した。

「お任せください、九条副頭取。御行の信頼と期待、何倍もの価値にしてお返しいたします。シンジケートローンの主幹事権限、ならびに地方創生案件の優先交渉権に関する包括覚書も、本日中に法務よりお届けさせます」


「ええ、楽しみにしているわ」

雅恵は冷徹な銀行家の仮面をわずかに緩め、ふっと柔らかく目を細めた。

そして、誠一郎の背後に控える佳乃へと、穏やかな視線を向けた。


「佳乃さん」

「はい、副頭取」

佳乃が進み出て、膝の横で手を揃えて頭を下げる。

雅恵は机の引き出しから、折り目のない純白の便箋を取り出した。そこには、雅恵自身の直筆で、流れるような美しい毛筆の文字が記されていた。


『鷹司代表の才気と、槇野さんの比類なき差配に賭けます』


雅恵はそのメモを、そっと契約書のフォルダーの隙間に挟み込んだ。

「昨夜いただいた碧翠園の『白雲』……久しぶりに、泥のような眠りから覚めたような清々しい朝を迎えられました。喉の奥に広がったあの澄んだ香りは、どんな高価な薬よりも私の身体を癒やしてくれたわ。……あなたがタカツカサの右腕としている限り、私はこのファンドの成功を疑いません」


「もったいないお言葉でございます」

佳乃の胸が、熱い感謝と誇りで震えた。

昨夜の料亭の渡り廊下で、相手の命と歴史を想い、命懸けで手繰り寄せた誠意の糸。それが今、一千億円という巨額の信頼となって結実したのだ。


「これからの政財界は、古臭い虚栄や男たちの意地の張り合いではなく、あなたのように現場の本質を見抜き、人の心に寄り添える知性こそが動かしていくべきよ」

雅恵は立ち上がり、佳乃の正面へと歩み寄ると、その細い手をそっと自らの両手で包み込んだ。

「身体にだけは気をつけてね。……あの愚かな元婚約者が、どのような妄動に出ようとも、あなたが恐れるものは何一つないわ。大東京フィナンシャルは、常にあなたの味方よ」


「……はい、九条副頭取。心より、感謝申し上げます」

女帝からの絶対の庇護の言葉。

その言葉を背に受け、佳乃と誠一郎は副頭取室を後にした。


◇


午前十時十五分。

赤坂の超高層タワー、タカツカサ・キャピタルのメインフロアに二人が戻った瞬間――

フロア全体を揺るがすような、凄まじい歓声と拍手が巻き起こった。


「うおおおおぉぉぉっ!! 取ったぞ! 一千億の出資承諾書、着弾だ!!」


COOの梶原康平が、手元の端末に表示された調印完了の通知画面をフロアの全員に見せつけるように掲げ、飛び上がって叫んでいた。

ウォール街やロンドンから集まった冷徹なトップアナリストたちが、ネクタイを緩めてハイタッチを交わし、デスクを叩いて歓喜の声を上げている。

法務統括の真鍋苑子すらも、普段の厳しい表情を完全に崩し、プラチナの眼鏡を指先で直しながら、心底からの笑みを浮かべて佳乃を出迎えた。


「信じられないわ……。あの気難しくて有名な九条副頭取が、会食の翌朝一番で、何の修正要求も挟まずに出資承諾書にサインするなんて。……槇野さん、いえ、佳乃さん。あなたの完璧なロジスティクスと手土産の選定がなければ、間違いなくこのディールは数ヶ月の泥沼の審査に引きずり込まれていたわ」

「真鍋先生……」

「法務の観点からも、これ以上完璧なスタートはありません。大東京フィナンシャルがアンカーとして一千億を拠出したというニュースが市場に流れれば、他の地方銀行や生保からの出資枠は、今日中に上限の三千億円へ達するはずよ。……歴史的な勝利だわ」


