020.アルファポリス累計55,000pt突破記念SS 血は争えない最強の遺伝子と、ラベンダー香る新旧公爵夫人
春の柔らかな日差しが差し込む午後。ヴァレリオ公爵邸の居間には、どこまでも穏やかで満ち足りた空気が流れていた。
「あぅー」
「ふふ、ご機嫌ね、リアン。今日もお天気が良くて気持ちいいわね」
リシェルは腕の中の我が子を優しく揺らしながら、その愛らしい顔を見つめて目を細めた。生後数ヶ月が経ち、最近では首も少しずつ座り始め、視界に入るものを小さな手で一生懸命に掴もうとする仕草が増えてきている。
「お庭のお花も綺麗に咲いていますよ。お父様が帰ってきたら、一緒にお散歩に行きましょうね」
「うー」
母親の言葉を理解しているかのように、リアンが小さな手足をバタバタと動かす。その無邪気な姿に心から癒されていると、廊下の向こうから、ドタドタと慌ただしい足音が響いてきた。
やがて、コンコンと控えめながらも切迫したノックの音が鳴り、扉が開く。
「奥様、少々よろしいでしょうか」
入ってきたのは、いつも冷静沈着な侍女のエミリアだった。だが、今日の彼女は珍しく少しだけ息を切らせ、瞳の奥を微妙に泳がせている。
「どうかしたの? エミリア」
「先代閣下が──ギュスターヴ様が、たった今、王都の正門を強行突破なさったとのことです」
「まあ。お義父様が、ですか?」
「はい。しかも今回は……何やら、不審なほど大きな麻袋を自ら肩に担ぎ、ものすごい勢いで爆走しておいでだとか」
「……爆走、ですか?」
リシェルがその光景を頭に思い浮かべ、困惑の笑みを浮かべた、まさにその瞬間だった。
──バァン!!
「リシェル! リアン! じいじが帰ったぞ!」
扉を蹴破る勢いで現れたギュスターヴは、肩に巨大な麻袋を担いでいた。次の瞬間、絨毯の上へドサァッと袋をひっくり返す。
木彫りの熊、木馬、羊のぬいぐるみ、地方玩具の山。
「見ろ! 市場にあった玩具を全部買い占めてきたぞ!」
凄まじい声量で叫びながら入ってきたのは、現公爵であるジュリアンの実父であり、先代当主のギュスターヴ・ヴァレリオだった。
短く刈り込んだ銀髪に、吸い込まれそうなほど深い漆黒の瞳。そして整えられた見事な顎髭。放蕩旅という名の地方視察から戻ったばかりの彼は、旅の埃を纏ってなお、かつて戦場や政界で「鉄血」と恐れられた圧倒的な威厳と覇気に満ちあふれている。佇んでいるだけで絵になるほど絵に描いたような高貴な容姿。
だが、今は大量───とにかく大量。絨毯の上が一瞬で地方の玩具市場のようになってしまうほどの、圧倒的なボリュームの玩具を子供のような笑顔で自慢気に出してきたのである。
「「……」」
それを見つめるリシェルとエミリアの視線は、完全に一致して静まり返った。
「お義父様……随分とたくさん買い込まれたのですね」
「当然だ! リアンは世界一可愛い我がヴァレリオの宝! ゆえに、与える玩具も世界一、いや大陸一の量でなくてはならんからな!」
胸を張って豪語するギュスターヴだが、完全に理論がめちゃくちゃである。彼はそのまま、かつて多くの敵兵を恐怖で震え上がらせたであろう、地響きのような重低音ボイスを限界まで引き絞って、リアンの顔を覗き込んだ。
「ほら、リアン~、じいじがお土産を買ってきたぞー。ほれほれ、くまさんだぞー、怖くないぞー」
「あぅ!」
「おおお! 笑った! リシェル、見たか!? リアンが今、私を見て確かに笑いかけたぞ!」
「ええ、ふふ。とても喜んでいるみたいですね」
大興奮する義父の姿に、リシェルは苦笑する。ギュスターヴは「待て、赤子の口に入るかもしれんからな。念入りに綺麗にせねば」と言いながら、懐から取り出した高級な端切れで、木彫りの熊の隅々まで熱心に、かつ慎重に拭き掃除を始めた。
「リアン~、じいじが心を込めて作ったくまさんだぞ~、気に入ってくれたか~」
買ってきたのである。断じて作ってはいない。しかし、その脳内においては、溢れんばかりの愛情補正によって、すでに「自分が手作りした一品」ということになっているらしかった。
仕立ての良い衣服を着こなし、髭を蓄えたその容姿はどこまでも渋く、圧倒的に格好いい。立っているだけで絵になる男だ。──だが、その理性は、孫を前にして完全に崩壊していた。
