75.小さな騎士と揺り籠の公子
ヴァレリオ公爵邸の豪奢な応接室には、この数ヶ月間漂っていた鉄と硝子の緊張感を解きほぐすような、珍しく温和な空気が流れていた。
豪奢な大理石の暖炉には爆ぜる薪の音が心地よく響き、卓上には東方から取り寄せられた極上の茶葉の香りが満ちている。
「いやあ、いつ見てもこの部屋の調度品は胃が痛くなるな。うちのミゲルが花瓶でも割りゃしねえかと冷や冷やするぜ」
旅装を解き、端正な私服に着替えた総騎士団長レオン・ディアスが、大ぶりの身体をソファに沈めて豪快に笑った。
「レオン様、そのような不調法をミゲルがするはずがございませんでしょう」
その隣で、蜂蜜色の髪を美しく結い上げたクロエが、困ったようにスミレ色の瞳を細めて夫を窘める。その向かい側には、出産を経てなお気高き真珠のような美貌を湛えた公爵夫人リシェルが、世界で最も壊れやすい宝物を抱いていた。
そして、そのソファの端に、短い足をちょこんと揃えて、まるで彫像のように硬直して座っている小さな男の子がいた。ミゲル・フェリシテ。今年で五歳。
彼は、父譲りの燃えるような赤髪の下で、好奇心と緊張に満ちた紫水晶の瞳を皿のように丸くし、リシェルの腕の中を凝視していた。
「あか、ちゃん……」
ミゲルが蚊の鳴くような小さな声で呟く。視線の先には、リシェルの腕の中で、すやすやと心地よさそうに寝息を立てているヴァレリオ公爵家の正統なる嫡男───銀色の柔らかな髪を揺らす、天使の姿があった。
「ちいさい……。ははうえ、ぼくの、おててよりも、おっきくない……」
「そうね、ミゲル」
クロエが息子の赤毛を優しく撫でながら、慈愛に満ちた声を紡ぐ。
「ミゲルもほんの数年前までは、このリアン様と同じくらい、お母様の腕の中にすっぽりと収まるくらい小さかったのよ?」
「ぼくが……? こんなに、ちいさかった……?」
到底信じられないという風に、ミゲルは自分の小さな手のひらとリアンの顔を見比べ、大真面目な顔で首を傾げた。その無邪気で愛らしい様子に、リシェルもクロエも、思わず張り詰めていた心を溶かすようにして微笑んだ。
「ふふ、ミゲルくん。───どう? この子を、少しだけ抱っこしてみる?」
リシェルが優しく尋ねると、ミゲルの紫水晶の瞳が、まるで夜空の星を詰め込んだかのように爆発的に輝いた。
「いいの!? ぼく、あかちゃん、ぎゅってしていいの!?」
「ええ。ただし───」
リシェルは悪戯っぽく微笑んで付け加えた。
「背筋を伸ばして、ソファに深く腰掛けたままよ。ヴァレリオの騎士たる者、守るべき命を前にして、決して体幹をぶらしてはなりませんわ」
「うんっ!」
元気よく返事をしたミゲルは、まるで戦場に赴くレオンのように、緊張で顔を強張らせながらソファの奥へと腰を引いた。
リシェルは細心の注意を払い、まだ首の据わらないリアンの頭部を自身の左手で完璧に守りながら、ミゲルの小さな膝の上へと、その銀髪の天使を慎重に滑り込ませた。
横からはクロエが万が一の転倒を防ぐために両手を添える。まさにディアス家とヴァレリオ家の、完璧なる共同防衛線である。
その瞬間、ミゲルは文字通り、肺の空気をすべて吐き出したかのように息を呑んで固まった。
「……ッ」
動かない。いや、指先一つ、睫毛一つ動かせないのだ。もしも自分が微かでも呼吸を乱せば、この極上の硝子細工のような、淡く美しい銀髪の命が壊れてしまうのではないか───そんな四歳児なりの凄絶な恐怖と緊張が、彼の小さな全身を支配していた。
その様子を見ていたレオンが、ついに堪えきれずに吹き出した。
「おいおいおい、ミゲル! お前、初陣を控えた新兵の騎士見習いよりも顔が引き攣ってやがるぞ! 肩の力を抜きやがれ!」
