84.棘薔薇の矜持と揺り籠の守護者
春の終わり。王都の喧騒から少し離れたミレーユ伯爵邸の広大な庭園では、初夏を予感させる白薔薇が、誇り高く静かに咲き誇っていた。
かつて醜い嫉妬と虚栄、そして陰湿な偽りと暗殺の陰謀に満ちていたこの泥塗れの屋敷も、今ではすべてが洗い流され、どこまでも穏やかな陽光と、薔薇の甘い香りに優しく包まれている。
「奥様───っ! 大変でございます、奥様! だ、旦那様が、またしても……っ!」
遠くから響いた、古参の侍女ベルナデットの血相を変えた慌てた声に、バルコニーで刺繍をしていたシャルロッテは、呆れたように深くため息を吐いて振り返った。
「今度は一体何事ですの、ベルナデット。もうわたくし、ジルベールの奇行には驚きませんわよ」
「そ、それが……っ、旦那様が、まだ見ぬお子様のために、王都中から『乳母の候補』を一度に二十人も屋敷に集めて面接をしておられるのです!」
「……は? 二十人?」
「何をしているのですか、この大馬鹿者は!」
シャルロッテの怒声に、ジルベールは飛び上がった。
「シャルロッテ!? 動くな! いや、立つのも危険だ! とにかく寝台へ───」
「落ち着きなさいと言っているでしょう!」
パァン、と乾いた音が響く。
「痛い! だがその痛みすら愛おしい!」
「黙りなさい。乳母を二十人も呼ぶ必要はありませんわ」
「だが、我が子のために最善を───」
「最善と過剰は違いますのよ、ジルベール」
シャルロッテはふっと微笑み、彼の手を自らの腹へ導いた。
「……でも、その不器用な過保護。嫌いではありませんわ」
「シャルロッテ……!」
「近いですわ。泣きながら抱きつかないでください、鬱陶しいです」
「すまない! 嬉しくて……っ、嬉しくて堪らないのだ、シャルロッテ……!」
相変わらずの、騒がしい凸凹夫婦。けれど、あの日の冷酷で、互いを憎み合っていた氷の檻はもうどこにもない。そこにいるのは、不器用で、少々鬱陶しくて、けれど───誰よりも自らの家族を、命がけで愛そうと足掻いている、一人の愛おしい夫の姿だった。
「……ふっ、随分と情けない顔になったものだな、ジルベール」
庭園の陽だまりの東屋。椅子に深く腰掛けたフランソワが、穏やかな苦笑を漏らした。
「……義父上」
向かいの席に座るジルベールへ、フランソワは温かな視線を向ける。
「だが、それでいい。半年前のお前は、自身より資産を持たぬ貴族に馬鹿にされ続け、常に刃を張り詰め過ぎていた。……商人として、奪うために生きることは、弱者ゆえの防衛だったのだろう。それは悪くない」
「……」
「だが、これからのお前は、この名門ミレーユ伯爵家を背負う人間だ。民を守り、家を守り、そして何より、最愛の妻と子を守り抜く。───それが、貴方がこれから学ぶべき、貴族の本当の責務だ」
ジルベールは、かつて自分が嘲笑したその「貴族の教え」を、今は深く胸に刻み込むように、静かに、深く頭を下げた。
「……ご教授願います、義父上。私は、今度こそ成り代わりとしてではなく、正式な手順を踏んで、貴方に認められる形で……このミレーユ伯爵家を継ぎたい。お前になら任せられると、そう言っていただきたいのです」
フランソワは、満足そうに青い瞳を細め、婿の手の上に、自らの老いた手を重ねた。
「……ようやく、私たちは本当の家族になれたな、ジルベール」
フランソワは、老いた手で婿の手を包み込んだ。
「お前は愚かだった。だが、愚かさを認め、学び、変わろうとする者を───私は見捨てぬ」
ジルベールは、初めて心からの笑みを浮かべた。
「……ありがとうございます、義父上」
同じ頃。王都、ヴァレリオ公爵邸の麗らかな居間。
「あぅ! うー、ばぶっ」
「まあまあ、リアン。そんなに元気に暴れては、お洋服がはだけてしまいますよ」
