74.母となる覚悟
ミレーユ伯爵邸の朝は、泥水の底を這うような重苦しい沈黙から始まる。まだ夜明け前の蒼い霧が昇りきらぬ時間から、古参の使用人たちは主の目を盗むようにして静かに動き始めていた。厨房では朝食の準備。庭師のオーギュストは隠し通路の落ち葉を掃き、侍女たちは無言でそれぞれの役割をこなす。
その歪な空気の中で、シャルロッテ・ミレーユ伯爵令嬢もまた、誰に起こされるでもなく自ら目を覚ましていた。かつての、あの傲慢で軽薄だった彼女であれば、侍女が呼びに来るまで豪奢な寝台の中で虚栄の夢に浸って過ごしていたはずだった。だが、今の彼女は違う。
「お嬢様……もうお目覚めで? まだお身体に触る時間帯ですわ」
長年彼女を見守ってきた古参侍女のベルナデットが、寝台の傍らで驚いたように声を潜めた。シャルロッテは蜂蜜のように輝く金色の髪を穏やかに揺らし、自白に近い薄い笑みを浮かべる。
「ええ。最近は自然に目が覚めるのよ。───身体の中に、もう一つ、私を動かす『心臓』があるのだから当然でしょう?」
シャルロッテはそう答えながら、レースの薄い寝衣越しに、自身の平坦な腹部へそっと愛おしげに両手を添えた。まだ外見からは目立たない、豆粒ほどの小さな命。けれど確かにそこにいるその存在が、彼女の魂を根底から変貌させていた。
かつてのシャルロッテは、自分が傷つくこと、社交界で見下されることばかりを恐れ、他者を傷つけることでしか己の価値を証明できない、哀れな飾りの人形だった。だが、リシェルを貶め、ジュリアンの返り討ちに遭い、地獄の底を舐めた今なら分かる。
誇りも、見栄も、過去の愚かな自分自身も、すべて捨て去る。守るべきものができた女は、男よりも残酷に、そしてどこまでも強くなれるのだ。
「朝食前に、オーギュストが作った『空白の動線』を確認しに行きます。……まだ踏み込むつもりはないわ。ただ“見るだけ”。今は、決して尻尾を掴まれてはならない段階なのだから」
ベルナデットが顔色を変えて顔を上げた。
「奥様、しかし……旦那様に知られれば、せっかくの情報網が……!」
「知られないように、完璧に動くのよ」
低く、だが鋼のように硬い声音だった。その青い瞳には、かつての我儘な面影など一片も残っていない。ベルナデットは一瞬だけその覇気に圧倒され、やがて、深く、畏敬を込めて頭を下げた。
「……承知いたしました。私がお供いたします」
この若い主人が本気でミレーユの家督を奪還する覚悟を決めたことを、使用人たちは魂で理解していた。
離れへと続く隠し裏道は、濃い朝霧に包まれて人気が皆無だった。シャルロッテは無理をせず、ゆっくりと大地を踏みしめて歩く。絶対に転ぶわけにはいかない。今は、自分一人の身体ではないのだ。
離れの正面へ差し掛かると、ジルベールが商会から連れてきた私兵の男たちが、昨夜の深酒のせいで警戒も薄く欠伸をしていた。シャルロッテは木立の影からその怠惰を冷徹に見据え、静かに息を吐く。
(お父様……)
薬漬けにされ、幽鬼のように痩せ細った実父フランソワの姿が脳裏をよぎる。かつて自分の虚栄をすべて許してくれた、甘く、哀れな父。
(待っていてください。必ず……この檻を叩き割って差し上げますわ)
彼女の腹部に触れる手には、新たな覚悟の熱が宿っていた。
昼過ぎ、伯爵邸の執務室。当主の座を簒奪した入り婿ジルベール・デュランは、デュラン商会から回ってきた新規の「魔石の販路拡大計画」の報告書に目を通していた。売上も契約もすべてが順調。だが、彼の黒の瞳の奥に宿る苛立ちは、一向に消え去る気配を見せない。
「……フン、面白い女だ」
ジルベールは、指先でリズミカルに机の端を叩いた。彼の苛立ち、そして歪な愉悦の理由は、正妻シャルロッテの「変貌」そのものにあった。以前ならヒステリックに皿を割り、無能な反発を見せるだけの扱いやすい人形だった。
だが、懐妊を自覚してからの彼女は、まるで別人のように静かだ。使用人を見る目が変わり、邸内の古参どもが不自然に彼女の手足として統率され始めている。普通なら、反乱の芽として即座に叩き潰すべきだろう。だが、ジルベールは商人のハイエナだ。
(没落令嬢が、ガキ一つでここまで『大化け』するか。……だが、まだ刈り取る時期ではない。商人は“熟しきった果実”を落ちる直前に摘むものだ。今は泳がせ、どこまで登るか観察する方が利益になる)
ジルベールは、シャルロッテの覚醒をある種の「極上の商品」として悦び、静観する腹づもりでいた。
