77.真実へ続く糸
王都の場末にある裏薬店での凄絶な尋問を終えたレオン・ディアスは、外套に嵐の予兆を孕んだ風を纏わせたまま、ヴァレリオ公爵邸の重厚な執務室へと直行した。
扉を押し開けると、机に向かうジュリアン・ヴァレリオ公爵はすでに書類から顔を上げていた。その感情を削ぎ落とした美貌を見るなり、レオンは確信する。この男もまた、牙を研ぎながら待っていたのだ。あの成金どもを奈落へ叩き落とす、決定的な一手を。
「戻ったか、レオン」
「ああ。……ほぼ完全に、真っ黒な尻尾を掴み取ってきたぜ、公爵様」
レオンは乱暴に椅子へ腰掛け、鞄から『影の鴉』の報告書と、裏薬店から押収した禁忌薬剤の取引カルテの写しを机へと叩きつけた。
「例の御用達医師の裏帳簿と、仕入れルートが完全に割れた。前当主フランソワ伯爵に投与されていたのは、病の薬なんかじゃねえ。長期間服用すれば、健康な人間であっても脳の神経を麻痺させ、廃人のように衰弱させる昏睡薬だ。それを、あの入り婿が来てから数年間、断続的に盛り続けてやがった」
静寂が執務室を支配する。ジュリアンの指先が、机の上を冷徹に変則的なリズムで叩いた。漆黒の瞳の奥で、恐るべき速度で思考の演算が行われていく。
「……医師単独の犯行ではないな。共犯者は?」
「マリアンヌだ。薬店の店主の証言じゃあ、ここ数週間、顔を隠したマリアンヌがその医師を伴って何度も店へ現れ、直近では『毒』……妊婦が飲めば確実に流産と精神錯乱を引き起こす、禁忌の堕胎毒薬を大量に買い漁っていったそうだ」
室内の温度が、物理的に氷点下まで叩き落とされた。
「……確定だな。だが、まだ動かん。証拠は揃ったが、引き金を引くのは“敵自身”でなければならない。ジルベールが自ら地獄の門を開いた瞬間こそ、ヴァレリオが動く時だ」
地を這うようなジュリアンの低い声。それは、同じく愛妻の懐妊を経験し、新たな命を育む父親として、その卑劣極まる悪意に対する絶対的な「死罪」の宣告に等しかった。
「だが、ここで一つ、妙なねじれがある」
レオンが資料の一節を指差した。
「当のジルベール・デュラン本人は、この『毒殺の暴走』を、おそらく本当に知らされてねえ」
「……知らない、だと?」
「あいつは冷酷で支配欲の塊のような成金だが、徹頭徹尾、損得を計算する『商人』だ。わざわざフランソワ伯爵を殺して暗殺の容疑を被るリスクを冒すより、生かさず殺さずの傀儡にしてミレーユの看板を都合よく利用する方が効率が良い。つまりジルベールは、あの医師から『これは伯爵の興奮を抑えるための正当な抑制剤です』と騙され、マリアンヌの腹に自分の本物の血筋が宿っていると、未だに信じ込まされている可能性が極めて高い」
ジュリアンは冷徹に顎を引いた。利用され、踊らされている簒奪者。
「道化だな。だが、知らぬからとて罪は消えん。フランソワ伯爵を幽閉し、ミレーユの名を泥に塗ったのはジルベール自身だ。───ヴァレリオの裁きに、一片の慈悲も容赦も与えん」
「ああ、同感だ。成金どもには全員、身の丈に合った絞首台をご用意してやるさ」
その時、コンコンと、場に不釣り合いなほど柔らかなノックの音が響いた。
「失礼いたします。ジュリアン様、レオン様」
扉を開けて入ってきたのは、見事な白磁のティーセットを盆に乗せた、公爵夫人リシェルだった。
「お仕事中、お邪魔でしたでしょうか?」
「いや、ちょうど一区切りついたところだ。よく来てくれた、リシェル」
その瞬間、執務室を満たしていた凄絶な戦場の空気が、霧散するように消え去った。氷の公爵はどこへやら、ジュリアンは自ら立ち上がると、リシェルの手からそっと盆を受け取り、彼女の腰を労わるようにソファへと導く。そのあまりの変貌ぶりに、レオンは深い溜息をついた。
「相変わらず、奥様が来ると一瞬で牙が抜けるな、この元・猛禽類は」
「何の話だ、レオン。私は常に理性的だ」
「真顔で言うからタチが悪いぜ」
リシェルは二人の軽口にクスクスと微笑みながら、淹れたての紅茶をそれぞれの前に差し出した。
「レオン様、調査、本当にお疲れ様です。……それで、あちらの様子は、やはり……」
リシェルの純粋な黒曜石の瞳に見つめられ、レオンは少し言い淀んだが、彼女の覚悟を侮るような真似はしなかった。
「……胸糞悪い真実が見えてきましたよ、夫人。あの館は、嘘と毒の泥沼だ」
