橋ではなく
解析室に天童がこもっていると、宗像が缶コーヒーを二つ持って入ってきた。
「よお。今夜は俺が当直や」
宗像は、片方の缶を天童の方に置く。
「暇やからな付き合うたるわ。……言うとくけどな、緊急が入ったら、俺は現場へ行くからな。お前のパズルには、最後まで付き合えんかもしれん」
「助かります」
天童は、そう言って、缶を受け取る。
「で、何を調べとるんや」
「オホーツク海の、海洋シミュレーションです」
「はあ。相変わらず、地味やな」
宗像は、隣の椅子にどっかりと腰を下ろして菓子パンの袋を開けている。
どうやら新しいものを買ってきたようだ。
***
計算を走らせる前に、パラメータを詰める必要があった。
海洋熱力学のモデルは、複雑だ。
設定すべき変数は膨大。
天童は、専門家ではない。だから、設定作業そのものはAIとの対話で進めることにした。
何を計算に含め、何を無視するか。そして、何を追加するか。
それを、AIとの会話で天童が判断する。
まず、初期設定として、最新の北海道を含むオホーツク海周辺に建設されたメガソーラーを衛星写真から割り出した。
そのメガソーラーの建設で、地表の熱の吸収や反射が変化する。
吸収された太陽光も全てが電力には変換されない。大部分は熱になる。
さらに、発電された電気は全て熱に変換して海水を温めるものとした。
誤差はあるが、北側の正確な資料がない以上は仕方のない事だ。
『海水温の初期値は、気象庁の海洋観測データを、使用します。よろしいですか』
「頼む」
天童は、そこから後は、普通のシミュレーションで良いと思っていた。
『海氷面積の、経年変化を、境界条件に含めます。よろしいですか』
「含めてくれ」
「なんや、ずーっと、これの繰り返しか」
宗像が、菓子パンを、かじりながら、言った。
「AIと、一問一答。しんきくさいなぁ」
「地味ですよ、こういうのは」
淡々と、項目が設定されてゆく。天童は、コーヒーを飲みながら半分は上の空だった。
海を温める。
データセンターの排熱。
ソーラーパネル。
頭の中では、まだ現場で見たものが順番に並び替えられていた。
『注意事項として、確認します』
AIの表示が、一度止まった。
『オホーツク海表層の、塩分濃度の変化を、計算に含めますか』
天童が、コーヒーの缶を口の手前で止めた。
「……塩分濃度? それが変化しているのか?」
『変化しています。オホーツク海表層の塩分濃度は、近年、上昇傾向にあります』
「上昇。……濃く、なっているのか」
『肯定。特にオホーツク海においては、表層の塩分濃度の変化は、結氷過程に大きな影響を与えます。この項目を含める事を推奨します』
「塩分が、濃うなっとる?」
宗像が、菓子パンを、止めた。
「オホーツク海、なんで、あんな緯度で凍るか知っとるか。アムール川の真水が、どばっと流れ込むからや。真水は凍りやすい。その、薄い真水の層が海の上に蓋みたいに広がっているから海が凍る。……その塩分が、濃うなっとる、っちゅうことは」
「淡水が、減っているのか?」
天童が、続けた。
「なんでや」
宗像の、問いをAIが拾った。
『塩分濃度上昇の要因は、複数あります。最も寄与の大きい要因は間宮海峡大橋の建設です』
天童と宗像は、少しの間その一文を読んだ。
「……間宮海峡大橋。あれ、橋やろ」と、宗像。
***
一般の常識として、現在建設中の間宮海峡大橋は、吊り橋だ。
サハリンと大陸を結ぶ大な吊り橋。
中国とロシアの共同事業。
その建設計画は、国際的に大々的に発表されている。
天童も宗像も、ニュースで、資料で、その完成予想図を何度も見た。
北の海を優雅に跨ぐ白い吊り橋。
だが、AIは違う答えを、返した。
『間宮海峡大橋の、最新の建設現場データを、参照します』
画面が、切り替わった。
衛星画像だろう。
斜めから見下ろした、間宮海峡の最も狭い場所。
そこに建設途中の巨大な構造物が、海峡を横切っている。
時刻は夕方か早朝。影が構造の形を詳細に見せている。
宗像が、身を乗り出した。
菓子パンを、袋に戻して。
「……おい。天童。これ橋はちゃうやろ」
「ええ」
「橋の下が詰まっとる。水の通り道なんてない。これ堤防や。海を塞いどる」
「堤防堰に、見えますね」
『現在の建設状況は、可動堰を伴う、締切堤の構造を、示しています。国際的に公表されている、吊り橋の設計とは、一致しません』
宗像は、椅子に座り直し。腕も組みなおした。
「……俺らは……ずっと、吊り橋やと、思うとった。ニュースで、そう、言うとったからな」
「最新の情報は違った」
天童は、モニタを、見たまま呟いた。