苑子は佳乃の両肩にそっと手を置き、誇らしげに頷いた。

梶原も満面の笑みで佳乃の背中をポンと叩く。

「あんたはウチの勝利の女神だよ、佳乃さん! 今夜はファンド全員で六本木のクラブを貸し切って祝杯だ! 最高級のヴィンテージシャンパンを何本でも開けてやるぜ!」


「梶原、浮かれるな」

背後から響いた誠一郎の冷徹な一喝に、梶原が「へいへい」と肩をすくめる。

だが、その誠一郎の横顔にも、かつてないほどの充実感と、隠しきれない誇りが滲み出ていた。

誠一郎は佳乃の元へと歩み寄り、至近距離で見つめると、周囲の狂乱から二人だけの世界を切り取るように、低く、甘やかな声で耳元に囁いた。


「見事だ、佳乃。……君の淹れてくれた今朝の珈琲の味を、一生忘れることはないだろう」

「……誠一郎様」

大勢の社員がいる前で、ふと見せられた男の独占欲と熱い眼差しに、佳乃の頬がカッと紅潮する。

自分の居場所は、ここにある。

誰の影でもなく、世界を動かす最強のチームの心臓部として、自分は今、確かに生きている。

その確信が、佳乃の全身を満たしていた。


◇


その頃。

大手町の大東京フィナンシャルグループ本部、副頭取執務室。


誠一郎と佳乃を見送った九条雅恵は、室内の内線電話の受話器を静かに取り上げていた。

先ほどまでの温かな表情は完全に消え去り、その瞳には、氷刃のような冷酷な光が戻っている。


「……審査部長を、至急私の部屋へ呼びなさい」


五分後。

副頭取室の扉をノックし、恐る恐る入ってきたのは、同行の融資審査を統括する審査部長の男だった。

雅恵は机の上に置かれた一枚の書類――鳴神物産に対する融資状況の管理シートを、ボールペンの先でコンコンと叩いた。


「審査部長。鳴神物産に対する包括信用供与枠(コミットメントライン)三百億円の更新申請についてよ」

「は、はい! 先代会長の急逝に伴い、代表取締役が鳴神貴之氏へと変更された件でございますね。新体制からの更新申請書は、すでに審査部へ提出されておりますが……」

「却下……とまでは言わないわ。ですが、直ちに『保留・再審査扱い』へ引き下げなさい」


雅恵の冷徹な宣告に、審査部長の息が止まった。

「ほ、保留でございますか……!? 鳴神物産は先代の時代から、当行にとっても最重要のメイン先の一つでございます。包括枠の更新を保留などとすれば、他行への影響も甚大で……下手をすれば、短期の資金繰りに重大な懸念が生じる恐れがございますが……」


「当然よ。懸念があるからこそ、引き下げるのよ」

雅恵は冷ややかな眼差しで審査部長を射抜いた。

「昨夜、私は鳴神貴之新社長の『資質』を、直接この目で確かめてきました。……結果は、惨憺たるものだったわ。ガバナンスの崩壊、コンプライアンス意識の完全な欠如、取引相手に対する基礎的な配慮の欠如。とてもではないけれど、上場企業の舵取りを任せられる器量ではないわ」


雅恵は手元のペンを置き、背もたれに深く体重を預けた。

「銀行の使命は、回収不能になるリスクのある資金を野放しにすることではないはずよ。新体制に対し、今後一ヶ月以内の『詳細な経営健全化計画書』の再提出を求めなさい。同時に、既存融資のコベナンツ(財務制限条項)違反がないか、融資先の資産査定を厳格にやり直すのよ。……少しでも不正の兆候があれば、いつでも融資の引き揚げに動けるよう、逃げ道を塞いでおきなさい」


「……は、ははっ! 直ちに手配いたします!」


審査部長は青ざめた顔で深々と頭を下げ、部屋を退出していった。

静まり返った執務室で、雅恵は窓の外を見つめ、静かに呟いた。


「……剛造さん。あなたの息子は、自らの手で会社の命綱を断ち切ったわ。市場の審判を、受けてもらうわよ」


大手町から放たれた目に見えない金融の刃が、鳴神物産の首元へと、音もなく突き刺さろうとしていた。


◇


同日、午前十一時。

鳴神物産本社ビル最上階・新社長室。


ガッシャアアアアアンッ!!


