76.小さな騎士たちの約束
ヴァレリオ公爵家の揺り籠の公子・リアンと、フェリシテ家の小さな騎士・ミゲルの初対面から数日。ヴァレリオ公爵邸の揺り籠の前では、今日も小さな攻防が繰り広げられていた。
「ミゲル。そんなに顔を近づけるな。リアンが起きる」
「しーっ! おとうさま、こえが大きいよ!」
レオンの注意を、ミゲルは得意げに制した。赤髪が揺れ、紫水晶の瞳は揺り籠の中の銀髪の赤子に釘付けだ。
「……あぅ」
小さな喃語に、ミゲルの顔がぱっと花開く。
「おきた! ははうえ、リアン様がおきたよ!」
「ふふ、まだ夢の中よ」
クロエが微笑む横で、リアンは長い睫毛を震わせ、ぼんやりと天蓋を見つめていた。
「ぼくはここだよ! リアン様!」
意味は分からずとも、赤髪の色に惹かれたのか、リアンは小さく指を動かす。
「へへっ……おともだち!」
「いや、気が早えよ。まだ会話もできねえだろ」
レオンが苦笑すると、リシェルが柔らかく首を傾げた。
「お友達というより……ミゲルくんの方が年上だから、『お兄ちゃん』かしらね?」
「おにいちゃん……!」
ミゲルは胸を張り、誇らしげに宣言した。
「ぼく、リアン様のおにいちゃんになる!」
その健気な姿に、クロエも口元を緩め、リシェルもまた「ええ、頼りにしていますね」と優しく笑った。
その時、重厚なマホガニーの扉が開き、全ての執務を終えたジュリアン・ヴァレリオ公爵が室内に滑り込んできた。
「あら、ジュリアン様。お仕事はよろしいのですか?」
「ああ、一区切りついた。……それよりも、リアンの様子は」
流れるような洗練された動作で揺り籠へと直行するジュリアン。社交界で「氷の彫刻」と恐れられる男の漆黒の瞳が、我が子を見つめた瞬間、ドロドロに溶けた蜂蜜のように柔らかく緩む。
「今日も、貴方に似て恐ろしいほど可愛いですね、ジュリアン様」
「ああ、当然だ。世界一だ。異論は天地が引っくり返っても認めん」
息をするように我が子と妻を溺愛する公爵の姿を、ミゲルは不思議そうに見上げて、無邪気な問いを投げかけた。
「ジュリアン様。リアン様、すき?」
背後でレオンが紅茶を吹き出しそうになる。聞くだけ野暮な質問だ。しかし、ジュリアンは極めて大真面目な顔で、四歳児に向かって断言した。
「当然だ。私がこの子の父親だからな」
「ぼくも、リアン様だいすき! ちっちゃくて、ふわふわだから!」
「そうか」
「だから、ぼくがまもるの!」
「……守る、だと?」
ジュリアンの端正な眉が、僅かに上がった。
「うん! リアン様はちっちゃいから、悪いヤツが来たら、ぼくが剣でしゃーってして守るんだ!」
混じり気のない、真っ直ぐな騎士の雛の言葉。ジュリアンは静かにその場に屈み込み、ミゲルの紫水晶の瞳と視線を合わせた。
今、脳裏に浮かんだのは───かつてシャルロッテは、自らの虚栄と傲慢のためにリシェルを嵌めようとし、その因果によってミレーユ家を没落させ、結果としてハイエナを邸内へ引き入れる地獄を招いた。血統の誇りに溺れ、弱者を踏みにじった結果が、今のミレーユの生き地獄なのだ。
ジュリアンは頭を振り、意識をミゲルへ戻す。
「守るためには、ただ剣を振るうだけでは足りん」
ジュリアンはミゲルと視線を合わせ、静かに言葉を紡ぐ。
「強さは必要だ。だがそれ以上に、優しさと、よく考える心を持て。力を私欲のために使った者は、いずれ自分の作った檻に閉じ込められる」
「やさしく……?」
「そうだ。泣いている者がいれば、たとえ昔は敵だったとしても、その覚悟を見極めて手を差し伸べられる人間になれ。それが、ヴァレリオの盾たる“本物の騎士”だ」
ジュリアンが語る、冷徹にして気高き貴族の真理。ミゲルの目が、憧れでキラキラと輝いた。
「うん! ぼく、泣いてる人を助ける、本物のきしになる!」
「おいおい、公爵様。俺の息子に、また一段と重苦しい高潔な英才教育を植え付けるんじゃねえよ」
レオンが苦笑するが、その午後、リシェルは夫と小さなミゲルの背中に、確かな「未来の守護」の光を見ていた。
