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政略結婚のはずが、完璧公爵の溺愛が子リス系令嬢を解き放ちました  作者: 宮野夏樹
第3章 溺愛が未来を拓くまで

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79.崩れ始める檻


「……いない?  どういうこと?」


 マリアンヌの声は震えていた。怒りではない。理解を拒むような、否認の震えだった。手にしたティーカップが滑り落ち、音を立てて割れた。


「そんなはず、ないわ……。あの臆病者が、私を置いて逃げるなんて……」


 だが、背筋を氷で撫でられたような悪寒が、彼女の全身を貫いた。誘惑したのは自分だ。その肉体と甘言をもって、しがない町医者だったカミーユを抱き込み、ミレーユ伯爵家の侍医の座へ押し上げたのも自分。そして、前当主フランソワ伯爵の診断を『原因不明の精神疾患』と偽らせ、毒薬ともつかぬ昏睡薬を長期投与して廃人に追い込む方法を提案したのも、すべて、このマリアンヌ自身だった。


 すべてを主導してきたからこそ、誰よりも熟知していた。あの医師の根底にあるのは、あまりにも貧弱で、脆弱な「臆病さ」だということを。


(まさか、ジルベール様に……あるいは、どこかの誰かに、すべてを告白して簒奪の罪から逃れるために失踪したの!?)


 ───だが、皮肉なことに、マリアンヌの予想は半分正しく、半分は決定的に間違っていた。


 カミーユ医師は、自らの命の危機を察して王都から逃亡した末、何をトチ狂ったのかヴァレリオ公爵家の総騎士団長レオンが治める『フェリシテ子爵家』の邸宅へと自ら逃げ込み、そのままヴァレリオ家の秘密部屋へ移送されたのだ。


 つまり、この段階において、ジルベールも、マリアンヌも、そしてシャルロッテも──ミレーユ伯爵邸の天井の裏で、あの「王国最凶の過保護(ヴァレリオ公爵家)」が巨躯を隠して完全に牙を剥いているなどとは、微塵も、一ミリも気づいていなかった。




「マリアンヌ」


 背後から響いた、冷徹極まる低い声。


「っ……!」


 心臓が跳ね上がるのを必死に抑え、マリアンヌが振り返ると、執務室の入口にジルベールが影のように佇んでいた。灰色の瞳には、商売の帳簿の辻褄を合わせるような、鋭く不機嫌な光が宿っている。


「ジ、ジルベール様……。どうなさいましたの?」

「医師のカミーユはどうした。今朝のフランソワ伯爵の回診と、お前の腹の経過診断の書類が、私の机にまだ届いていない」


 鋭い、すべてを見透かすような商人の視線。マリアンヌは頬の筋肉を総動員して、いつもの無垢な笑顔を張り付けた。


「まあ、そのことですの?  先生は……少し季節外れの風邪を召されたようで、休養を取りたいと連絡がございましたわ。わたくしとお腹の子の経過は極めて順調ですので、ご安心くださいな」

「そうか」


 短い返事。だが、ジルベールはいつもなら自分の執務机へと向かうはずの足を止め、その場から微動だにしなかった。その灰色の瞳が、じっとマリアンヌの「砕けたティーカップの破片」へと注がれる。


「……ジルベール様?」

「最近、妙なことが多いな、マリアンヌ」


 ジルベールは眉を寄せた。疑っているというより、帳簿の数字が合わない時のような“違和感”を覚えているだけの表情だった。


「……まあいい。後にする」


ピシリ、とマリアンヌの笑顔の裏が凍りついた。商人時代、数え切れないほどの詐欺師や横領奴隷をその冷酷な目で見定めてきた男の、本物の観察眼だった。


 マリアンヌは弾かれたように笑い、いつものように、完璧な傾国の肢体をもってジルベールの腕へとそっと触れようとした。甘えるように、その広い胸に顔を寄せようとする。


「妙なことなど何もありません。ジルベール様のためにすべてを捧げ、あなたの子をこのお腹に宿している、それだけですわ……?  お疲れなのです、今日はお仕事をお休みになって……」


 しかし。ジルベールは、マリアンヌの指先が触れる直前、冷徹に一歩、身体を引いて彼女の誘惑を「回避」した。


「いや。……その必要はない。用件はそれだけだ。後にする」


 そのまま、一度も振り返ることなく執務室を去っていくジルベール。残されたマリアンヌは、腕を伸ばした姿勢のまま、文字通り石化するように固まった。


(避けた……?  あの男が、この私の肉体を、拒絶した……?)