耳をつんざくような陶器の破砕音が、白革のソファで彩られた真新しいオフィスに響き渡った。

高級ブランドのマグカップが壁の大型モニターに激突し、粉々に砕け散って、淹れたてのカプチーノが白い壁に無残な茶色の染みを作っている。


「ふざけんなッ!! なんだってんだよ、あのクソババアがああああっ!!」


髪を振り乱し、ネクタイを千切れるほど引っ張りながら狂乱していたのは、鳴神貴之だった。

その手には、先ほど大東京フィナンシャルグループの融資担当役員から直接ファックスで送られてきた、一枚の公的通知書が握りつぶされていた。


『コミットメントライン契約更新に関する審査保留通知書』。


そこに記されていたのは、貴之が最も恐れていた宣告だった。

先代会長の死去に伴う信用枠の更新は「一時凍結」。追って提出される事業計画の再審査が完了するまでの間、三百億円の融資実行は一切認められないという、事実上の兵糧攻め。


「な、なんでだよ……! 昨夜、俺はあんなに頭を下げたじゃないか! エビのアレルギーなんて知らなかったって、ちゃんと謝っただろ! それを、翌朝一番で融資枠の凍結だと!? たかが料亭の料理一つで、何十年の付き合いがあるメインバンクがこんな仕打ちをしていいと思ってんのかよ!!」


貴之は床を踏み鳴らし、デスクの上の書類を片っ端から薙ぎ払った。

バサバサと紙が宙を舞い、床に散らばっていく。

先代が遺した城の玉座に座ってわずか数日。万能感に酔いしれていた若き社長は、初めて直面した「冷酷な現実」の重圧に、完全にパニックに陥っていた。


「しかも……しかもだッ!」

貴之の充血した瞳が、昨夜の記憶を呼び覚まし、憎悪に歪む。

「タカツカサの鷹司……! あのハゲタカ野郎が、なぜ昨夜、千代乃にいたんだ!? 九条のババアと裏で繋がってやがったのか!? ……それに、あいつだ! 佳乃だ!!」


脳裏に焼き付いて離れない、昨夜の渡り廊下の光景。

自分が「代わりなどいくらでもいる」と雨の中に放り出した地味な女が、仕立ての良いスーツを纏い、まるで別人のような圧倒的な美貌と知性を漂わせて、鷹司誠一郎と九条雅恵の間に立っていた。

そして、自分を虫けらのように見下ろしていたあの絶対零度の瞳。


「な、なんであいつが……タカツカサの連中と一緒にいるんだよ!? 俺がクビにしてやった負け犬のくせに! みっともなく泥水すすって泣きついてくるはずの女が、なんであんな……あんな偉そうにッ!!」


「もぉ〜、貴之さんったら、落ち着いてくださいよぉ」


キーキーと耳障りな声で宥めに入ったのは、白革のソファで優雅に足を組み、ネイルオイルを爪に塗り直していた江藤瑠璃華だった。

瑠璃華は昨夜の失態などまるで他人事であるかのように、小首を傾げてふくれっ面を作ってみせた。


「そんなの、決まってるじゃないですかぁ。あの佳乃って人、最初から鷹司代表とデキてたんですよ」

「……あ? デキてた……?」

貴之が動きを止め、血走った目で瑠璃華を見た。


「そうですよぉ〜」

瑠璃華は勝ち誇ったように唇を尖らせ、醜悪な邪推を口から吐き散らした。

「考えてもみてくださいよぉ。あんな地味で、男っ気もなくて、四角四面な性格のおばさんが、クビになった翌日にタカツカサみたいな超一流ファンドに雇われるわけないじゃないですか。絶対、先代会長が生きてた頃から、敵の鷹司代表に色目を使って、身体を売って寝返る準備をしてたんですよ!」


「な……身体を売った……?」


「当たり前じゃないですかぁ! 男なんて、ちょっと胸元開けて甘え声出せば、簡単に転がる生き物なんですから。きっとあの人、地味なフリして裏では鷹司代表の愛人やってたんですよ。昨夜の料亭の件だって、自分の身体を使って鷹司代表を焚きつけて、九条のババアを丸め込ませたんですよ! 枕営業ですよ、枕営業! 不潔極まりないわぁ〜!」