その時、狂気的なノックの音が響き、秘書であり愛人であるマリアンヌが室内に滑り込んできた。その艶やかな美貌は、隠しきれない焦燥のせいで酷く青ざめている。
「ジルベール様!」
「静かにしろ、マリアンヌ。商談の書類が汚れる。何だ」
「奥様ですわ……! シャルロッテが最近、古参の使用人や領民の代表と極秘裏に接触し、邸内に独自の密偵網を敷いています! このままでは、私たちが大旦那様を不当に幽閉していることが露見しかねません!」
マリアンヌは声を震わせ、ジルベールの机に縋り付いた。彼女の膨らんだ腹部は、レオン・ディアスの眼力が見破った通り、綿を詰めただけの完全なる『偽装』だ。シャルロッテが本物の母となり、本物の味方を集め始めている。その事実が、偽物であるマリアンヌを底知れぬ恐怖で発狂させていた。
「それがどうした。監視を強めておけ。あの女が何をしようと、この邸の経済権を握っているのは俺だ」
「ですが……っ!」
「下がれ、マリアンヌ。俺はこれから、商会の運命を賭けた最大の『大魚』を釣り上げに行かねえならんのだ」
ジルベールはマリアンヌの必死の訴えを鼻で笑い、一枚の「招待状」を掲げた。
「魔石の新規販路を拡大するためには、王国の物流の要所を押さえているヴァレリオ公爵……ジュリアン・ヴァレリオとの直接会談が不可欠だ。ヴァレリオ公爵へ“こちらから送った招待状”に、まだ返答はないが……あの若い公爵が断るはずがない。利益の匂いを嗅ぎつければ、必ず食いついてくる。そうなれば、ミレーユなど不要だ」
ジルベールは狂気的な野心に瞳を狂わせ、勝ち誇ったように笑った。彼にとっては、シャルロッテの反乱も、マリアンヌの焦燥も、ヴァレリオ公爵家との巨額の利権交渉の前には些事に過ぎなかった。自分たちが、その怪物の逆鱗を逆撫でした結果として、自ら死刑台へ上ろうとしていることすら気付かずに。
ジルベールに冷たくあしらわれ、執務室を追い出されたマリアンヌは、狂乱の形相で邸の地下室へと駆け下りていた。薄暗い調剤室の奥では、デュラン商会が金で買い叩いたお抱えの若い医師が、青白い顔で怪しい毒薬の調合を行っている。
「マ、マリアンヌ様、ジルベール代表は何と……」
「あの男は使えないわ! シャルロッテの変貌に目が眩んで、私たちの危機の重さが分かっていないのよ!」
マリアンヌは自分の偽りの腹を狂ったように叩き、医師の胸ぐらを掴み上げた。
「もう時間がないのよ……! ジルベールは、最近シャルロッテを見る目が違う。私を“便利な道具”としてしか見ていなかったあの男が、あの女には“興味”を向け始めている……! このままでは、私は捨てられる。だから───フランソワを“今”殺すしかないのよ!」
「ひ、ひえっ……!?」
「そしてシャルロッテには……父親の死による流産と、精神錯乱を引き起こさせなきゃ───あの『鉛の毒』を、毎日、シャルロッテのスープに仕込みなさい!」
ジルベールの静観を無視した、マリアンヌとお抱え医師による完全な暴走。嫉妬と保身に狂った狐たちの独断による毒殺計画が、暗闇の中で醜く、悍ましく鎌首をもたげた。
だが、彼女たちのその歪んだ凶行こそが、ヴァレリオ公爵家の擁する『影の鴉』と、激怒したレオン・ディアスの鉄槌を即座に引き寄せる「終わりの引き金」になることを、彼女たちはまだ、知る由もなかった。
深夜、激しい嵐の予兆を孕んだ生暖かい風が、ミレーユ伯爵邸の西棟の窓を叩いていた。自室へ戻り、月明かりを浴びて窓辺に立つシャルロッテは、迫り来る「毒気」を本能で察知するかのように、自身のお腹をより強く、抱きしめるようにして守っていた。
「あなたは……」
シャルロッテは、漆黒の夜空に向かって、静かに、だが血を吐くような祈りを捧げた。
「あなたは、この泥沼の中で生まれてくるべき子ではない。だからこそ───私が変わる。私が、この家の腐臭を断ち切る“最初の刃”になる。あなたの未来のために、私は母になるのよ」
かつてリシェルを陥れようとして、ジュリアン公爵に全てを奪われた愚かな令嬢は、今、完全に死に絶えた。ここにいるのは、家を守り、父を救い、我が子のために修羅の道を歩むと誓った、一人の本物の「母」だ。
知らぬ間に、少しずつ、確実に。ミレーユ伯爵家の歪な支配は内側から爆発の瞬間へと向かい、そしてジルベールが持ちかけた「ヴァレリオ公爵家との会談」という名の地獄の門が、静かに、だが狂気的に開き始めていた。




