第14話:激怒の退席
銀皿の縁から流れ落ちるドライアイスの白煙が、座敷の畳の目を這うように広がっていく。
皿の中央に鎮座するのは、真っ赤に茹で上げられた大振りのロブスターの頭部と、その身を豪快に切り刻んでマヨネーズとゼラチンのジュレで和えた肉厚の身、そして山盛りにされた黒いキャビア。
豪奢を極めたその盛り付けは、バブル期の遺物のような過剰な自己顕示欲に満ち満ちていた。
立ち上る濃厚な甲殻類特有の甘ったるい磯の匂いと、生ぬるいマヨネーズの油気。それが、瑠璃華が撒き散らしたホワイトムスクの香水と密閉された部屋の中で混ざり合い、もはや呼吸をすることすら躊躇われるほどの異様な悪臭と化していた。
「な……何をなさるおつもりですか、鳴神社長!!」
随行秘書の悲痛な叫び声が、格天井に高く反響した。
秘書は血相を変え、両手を広げて雅恵の前に覆いかぶさるように立ちはだかっている。その肩は怒りと恐怖で激しく震え、瞳には明確な敵意が燃え盛っていた。
「ああん? 何って……」
貴之は座椅子から身を乗り出し、何が起きているのかまったく理解できないといった顔で、まぬけに目を瞬かせた。
「だから、世界最高峰の特大ロブスターだって言ってるだろ。北大西洋の冷たい海で獲れた、一本何万円もする極上品だぞ? せっかく新社長である俺自ら、副頭取を歓迎するために特別なルートで取り寄せたんだ。何をそんなに過剰反応して騒いでるんだよ。失礼だと思わないのか?」
「失礼なのはそちらです!!」
随行秘書が声を荒らげた。メガバンクの秘書課で長年揉まれ、感情を滅多に表に出さないはずのエリート女性が、我を忘れて叫んでいた。
「九条副頭取が重度の甲殻類アレルギーをお持ちであることは、政財界の常識です! 微量のエキスや出汁の混入ですら気道浮腫を起こし、命に関わるアナフィラキシーショックを引き起こす危険があるのですよ!? それを、よりにもよってメインディッシュに丸ごと一匹のロブスターを出すなど……正気の沙汰ではありません!」
「は……? ア、アレルギー……?」
貴之の顔から、急速に血の気が引き始めた。
だが、その脳髄はまだ事態の致命的な重さを認識できず、保身のための見苦しい言い訳を探して視線を泳がせる。
「そ、そんなの……聞いてないぞ! 引き継ぎのデータにも、うちの社内共有システムにも、そんなこと一言も書いてなかった! だ、大体、アレルギーなんて個人のプライベートな情報だろ! 事前にそっちから自己申告するのがマナーじゃないのか!?」
「ちょっとぉ、そうですよぉ!」
立ち膝のままだった瑠璃華が、唇を尖らせて横から甲高い声を上げた。
「アレルギーがあるならぁ、予約の時に自分で『エビはダメです』って言えばいいじゃないですかぁ! こっちは良かれと思って、一番高くて映えるお料理を用意してあげたのに、いきなり怒鳴り散らすなんて信じられなーい! これだから頭の固い銀行員は嫌なんですよねぇ〜」
「だ、黙りなさいッ!!」
ドゴォッ!