「ま、枕営業……!」

その下劣極まりない言葉が、貴之の耳に滑り込んだ瞬間。

貴之の強張っていた肩から、スッと力が抜けた。


「……そ、そうか……! そうだよな……!!」


急速に、貴之の顔に醜い安堵の色が広がっていく。

認知の歪み。

傲慢でプライドだけが高い人間が、自らの無能と敗北を直視できない時に発動する、最悪の自己防衛本能だった。


「そうだ……あいつに、ビジネスの才覚なんてあるはずがないんだ! 七年間、俺の隣でペコペコ頭を下げてただけの地味女だぞ!? 九条副頭取を動かせるような器量があるわけがない! 全部、タカツカサの男に身体を売って、裏で糸を引かせてただけなんだ!」


貴之は腹を抱えて大笑いし始めた。

狂気じみた笑い声が、社長室に響き渡る。

「ハハハッ! なんだ、そうだったのか! 俺はてっきり、あいつが何か特別な手札でも持ってるのかと焦っちまったぜ! ただの尻軽女じゃないか! 親父に媚び売り、俺に捨てられたら今度は敵のハゲタカに股を開く……底辺のメス豚だ!」


「そうですよぉ〜、貴之さん。あんな女のことなんて、気にすることないですぅ!」

瑠璃華が立ち上がり、甘えたように貴之の腕に抱きつく。

「鳴神物産の社長は貴之さんなんです。銀行のババアが意地悪して融資を止めたって、貴之さんの人脈とスマート経営があれば、お金なんていくらでも集められるじゃないですかぁ!」


「ああ、その通りだ!」

貴之は瑠璃華の腰を引き寄せ、力強く頷いた。

真実から完全に目を背け、破滅へと向かう急勾配の坂道を、自ら猛スピードで転がり始めたことに、この哀れな男は気づいていなかった。


そこへ、ノックの音とともに、血の気の引いた顔の安西源三郎が入室してきた。

「社長……! 大東京フィナンシャルからの審査保留の報を受けました! 今すぐ副頭取の元へ行き、頭を下げて――」


「うるさいんだよ、安西!」

貴之は安西の言葉を怒号で遮った。

「銀行の顔色ばかり伺う昭和のやり方は終わりだと言っただろ! 九条のババアが融資を渋るなら、こっちから願い下げだ! 銀行ごときが、鳴神物産をコントロールできると思うなよ!」


「な……何を仰っているのですか!? メインバンクの信用を失えば、他の市中銀行も一斉に手を引きます! 今月末の仕入れ代金と手形の決済はどうするおつもりですか!?」


「別の資金調達先を探せばいいだけの話だろ!」

貴之は胸を張り、傲慢に言い放った。

「これからはグローバルの時代だ。古い日本の銀行にペコペコ頭を下げるより、外資系の投資銀行や海外ファンドからスマートに調達する方が、よっぽど先進的でかっこいいじゃないか。……ちょうど今朝、知り合いのブローカーを通じて、外資系投資銀行の大物バンカーからコンタクトがあったところだ」


「が、外資系……!?」

安西の背筋に、冷たい悪寒が走った。


「そうだ。『ベーカー&スターンズ』のアジア統括をやっている、リチャード・神崎という超エリートだ。我が社の新時代のAIビジネス構想に、ぜひ巨額の資金を出資したいと言ってきている」

貴之は勝ち誇った笑みを浮かべ、机の上の内線受話器を取った。

「安西、お前はもう口を出すな。これからのファイナンスは、俺と瑠璃華、そして外資の一流エリートたちだけで進める。……タカツカサも、九条のババアも、俺を捨てた佳乃も……後で全員、俺の足元に土下座させてやるよ!」


鳴神貴之の唇から放たれた、救いようのない宣言。

それは、外資の悪魔が仕掛けた甘い罠――会社を丸ごと飲み込む「死の契約」へと、自ら喜んで首を差し伸べる、破滅への決定的な第一歩だった。

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