80.氷の公爵、動く
王都、ヴァレリオ公爵邸の執務室。
「……シャルロッテの子供を、謀殺しようとしている、だと?」
ジュリアン・ヴァレリオ公爵の声が、地獄の底よりも深く、冷たく沈んだ。室内の空気は物理的な圧力を伴って重苦しく凝固し、向かいに座る総騎士団長レオンの表情も、いつになく殺気立っている。
「ああ。カミーユ医師が失踪したことで、マリアンヌの奴は完全に正気を失ってやがる。邸内の使用人からの伝聞だが、昨晩、奴はジルベールに対し『シャルロッテからのストレスで自分が流産した』という凄絶な大嘘の言い訳を吐いたらしい」
「狂言流産か。──ならば、次に来る一手は決まっているな」
「そうだ」
レオンは太い拳を激しく握り締めた。
「マリアンヌが最近、邸内に密かに裏の薬師や産婆を呼び込んでいる形跡がある。自分の『偽装流産』の辻褄を合わせるためにシャルロッテを冤罪で処刑台へ送るか、あるいは仕込んだ『毒』で本物の妊婦を胎児ごと消し去るつもりだ」
死のような沈黙。ジュリアンの漆黒の瞳の奥で、絶対的な『処刑』の火が静かに灯った。
「……もはや十分だ」
ジュリアンの声は、氷が砕ける音のように低く鋭かった。その瞬間、執務室の空気が物理的に震え、レオンの背筋に戦場の勘が走る。
「フランソワ伯爵の幽閉、薬物投与、爵位簒奪。妊婦と胎児への殺意。これはもはや“内政問題”ではない。王国秩序を揺るがす反逆だ」
漆黒の瞳が、ゆっくりとレオンを射抜く。
「───静観は終わりだ。ヴァレリオ公爵家が動く」
「待ってました、公爵様。……で、まずはどう動く?」
「私が直々に、あの泥棒猫たちの巣窟へ乗り込む。表向きは、ジルベールが泣きついてきた『販路拡大の直接会談』の打診という体裁でな。──王宮への告発状はすでに精査してある。奴らの化けの皮を、正面から引き剥がしてやる」
その頃、公爵邸の陽だまりの射す広間では、リシェルが愛息リアンをその細い腕に抱きながら、穏やかな午後を過ごしていた。
「あぅ、うー……」
「ふふ、ご機嫌ですね、リアン。お父様は今、お仕事でとてもお忙しいのですよ」
夫の幼少期に生き写しの銀髪と黒い瞳を持つ我が子。その小さな手が、リシェルの人差し指をぎゅっと握り締める。自然と笑みが零れたその時、侍女のエミリアが神妙な面持ちで一礼した。
「失礼いたします、奥様。……旦那様が、レオン様、セドリック様と共に、奥様にお話があるとのことでございます」
執務室へ向かうと、そこにはヴァレリオ公爵家の頭脳と武の頂点が勢揃いしていた。ジュリアンはリシェルが部屋に入った瞬間、その表情を柔らかく緩め、彼女の元へと歩み寄った。
「リシェル。……少し、これから周囲が忙しくなる。お前に心配をかけるかもしれない」
「ジュリアン様……」
「リシェル。お前は何も恐れるな」
ジュリアンは彼女の手を取り、指先にそっと口づけた。
その仕草には、氷の公爵とは思えぬほどの熱が宿っている。
「お前とリアンを脅かすものがある限り、俺は必ずそれを根絶する。たとえ王国そのものを敵に回すことになろうとも、だ」
リシェルは胸の奥が温かく満たされるのを感じ、静かに微笑んだ。
「はい。ジュリアン様がそう仰るのですもの。わたくし、何も怖くありませんわ。心から信じております」
「おいおい、相変わらず一瞬で砂糖菓子みてえな空間にするんじゃねえよ」
レオンが呆れて顔を逸らし、セドリックが「旦那様、もう少し公爵としての威厳というものが……」と咳払いする。
「リシェル。お前はここで、リアンと共に笑っていてくれ」
「まあ……。ジュリアン様、もしかして今、少し照れていらっしゃいます? 耳がほんのり赤いですよ」
「気のせいだ。ヴァレリオ公爵が照れるわけがない」
「そうですか? ふふ、知っておりますわ」
絶対に照れているのだが、誰もそれを指摘しない、ヴァレリオ公爵邸の温かな一幕であった。
同刻、ミレーユ伯爵邸。マリアンヌは鏡の前で、自身の美貌を極限まで引き立てるための、退廃的で扇情的な化粧を施していた。
ジルベールは今、商会の関税手続きのために王都の商工会へと出向いており、邸内には不在。絶好の、そして人生最後の勝負の舞台が、向こうから転がり込んできたのだ。
「マリアンヌ様……! ヴ、ヴァレリオ公爵閣下が、直接会談の件で、当主代理であるジルベール様をお訪ねになり、現在応接室でお待ちいただいております……!」
使用人の報告に、マリアンヌの心臓が激しく脈打った。恐怖ではない。脳髄を突き抜けるような、圧倒的な歓喜と野心が彼女を支配していた。
(来たわ……! ジルベールが不在のこの瞬間に、あの『氷の公爵』が自ら現れるなんて。これは運命よ。神が私に、ヴァレリオ公爵へ乗り換えろと言っているのだわ……っ!)