リシェルが慈愛に満ちた笑みを浮かべ、我が子をあやす。生後数ヶ月が経ち、すっかり首も座り始めた愛息リアンは、母親の腕の中で上機嫌に小さな手足をバタバタと動かしていた。
「リアン。見てごらんなさい、お父様が帰ってこられましたよ」
「あーっ!」
ちょうど登城の任務を終え、部屋に入ってきたジュリアンへ向かって、リアンは小さな両腕をいっぱいに伸ばした。
「……!」
その瞬間、社交界で「大陸最凶の氷の公爵」と恐れられる男の美貌が、跡形もなく、一瞬でとろけるように溶けた。ジュリアンは外套をノアに放り出すと、凄まじい速度で我が子をその逞しい腕へと抱き上げる。
「リアン、ただいま。……今日も、一段と可愛いな。やはりお前に似て、世界一の美男子だ、リシェル」
「ふふ、ジュリアン様ったら、毎日同じことを仰っていますわ」
「事実だ。宇宙の真理と言ってもいい。───そして、リシェル。お前も今日も、世界一美しい」
「まあ……っ」
何気ない日常の、どこまでも甘やかなノロケ。夫婦で視線を合わせ、幸せそうに微笑み合っていると、そこへドタドタと足音を響かせた小姓のノアが、一通の親書を掲げて飛び込んできた。
「旦那様! ミレーユ伯爵家から、追加の定期報告とお手紙が届きました!」
ジュリアンが受け取り、封を開く。背後から総騎士団長レオンが「どれどれ、あのツンツン薔薇の近況は?」と首を突っ込んで覗き込んだ。そこには、シャルロッテの直筆による、気品ある文字が躍っていた。
『───拝啓、ヴァレリオ公爵閣下、そして親愛なるリシェル様。
お父様も奇跡的な快復を遂げ、最近では散歩ができるほど元気を取り戻しつつあります。
ジルベールは、相変わらず毎日空回りをしてはわたくしに叱られておりますが……。
ですが、ほんの少しだけ……今、わたくしは幸せです。
あの頃の未熟だったわたくしは、リシェル様を深く傷つけました。その罪が消えることはありません。
それでも今、自らが一人の「母」になろうとして、ようやく分かるのです。
守るべき大切なものがあるということが、どれほど人間を強く、幸せにするのかを。
いつか、お腹の子が無事に生まれたその時には……リシェル様へ、過去のすべての罪のお詫びと、我が家を救ってくださったことへの本心からのお礼を、直接直接、申し上げに伺えたらと思っております』
「……」
「お?」
レオンがふっと優しい笑みを浮かべ、ジュリアンの肩を叩いた。
「どうした、公爵様。随分と優しい顔をしてやがるな」
「いや……。良かったと思ってな」
「そうか。これで完全に、すべてが丸く収まったな」
「いや」
ジュリアンは静かに首を振り、愛しい妻と、その腕の中で笑う息子へと視線を戻した。
「丸くではない。それぞれが深く傷つき、罪もあり、決して許されない過ちもあった。……だが、それでも人は、愛を知ることで変わることができる。本当の家族になれるのだと、あの二人が証明しただけだ」
リシェルがそっと、夫の隣に寄り添い、その広い胸に頭を預けた。
「はい。愛は決して消えませんもの。形を変えて、寄り添い、次の世代へと美しく受け継がれていくのでしょうね」
ジュリアンは愛おしそうに妻の肩を引き寄せ、その額に優しい口づけを落とした。
「ああ。その通りだ、リシェル」
窓の外から、祝福するように温かな初夏の風が吹き抜けた。その時───。
ふと、室内に柔らかな花の香りが満ちた。
「……? 今、誰かが……」
リシェルが不思議そうに顔を上げる。ジュリアンは静かに目を閉じた。
(……母上)
それは、生前のアメリアが好んだ香り。祝福のように、優しく、そっと通り過ぎていった。───愛は死なない。形を変えて、受け継がれていく。天上の母が残したその願いのように。
かつて棘を振りかざしていた薔薇は、いま確かな愛を知り、母として静かに咲いた。そして、愛する者を守るために剣を掲げた者たちの物語は───これからも、未来へと続いていく。




