83.新たな夫婦の形
柔らかな春の陽光が、燦々と降り注ぐミレーユ伯爵邸。半年もの間、陰惨な監禁と悪意の嘘、そして重苦しい不信の空気に支配されていたその屋敷には、久しく失われていた穏やかな静けさが、少しずつ、だが確実に戻り始めていた。何より───。
「お父様……っ!」
シャルロッテは、もう堪えきれなかった。半年間、夢にまで見た父の声。その手の温もり。その存在そのものが、彼女の心の堤防を一瞬で決壊させた。
「シャルロッテ……私の娘よ」
掠れた声。 しかしその声音には、かつて領地を治めた誇りと、父としての揺るぎない愛が宿っていた。
「守ってくれて……ありがとう」
半年間に及ぶマリアンヌとカミーユ医師の薬物投与によって、その身体はひどく痩せ細り、歩行には杖が必要ではあった。しかし、かつての伯爵として采配を振るっていたその青い瞳の光は、決して死んではいなかったのだ。
「申し訳ありません……っ、お父様……!」
シャルロッテは父の節くれ立った手を両手で握りしめ、ぽろぽろと大粒の涙を零した。
「わたくし、お父様の近くにいながら、おぞましい裏切りに気づくこともできず……何もして差し上げられなくて……っ」
「馬鹿を言うな、シャルロッテ」
掠れた、だがどこまでも深い父親の慈愛に満ちた声。フランソワは優しく娘の涙を拭った。
「お前は、私を助けてくれた。あの傲慢だったお前が、自らの誇りと強さをもって、ヴァレリオ公爵の力を借り、このミレーユの家を守り抜いてくれた。それだけで……父親として、これ以上の誇りはない」
「お父様……!」
泣きじゃくる娘をそっと抱き寄せながら、フランソワはそのふっくらとし始めた彼女の腹部へと視線を向け、目を細めた。
「そして……。私は近いうちに、祖父になるのだな。ミレーユの血を引く、新しい命の……」
「はい……! ジルベールとの、子供ですわ」
「ははは、そうか……。嬉しいものだな、長生きはするものだ」
その後、王宮の近衛騎士団の迅速な臨検により、マリアンヌとカミーユ医師は正式に私財を没収の上、貴族暗殺未遂の容疑で王都の地下牢へ拘束・監禁された。
横領、偽診断、監禁、長期にわたる薬物投与、そして妊婦と胎児への殺人未遂───数々の悍ましい大罪の証拠は、ヴァレリオ公爵家によって完璧に揃えられており、二人に残された道は、刑の執行を待つのみであった。
そして、ジルベール・デュランもまた、今回の件において「直接の共犯ではない」と証明されたものの、当主代理としての資格を停止され、ヴァレリオ公爵家の厳重な監視下に置かれることとなった。
「当然の沙汰だな。商会への連座を免れただけでも、甘いくらいだ」
ヴァレリオ公爵邸の執務室で、総騎士団長レオンが腕を組んで鼻を鳴らす。
「そうだな」
ジュリアンもまた、冷淡に同意した。知らなかった、愛人に完璧に出し抜かれて騙されていた───それは事実だ。
だが、この半年間、実の父親を軟禁され、孤立無援だった正妻シャルロッテを『愚かな所有物』と見下し、家政のすべてをマリアンヌに丸投げしていたジルベールの商売人としての傲慢さ、夫としての怠慢、父親としての責任が、それで消えるわけではない。
「しかしよ、公爵様……」
レオンが思い出したように、ぶるりと肩を震わせて苦笑した。
「今、あのミレーユ邸で一番怖いのは……間違いなく、覚醒したシャルロッテ嬢だな」
「否定はしない」
珍しく、ジュリアンも微かに唇を歪めて頷く。その二人の視線の先───数日前、彼らが処刑の書類手続きのためにミレーユ邸の執務室を訪れた際、二人が目撃したのは、驚天動地の光景だった。
「違います、ジルベール。そこは“領民の生活”を最優先に考えるべきですわ」
「……っ、はい……!」
叱責の声は鋭い。だが、以前のような軽蔑ではない。そこには、共に家を立て直そうとする“伴侶”としての厳しさがあった。ジルベールは震えながらも、必死にペンを握り直す。
(……逃げない。今度こそ、向き合う)
その横顔には、確かに“父”としての覚悟が芽生え始めていた。
「それでは、お父様や古参の使用人たちがお困りになりますわ! 何を青い顔をしているのです、しっかりなさい!」
かつて商会の若きカリスマとして傲慢に踏んぞり返っていたジルベールが、執務机の前で完全に小さくなり、生まれたての小鹿のように震えていた。その前には、冷徹極まる名門の家庭教師のような顔をしたシャルロッテが、ビシッと帳簿を指差して立っている。