 初めての事態だった。あの支配欲と独占欲の塊のような成金が、自分に「明確な不信」を抱き始めている。その事実が、彼女の焦燥をさらに濁った狂気へと加速させた。




 一方その頃。ミレーユ伯爵邸の陽だまりの射す主家の一室では、シャルロッテが穏やかな動作で、ハーブティーのカップを口元へと運んでいた。


 最近の彼女の身体は、誰の目から見ても明らかなほど、お腹の辺りがふっくらと丸みを帯び始め、豊かな慈愛の輪郭を醸し出していた。


「奥様」


 侍女ベルナデットが、周囲を警戒しながら小声で囁く。


「例のお抱え医師のカミーユですが……昨夜から、完全に屋敷から『失踪』したとのことでございます」

「そう……逃げたのね」


 シャルロッテは静かに目を伏せた。強がりではない。だが、胸の奥に小さな不安が確かに疼いていた。


(……間に合うかしら。私が動く前に、あの女が暴走しなければいいけれど)


 シャルロッテはふっくらとし始めた自身の腹部に、愛おしそうに両手を添えた。


(今日も、元気ね。……あなたがそこにいてくれるだけで、私は、どんなハイエナの嘘にも負けない『母』になれる)


 彼女は窓の向こう、薬漬けにされて離れに幽閉されている父、フランソワ伯爵の部屋を見つめ、青い瞳に強い覚醒の光を宿した。


(お父様……必ず、あなたも救い出しますわ。ミレーユの誇りは、まだ死んではおりません)




 その日の夜。マリアンヌは一人、月明かりすら遮断した薄暗い自室で、高級な赤ワインのボトルを、グラスにも注がず直に喉へと煽り続けていた。


「……ありえない。こんなこと、あってたまるものですか……っ!」


ドサリ、と空になったボトルが絨毯へ転がる。衣服は乱れ、赤く染まった唇が激しく震えていた。医師が消えた。ジルベールの態度は明らかに冷淡になり、邸内の古参の使用人たちは、自分を「哀れな処刑囚」を見るかのような冷ややかな目で見下してくる。


 そして何より──シャルロッテだ。


 あの女、どんなに醜い不貞の噂を流しても、全く動じない。泣き喚きもしなければ、ジルベールに縋り付きもしない。まるで……自分が、近いうちに必ず勝利すると知っているかのような、圧倒的な「勝者の静けさ」でそこに佇んでいる。


「ふざけないで……っ!  私は負けない!  負けてたまるもんですか……っ!」


 マリアンヌは鏡に映る、深酒で真っ赤に充血した自身の美しい顔を睨みつけた。ここで全てを失えば、待っているのは路頭に迷う商会奴隷への逆戻りだ。伯爵夫人同然の愛人の座も、贅沢な暮らしも、男たちを跪かせる権力も、すべて私が手に入れるはずのもの。


(……いいえ。まだ、終わってなどいないわ。ジルベールのような成金に疑われたところで、何の問題があるというの?)


 マリアンヌの歪んだ脳裏に、凄絶な「起死回生」の光景が浮かび上がる。間もなく、ジルベールが手配した『ヴァレリオ公爵家との販路拡大の直接会談』が行われる。あそこには、あの社交界の頂点、富と権力の絶対的象徴である「ジュリアン・ヴァレリオ公爵」が直々に現れるのだ。


(ジュリアン・ヴァレリオ……。どんな男も、私の前では跪く。あの氷の公爵だって例外じゃないわ)


 マリアンヌの唇が、狂気の笑みに歪んだ。そのためには、まず、この「偽装妊娠」の辻褄を合わせ、シャルロッテを確実に処刑台へと送る『最後の手』を打たねばならない。


「ふふ……、そうよ。最初から、あの女のガキさえいなければ……」


 翌朝。マリアンヌは、昨夜のうちにベッドシーツへ赤ワインを垂らし、まるで血痕のように見せかけていた。その上で、涙を滲ませながらジルベールへ告げた。


「……流産してしまいましたの……」


 顔を伏せ泣くマリアンヌ。肩を震わしてはいるが、それはジルベールを上手くだませたという傲りからくる嗤いからだった。彼女はまだ知らない。彼女が最後の希望として縋ろうとしている「ジュリアン・ヴァレリオの誘惑」という計画そのものが、自ら地獄の業火へと飛び込む、自殺志願に他ならないということを──。

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