「断る必要はありません。ジルベール様が不在の間は、この私が当主代理補佐として、閣下をおもてなしいたしますわ」
マリアンヌは胸元が深く開いた漆黒のドレスの裾を翻し、香水瓶を首筋へと振りかけると、傲慢な笑みを浮かべて応接室の扉を押し開けた。
「───お初にお目にかかります、ジュリアン・ヴァレリオ公爵閣下。ミレーユ伯爵家当主代理の補佐、マリアンヌでございます」
応接室のソファに腰掛けていたジュリアンが、冷徹な漆黒の瞳を向けた。社交界の頂点に君臨する男の、息をのむほどに洗練された美貌。
マリアンヌは、これまで数多の男たちを骨抜きにしてきた「傾国の技術」のすべてを解放した。わざとらしく涙を浮かべ、今にも崩れ落ちそうな儚げな足取りで、ジュリアンの至近距離へと歩み寄る。
「閣下……。誠に申し訳ございません。当主代理のジルベールは今、商会に出ておりまして……。ですが、実は、わたくし……昨晩、あまりにも酷い理不尽に遭い、お腹に宿していた大切な命を『流産』してしまいましたの……っ」
マリアンヌは、さめざめと泣き崩れる振りをしながら、自身の豊かな胸元をジュリアンの腕に擦り寄せるようにして、ソファへと滑り込んだ。
「悲しくて、孤独で、心が張り裂けそうでございます……。どうか、偉大なる公爵閣下……この哀れなマリアンヌを、あなた様のその温かいお胸で、ほんの少しだけでも、慰めてはいただけないでしょうか……?」
上目遣いで見つめる、潤んだ瞳。男なら誰もが理性を失う、至高の色仕掛け。───だが、ジュリアン・ヴァレリオという男の脳内にあるのは、今この瞬間も「我が妻リシェルの笑顔」と「リアンの小さな手」の尊さ、そして目の前の女が犯した『殺人未遂』という大罪のみであった。
しかし、ジュリアンは、わずかに眉を下げた。その表情は、知らぬ者が見れば“同情”に見えたかもしれない。
「……流産とは、痛ましいことだな」
だがこの男は、妻と子以外の女に“同情”など一滴も抱かない。今の表情はすべて、計算された“仮面”だ。
「あ……っ」
(勝った……! あの氷の公爵が、私に心を許した……!)
マリアンヌの胸に、甘美な錯覚が広がる。その錯覚こそが、彼女を破滅へ導く“最後の毒”であることも知らずに。
(あの氷の公爵が、私の身体を見て、声を和らげた……! どんなに高潔を気取った男でも、やはり私の前ではただのオスね……!)
ジュリアンが満更でもなさそうな、どこか退廃的な視線を返してきた瞬間、彼女は勝利を確信した。
「ええ……。ジルベールのような冷酷な男では、わたくしのこの傷ついた心も、この身体も、決して満たしてはくれませんの。閣下のような、本物の殿方にこそ……」
「そうか。だが、今日のところは、当主代理が不在のようだ。──これ以上の深い話は、販路拡大の正式な書面と、当主代理が揃っている『次回の会談』の席で、改めてじっくりと進めようではないか」
ジュリアンは、マリアンヌを完全に「生殺し」にするような、深い含みを持たせた笑みを僅かに浮かべ、そのまま立ち上がった。あえて彼女の誘惑を拒絶せず、むしろ「次への期待」を持たせるような、極上の騙しの手練。
「あ……、閣下。次回の会談を、心から、心からお待ちしておりますわ……」
マリアンヌは頬を紅潮させ、去りゆく公爵の背中を、うっとりとした、完全に狂った瞳で見送った。
応接室を出て、ミレーユ邸の門外で待機していたレオンの元へと戻ったジュリアン。その瞬間、彼の美貌から「満更でもなさそうな温度」が消滅し、絶対零度の冷徹さへと戻った。
「……吐き気がする。リシェル以外の女の匂いなど、害悪でしかない」
ジュリアンは外套の袖を払い落とすようにして言い捨てた。
「次の会談で、すべて終わらせる。あの狐どもが築いた檻は───俺が粉砕する」
「ははっ、お見事な大根役者ぶりで。で、あの狐は?」
「完全に『釣れた』。自分が俺を誘惑できていると狂信し、次の直接会談でジルベールを裏切って俺の愛人に乗り換えるつもりだ」
ジュリアンは冷酷に、ミレーユ伯爵邸の全景を見上げた。
「次の直接会談。ジルベール、マリアンヌ、そしてシャルロッテ。役者がすべて揃ったその瞬間が、あの成金どもが築いた偽りの檻の、完全なる終焉の舞台だ」
マリアンヌはまだ、知る由もなかった。自分が完璧に誘惑したと信じ込んでいるその「氷の公爵」こそが、自分たちを地獄の奈落へと叩き落とす、無慈悲な閻魔そのものであるということを───。