「家臣や使用人の忠誠は、貴方の好きな金だけで買い叩けるものではありませんわ! 貴族に必要なのは、信頼! 恩義! そして彼らの人生を背負うという責任です! 分かりましたか!?」
「……は、はい……」
「声が小さいですわ! 商人ならもっと腹から声を出しなさい!」
「はいッ! ……っ!」
「もっとです!」
「はいぃッ!!」
完全に立場が天地逆転していた。
「……怖え。あの成金、商会時代はあんなに生意気だったのに、今や完全にカカァ天下の尻に敷かれてやがる」
「自業自得だ。あの男には、あれくらい苛烈な妻の方が、本当の意味での『教育』になるのだろう」
「違いねえな」
数日後。王都、ヴァレリオ公爵邸の居間。
「それで……シャルロッテは、本当に元気なのですか?」
リシェルが、その美しい黒い瞳をきらきらと輝かせながら、夫のジュリアンに問いかけた。
「ああ、元気も元気だ、夫人」
横からレオンが笑い飛ばす。
「今じゃあのジルベールの奴、シャルロッテ嬢の影を踏むことすら許されないくらい、完璧に手懐けられてるぜ。完全に形無しだ」
「まあ……! ふふ、良かったですわ」
リシェルは、本当に心から安堵したように胸を撫で下ろし、嬉しそうに微笑んだ。
「フランソワおじ様も、シャルロッテも、ようやく元の、いいえ……本当の幸せな生活に戻れたのですね」
ジュリアンは、そんな妻の、あまりにも清らかな横顔をじっと見つめていた。かつて、シャルロッテから酷い陰湿な虐めを受け、傷つけられたか、リシェルは決して忘れてはいないはずだ。それでも、彼女の破滅を望まず、むしろ「やり直せたこと」を自分のことのように喜べる。
「……リシェル。お前は、本当に優しいな」
「え? そうでしょうか。わたくし、ただ……シャルロッテのお腹の赤ちゃんが……罪のない子が無事で本当に良かったと思っているだけで……」
「そうだ。お前は世界で一番、優しい女性だ。───俺の、誇りだ」
即答だった。ジュリアンのあまりにも真っ直ぐで深い寵愛の視線に、リシェルはぽっと頬を林檎のように赤く染める。
「あぅ、うー……」
その時、リシェルの腕の中で、銀髪の愛息リアンが小さな手をパタパタと伸ばし、ご機嫌な喃語を上げた。
「まあ、リアン。お父様とお母様のお話が分かりますの? よしよし、可愛いですね」
「ああ、世界一可愛い。リシェルに似て、最高に聡明な子だ」
「ふふ、ジュリアン様ったら」
完全に二人だけの世界に突入した夫婦を見て、レオンは深い溜息をついた。
「おい、公爵様。相変わらずだな」
「何がだ。事実しか言っていない」
「いや、もういい……。俺が悪かった……」
その時、廊下を小走りでやってきた小姓のノアが、一通の豪奢な手紙を掲げて部屋に入ってきた。
「旦那様! ミレーユ伯爵家から親書が届きました!」
「フランソワ殿からか」
ジュリアンが手紙を受け取り、封を切って静かに目を細める。
「何て書いてあるんだ?」
レオンが横から覗き込んだその手紙には、重みのある筆致でこう記されていた。
『──ヴァレリオ公爵閣下。
以前、我が愚かな娘が、リシェル夫人に対し、計り知れぬご迷惑をお掛けしたというのに、我がミレーユ家の危機を救っていただき、誠にありがとうございました。
毒の快復にはまだ少々時間を要しますが、必死に前を向き始めた娘夫婦を見ていると、この老骨も、もう少しだけ長生きしたいと思えるのです。
金しか知らぬ、本当に愚かで不器用な婿ですが……今度こそ、本当の家族になれそうです』
「……」
「お?」
レオンがニヤリと笑う。
「どうした、ジュリアン」
ジュリアンは静かに手紙をリシェルに渡し、窓の外を見つめた。
「いや……。案外、悪くない結末になりそうだ、と思っただけだ」
リシェルは手紙を読み終えると、胸にそっと手を当てた。
「……良かった。本当に……良かったですね」
その声は震えていた。まるで、自分のことのように安堵しているかのように。その言葉に、リシェルがそっと寄り添い、優しく微笑みかける。窓の外では、春の暖かな風が、満開に咲き誇る花々を柔らかく揺らしていた。
長い冬は終わった。ミレーユ伯爵家は、ようやく“再生”という名の春を迎えたのだ。
そしてその中心には───かつて傲慢だった令嬢ではなく、家を守り、父を救い、未来を育む“母”となったシャルロッテが立っていた。
新たな命と、新たな家族。ミレーユの誇りは、確かに受け継がれていく。




