表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
政略結婚のはずが、完璧公爵の溺愛が子リス系令嬢を解き放ちました  作者: 宮野夏樹
第3章 溺愛が未来を拓くまで

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

99/104

80.氷の公爵、動く


 王都、ヴァレリオ公爵邸の執務室。


「……シャルロッテの子供を、謀殺しようとしている、だと?」


 ジュリアン・ヴァレリオ公爵の声が、地獄の底よりも深く、冷たく沈んだ。室内の空気は物理的な圧力を伴って重苦しく凝固し、向かいに座る総騎士団長レオンの表情も、いつになく殺気立っている。


「ああ。カミーユ医師が失踪したことで、マリアンヌの奴は完全に正気を失ってやがる。邸内の使用人(間者)からの伝聞だが、昨晩、奴はジルベールに対し『シャルロッテからのストレスで自分が流産した』という凄絶な大嘘の言い訳を吐いたらしい」

「狂言流産か。──ならば、次に来る一手は決まっているな」

「そうだ」


 レオンは太い拳を激しく握り締めた。


「マリアンヌが最近、邸内に密かに裏の薬師や産婆を呼び込んでいる形跡がある。自分の『偽装流産』の辻褄を合わせるためにシャルロッテを冤罪で処刑台へ送るか、あるいは仕込んだ『毒』で本物の妊婦を胎児ごと消し去るつもりだ」


 死のような沈黙。ジュリアンの漆黒の瞳の奥で、絶対的な『処刑』の火が静かに灯った。


「……もはや十分だ」


 ジュリアンの声は、氷が砕ける音のように低く鋭かった。その瞬間、執務室の空気が物理的に震え、レオンの背筋に戦場の勘が走る。


「フランソワ伯爵の幽閉、薬物投与、爵位簒奪。妊婦と胎児への殺意。これはもはや“内政問題”ではない。王国秩序を揺るがす反逆だ」


 漆黒の瞳が、ゆっくりとレオンを射抜く。


「───静観は終わりだ。ヴァレリオ公爵家が動く」

「待ってました、公爵様。……で、まずはどう動く?」

「私が直々に、あの泥棒猫たちの巣窟(ミレーユ邸)へ乗り込む。表向きは、ジルベールが泣きついてきた『販路拡大の直接会談』の打診という体裁でな。──王宮への告発状はすでに精査してある。奴らの化けの皮を、正面から引き剥がしてやる」




 その頃、公爵邸の陽だまりの射す広間では、リシェルが愛息リアンをその細い腕に抱きながら、穏やかな午後を過ごしていた。


「あぅ、うー……」

「ふふ、ご機嫌ですね、リアン。お父様は今、お仕事でとてもお忙しいのですよ」


 夫の幼少期に生き写しの銀髪と黒い瞳を持つ我が子。その小さな手が、リシェルの人差し指をぎゅっと握り締める。自然と笑みが零れたその時、侍女のエミリアが神妙な面持ちで一礼した。


「失礼いたします、奥様。……旦那様が、レオン様、セドリック様と共に、奥様にお話があるとのことでございます」


 執務室へ向かうと、そこにはヴァレリオ公爵家の頭脳と武の頂点が勢揃いしていた。ジュリアンはリシェルが部屋に入った瞬間、その表情を柔らかく緩め、彼女の元へと歩み寄った。


「リシェル。……少し、これから周囲が忙しくなる。お前に心配をかけるかもしれない」

「ジュリアン様……」

「リシェル。お前は何も恐れるな」


 ジュリアンは彼女の手を取り、指先にそっと口づけた。

その仕草には、氷の公爵とは思えぬほどの熱が宿っている。


「お前とリアンを脅かすものがある限り、俺は必ずそれを根絶する。たとえ王国そのものを敵に回すことになろうとも、だ」


 リシェルは胸の奥が温かく満たされるのを感じ、静かに微笑んだ。


「はい。ジュリアン様がそう仰るのですもの。わたくし、何も怖くありませんわ。心から信じております」

「おいおい、相変わらず一瞬で砂糖菓子みてえな空間にするんじゃねえよ」


 レオンが呆れて顔を逸らし、セドリックが「旦那様、もう少し公爵としての威厳というものが……」と咳払いする。


「リシェル。お前はここで、リアンと共に笑っていてくれ」

「まあ……。ジュリアン様、もしかして今、少し照れていらっしゃいます?  耳がほんのり赤いですよ」

「気のせいだ。ヴァレリオ公爵が照れるわけがない」

「そうですか?  ふふ、知っておりますわ」


 絶対に照れているのだが、誰もそれを指摘しない、ヴァレリオ公爵邸の温かな一幕であった。




 同刻、ミレーユ伯爵邸。マリアンヌは鏡の前で、自身の美貌を極限まで引き立てるための、退廃的で扇情的な化粧を施していた。


 ジルベールは今、商会の関税手続きのために王都の商工会へと出向いており、邸内には不在。絶好の、そして人生最後の勝負の舞台が、向こうから転がり込んできたのだ。


「マリアンヌ様……!  ヴ、ヴァレリオ公爵閣下が、直接会談の件で、当主代理であるジルベール様をお訪ねになり、現在応接室でお待ちいただいております……!」


 使用人の報告に、マリアンヌの心臓が激しく脈打った。恐怖ではない。脳髄を突き抜けるような、圧倒的な歓喜と野心が彼女を支配していた。


(来たわ……!  ジルベールが不在のこの瞬間に、あの『氷の公爵』が自ら現れるなんて。これは運命よ。神が私に、ヴァレリオ公爵へ乗り換えろと言っているのだわ……っ!)


