73.静観せよ、だが機は逃すな
春の柔らかな陽光がヴァレリオ公爵邸の広大な執務室へ静かに差し込んでいた。壁一面を埋め尽くす革装の稀覯書、陽だまりの塵を乗せて磨き上げられた黒檀の机、そして窓の外に広がる、一切の無駄を排した完璧な庭園。
その中心に座るジュリアン・ヴァレリオ公爵は、手元の極秘報告書に視線を落としたまま、完全に感情を削ぎ落とした美貌を氷のように硬化させていた。社交界の有象無象が彼を「冷酷非道な公爵」と呼び、畏怖するのも無理はない。だが、その氷の仮面の下にある男の実態を知る者は、この世界でも極めて少なかった。
現に、国家の最高機密が並ぶ机の端には、不釣り合いなほど精緻な銀の写真立てが置かれている。中に収められているのは、陽だまりのような微笑を浮かべる愛妻リシェルの姿。そして彼女の、まだ膨らみ始めたばかりの愛おしい腹部へと手を添えた、私室での一枚だ。
冷徹なる当主は、国家の命運を左右する執務の最中であっても、数分に一度はその写真立てへ執着に満ちた視線を滑らせており、側近から見ればもはや手遅れなほどの重症であった。
「旦那様」
音もないノックと共に、老執事セドリックが入室した。
「レオン様が、ミレーユ領より極秘裏に帰還いたしました」
「通せ」
数秒後、重厚な扉を押し開けて入ってきたのは、正式なフェリシテ子爵の名ではなく、未だ一介の武人としての通り名を名乗るレオン・ディアス騎士団長だった。隠密行動のための埃塗れの旅装束のまま、その無骨な顔には長距離の強行突破による疲労が滲んでいる。だが、茶がかった赤目の奥に宿る光は、極めて実戦的で鋭かった。
「戻ったか、レオン」
「ああ、公爵様。……とんぼ返りでケツが割れるかと思ったが、収穫は上々だぞ」
レオンは長い足を投げ出すようにして革のソファへどさりと腰を下ろした。セドリックが息の合った動作で、疲れを癒す濃いめの紅茶を置き、音もなく退室する。
部屋に二人きりになった瞬間、レオンは懐から『影の鴉』が収集した裏帳簿と、私兵の配置図の書類束を机へと叩きつけた。
「予想以上だ。ミレーユの屋敷は、中身まで完全に腐り落ちてやがる」
「……フランソワ伯爵の容態は」
「病気療養なんてのは、あの成金どもがデッチ上げた真っ赤な嘘だ。大旦那様は、北棟の最果てにある離れに物理的に隔離されてる。外部との接触は厳重に禁止、出入りを許されているのは、デュランが買収したお抱えの若い医師だけだ」
「監禁、そして薬物による傀儡化か」
「間違いねえ。古参の使用人や領民の何人かは不審に思っちゃいるが、誰も声を上げられん。屋敷の防衛線を固めているのは、ミレーユの正規騎士じゃねえからな」
レオンは忌々しそうに首を振った。
「入り婿のジルベール・デュランが、商人時代から飼い慣らしていた私兵やゴロツキの部下を大量に屋敷へ入れ込んでる。使用人も護衛も、今や八割がデュラン商会の人間だ。伯爵邸というよりは、強盗目的の商会の本拠地だな、ありゃ」
皮肉を込めて吐き捨てるレオンの言葉を、ジュリアンは黙って咀嚼していた。漆黒の瞳の奥で、かつての因縁が苦く明滅する。
シャルロッテ・ミレーユ。かつて彼女は、最愛の妻リシェルの「自称・親友」の仮面を被り、その身の程知らずな傲慢さから、リシェルを陥れて破滅させようと陰惨な罠を仕掛けた女だ。しかし、リシェルを傷つけようとするすべての害悪を許さないジュリアンによって、徹底的な「返り討ち」に遭い、彼女の虚栄は完膚なきまでに叩き潰された。
───だが、その結果としてミレーユ伯爵家は急激な没落の道を辿り、その致命的な隙を突いて入り込んできたのが、泥水のハイエナであるジルベールとデュラン商会だったのだ。今のミレーユの生き地獄を作り出した発端は、紛れもなく、かつてのシャルロッテ自身の傲慢な罪のツケであった。
「……それで、もう一人の狐。秘書のマリアンヌはどう見た」
ジュリアンの低い問いに、レオンは即座に顎を突き出した。
「胡散臭い。その一言に尽きる」
「随分と率直だな」
「率直じゃない言い方が思いつかねえよ。───あいつは妙だ」
「何がだ」
「妊婦の身体をしてねえ」
その言葉に、ジュリアンの視線が書類から鋭く跳ね上がった。
「俺にも今年で五歳になるミゲルがいるし、クロエの妊娠中もこの目でずっと見てきたからな。それに………戦場では、妊婦や負傷者を何百人も避難させてきた。“命を宿した身体”は、歩幅、重心、息の仕方まで全部変わる。あれは……そのどれもが無い。完全な偽装だ」
レオンは、裏から手を回して手に入れた「マリアンヌの動向報告書」の紙片を差し出した。
「食事制限なし、悪阻の兆候も一切なし。お抱えの医師以外の診察を頑なに拒み、腹を隠す仕草や、歩く時の重心の掛け方が、素人芝居のように不自然極まりねえ。……つまり」
「ジルベールを繋ぎ止め、正妻を追い詰めるための『偽装懐妊』の可能性が極めて高い、か」