リシェルは遠巻きにその様子を眺めながら、(本当に……外見はあんなに素敵で威厳に満ちていらっしゃるのに、リアンの前では完全に理性が失われてしまうのですね……)と、生暖かく見守るしかなかった。
だが、平和な暴走の時間は、そこまでだった。邸の玄関の方から、聞き慣れた、けれどどこか冷徹な響きを孕んだ足音が近づいてくる。
「ただいま戻った、リシェル」
現当主、ジュリアン・ヴァレリオの帰宅だった。彼の後ろには、数人の若い使用人たちが、何やら厳重に梱包された巨大な木箱を恭しく抱えて控えている。
「お帰りなさいませ、ジュリアン様」
「ああ。リシェル、かねてより私が王都の一流職人たちに発注していた品が、ようやく完成したんだ」
ジュリアンは愛しい妻に向けて、わずかに声音を和らげる。
しかし、次の瞬間。彼の漆黒の瞳が、居間の中心に広がっている泥臭い「地方の木屑の山」と、我が子に髭を引っ張られながら恍惚とした表情で悦びに震えている実父の姿を捉えた。
ピキ、と、空間の温度が一瞬で絶対零度まで凍りつく音が聞こえた気がした。
「……父上。何をしているのですか」
「おお、ジュリアンか! 丁度いいところへ帰ってきた。見ろ、私の買ってきた木馬を、リアンがじっと見つめている。やはりこの子には、本物の木の温もりが分かるのだな!」
「……」
ジュリアンは、実の父親を完全に「存在しないもの」として視界からシャットアウトすると、漆黒の瞳を据わらせたまま、控えていた使用人たちに合図を送った。
「そんな怪しげな地方の木屑を、我が家へ持ち込まないでください。リアンの高貴で繊細な肌にトゲでも刺さったらどうするのです。リアン、そんな不恰好な熊ではなく、こちらを見なさい。お父様が王都最高の宝飾職人と高名な細工師を総動員させ、野生の魔獣から極稀にしか手に入らない希少な『魔石』を組み込ませた、白金製の特製ガラガラですよ。自動で精神を安定させる美しい子守唄を奏でる、至高の芸術品ですよ」
「何だと!? そんな冷たい金属と出所の怪しい魔石の玩具など、リアンの豊かな情緒の教育に悪いわ! 玩具とは、職人が一つ一つ魂を込めて削り出した、木の温もりが必要だ! 職人の魂が宿っている!」
「父上、リアンの肌に木屑が触れたらどうするのです。こちらは魔導石入り白金製、温度調整機能付きです」
「冷たい金属など赤子に触れさせられるか!」
「木の玩具など衛生管理が不十分です」
「貴様は昔から理屈ばかりだ!」
「父上は昔から感情論ばかりです」
ジュリアンが差し出した眩いばかりの白金製の玩具を前に、ギュスターヴが髭を震わせて怒鳴る。
いつの間にかエミリアがすっとリシェルの斜め後ろに立ち、静かに目を細めた。
「始まりましたね、奥様」
「ええ、始まりましたわね、エミリア」
リシェルは、男たちの怒号をBGMに、静かにお茶を一口啜った。ヴァレリオ家名物、大陸最強の男たちによる「溺愛大会」の開幕であった。
その日の夜。玩具の方向性を巡る、実に不毛で、けれど双方一歩も引かなかった親子喧嘩は、リシェルのふんわりとした笑顔による「お二人とも、それ以上おもちゃで揉めるのでしたら、リアンの玩具はすべて没収し、一ヶ月間、リアンへの面会を一切禁止いたしますね」という一言によって、一瞬で完全鎮圧された。
『……すまない、リシェル』
『……悪かった、リシェル。深く反省している』
大陸最強と謳われた新旧の公爵が、揃って絨毯の上で正座をし、これ以上ないほど小さく縮こまっていた情けない姿を思い出し、リシェルはベッドの中でくすくすと笑いを漏らした。
「ふふ……本当に、血は争えませんわ」
部屋の中は、心地よい静寂に包まれている。隣のベビーベッドの中では、すやすやと可愛い寝息を立てるリアン。
そしてリシェルのすぐ隣では、我が子の寝顔をいつまでも愛おしそうに眺めた格好のまま、満足そうに眠りについた夫ジュリアンの端正な寝顔があった。
ちなみに、別室の客間には、夕食後も「あの木馬の曲線美はリアンの情操教育に絶対に必要なのだ……」と未練がましくブツブツ呟いていた義父ギュスターヴが休んでいる。
そんな愛すべき男たちの姿を思い浮かべながら、リシェルもまた、幸福な疲れに身を委ねるように静かに眠りへと落ちていった。