座敷を揺るがすような凄まじい衝撃音が響き渡った。
安西源三郎が、額を畳に激しく打ち付けた音だった。
五十八歳の重鎮役員が、両手を畳の奥深くに突き、全身をガタガタと震わせながら、裂けんばかりの声で叫んでいた。
「九条副頭取……! 申し訳ございません! 申し訳ございませんッ……!! すべては、私の不徳の致すところでございます! 今すぐ、今すぐお下げさせます! おい、仲居! 早くその皿を下げろ! 部屋の障子をすべて開けて空気を入れ換えろ!!」
安西の額からは、敷居の角にぶつかったのか、たらりと一筋の赤い血が滲んでいた。
だが、安西は痛みなど意にも介さず、ただ床に額を擦り付け続けた。
終わったのだ。
言い逃れのできない、完全なる致命傷。
取引先の最重要キーマンに対し、命を脅かす劇薬を笑顔で差し出し、愛人に至っては逆ギレして侮蔑の言葉を投げつけた。
ビジネス以前の、人間としての最低限の信頼関係すら、跡形もなく木っ端微塵に粉砕されたのだ。
「…………」
その修羅場の中心で。
九条雅恵は、ただ静止していた。
随行秘書の手をそっと優しく押しとどめると、雅恵はゆっくりと、膝の上に置いてあった麻のナプキンを取り上げた。
そして、銀皿の上のロブスターには視線すら向けず、ただ静かに、自らの口元を一度だけ拭った。
カサリ。
ナプキンが、丁寧に四つ折りに畳まれて折敷の脇へと置かれる。
その所作には、一切の乱れがなかった。
怒声も、叫びも、取り乱した様子もない。
だが――その静寂こそが、この広間にいる全員の頸動脈に冷たい刃を突きつけるような、底知れない戦慄を孕んでいた。
雅恵は伏せていた瞼を、ゆっくりと持ち上げた。
切れ長の瞳。
数千億の不良債権を情け容赦なく切り捨て、政財界の海千山千の怪物たちを沈黙させてきた「兜町の女帝」の瞳が、青白く研ぎ澄まされた絶対零度の光を宿して、貴之を射抜いた。
「……鳴神貴之さん」
低く、掠れた、だが骨の髄まで凍りつかせるような声だった。
部屋中の空気が、その一言で完全に凍結する。
「あなたは……私を殺す気かしら?」
「ひっ……!」
貴之の喉から、みっともない引き攣った悲鳴が漏れた。
背もたれにふんぞり返っていた身体が、まるで巨大な重力に押し潰されたかのように縮こまり、膝がガチガチと音を立てて震え出す。
「い、いえ……っ! そんな、滅相もございません! め、滅相もないです! 本当に、知らなかったんです! 悪気はなかったんです、副頭取! ただ、最高級のものを召し上がっていただきたくて――」
「悪気がなければ、人を殺しかけても許されるとお思い?」
雅恵の声音には、怒りの波風すら立っていなかった。
ただ、絶対の事実を淡々と宣告する裁判官のような、冷徹な響き。
「剛造さんが生きていた頃は、こんな無礼かつ命を脅かされるような席を用意されたことは、一度たりともなかったわ」
雅恵の視線が、瑠璃華の露出した肩と、派手なラインストーンのネイルへと向けられる。
「鼻が曲がるような安物の香水を撒き散らす素人を秘書として侍らせ、取引相手の基礎情報すら調べずに『新時代のスマート経営』? ……片腹痛いわね」
「あ、あの……九条様ぁ……」
さすがの瑠璃華も、部屋を支配する圧倒的な威圧感に気圧され、青ざめて後ずさった。
雅恵は瑠璃華を一瞥することすらなく、ただ吐き捨てるように言った。
「下品な装いに、下品な言葉遣い。自分の無知を棚に上げて客を愚弄するその浅ましさ……よくもまあ、我がメガバンクの前にそのような泥人形を引きずり出してこれたものだわ。鳴神物産の品格も、地に落ちたものね」
雅恵は両手を膝につき、すっと音もなく立ち上がった。
濃紺の大島紬の裾が、微かに揺れる。
貴之はすがりつくように手を伸ばした。
「ま、待ってください、副頭取! 料理は今すぐ別のものを取り直させます! 肉でも魚でも、何でもお好きなものを! それに、手土産のトリュフショコラも……!」
貴之がテーブルの上のピンクの紙袋を必死で差し出す。
雅恵はその紙袋を一瞥し、虫唾が走るかのように薄い唇を歪めた。
「私に砂糖の塊を食べさせて、糖尿病にでもさせたいのかしら? ……結構よ。あなた方の顔を見ているだけで、吐き気が催すわ」
「副頭取ぃぃっ!」
安西が血の滲む額を上げたが、雅恵はもはや振り返りもしなかった。
「帰りましょう」
随行秘書に短く告げると、雅恵は凛とした足取りで襖を開け放ち、本館の座敷を足早に出ていった。
バタンッ!