ジュリアンは紙片へ目を落とし、静かに読み進めた。窓の外では小鳥が囀り、ヴァレリオ公爵領は平和そのものの光景を維持している。しかし、そのすぐ隣にあるミレーユ家では、偽りの命と、監禁された命、そして暗闇で牙を研ぐ本物の命が、狂った三拍子を奏で始めていた。
「だが、まだ公に動くための証拠が足りん」
ジュリアンが冷酷に告げた。
「ミレーユ伯爵家は王国の“上位貴族”だ。証拠もなく公爵家が武力介入すれば、『ヴァレリオが他家の領地を奪うために動いた』と敵対派閥に口実を与える。王国議会が揺らぎ、最悪、内乱の火種になる」
「……」
「だからこそ、確実にあの成金どもを縛り首にできるだけの、決定的な物証を『影の鴉』に集めさせてる。大旦那様に投与されている薬物の成分と、その出所であるあの怪しい医師。まずはそこから突き崩す」
報告を終え、レオンは紅茶を喉に流し込むと、不敵な笑みを浮かべて身を乗り出した。
「ところで、公爵様」
「何だ」
「お前、本当にこのまま『静観』なんて退屈な真似ができるのか?」
ジュリアンが無言でレオンを睨みつける。
「シャルロッテ嬢は、いくらうちの奥方様が助けたいと願ったところで、かつてリシェルを嵌めようとした張本人、いわば敵だろ? ……だが、そのリシェル様が、今あのお嬢様のことを、酷く心配されてるぞ」
ジュリアンの眉が、ピクリと不快そうに跳ねた。
「……リシェルが、何と言った」
「ははっ、やっぱりそこだけは食いつくねえ!」
レオンは吹き出しそうになるのを堪え、懐から昨日クロエ経由で届いた、リシェルからの手紙の文面を口にした。
「『かつて私にどのようなことがあったとしても、今、彼女はお腹の中に大切な命を宿し、孤独に戦おうとしている一人の母親です。弱き者が理不尽に泣かされているのなら、それがたとえかつての敵であろうと、私は“己が信念”にかけて見捨てられません」』……とよ」
ジュリアンが深く、深く痛みを感じるように目を閉じた。レオンは知っている。今、この男の脳内では、ヴァレリオ公爵としての冷徹な政治的理性と、愛妻の願いをすべて叶えてやりたいという狂信的な愛妻家としての本能が、血を流すほどの激しい一騎打ちを繰り広げているのだ。そして悲しいかな、この一年間、後者の本能が公爵としての理性に敗北したことは、ただの一度としてない。
「……」
「さあ、どうする、公爵閣下」
数秒の、窒息しそうな沈黙の後。ジュリアンはゆっくりと漆黒の瞳を開いた。その瞳の奥には、すべてを噛み砕く獣の光が宿っていた。
「静観だ」
「ほう?」
「……だが、リシェルが涙を流す前に、必ず動く。その時は、ジルベールの首一つでは済まん」
レオンは得心したように肩を竦めた。つまり、シャルロッテが敷いた情報網がジルベールの喉元に届き、あの偽装まみれの伯爵邸が内側から爆発する「その機」が来たら、公爵家の全戦力をもってあの成金どもを圧殺する。そういう意味だ。
「了解だ、公爵閣下。確実な証拠と、引き金を引くタイミングは、この俺が完璧に整えてみせますよ」
「頼んだぞ、レオン。シャルロッテ・ミレーユの傲慢が招いた没落だ、そのケジメは彼女自身に付けさせる。───だが」
ジュリアンの低い、地響きのような声音が、執務室の空気を完全に凍らせた。
「我が妻リシェルを、同じ母親としてそこまで動かしたのだ。……その覚悟の価値は、ジルベールの商会ごときの血では、到底購いきれんぞ」
漆黒の瞳に宿る、容赦のない死の宣告。その圧倒的な覇気に、レオンは歓喜に震える笑みを漏らした。やはりこの男は動く。理不尽を嫌う己の矜持のため、そして何より、最愛の妻の涙を未然に防ぐために。
「行ってくる。あの医師の首根っこを掴んで、偽装の証拠を剥ぎ取ってやるさ」
レオンは立ち上がり、旅外套を翻して執務室を後にした。
その頃、遠く離れたミレーユ伯爵邸。夕闇が完全に館を支配する中、北棟の離れを見下ろす西棟の窓辺には、シャルロッテ・ミレーユが一人、大理石のように静かに佇んでいた。
彼女の白磁のような両手は、いまだ外見からは判別もつかない、自身の平坦な腹部を優しく、だが誰よりも強固に包み込んでいる。ここには、確かにいる。かつて己の愚行によって全てを失った自分が、この地獄の底で唯一授かった、新たなるミレーユの正統なる血脈が。
「待っていてください、お父様……」
シャルロッテは、冷たい硝子に額を押し付け、暗闇に沈む父の監禁部屋を見つめながら小さく呟いた。
「私はもう、あの日にお亡くなりになった『可哀想な人形』でも……飾りの薔薇でもない。我が子を守るためなら、母は獣になる。……その牙で、必ずすべてを奪い返す。」
かつてリシェルを嵌めようとして自滅した傲慢な令嬢は、今、自らの過去の罪と因果をその背に背負いながら、我が子を守るためなら悪魔にでも魂を売る「母」へと、完全に変貌を遂げていた。彼女の敷いた「情報網」の糸は、ジルベールやマリアンヌが気付かぬ間に、じわじわと、だが確実に彼らの首元へと巻き付き始めていた。
盤上の駒は、ヴァレリオ公爵家という巨大な怪物を巻き込みながら、取り返しのつかない決戦の瞬間へと、猛烈に動き始めていた。