───気がつけば。リシェルは、見たこともない、一面に美しい薔薇が咲き誇る白銀の庭園の真ん中に立っていた。
夜空に浮かぶ満月に照らされ、きらきらと輝く花々。頬を撫でる優しい風。
そして──ふわりと、鼻腔をくすぐった、どこか酷く懐かしくて、温かなラベンダーの香り。
導かれるように振り返ったリシェルは、そこに佇む女性の姿を見た瞬間、誰に教わるでもなく、自然と深く頭を下げていた。
「アメリア様……」
そこにいたのは、亜麻色の髪を靡かせた、ジュリアンに似た息を呑むほどに美しい女性だった。
かつて可愛いものや芸術を深く愛し、西部地方の伯爵令嬢からヴァレリオ公爵夫人となった人。──十四~十五年前に若くしてこの世を去った、ジュリアンの実母、アメリア・ヴァレリオその人であった。彼女の周囲には、夢の世界を彩るように、可憐な細工や花々が咲き乱れている。
「初めまして、リシェルちゃん」
鈴を転がすような、どこか少女のようなお茶目さを残した、とても優しい声音だった。アメリアはリシェルの手をごく自然に、温かく包み込んで微笑む。
「いつも、我が家のあの不器用で、一途すぎる男たちを深く愛してくれて本当にありがとうね。……ふふ、それにしても、昼間はあの人が玩具の山で大騒ぎしてしまって、本当にごめんなさいね? あの人ったら、私が寂しくないようにって、毎晩のように夢の中へ私を呼び出しては、あなたのことばかり自慢していくのよ。『アメリア、聞いてくれ。ジュリアンのあの嫁は、どことなくお前に似ているんだ。もしお前が生きていたら、きっと姉妹のような素敵な嫁姑になっていただろうな。リシェルは本当に優しくて、強くて、良い子なんだぞ』って……もう、毎回毎回、おじさんになってまで惚気ばかりなんだから」
アメリアが少し困ったように、けれど愛おしそうに肩を竦めるのを見て、リシェルはパチパチと漆黒の瞳を丸くした。
「お義父様が、夢の中でそんなお話を……?」
「ええ、そうなのよ。でもね、私はもし自分がまだ生きていたら、リシェルちゃんをたくさん可愛がりながらも、ちょっとだけお茶目に張り合っちゃったかもしれないわね。『あら? リシェルちゃんもとっても可愛らしいけれど、私もまだ負けていませんよね、ギュスターヴ? ジュリアン?』なんて言って、あの人たちを困らせてみたりして。……ふふ、本当にヴァレリオの男たちは、あんなに外見だけはすましているのに、愛する人の前では途端に余裕がなくなってしまうの。リアンくんをあんな風に形振り構わず溺愛しているなんて、やっぱり、ヴァレリオの血は争えないわねぇ」
その言葉に、リシェルも思わず緊張を忘れ、親しみを込めて苦笑した。
「はい、本当に……。ジュリアン様もお義父様も、毎日リアンの前ではすっかり理性がどこかへ行ってしまわれるのです。毎日『リアンは世界一だ』『父上の持ってきた木屑など不要だ、私のおもちゃこそが世界一だ』と一歩も譲らなくて、わたくし、お茶を飲むしかございませんの」
「うふふ! まあ、ジュリアンまでそんなことを! やっぱり親子ね、やっていることがあの人の若い頃と完全にそっくり! 想像しただけで可笑しいわ!」
アメリアは楽しそうに声を上げて笑った。天上と地上。時を超えて出会った新旧の二人の公爵夫人は、まるで昔からの親しい友人のように、男たちの知能指数が著しく低下した狂おしいほどの溺愛っぷりを、全く同じ温度感で「生暖かく」見守る完璧な同志になっていた。
「ねえ、リシェルちゃん、毎日あの偏執的な溺愛に付き合うのは、少々苦労するでしょう?」
「ええ……少々、呆れてしまうこともございますわ。ですが──」
リシェルは、胸の奥から湧き上がる温かな感情をそのままに、真っ直ぐにアメリアを見つめて微笑んだ。
「───とても、幸せです」
「……ええ。そうね。私も、本当に幸せだったわ」
「リシェルちゃん。あなたはね、私が果たせなかった“ヴァレリオの未来を守る役目”を、今こうして立派に果たしてくれているの」
アメリアはそっとリシェルの手を包み込む。
「あなたがリアンを抱く姿を見るたびに思うの。───ああ、この子はきっと、私よりもずっと強くて優しい“本物の公爵夫人”になるって」
