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政略結婚のはずが、完璧公爵の溺愛が子リス系令嬢を解き放ちました  作者: 宮野夏樹
第3章 溺愛が未来を拓くまで

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82.誇りの名の下に


「……共犯ではないと?  その言葉、信じるに値すると思うか」


 静まり返った応接室。ヴァレリオ公爵ジュリアンの漆黒の瞳が、冷徹な針のようにジルベールを射抜いていた。


「答えろ、ジルベール・デュラン。貴様は本当に知らなかったのか。実父であるフランソワ伯爵への長年の薬物投与を。カミーユ医師による偽診断を。あの離れでの陰惨な軟禁を……。そして、マリアンヌが貴様の正妻であるシャルロッテと、その胎児へ明確な殺意を抱いていたことを」


 絶対零度の声。それは、一歩間違えればデュラン商会のみならず、ミレーユ伯爵家そのものを王国から抹殺しかねない絶対強者の威圧だった。ジルベールは血の気が完全に引いた顔のまま、激しく首を横に振った。


「知らん……!  だが──知らなかったこと自体が、俺の罪だ……。俺は、商会の利益ばかりを追い、家の内側を見る努力を怠った……。その愚かさが、フランソワ伯爵を、シャルロッテを……そしてこの家を壊した……! それも言い訳になるか……」

「黙れ」


 ジュリアンの一喝が、ガラス窓を微かに震わせる。


「知らなかったで済むと思うか。フランソワ伯爵を軟禁し、婿入りという形でこの家に入り込んでから、たったの半年。貴様は当主代理としてこのミレーユ家を預かりながら、足元で蠢く愛人の狂気すら見抜けていなかった。……無知は免罪符にはならん。それ自体が、取り返しのつかない大罪だ」


 ジルベールは、愕然と自らの両手を見つめ、そのまま拳を血がにじむほど強く握りしめた。すべてを失った。完璧に構築したはずの商人の城は、最初からマリアンヌという劇薬によって泥の上に建てられていたのだ。


「……好きに裁くがいい、公爵閣下。俺は失格だ。当主代理としても、夫としても……そして、これから生まれてくるガキの、父親としてもな。今さら、王都の社交界で生き恥を晒すくらいなら、いっそ───」

「ならば、わたくしも失格ですわね」


 その凛とした声に、室内の全員がハッとして振り返った。声を上げたのは、これまで静かに事態を見守っていたシャルロッテだった。


「シャルロッテ……」

「ジルベール。貴方がこの家に婿入りし、お父様が離れに軟禁されてからの半年間……ええ、わたくしは貴方を心底憎みましたわ。貴方もまた、わたくしを『頭の空っぽな、傲慢な貴族令嬢』だと、事あるごとに鼻で笑いましたわね」


 シャルロッテの青い瞳は、一ミリの揺らぎもなく夫を見据えていた。


「何度も、何度も、貴方は仰いました。『貴族の誇りなど、腹の足しにもならない馬鹿げた虚飾だ』と。『領民への責務など、欺瞞に満ちた綺麗事だ』と……」


 ジルベールは痛切に顔を伏せる。反論などできるはずもなかった。すべては彼自身が、この半年間、彼女をいたぶるために吐き捨ててきた言葉だったからだ。


「ですが!」


 シャルロッテはふっくらとし始めたお腹を毅然と庇いながら、一歩、ジルベールの目の前へと踏み出した。


「ですが! いまのわたくしには──守るべき命があります。このお腹の子は、わたくしだけの子ではありません。

貴方の子でもあるのです。だからこそ、貴方は逃げてはなりません!」


 その言葉は、かつてジルベールが最も嫌悪し、唾棄してきたはずの「貴族の論理」だった。だが、今───誰よりもマリアンヌに裏切られ、傷つき、すべてを失って崩れ落ちそうな自分を、他ならぬ妻が、シャルロッテだけが、真っ正面から見捨てずに向き合おうとしてくれている。


「シャルロッテ、俺は……」

「逃げるな!!」


 ───パァン!!!