重厚な襖が閉ざされた瞬間、残された『葵の間』には、ただロブスターの生臭い臭気と、瑠璃華の香水の残り香、そして貴之の荒い呼吸音だけが虚しく漂っていた。
「く、クソッ……! なんだよあのババア! ちょっとエビが出たくらいで偉そうにしやがって!」
貴之は錯乱したように叫び、テーブルを激しく蹴り飛ばした。
ガラガラと銀皿が倒れ、ロブスターの赤い殻が畳の上に転がり落ちて、マヨネーズが飛び散る。
「おい安西! 追いかけろ! あのババアに頭を下げて、融資枠の維持だけは約束させろ! 三百億が消えたら、来月の決済が焦げ付くんだぞ!!」
「だ、だから申し上げたでしょうがッ!!」
安西が立ち上がり、怒髪天を突く形相で貴之を怒鳴りつけた。
「槇野君をクビにした時から、こうなることは目に見えていたんだ! 彼女がどれほどの血を流して先代の信用を守っていたのか、貴様は一ミリも分かっていなかったんだ!!」
安西は貴之の制止も聞かず、廊下へと飛び出していった。
「あ、あんのジジイまで俺に逆らいやがって……! 瑠璃華、行くぞ! 車を回させる前に追いつくんだ!」
「は、はいぃっ!」
貴之と瑠璃華もまた、みっともなくスーツを着崩し、ヒールを脱げそうにさせながら、本館の廊下をドタバタと駆け出していった。
◇
本館から玄関へと続く、中庭を渡る長い畳敷きの渡り廊下。
春の冷たい夜風が吹き抜け、池の水面がさざ波を立てている。
雅恵は怒りで早鐘を打つ心臓を押さえるように、足早に進んでいた。
後ろに従う随行秘書が、心配そうに声をかける。
「副頭取、大丈夫でしょうか。お顔の色が優れません……。お車に常備してある抗アレルギー薬をお持ちしましょうか」
「……大丈夫よ。口には入れていないわ。ただ……あの無礼極まる空間に数分いただけで、全身の毛穴が逆立つような不快感を覚えただけよ」
雅恵は足を止め、渡り廊下の欄干に手をついて、深く息を吐き出した。
夜風が、熱を持った頬を撫でていく。
「剛造さん……あなた、本当にあんな愚息のために命を削っていたのね。情けないわ……。鳴神物産が一代で築き上げた信用が、たった一晩で瓦解していくのを見るのは、耐え難い屈辱だわ」
その時だった。
「――九条副頭取」
夜の静寂を清冽に切り裂いて、澄んだ、鈴の鳴るような美しい声が渡り廊下の先から響いてきた。
「……え?」
雅恵が顔を上げると、渡り廊下の曲がり角――離れ『萩の間』へと続く灯籠の淡い光の下に、二つの影が静かに佇んでいた。
一人は、完璧なスリーピースを着こなし、両手をポケットに入れて冷徹なまでの静けさを湛える鷹司誠一郎。
そして、その半歩前に進み出て、雅恵に向かって完璧な角度の一礼を捧げていたのは――チャコールグレーのスーツを纏い、洗練された前下がりボブを夜風に揺らす、槇野佳乃だった。
「槇野、さん……?」
雅恵が足を止めた。
先ほど離れで極上の出汁と素晴らしい時間を共有し、すでに会食を終えて見送りの準備をしていたはずの二人が、なぜまだここにいるのか。
佳乃の腕には、紫色の最高級ちりめんの袱紗に包まれた、小さな長方形の桐箱が抱えられていた。
佳乃は雅恵の顔色――呼吸の微かな乱れと、鼻腔に残る異臭の不快感を一瞬の観察で見抜くと、痛ましげに、だがどこまでも穏やかな眼差しで歩み寄ってきた。
「副頭取。……本館の方で、大変なご無礼がございましたこと、心中お察し申し上げます」
「あなた……見ていたの?」
雅恵が問いかけると、佳乃は静かに首を横に振った。
「見てはおりません。ですが……風に乗って漂ってきた不快な香水の匂いと、本館の慌ただしい気配で、何が起きたかは容易に推察できました。副頭取のお身体が、アレルゲンに触れておられないかだけが心配で……お見送りのため、お待ち申し上げておりました」
佳乃は両手で抱えていた袱紗の端を、指先で音もなく、滑らかに解いた。
現れたのは、柾目の美しい最高級の桐箱。
その蓋の中央には、金泥で控えめに『碧翠園』の三文字が刻印されていた。
「っ……!?」
その文字を見た瞬間、雅恵の切れ長の瞳が見開かれた。
「これは……宇治の、『碧翠園』……?」
「はい」
佳乃は桐箱を両手で捧げ持ち、雅恵の胸元へと差し出した。
「京都・宇治の山奥で、樹齢百年を超える古木から、当主自らが手摘みで年にわずか五キログラムしか生産しない、幻の初摘み玉露『白雲』でございます。副頭取が幼少の頃より、ご祖父様と共に愛飲されていた、何よりも大切にされているお茶とお聞きしております」
