78.偽りの噂
「……不貞だと? シャルロッテが?」
思わず低く聞き返したジルベール・デュランに対し、マリアンヌはこれ以上ないほど悲しげに長い睫毛を伏せてみせた。
陽光が差し込むミレーユ邸の午前の執務室。彼女は震える指先で、贅沢なレースのハンカチを涙を拭うように強く握りしめている。
「ええ……わたくしも、信じたくはありませんの。ですが……近頃、邸内の古参の使用人たちの間で、不穏な噂が立っておりますのよ」
「誰の噂だ」
「奥様ですわ……」
マリアンヌは今にも泣き出しそうな、庇護欲をそそる完璧な悲劇のヒロインの仮面を作り上げた。
「シャルロッテ様が、夜な夜な古参の男たちと密会を重ねていると。……ジルベール様、わたくし怖くて。奥様のお腹に宿る命が、本当にジルベール様のお子なのかどうか……」
───ガンッ!!
凄絶な、机を叩く破壊音が室内に響き渡った。
「ひっ……!」
「くだらん嫉妬の噂に付き合う暇はない。それに───」
ジルベールは帳簿を閉じ、冷徹な瞳を細めた。
「シャルロッテは嘘が下手だ。……あの女は『自分に都合の悪いことだけは』完璧に隠す。だからこそ、俺はあいつの腹の子を疑う必要がない」
冷酷極まる、一滴の熱も含まないジルベールの声音。マリアンヌの心臓が跳ね上がった。完全に計算が狂った。ジルベールは嫉妬と支配欲の塊だ、この噂を流せば激怒して即座にシャルロッテを地下牢へぶち込むか、離縁へと動くはずだった。しかし現実は、ジルベールはそう吐き捨て、冷徹に手元の帳簿へと視線を戻した。
「それに、最近のあいつを見ていれば、商人の目を持たずとも分かる。……今のシャルロッテは、自分の腹のガキのことしか頭にないのは明らかだ。くだらん嫉妬の噂に付き合う暇はない。それよりも、マリアンヌ」
ジルベールは冷酷な灰色の瞳を上げた。
「ヴァレリオ公爵家への、魔石の販路拡大を賭けた『直接会談』の手打ちはどうなっている?」
「あ……っ、ええ、そ、そちらは極めて順調ですわ、ジルベール様」
マリアンヌは引き攣った笑みを張り付けた。───大嘘だった。順調などとは程遠い。ヴァレリオ公爵邸からは、未だに正式な返状のすら届いていない。正確には、ジュリアン・ヴァレリオにとって、デュラン商会など「眼中にない相手」であり、返事をする価値すら認められていないと思わざるを得ない。
ジュリアンは静観している。だが、それは無関心でも容赦でもない。マリアンヌという哀れな狐は、その沈黙が「死刑執行の猶予」であることに、まだ気づいていなかった。
その日の午後。シャルロッテは薄暗い自室の窓辺で、生まれてくる我が子のための小さな産着に、静かに刺繍を施していた。かつてなら退屈だと投げ出していただろう穏やかな時間。だが───。
「奥様……ッ!」
古参侍女のベルナデットが、文字通り血相を変えて部屋へと飛び込んできた。
「どうしたの、ベルナデット。お腹の子が驚くわ。落ち着きなさい」
「ですが……! 使用人たちの間で、奥様が古参の護衛と不貞を働いたという、あまりにも悍ましい嘘の噂が流されておりますの! ジルベール旦那様の耳に入れば……!」
刺繍の針が、ぴたりと止まった。死のような静寂。しかし、シャルロッテの青い瞳に動揺はなかった。彼女はふっと、自嘲に満ちた哀しい微笑みを浮かべた。
「そう。……いよいよ、始まったのね」
シャルロッテは静かに微笑んだが、その指先は震えていた。
「私がどう言われようと構わない。けれど───」
彼女は腹部へそっと手を添え、青い瞳に鋭い光を宿した。
「この子に危険が及ぶ噂だけは、絶対に許さない」
「ご、ご存知だったのですか!?」
「いいえ。でも、分かるのよ」
シャルロッテは刺繍布を机に置き、少しだけ膨らみ始めた自身の腹部を愛おしげに撫でた。
「追い詰められた無能な者ほど、最後には、卑劣な『嘘』で人を貶めようとするものよ。───かつての、私のようにね」
かつて、自分もそうだった。リシェルの真珠のような美しさに嫉妬し、彼女を見下し、社交界の王座を守るために陰惨な罠を仕掛けた。
今なら、血を吐くほどの地獄を舐めた今なら分かる。あれは、誇りなどではなかった。ただの弱さであり、醜い未熟さだったのだ。だからこそ、今、偽装妊娠の化けの皮が剥がれかけて狂乱しているマリアンヌの、浅ましい焦りの輪郭がありありと見えた。
「奥様が不貞を働いたなどと……誰も信じておりません! ですが───」
ベルナデットは震える声で続けた。
「ジルベール旦那様の耳に入れば、真偽に関係なく“処罰の理由”にされてしまいます!」
「いいえ、ベルナデット。まだ何も言わなくていいわ。ジルベールは、その噂を絶対に信じないから」
「なぜ、そこまで言い切れるのですか?」