「断る必要はありません。ジルベール様が不在の間は、この私が当主代理補佐として、閣下をおもてなしいたしますわ」


 マリアンヌは胸元が深く開いた漆黒のドレスの裾を翻し、香水瓶を首筋へと振りかけると、傲慢な笑みを浮かべて応接室の扉を押し開けた。


「───お初にお目にかかります、ジュリアン・ヴァレリオ公爵閣下。ミレーユ伯爵家当主代理の補佐、マリアンヌでございます」


 応接室のソファに腰掛けていたジュリアンが、冷徹な漆黒の瞳を向けた。社交界の頂点に君臨する男の、息をのむほどに洗練された美貌。


 マリアンヌは、これまで数多の男たちを骨抜きにしてきた「傾国の技術」のすべてを解放した。わざとらしく涙を浮かべ、今にも崩れ落ちそうな儚げな足取りで、ジュリアンの至近距離へと歩み寄る。


「閣下……。誠に申し訳ございません。当主代理のジルベールは今、商会に出ておりまして……。ですが、実は、わたくし……昨晩、あまりにも酷い理不尽に遭い、お腹に宿していた大切な命を『流産』してしまいましたの……っ」


 マリアンヌは、さめざめと泣き崩れる振りをしながら、自身の豊かな胸元をジュリアンの腕に擦り寄せるようにして、ソファへと滑り込んだ。


「悲しくて、孤独で、心が張り裂けそうでございます……。どうか、偉大なる公爵閣下……この哀れなマリアンヌを、あなた様のその温かいお胸で、ほんの少しだけでも、慰めてはいただけないでしょうか……?」


 上目遣いで見つめる、潤んだ瞳。男なら誰もが理性を失う、至高の色仕掛け。───だが、ジュリアン・ヴァレリオという男の脳内にあるのは、今この瞬間も「我が妻リシェルの笑顔」と「リアンの小さな手」の尊さ、そして目の前の女が犯した『殺人未遂』という大罪のみであった。


 しかし、ジュリアンは、わずかに眉を下げた。その表情は、知らぬ者が見れば“同情”に見えたかもしれない。


「……流産とは、痛ましいことだな」


 だがこの男は、妻と子以外の女に“同情”など一滴も抱かない。今の表情はすべて、計算された“仮面”だ。


「あ……っ」


(勝った……! あの氷の公爵が、私に心を許した……!)


 マリアンヌの胸に、甘美な錯覚が広がる。その錯覚こそが、彼女を破滅へ導く“最後の毒”であることも知らずに。


(あの氷の公爵が、私の身体を見て、声を和らげた……!  どんなに高潔を気取った男でも、やはり私の前ではただのオスね……!)


 ジュリアンが満更でもなさそうな、どこか退廃的な視線を返してきた瞬間、彼女は勝利を確信した。


「ええ……。ジルベールのような冷酷な男では、わたくしのこの傷ついた心も、この身体も、決して満たしてはくれませんの。閣下のような、本物の殿方にこそ……」

「そうか。だが、今日のところは、当主代理が不在のようだ。──これ以上の深い話は、販路拡大の正式な書面と、当主代理が揃っている『次回の会談』の席で、改めてじっくりと進めようではないか」


 ジュリアンは、マリアンヌを完全に「生殺し」にするような、深い含みを持たせた笑みを僅かに浮かべ、そのまま立ち上がった。あえて彼女の誘惑を拒絶せず、むしろ「次への期待」を持たせるような、極上の騙しの手練。


「あ……、閣下。次回の会談を、心から、心からお待ちしておりますわ……」


 マリアンヌは頬を紅潮させ、去りゆく公爵の背中を、うっとりとした、完全に狂った瞳で見送った。




 応接室を出て、ミレーユ邸の門外で待機していたレオンの元へと戻ったジュリアン。その瞬間、彼の美貌から「満更でもなさそうな温度」が消滅し、絶対零度の冷徹さへと戻った。


「……吐き気がする。リシェル以外の女の匂いなど、害悪でしかない」


 ジュリアンは外套の袖を払い落とすようにして言い捨てた。


「次の会談で、すべて終わらせる。あの狐どもが築いた檻は───俺が粉砕する」

「ははっ、お見事な大根役者ぶりで。で、あの狐は?」

「完全に『釣れた』。自分が俺を誘惑できていると狂信し、次の直接会談でジルベールを裏切って俺の愛人に乗り換えるつもりだ」


 ジュリアンは冷酷に、ミレーユ伯爵邸の全景を見上げた。


「次の直接会談。ジルベール、マリアンヌ、そしてシャルロッテ。役者がすべて揃ったその瞬間が、あの成金どもが築いた偽りの檻の、完全なる終焉の舞台だ」


 マリアンヌはまだ、知る由もなかった。自分が完璧に誘惑したと信じ込んでいるその「氷の公爵」こそが、自分たちを地獄の奈落へと叩き落とす、無慈悲な閻魔そのものであるということを───。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