その一言で、リシェルはすべてを察したように静かに視線を落とし、窓の外の美しい庭園へと目を向けた。かつて自分を執拗に陥れようとし、ジュリアンによって徹底的な返り討ちに遭ったシャルロッテ・ミレーユ。その結果として家が没落し、ハイエナどもを呼び込んだという因果の歴史。
「わたくし……シャルロッテのことは、苦手です」
リシェルは、感情に流されることなく、凛とした声で告げた。
「過去に彼女がわたくしに向けた悪意も、仕掛けられた陰惨な罠も、綺麗さっぱり忘れて許すなどという大聖女のような真似は、到底できません。───ですが」
リシェルは気高きヴァレリオ公爵夫人としての、そして一人の『母親』としての強い光を瞳に宿した。
「だからといって、名門ミレーユ家が成金の泥棒猫どもに簒奪され、彼女が人間以下の理不尽な目に遭っていい理由にはなりません。ましてや……彼女の身体には今、何の罪もない、新たな小さな命が宿っているのでしょう?」
「……リシェル」
「……わたくしは母です。母が、母を見捨てるなどという真似は、決して許されません。たとえ過去に何があったとしても、あの子は守られるべき命ですわ」
許したわけではない。友になるわけでもない。だが、同じ「母」として、そして理不尽を何よりも嫌う本物の貴族として、シャルロッテ・ミレーユの血を吐くような戦いを見届け、救い上げる。
そのあまりにも気高く美しい精神に、ジュリアンの漆黒の瞳は、これ以上ないほどの深い愛着と敬意を込めて柔らかく緩んだ。
「……実にお前らしい、誇り高い意思だ、リシェル。お前のその美しさが、俺のすべてだ」
「まあ、ジュリアン様、レオン様の前で何を……」
リシェルがぽっと頬を染めるのを、レオンは呆れたように眺めながら、不敵に笑った。
「まったく、だから公爵様は、逆立ちしたって夫人には勝てねえんだよな」
「当然だ。俺がリシェルに勝とうなどと、万が一にも思うわけがないだろう。俺のすべては彼女の願いを叶えるためにある」
「はいはい、ごちそうさま。───引き金は、ジルベールが仕掛けてくる『ヴァレリオ家との販路拡大の直接会談』だな。そこが、あの成金どもの公開処刑場の舞台だ」
ジュリアンの瞳が冷酷な刃へと戻る。「静観せよ、だが機を逃すな」。その機は、もうすぐそこに迫っていた。
一方その頃、嵐の前の静けさに包まれたミレーユ伯爵邸の私室。
「───なぜよ! なぜ上手くいかないの……っ! 使えない無能どもめ!」
金切り声と共に、マリアンヌは机の上の高価なクリスタルの花瓶を床へと叩きつけた。パリン、と凄絶な音を立てて砕け散る破片。背後で、お抱え医師が青ざめた顔でガタガタと震え、使用人たちは完全に心を離した冷ややかな目で彼女を見つめていた。
狂う。焦燥で頭がおかしくなりそうだった。シャルロッテのスープに毒を仕込んでいるはずなのに、古参の侍女長ベルナデットたちが厳重に検食しているのか、一向に効果が現れない。
それどころか、シャルロッテが本物の母としての冷徹な覇気を帯びて邸内の実権を内側から掌握し始めており、味方だったはずのジルベールも、最近は自分の訴えを「うるさい、今はヴァレリオとの商談が最優先だ」と冷たくあしらうようになっていた。
崩れていく。自分が築き上げた偽りの栄華が、砂の城のように足元から崩落していく。追い詰められ、狂気に取り憑かれたマリアンヌは、鏡に映る自身の歪んだ形相を凝視した。
「……そうよ。あのシャルロッテが、古参どもを動かして私の『偽装』を暴くつもりなら……。いっそ“流産の被害者”になってしまえばいい。自分の腹に子がいないのなら、毒で“流産したことにしてしまえばいい”───あの小娘を地獄へ突き落とすために」
マリアンヌの赤い唇が、獣のように醜く釣り上がった。彼女の瞳に宿るのは、もはや保身の計算すらない、純粋な狂気と嫉妬の毒。
次に彼女が放とうとしている一手───それは、自身の偽りの腹を終わらせる『堕胎薬』を自ら飲み、「正妻シャルロッテに毒を盛られた」とジルベールに血を吐いて簒奪を唆す、最悪の狂言謀殺。シャルロッテ自身と、そのお腹に宿る本物の命さえも根絶やしにしようとする、奈落の悪意。
だが、その狂った狐の暴走こそが、すでにレオンによって物証を握られ、ジュリアンという「本物の怪物」の鉄槌を確実に引き寄せる、ミレーユ伯爵家崩壊の断頭台のレバーであることに、彼女はまだ、気づいていなかった。