「こいつには偵察で撮った、今の建設現場のデータが入ってる。だから、国際発表なんて参照していない。ただ、目の前の建設現場が"堰の構造をしている"という事実だけを見てた」
「俺らだけが、吊り橋やと、思い込んどった。っちゅうことか」
「そういうことです」
***
「これで……何が、できる」
天童は、AIに、聞いた。
『間宮海峡を、締め切ることで、アムール川からの淡水の、流路を、制御できます』
「流路を、制御」
『アムール川は、現在、間宮海峡を通じて、オホーツク海に、流入しています。締切堤の水門を、操作することで、その淡水を、日本海方面へ、流すことが、可能になります』
天童は、天井を見上げた。
淡水を、日本海に、逃がす。
オホーツク海に、真水が入らなくなる。
塩分が、濃くなる。
薄い表層の蓋が、なくなる。
そうすれば、オホーツク海は――凍らなく、なる。
「……なあ、天童。俺も質問してええか?」
宗像の声が、いつもより低かった。
天童は首肯を返す。
「スパコンさん。ロシアは、そのアムール川の水を、オホーツクに流すか、日本海に流すか、自分で選べるんか」
『間宮海峡大橋が、完成すれば、可能です』
解析室は、静かだった。
空調の音だけが、低く、響いていた。
天童は、しばらく、そのまま、動かなかった。
それから、ゆっくりと、体を起こした。
コーヒーは、すっかり、冷めていた。
***
橋じゃ、なかった。
スイッチだ。
北の海の、凍る・凍らないを、制御できる巨大なスイッチ。
それを、あいつらは、いま、作っている。
国際社会には、吊り橋だと言って。
ソーラーパネルで、雪を溶かし。
データセンターの、排熱で、海を、温め。
そして、間宮海峡の、堰で、淡水を、操作。
奴らには、オホーツク海が、凍るのを止められる。
三つが、別々の工事に見えて、一つの目的に向いていた。
オホーツク海を、凍らせない。
「……えらいもんに、手ぇ突っ込んだな。お前」
宗像が、ぽつりと、言った。
もう、菓子パンには手をつけていなかった。
「地球温暖化の勉強会やと、思うとったわ。……これ、そういうレベルの話とは、ちゃうな」
「みたいですね」
天童は、キーボードに、手を戻しながら返した。
なぜ、そこまでして、国家プロジェクトを組んでまで海を凍らせたくないのか?
その理由は、まだ、わからない。
だが、それは、これからこの計算が教えてくれるはずだ。
「塩分濃度の変化、計算に、含めてくれ」
『承認しました。パラメーターコンプリート。計算を、開始して、よろしいですか』
天童は、深く、息を、吐いた。
「……頼む」
そして、シミュレーションが、走り始めた。
***
計算には、時間が、かかった。
途中で、宗像の端末が鳴る。当直の、呼び出しだ。
「……周辺監視AIからや。新千歳空港の監視カメラに何か映って、AIが脅威判定を保留にしとる。……なにか動物や、どうせ」
宗像は、面倒くさそうに立ち上がった。
「行ってくるわ。緊急やったら、また、連絡する。……お前は、無理、すんなよ」
「宗像さん」
天童が、呼び止めた。
「今夜のことは……計算が、終わるまでは……」
宗像は、天童を見た。
それから、いつもの、へらへらした顔に戻って、片手を上げた。
「わかっとる。……こんな話は、しゃべれんわ」
宗像は、出ていった。
解析室に、天童一人が、残された。
***
計算の進捗は順調だった。
それでも、時間が過ぎてゆく。
天童が解析室の椅子の上でうとうとしていた。
窓の外が、少しずつ、白み始めていた。
スーパーコンは、休みもせず、延々と、高速で計算し続けていた。
深夜の静かな部屋で、天童はぼんやりと考えていた。
橋だと、思っていたものが、堰だった。
発電施設だと、思っていたものが、傍受装置だった。
データセンターだと、思っていたものが、海を温めるためていた。
この一件は、最初から、そうだった。
全部、別のものの、ふりを、していた。
そして、その、演技が、あまりにも自然で、あまりにも丁寧だった。
誰も、疑わないように。
気づかれないように。
静かに慎重に丁寧に……
――日本人が、あの土地で、働いているからだ。
天童は、ふと、そう思った。
計画を立てているのは、モスクワだろう。
だが、それを、実際に作っているのは、あの占領地の日本人技術者たちだ。
手を抜かず、言われた以上に、丁寧に、美しく、仕上げる。
その、真面目さが、この継ぎ目のない演出を支えている。
彼らの多くも、たぶん、何を作っているのか、完全には理解していないだろう。
ただ、与えられた仕事を、いつも通り、きちんと、やっているだけだ。
天童は、目を、閉じた。
窓の外が、明るく、なってきた。
新しい朝だった。
(第五話へ続く)




