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政略結婚のはずが、完璧公爵の溺愛が子リス系令嬢を解き放ちました  作者: 宮野夏樹
第3章 溺愛が未来を拓くまで

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81.偽りの檻の崩壊


「次回の会談、心よりお待ちしておりますわ……」


 去っていく銀髪の公爵の、冷徹にして完璧な背中を窓から見送りながら、マリアンヌは微熱を帯びた恍惚の笑みを浮かべていた。


「ふふ……あはは……! ついに、ついに手に入れたのよ……! あの氷の公爵が、私の涙に声を和らげた……!

リシェルとかいう田舎の貴族の小娘なんて、ただの飾りの妻。本当に選ばれるのは、いつだって“私”なのよ……!」


 ジルベールなどという、成り上がり者でケチな商人の男など、もう不要。あんな男を踏み台にして、王国の権力者であるジュリアン・ヴァレリオ公爵の寵愛が手に入るのなら、これほど安い投資はない。


 あの「氷の公爵」ともあろう男が、自分の身体を前にして声を和らげ、顎を撫で、次回の密会を約束したのだ。そう信じて一ミリの疑いも持っていなかった。


 マリアンヌは鏡の中の、自らの歪んだ美貌へ狂おしく微笑みかける。だが──彼女はまだ知らない。その約束された「次回の会談」こそが、彼女自身の人生における、最後の処刑の場になるということを。




 三日後。ミレーユ伯爵邸、本館応接間。重厚な長机を挟み、すべての因縁が一つに集結していた。


 当主代理として傲慢に座るジルベール・デュラン。その隣には、お腹のふくらみが明確になり、静謐な『母』の気高さを纏う正妻シャルロッテ。


 そして、ジルベールの背後に控え、ジュリアンへ熱い視線を送り続ける秘書マリアンヌ。


 対面には、ヴァレリオ公爵ジュリアンと、総騎士団長レオン・ディアスが、威圧感を放って鎮座していた。


「本日はわざわざ我が邸へ足をお運びいただき、感謝の念に堪えません、ヴァレリオ公爵閣下」


 ジルベールが商人の愛想笑いを浮かべ、慇懃に頭を下げる。


「我が商会が誇る魔石の販路拡大の件、前向きな返答をいただけるものと期待しておりますが───」

「その前に、一つ確認したいことがある」


 ジュリアンが、ジルベールの言葉を冷酷に遮った。一瞬にして室内の気温が氷点下へと叩き落とされる。漆黒の瞳が、獲物を値踏みするようにジルベールを射抜いた。


「現・ミレーユ伯爵であり、シャルロッテの父であるフランソワ殿は、今も『重度の病気療養中』ということで間違いないな?」


 ジルベールは微かに眉をひそめたが、すぐに平然と頷いた。


「もちろんでございます。侍医の正式な診断によるものです。心の疾患で、外部の人間との面会は一切不可能な状態にございます」

「そうか」


 ジュリアンは静かに頷き、冷たく唇を歪めた。


「ならば──今すぐ、その本人を見まわせてもらおう」


 その声音には、逃げ道を完全に塞ぐ音があった。ジルベールの背筋が、目に見えて強張る。


「……何とお仰いましたか?」

「病人を見舞うことに問題はあるまい。元よりミレーユ家とヴァレリオ家は古くからの縁だ。当主代理を名乗る者ではなく、私は伯爵本人と直接、契約を行いたいと言っているのだ」

「いや、しかし……伯爵は安静が必要で……」


 初めて明確に言葉に詰まるジルベール。その瞬間、彼の背後から、己の「愛人計画」の進展を確信しているマリアンヌが、ここぞとばかりに艶めかしい声を上げて割って入った。


「公爵閣下!  現当主様の病状は本当に深刻でございますの。どうか、当主代理であるジルベール様と、このわたくしの顔に免じて、ここは書類での決裁を───」

「ほう」


 ジュリアンは初めて、その冷徹な視線をマリアンヌへと向けた。それだけで、マリアンヌは「私を見てくれた」と頬を桃色に染め、身体を震わせる。───だが、ジュリアンの口から放たれたのは、彼女の鼓膜をズタズタに引き裂く、絶対零度の「拒絶」であった。


「秘書マリアンヌ。……いつから貴女は、ミレーユ伯爵家の『女主人』になったのだ?」

「え……?」

「貴女は伯爵家の血縁でもなければ、小爵位すら持たぬ一介の雇われ秘書、ただの商会一員の身のはずだ。なぜ当主代理の正妻、シャルロッテ嬢を差し置いて、貴女がしゃしゃり出てこの場を仕切っている?」


 ピシリ、と応接間の空気が完全に破裂した。マリアンヌの甘ったるい笑顔がパキパキと凍りつき、ジルベールもまた、ジュリアンのあまりにも不穏な踏み込み方に猛烈な戦慄を覚え、眉を跳ね上げる。