ふと、リアンが小さな手を伸ばし、偶然にも、ミゲルの人差し指をぎゅっと握り締めた。
「……っ!」
ミゲルが完全に固まる。
「あ、あう……っ」
「にぎった! ははうえ、リアン様が、ぼくのおててを握ってくれた!」
「ええ、嬉しいわね、ミゲル」
太陽のようなミゲルの笑顔。それを見つめるジュリアンの脳裏には、遥か昔、孤独だった幼少期に、自分を救い上げてくれた親友レオンとの出会いの日が、鮮烈に蘇っていた。
(……因果は巡る。かつての傲慢娘が母としての覚悟を示し、我が妻がそれを救うと誓い、そして次世代の騎士がここにいる。ならば、俺が成すべきことは一つだ)
数時間後。夕闇が王都を包み込む頃、レオン・ディアスはディアス家の主として、王都の場末にある、歴史だけは古い陰気な薬店の前に立っていた。
「……ここか」
『影の鴉』の調査により浮上した、ミレーユ家御用達のお抱え医師が極秘裏に「禁忌の薬剤」を仕入れている裏ルート。
レオンが重い扉を押し開けると、老店主は最初、浮浪者のような警戒の目を向けたが、レオンが懐から「ヴァレリオ公爵家の双剣の紋章」が刻まれた漆黒の紹介状を突きつけた瞬間、文字通り顔色を土気色に変えて震え上がった。
「こ、これは……ヴァレリオ公爵閣下の……! 一体、何をお調べでございますか!?」
「堅苦しい前置きは抜きだ。この男───ミレーユ家に入り込んでいるお抱え医師の、ここ半年間の『裏取引カルテ』をすべて見せてもらおうか」
レオンが差し出した医師の似顔絵を見た老店主は、怯えたように目を細め、絞り出すように声を漏らした。
「……この半年、妙な注文が続いておりまして」
老店主は紹介状を見た瞬間、土気色の顔で震えながら口を開いた。
「妙な注文?」
「はい……本来、数日以上の服用は禁止されている強力な昏睡薬を……大人の男を何ヶ月も眠らせられるほどの量を」
レオンの表情から、豪快な笑みが消える。
「それだけではありません」
店主はさらに声を潜めた。
「最近、その医師と一緒に……顔をベールで隠した美しい女性が来られまして。医師は怯えながら、その方を『マリアンヌ様』と……」
「何を買った」
「……『妊婦の毒』です。妊婦が飲めば流産と錯乱を引き起こし、十中八九、母子ともに……」
レオンの赤い瞳が、怒りで鋭く細まった。
「───それを、あの女はどうすると言った?」
「ご自身で飲むと……! 酷く焦った様子で、『これで偽りの腹を終わらせ、小娘を奈落へ突き落としてやる』と、狂ったように笑いながら……。自身が御懐妊されているというのに、そんな毒を買われるなんて、あまりに妙だと思い……」
全ての点と因果が、完璧な一つの「大罪の線」として繋がり、結ばれた。マリアンヌは偽装妊娠の化けの皮がシャルロッテの反撃によって剥がされる前に、自ら堕胎薬を飲んで『シャルロッテに毒を盛られて流産させられた』という凄絶な狂言を仕掛け、同時にシャルロッテのスープに毒を仕込んで、本物の妊婦である彼女を胎児ごと謀殺しようと暴走しているのだ。女狐どもの狂気。
「……十分だ。助かったよ、店主」
レオンは銀貨の袋をカウンターへ叩きつけると、外套を翻して店を飛び出した。夜の王都に、激しい嵐の予兆を孕んだ冷たい突風が吹き荒れる。レオンの表情には、一滴の容赦もない「武人の激怒」が刻まれていた。
「……これで終わりだ。この証拠があれば、ジルベールもマリアンヌも逃げ場はない。あとは公爵様が裁きを下すだけだ」
夜風が外套をはためかせる。レオンの瞳には、武人としての冷たい怒りが宿っていた。
「ジルベール、マリアンヌ……貴様らが逆撫でしたのは、ただの貴族ではない。ヴァレリオ公爵という“怪物”だ」
その頃、ミレーユ伯爵邸の暗闇で毒薬を弄ぶマリアンヌは、まだ知らない。自ら仕掛けた毒の罠が、すでにヴァレリオ公爵家の手で“自分の首を吊る縄”へとすり替えられていることを。
そして、ジルベールが誇らしげに握る「公爵との会談の招待状」こそが───デュラン商会の地獄の開門の合図であることを。