「そ、そんな……」
雅恵の声が震えた。
碧翠園の『白雲』。
金を出せば買えるような代物では断じてない。
歴代の宮内庁御用達の手続きよりも厳格な審査があり、当主が「この人になら飲んでいただきたい」と認めた、日本で数十名の数寄者にしか直接分け与えられない、究極の銘茶。
雅恵自身、先代の当主が亡くなって以降、入手ルートが途絶え、もう十年近く口にしていなかった思い出の味だった。
「なぜ……これを、あなたが手に入れられたの……? 当代の園主は、政財界のどんな大物が頭を下げても、新規の取引を一切拒絶している頑固者のはずよ」
雅恵の震える問いに、佳乃は微かに目を細め、静かに答えた。
「三年前、当代の園主様のお孫様が東京の大学病院で難病の手術を受けられる際、先代会長の命により、私が各方面の医療ネットワークを調整し、名医の手配を担当させていただいたことがございました。その折、園主様から『生涯の恩人だ、何か困ったことがあればいつでも命じてほしい』と、一通のお手紙をいただいておりました」
「…………っ!」
「本日、副頭取をお迎えするにあたり、急ぎ京都へ連絡を入れさせていただきましたところ、園主様が『槇野のお嬢さんの頼みなら、蔵の奥にある今年の一番茶を喜んで開けよう』と、新幹線で今夕、東京駅まで届けてくださったのです」
佳乃は深々と頭を下げ、言葉を重ねた。
「副頭取。本館での不快なお時間、さぞお心がお疲れのことと存じます。どうか今夜は、ご自宅でお湯をゆっくり冷まし、このお茶の香りで、喉とお心を清めていただけますと幸いです。……お口直しに、こちらをお納めくださいませ」
沈黙が落ちた。
渡り廊下を吹き抜ける風が、笹の葉をサワサワと揺らす。
雅恵は桐箱を見つめ、やがて――自らの震える両手を伸ばし、まるで神仏の供物を受け取るかのように、恭しくその箱を抱きしめた。
六本木のパティスリーで金を出して買い漁った、下品なショッキングピンクのトリュフショコラ。
そして、相手の命と歴史を想い、過去の恩義と誠実な人脈の糸を手繰り寄せて用意された、世界に一つだけの桐箱。
どちらが本物の仕事か。
どちらが人の心に寄り添うエグゼクティブの姿か。
比べることすら、神に対する冒涜だった。
「……ありがとう、佳乃さん」
雅恵の瞳の端に、かすかに光るものがあった。
女帝と呼ばれ、誰もが恐れおののく銀行のトップに君臨してきた雅恵が、一人の若い女性の前で、心の底からの感謝を露わにしていた。
「剛造さんの秘書だった娘ね。……あんな泥舟を捨てて、本当に正解だったわ」
雅恵は桐箱を随行秘書へ大切に預けると、背後に立つ鷹司誠一郎へと向き直った。
その眼光には、先ほど離れで交わした口頭の約束を、鋼の誓約へと昇華させる絶対の決意が宿っていた。
「鷹司代表。明朝九時、大東京フィナンシャルの本部執務室で待っているわ。一千億円のファンド出資調印式……私の手で、直接サインをさせていただきます」
「光栄に存じます、九条副頭取」
誠一郎が優雅に、完璧な会釈を返した。
その時だった。
「ひ、ヒィ……! 副頭取! 九条副頭取ぃぃっ!」
渡り廊下の曲がり角の向こうから、息を切らし、ネクタイを曲げた鳴神貴之が、瑠璃華を引き連れてドタバタと走り込んできた。
「副頭取、待ってください! 誤解なんです! どうか融資枠の件、考え直して――」
貴之の叫び声が、中庭の空気を切り裂く。
だが――
貴之の足が、凍りついたようにピタリと止まった。
見開かれた貴之の瞳の先に映っていたのは。
大東京フィナンシャルの最高権力者である九条雅恵と、日本の金融界の頂点に立つ宿敵・鷹司誠一郎。
そして――
その二人の間に凛として立ち、洗練されたスーツを纏い、神々しいまでの知性と美貌を放ちながら、冷徹な視線をこちらへと向けている、一人の女性の姿だった。
「……な……」
貴之の喉から、声にならないヒッという悲鳴が漏れた。
足元から崩れ落ちそうになるのを、欄干を掴んで必死に支える。
「……な、佳乃……!? な、なんで……お前が、そこに……!?」
昨夜、雨の中でダンボール一つで追い出したはずの「代わりなどいくらでもいる地味女」が。
今、自分たちを破滅へと追いやる絶対の裁定者の隣で、触れることすら許されない高嶺の覇者として、冷ややかに自分を見下ろしていた。