「閣下、それは一体どういう───」

「おかしな話だと言っているのだ、ジルベール・デュラン」


 ジュリアンは淡々と、だが逃げ場を塞ぐように宣告する。


「正当なる伯爵本人は離れに病床監禁。当主代理は娘婿。そして実権を握り、正妻のように振る舞うのは、血縁ですらない一介の秘書。……実に見事な、簒奪の檻だな」


 ジルベールの額に、初めて冷たい汗が滲んだ。商人としての直感が告げていた。“これは、ただの会談ではない”と。


 その瞬間、ドスンッ!!  と地響きのような音を立てて、総騎士団長レオンが立ち上がった。その凶悪な笑みが、牙のように剥き出しになる。


「お待たせしました、旦那様。───おい。お前らがヴァレリオの販路を欲しがって静観を気取ってる間、こっちはお前らを全部調べてたんだよ」


 ドンッ!!!  と長机の上に、レオンの手によって大量の書類の束が叩きつけられた。裏の闇薬店との取引帳簿、カミーユ医師の個人口座への巨額の送金記録、そして───フェリシテ子爵領で捕縛されたカミーユ医師本人の『詳細な自白供述書』。マリアンヌの顔から、一滴の血の気も失われ、真っ白に変色した。


「な……、どうして……っ!  先生は、風邪で療養して……っ」

「カミーユ医師なら、我がヴァレリオの一室で、指示されたすべての罪状を泣きながら吐き出したよ」


 レオンの笑みが完全に消え、総騎士団長としての、国家の「武」の怒りが爆発する。


「前当主フランソワ伯爵を半年間近くも監禁し、薬で廃人に追い込み、さらに自分の偽装妊娠の嘘を隠蔽し、正妻シャルロッテ嬢とその胎児まで『毒』で殺そうとした。……おい、マリアンヌ。貴様、どこまで王法を舐めてやがる」

「ち、違う……違うのよ……! 私は悪くない! 全部シャルロッテが悪いの! あの女が、私を追い詰めたから……! 私は……私はただ、生き残りたかっただけなのよ……!」


 ガタガタと椅子を鳴らし、マリアンヌが後退る。彼女は必死の思いでジュリアンを見つめ、助けを求めるようにその手を伸ばした。


「閣下……っ!  閣下、お助けください、あの夜の約束を……っ!」


 だが、ジュリアンは彼女の手をゴミを見るような目であしらい、冷酷に立ち上がった。


「王宮にはすでに、貴族暗殺未遂の容疑で正式な告発状が受理されている。この邸の周囲は、すでに近衛騎士団によって完全に包囲されている。───終わりだ、マリアンヌ。お前の安い色仕掛けが、この俺に一瞬でも通じたと本気で思っていたのか?  悍ましい」

「嘘……、嘘よ……っ!  ああ、あああああっ!」


 マリアンヌが床にへたり込み、発狂したように頭を抱える。───その時だった。


「……な……に……?  薬……? 偽装妊娠……だと……?」


 地を這うような、掠れた声。ゆっくりと、首の骨がきしむような動作で、ジルベールが立ち上がった。彼の黒い瞳からはすべての光が消え失せ、死人のような形相で、足元で震えるマリアンヌを見下ろしていた。


「マリアンヌ……。お前、フランソワ伯爵を……私の知らないところで、本当に、薬漬けにしていたのか?  ……私の、私のデュラン商会のブランドを汚したのか……!?」

「ジ、ジルベール様……!  違うのです、これはあなたのためを思って……っ!」

「それに、シャルロッテの……俺の子供に……害をなそうとしていた、だと……?」


 ジルベールの脳裏に、かつて自分がシャルロッテを評した言葉が過る。───『仮にするならもっと上手くやる。あいつは存外に不器用だ』。


 不器用な正妻は、本当に、自分の子をただ守るために、静かに静観していただけだった。対して、自分が『最も有能で、自分のために尽くしてくれる最高の所有物』だと信じ込んでいたマリアンヌという女は、自分の預かり知らぬところで、商会を破滅に導く大罪を犯し、公爵へ乗り換えようとしていたのだ。


「……俺を……? 俺の商会を……? 俺の“信用”を……? お前は……俺の背後で、勝手をしたのか……?」


 初めて、マリアンヌは理解した。自分を見つめるジルベールの瞳から、これまでの寵愛と信用が消え失せ、ただの「不良品(ゴミ)」を見る目に変わったことを。


 その光景を、シャルロッテは静かに、お腹を優しく抱きしめながら見つめていた。


「終わったのね、マリアンヌ。……あなたの築いた、虚構が」


(私はもう、誰にも奪わせない。この子も、父も、ミレーユの誇りも───すべて、この手で守り抜く)




 その頃。ミレーユ伯爵邸の、陽の当たらない離れの一室。薄暗いベッドの上で、長い間、薬によって意識を混濁させられていたフランソワ・ミレーユ伯爵は、ふっと、数ヶ月前ぶりに、驚くほど澄み渡った意識を取り戻していた。


 どうやら、カミーユ医師が消えてから薬の投与が途絶えていたらしい。そのわずかな隙間から、意識がゆっくりと浮上してきたのだ。


 窓から吹き込む、暖かな春の風。


「……シャルロッテ……」


 老いた掠れた声で、最愛の、不器用だった娘の名を呟く。身体は動かない。だが、不思議と胸騒ぎは消えていた。


 長い、あまりにも長いミレーユ伯爵家の暗い夜が、今、ようやく終わりを告げる。本物の光が、この邸に、そして我が最愛の血脈に帰ってくる。そんな確信の予感が、老いた父の胸に、静かに、しかし決して消えぬ灯火のように灯り始めていた。

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