 応接室全体に、乾いた痛烈な衝撃音が響き渡った。シャルロッテによる、渾身の平手打ち。ジルベールの頬が赤く跳ね上がり、室内の空気が完全に静止する。


「お父様が体調を取り戻された後……貴方は、今度こそ正式な手順を踏んで、このミレーユの伯爵位を正当に受け継ぐのでしょう!?  でしたら、今度こそ本物の貴族としての誇りと責務を、その身に叩き込みなさい!  犯した罪を学び、一生をかけて償いなさい!  ───わたくし一人に、この重荷をすべて背負わせて逃げることなど、絶対に許しませんわ!」


 涙をボロボロと溢れさせながら。それでも、シャルロッテは夫の胸ぐらをつかまんばかりの覇気で叱り飛ばした。


「貴方は、わたくしの夫でしょう!  この子の父親でしょう!  ───情けない顔をしていないで、立ちなさい、ジルベール!!」


 ジルベールの漆黒の瞳から、大粒の涙が堰を切ったように零れ落ちた。小さな商家で育ち、金と効率だけを信じて這い上がってきた人生。裏切られ、切り捨てられる世界で生きてきた彼にとって、生まれて初めてだった。


 己の醜態を、大失敗を前にして、それでもなお「見捨てず、生きて償え」と、魂の底から叱ってくれた人間は、彼女だけだった。


「……すまない、シャルロッテ。……本当に、すまない……っ」




 応接間の片隅で、その光景を見ていたレオンが、ふうと静かに肩の力を抜いた。レオンは、静かに息を吐いた。


「……へっ。良かったな、公爵様。あの嬢ちゃん、もう折れねえよ」

「ああ」


 ジュリアンもまた、漆黒の瞳の奥の冷徹さを引き下げ、小さく頷いた。


「変わったな、シャルロッテ嬢は」


 かつて、王都の夜会でリシェルを見下し、くだらない虚栄心だけで生きていた愚行の令嬢。そこにはもう、そんな少女の面影はどこにもない。目の前にいるのは、大罪を犯した夫を叱り飛ばし、実父を救い、我が子を守り抜かんとする、一人の気高き『母親』の姿だった。


「リシェルがこの顛末を聞いたら、きっと喜ぶな」

「そうだな。もっとも……」


 レオンが苦笑交じりに肩をすくめる。


「夫人のことだ。『シャルロッテ、本当によかった……っ』って、自分のことみたいにボロ泣きする姿が簡単に想像できるぜ」

「……」

「なんだよ、その顔は」

「容易に想像できて、愛しさが限界突破しただけだ」


 ジュリアンの口元が、実に珍しく、心底から安堵したように柔らかく緩んだ。


「だが、これで安心した。……これほどの強さがあるならば、シャルロッテはもう、二度と脅かされることはない。彼女は幸せになれる」




 その日の夜。ミレーユ伯爵邸の主寝室は、昼間の緊迫感が嘘のような、別の意味での嵐に見舞われていた。

「シャルロッテ!  身体は冷えていないか!?  疲れてはいないか!  椅子を持ってくる!  いや、やはりすぐに寝台へ横になるんだ!」

「……ジルベール、うるさいですわ」

「すぐに温かい牛乳を用意させる!  階段を一人で降りるなど言語道断だ、俺が抱き抱えて移動する!」

「……ジルベール、少し落ち着きなさいませ。その……過保護が過ぎて、気持ち悪……気持ちが追いつきませんわ」

「……えっ」


 即答だった。ジルベールが、差し出した両手の形のままショックで固まる。


「き、気持ち悪い……か?」

「ええ。少々、過保護が過ぎて、胃の腑が拠り戻りしそうですわ」


 しかし、シャルロッテはふっと、この半年間で一度も見せたことのないような、悪戯っぽい苦笑を浮かべた。


「ですが……。不思議と、嫌ではございませんわ」

「シャルロッテ……!」

「勘違いしないでください、まだ貴方を許したわけではありません。お父様へのこれまでの仕打ち、わたくしへの仕打ち、一生忘れませんからね」

「はい……!」

「ですが……わたくしたちは、夫婦でしょう?  夜も共にしましたし───これからの長い人生、やり直す機会くらいは、差し上げますわ」


 ジルベールは目を見開いた。そして、またしてもみっともなく、涙を流して彼女の前に跪いた。


「シャルロッテ……っ、俺は、俺はお前を……!」

「泣かないでください、みっともないですわ。……あと、近いです」

「すまない……!」

「顔が近いですわ!  泣きながら抱きついてこないでください、ドレスが汚れます!」


(本当に、困った人。冷酷な男だと思っていたのに、メッキが剥がれてみれば、ただの不器用で、愛に飢えた寂しい男だったのだ。……半年間、傷つけられた。たくさん泣かされた。けれど───同じ屋根の下で過ごし、同じ食卓を囲み、お腹の中の新しい命を共に夢見た、その積み重ねの「情」までは、どうしても消えていなかった。………だから、もう少しだけ、この人と歩み寄ってみよう)


 シャルロッテは夫の頭を不器用にあやしながら、窓の外の夜空を見上げた。離れでは、父、フランソワが静かに眠っている。それこそが、呪われた檻を壊したミレーユ伯爵家に訪れた、本当の、温かな春の始まりの夜だった。

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