アメリアは優しく目を細めると、ふわりとリシェルの身体を愛おしそうに抱きしめた。心地よいラベンダーの香りが、リシェルの全身を優しく包み込んでいく。
「リアンくんと、あの困った男たちを、どうかよろしくね。……私の、世界一可愛い義理の娘」
「はい……アメリア様。わたくしも、アメリア様が、お義父様が今でもあんなに愛していらっしゃる貴女のことが、大好きです」
「うふふ、ありがとう。私もよ、リシェルちゃん」
繋いだ手の温もりを残したまま、ラベンダーの香りは、夜の風の中へと優しく溶けるように消えていった。
爽やかな朝の光が差し込む寝室で、リシェルはゆっくりと目を覚ました。シーツから身体を起こし、ふと辺りを見回す。部屋の中には、まだ微かに、けれど確かに、夢の中で感じたのと同じ、気品あるラベンダーの残り香が漂っていた。
「リシェル……」
隣でジュリアンが薄く目を開け、寝起きの手つきのまま、愛おしそうに妻の腰を引き寄せて強く抱きしめてくる。ジュリアンはリシェルの首筋に顔を埋めると、ふと不思議そうに鼻を動かした。
「……良い夢を見たのか。なぜだろう、懐かしいラベンダーの香りがする。……母上が、生前に好んで纏っていた香りだ」
リシェルは嬉しそうに目を輝かせ、夫の胸に手を当てて顔を見上げた。
「ジュリアン様、実はわたくし、夢の中でアメリア様とお会いいたしましたわ。お義父様が仰っていた通り、本当に優しくて、お茶目で、可愛らしい方でした。……ジュリアン様、お義父様をこうして王都に呼んで、リアンに会わせて差し上げて、本当に良かったですわね」
「……!」
ジュリアンの漆黒の瞳が、驚きと、それから深い感動によって静かに揺れる。彼は少しだけ照れくさそうに視線を彷徨わせた後、ふっと、これまでリシェルにも見せたことがないような、柔らかく穏やかな笑みを浮かべた。
「そうか。……母上に会えたのか。父上が、あれほど子供のように嬉しそうに騒いでいたのなら……私も、少しはまともな親孝行ができたのかもしれないな」
「はい。きっと、アメリア様も空の上で笑っていらっしゃいますわ」
その時、部屋の隅の揺り籠から、「あぅ!」「うー!」と元気に目を覚ました絶対君主の声が響いた。ジュリアンはすぐにベッドを抜け出し、リアンを愛おしそうに抱き上げる。
「おはよう、リアン。今日も世界一可愛いな」
「ジュリアン様、朝一番からまた……」
「事実だ。こればかりは譲れない」
リシェルが呆れたように笑った、その瞬間だった。遠い廊下の向こうから、ドタドタという豪快な足音と共に、あの聞き慣れた重低音が響き渡る。
「リアンー! 朝だぞー! じいじが新しい木彫りの馬を作ってきたぞー!!」
「「……」」
現公爵と公爵夫人は、揃って顔を見合わせた。そして、どちらからともなく、堪えきれずに吹き出した。
「ふふっ、お義父様ったら、お仕置きの一ヶ月禁止をもう忘れてしまわれたのかしら」
「……はは、本当に、あの父上の懲りないところだけは、昔から変わらないな。まったく、今日も朝から騒がしい」
窓の外を見上げれば、どこまでも高く、澄み渡った青空が広がっている。
あの遠い空の向こう、白銀の庭園のラベンダーの香りの中で、アメリアもまた、愛する夫と息子の相変わらずの暴走を、そして新しい愛しい家族の姿を見守りながら、楽しそうに笑っているに違いない。
亡き妻の不変の愛。それを今も抱き続ける夫の愛。そして、ジュリアンからリシェルへ、そして新しく生まれたリアンへと。脈々と、1ミリの狂いもなく受け継がれていく、ヴァレリオ公爵家の誇り高き「一途」と「溺愛」の遺伝子。
それを、空の上と地上という特等席から、アメリア公爵夫人が、今日も生暖かく、けれどこの上ない愛おしさを込めて見守り続ける。
「まったく、ヴァレリオの男たちという生き物は、本当に仕方のない人たちですね」
『ええ、本当に。───でも、そんな呆れるほどに真っ直ぐなところが、私たちは大好きなのよね』
重なる、新旧公爵夫人の優しい微笑みの声。愛に満ちたヴァレリオの揺り籠は、今日もまた、幸福な笑い声に包まれながら、未来へと美しく揺れていく。───ヴァレリオの男たちは、愛する者の前では皆、どうしようもなく不器用で、どうしようもなく真っ直ぐだ。だからこそ、彼らは代々、最強の家族を築いていく。