「だって……! ちいちぇえんだもん! 父上、しゃべらないで、おっきい声だすとあかちゃんがびっくりする!」
ミゲルが必死の小声で父親に猛抗議する。その時だった。ミゲルの膝の上で、銀髪の幼子が、むにゃむにゃと愛らしい唇を動かし、小さく身じろぎをした。
「う、あう……っ」
かすかな、極上の調べのような喃語。眠たそうに長い睫毛を震わせ、小さな小さな手のひらを、ミゲルの赤髪の方へと伸ばそうとする。
「……! ははうえ、リシェル様! いま、しゃべった! ぼくに、おはなしした!」
「ええ、リアンもミゲルくんに抱っこされて、とても心地が良いのね。ご機嫌なのだわ」
リシェルが鈴を転がすように笑うと、リアンはまるでその声に応えるかのように、再び「あー……うー……」と小さな声を漏らした。その微かな音だけで、ミゲルは世界のすべてを手に入れたかのように、顔を真っ赤にして大喜びした。
「ぼくのこと、すきかも! このあかちゃん、絶対にぼくのこと、だいすき!」
「ははっ、気が早いな。それは俺が公爵閣下に毎日媚びを売って、ようやく得られる信頼度の百倍の速度だぞ」
「お前がいつ私に媚を売ったんだ?」
ジュリアンの的確なツッコミに、応接室は温和な笑い声で満たされた。やがて、安心しきったように再び深い眠りへと落ちていくリアン。
ミゲルはその小さな寝顔を、一瞬たりとも見逃さないようにじっと見つめ続けた。そして、その紫水晶の瞳の奥に、父親から受け継いだ「ディアス家の武徳」の炎を宿しながら、ぽつりと、だが明確に呟いた。
「……まもる」
「ん? なんだ、ミゲル。聞き取れんぞ」
「この子……リアン様は、ぼくが、おっきくなったら絶対に守る。ははうえをまもるちちうえみたいに、ぼくが、この子の『たて』になるんだ」
応接室の空気が、一瞬にして水を打ったように静まり返った。それは、四歳児の無邪気な戯れ言などでは断じてなかった。魂の底から紡ぎ出された、血脈の誓い。リシェルは胸の奥が温かい涙で満たされるのを感じながら、ミゲルの赤毛の頭を、愛おしそうに何度も優しく撫でた。
「ありがとう、小さな騎士様。リアンの未来を、よろしくおねがいしますね」
「うん!」
その光景を、応接室の陰に佇む長身の影───当主ジュリアン・ヴァレリオは、一言の言葉も発さず、ただ彫刻のような冷徹な漆黒の瞳でじっと見つめていた。ジュリアンは、ただ静かに二人を見つめていた。その眼差しは、未来のヴァレリオを担う者を見極める、当主としての冷徹な観察に満ちていたが、レオンの野性直感が不吉な危険信号を鳴らした。
「おい、公爵様。……その、今すぐにでも暗殺者を差し向けそうな『品定め』のツラをやめろ」
「どの顔だ。俺はただ、観察をしているだけだ」
「嘘をつけ。未来の『娘の婿候補』を、今のうちに社会的・物理的に抹殺しようか思案している父親の顔そのものだろ」
ジュリアンは、眉一つ動かさずに冷酷な無表情のまま、真顔で否定した。
「……リアンは、男だ」
「あ、そうだったわ。お前の過保護が全方位に行き過ぎてて、一瞬性別を忘れてたわ」
レオンは呆れたように肩を竦めた。危うく、親馬鹿の狂気が四歳児に向けられるところだった。
ミゲルの小さな誓いを胸に刻みながらも、レオンの脳裏には、すでに別の“戦場の匂い”が忍び寄っていた。家族の温もりは、これから向かう冷酷な現実を一層際立たせるだけだ。
その日の夕方。家族を別邸へと帰したレオンは、再び重厚な当主執務室の扉を叩いていた。もはや先ほどの温和な父親の顔はない。部屋にはジュリアンとレオン、そして影から進言する密偵首領・クロードのみ。完全なる、戦への作戦会議であった。