「……変な話だけれどね」
シャルロッテは窓の外の暗雲を見つめ、冷たく笑った。
「あの人は、極度の人間不信のくせに、自分の『所有物』の価値だけは、妙に盲信する男なのよ。だから私の腹の命が、間違いなく自分の血筋であることも疑わない。……本当に、どこまでも皮肉な男だわ」
そして、だからこそ、ジルベールはマリアンヌという大嘘吐きの狐に、背後から決定的な破滅の刃を突きつけられていることすら気づいていない。
「でも」
シャルロッテの青い瞳に、修羅の光が宿る。
「可愛い噂の内ならいいわ。───けれど、この子だけは私が、私のすべての血を流してでも守り抜く。誰一人として、指一本触れさせはしないわ」
その時だった。パチ、と回廊の向こうで足音が響いた。ベルナデットが扉を開けたが、すでに人影はない。ただ───床に微かに残る、革靴の擦れ跡だけが不気味に光っていた。
(……誰? 私兵の靴ではない)
そこには、嵐の前の生暖かい風が吹き抜けるだけで、人影はすでに消え去っていた。
同じ頃。王都の地下街にある、光の届かないヴァレリオ公爵家の秘密部屋。そこでは、レオン・ディアスが返り血を浴びても構わない無骨な私服姿で、一人の男と対峙していた。
痩せ細り、全身を恐怖の戦慄でガタガタと震わせている男───ミレーユ伯爵家のお抱え医師と名乗る、カミーユ・レギナスである。彼の目の前の大理石の床には、レオンが先ほど素手でへし折った、尋問用の格子の残骸が転がっていた。
「た、頼む……! 助けてくれ、騎士団長閣下……! 私は、私はただ、命令に従っただけなんだ……!」
レオンは、音を立てて冷酷に椅子へ腰掛け、その獣のような茶がかった赤目で医師を射抜いた。
「話せ。全部だ。一片の嘘偽りもなく、あの成金どもが企んでいるすべての泥水を吐き出せば、ヴァレリオの名にかけて命までは取らん。───だが、一文字でもトチれば、お前の指を一本ずつ薬剤のすり鉢で叩き潰す」
「ひ、ひいいっ……! 話します、話します……!」
カミーユは、涙と鼻水で顔を汚しながら、ついに決定的な「裏切りの全貌」を絶叫した。
「マリアンヌ様は……最初からジルベール様を踏み台にするつもりでした!」
「踏み台?」
「はい! 彼女は地方の下級貴族を色仕掛けで破滅させてきた“常習犯”です! 今回も───ヴァレリオ公爵家との会談の場で、ジルベール様を裏切り……ジュリアン公爵を誘惑して“愛人の座”を奪うつもりなのです!」
「……狂ってやがる」
「それに………」
一瞬だけカミーユが言い淀む。
「マリアンヌ様は、奥様をお腹の御子諸共殺そうと………毒を!」
レオンの赤い瞳が、獣のように細まった。
「妊婦を毒で殺す……? 俺の妻やリシェル様と同じ“母”を?」
その瞬間、地下室の空気が爆ぜた。
「───許さねえ。絶対にだ」
ジルベールは、シャルロッテを静観し、ヴァレリオとの利権交渉でさらなる巨富を得るつもりでいた。
だが、その足元で、彼が最も信頼していたマリアンヌという狐は、ジルベールをただの「踏み台」として使い捨て、ジュリアンを寝取ってヴァレリオ公爵の愛人の座を簒奪しようと暴走していたのだ。レオンの口から、地獄の底から響くような笑みが漏れた。
「あの成金の泥棒猫、自分が一番の切れ者だと思い込んでやがったが、身内に飼い慣らしたつもりの狂犬に、最初から首根っこを噛み千切られる予定だったわけだ。──笑えねえ道化だな」
そして何より、マリアンヌのその計画──ジュリアン・ヴァレリオを肉体で誘惑するという狂気。
世界で唯一、リシェル・ヴァレリオという至高の光だけを狂信的に溺愛し、それ以外の女には1ミリも興味を示さないジュリアンに対し、下級貴族を落としてきた程度の安い色仕掛けが通じると本気で信じている無知。それは、自ら極刑の炎に飛び込む羽虫の自殺志願に他ならなかった。
「もう終わりにしたいんだ……! 私はあの女の狂気に巻き込まれて死にたくない……っ!」
泣き崩れる医師を見下ろし、レオンは静かに立ち上がった。その赤目には、冷徹極まる「公開処刑」のシナリオが完成していた。
「安心しろ、先生。お前のおかげで、最高の『舞台』が整った」
レオンは地下室の扉を開けた。
「ジルベールが持ち込んできたヴァレリオ家との販路拡大の直接会談───そこを、ミレーユ伯爵家とデュラン商会、そしてあの狂った狐どもの完全なる『断頭台』にしてやる。せいぜい、最後のダンスを踊る準備でもしておくんだな」
崩壊の足音は、すぐそこまで、いや、すでに彼らの喉元まで迫っていた。己が仕掛けたつもりの不貞の噂も、誘惑の姦計も、すべてはヴァレリオ公爵家という本物の怪物の前で、自らの首を絞める無慈悲な縄の結び目へと、変わろうとしていた。