「まずは一つ目───デュランお抱えの、あの若い医師の金の動きが完全に割れましたよ、公爵様」
レオンは、懐から『影の鴉』がミレーユ領の裏市場から掴んできた「秘密帳簿の写し」を叩きつけた。ジュリアンの漆黒の瞳が、獲物を捉えた獣のように細まる。
「話せ」
「一言で言えば、汚い金だ」
レオンは資料の特定の行を、太い指先で激しく乱暴に叩いた。
「デュラン商会のとある口座から、あの医師の個人口座へ、ここ半年間でミレーユ伯爵家の正規の薬剤費の『十倍』を超える異常な送金が確認された。表向きは『東方の稀少な特効薬の輸入代』となっちゃいるが、そんな薬が王都の税関を通った記録はどこにもねえ。つまり、フランソワ伯爵を薬漬けにし、世間から隔離するための『監禁の報酬』だ」
「やはりな。ジルベールめ、商人の浅知恵で貴族の家督を完全に買い叩いたつもりか」
ジュリアンが冷徹に書類を読み進める中、レオンはさらに声を潜め、その赤目が獣のようにギラつかせた。
「それだけじゃねえ。……決定的な『尻尾』がもう一つ釣れたぞ」
「続けろ」
「二つ目───例の秘書官、マリアンヌだ。あの女の偽装妊娠の疑いが濃厚になった」
「そうか………」
「そして三つ目───あの女、ジルベールが商談で王都の他家へ出向いている隙を狙って、深夜に何度も、あの医師と二人きりで調剤室に籠もってやがる。使用人の証言じゃあ、中からマリアンヌの、金切り声のような怒鳴り声や、怪しい薬瓶の擦れ合う音が聞こえたそうだ」
執務室の空気が、一瞬にして完全な「戦場」へと変貌した。ジュリアンの放つ圧倒的な威圧感が、大気を物理的に軋ませる。
「確証は?」
「……まだ弱い。だがな、公爵様。俺の勘が言ってる。マリアンヌのあの『偽装妊娠』の化けの皮が剥がれかけてる。シャルロッテ嬢が本物の母として古参を糾合し始めたせいで、あの狂った狐どもが、ジルベールの静観命令を無視して『暴走』を始めやがったんだ」
点と、点。フランソワ伯爵の幽閉、不自然な巨額送金、そしてマリアンヌとお抱え医師による深夜の密会。それらすべての歪なピースが、一つの巨大な「簒奪の陰謀」へと繋がり始めていた。
ジュリアンは静かに資料を閉じると、その完璧な美貌に、すべての敵を地獄の業火で焼き尽くすような冷徹な笑みを浮かべた。
「まだだ。シャルロッテがどこまで牙を研ぎ、敵がどこまで愚かに暴走するか───その“瞬間”を逃すわけにはいかん。だが……マリアンヌがその毒の引き金をこちらに向けて引いた瞬間こそが、彼らの『終わりの始まり』だ」
「了解だ、公爵閣下。成金どもが、本物の貴族の恐ろしさを知る日は、もう目の前だな」
その頃、遠く離れたミレーユ伯爵邸の地下室。マリアンヌは、狂乱の形相で自身の美しい爪を血が出るほど強く噛み締めていた。
「……おかしい。あの毒は、普通なら一口で症状が出るはず。まさか……厨房の誰かが、シャルロッテのスープを“すり替えている”……?」
背筋を氷柱で刺されたような悪寒が走った。シャルロッテのスープに仕込ませているはずの「鉛の毒」の効果が出ない。それどころか、屋敷の古参の侍女たちの視線が、自分を「泥棒猫」を見るかのように冷たくなっている。
何かが迫っている。底知れぬ、巨大な怪物の足音が、すぐ後ろまで聞こえるような凄絶な焦燥感。そして、マリアンヌのその不吉な予感は───決して、間違いではなかった。
次なる舞台は、ジルベールが自ら地獄の門を叩く「ヴァレリオ公爵家との直接会談」。ミレーユ伯爵家の歪な支配を粉砕する本物の鉄槌が、静かに、だが狂気的な質量をもって、彼らの頭上へと振り下ろされようとしていた。




