72.騎士の勘と母の覚悟
春の柔らかな陽射しが、フェリシテ子爵邸の青々と茂る芝生へ惜しみなく降り注ぐ午後。庭園の隅では、小さな赤毛の影が、己の体躯ほどもある演習用の木剣を懸命に振り回していた。
「えいっ、たあっ!」
小気味よい元気な声が響く。ミゲルは今年で五歳。当然ながら、その小さな腕で振るわれる剣筋は軸がぶれ、素人目に見ても滅茶苦茶だった。それでも本人の紫水晶の瞳は、一人前の騎士のように大真面目そのものである。
「ちちうえ!」
「なんだ」
「ちゃんとみてた?」
「ああ、見てたぞ」
「ぼく、つよかった!?」
「うーん……」
総騎士団長レオン・ディアスは、大ぶりの腕を組んで我が子の不格好な構えを凝視し、無骨な顎を撫でた。
「今の一撃で倒せるのは、せいぜい庭の頑固な雑草くらいだな。ヴァレリオの盾を名乗るには、あと一万回は素振りが足りん」
「えぇーっ! ざっそう!?」
ミゲルが文字通りこの世の終わりのような衝撃を受けて固まると、背後で刺繍糸を整理していたクロエが、堪えきれずにクスクスと美しい笑声を漏らした。
「レオン様、あの子はあんなに一生懸命ですのに。もう少し褒めて差し上げてくださいな」
「甘やかすのは、戦場で自らの身を守る術を覚えてからだ。なあ、ミゲル」
「ちちうえのいじわる! ははうえ、ちちうえがいじわるする!」
「ははっ、手厳しいな!」
レオンは豪快に笑い、息子の赤毛を大きな手で乱暴に撫で回した。それは、どこにでもある平和で幸福な家族の風景だった。しかし、その静謐を切り裂くように、正面の重厚な鉄門の方から、複数の蹄鉄が石畳を激しく叩く音が響き渡った。レオンは伝令の馬蹄の音を聞いた瞬間、胸の奥で何かが“軋んだ”。
それは戦場で幾度も命を救ってきた、血の匂いを嗅ぎ分ける獣の勘。
「……来やがったか」
彼は木剣を地面に突き立て、まるで見えない敵影を睨むように目を細めた。その気配は、ただの不穏ではない。“誰かが、助けを求めている”───そんな切迫した叫びのように、彼の背骨を冷たく撫でていた。
現れたのは、ヴァレリオ公爵家騎士団の紋章を胸当てに刻んだ、泥塗れの伝令兵だった。
「───ディアス団長!」
伝令が馬を飛び降りて跪いた瞬間、レオンの顔から「父親」の緩みが完全に消失した。極限の戦場を幾度も支配してきた、冷徹なる武人の顔だ。
「どうした」
「ヴァレリオ公爵閣下より、緊急の非常招集がかかりました。至急、公爵邸執務室へ出頭せよとのことです!」
「今か。……分かった、ただちに向かう」
伝令の強張った表情を見ただけで、レオンの凶暴なまでの野性の感は、王都の均衡を揺るがす「何か」が動き出したことを正確に察知していた。
「クロエ」
「はい」
「行ってくる。夜着の心配は要らん、長引くかもしれねえ」
「お気を付けて、我が家の騎士団長様」
クロエは静かに微笑んだ。戦場に赴く男を夫に持った女らしく、理由も、危険の度合いも一切口にしない。だが、レオンが愛馬の手綱を掴むためにすれ違った刹那、彼女は夫の衣服の裾を、あの初夏の夜と同じように微かな力でぎゅっと掴み、囁いた。
「……無理は、なさらないでくださいね。貴方の身体は、もう貴方一人のものではないのですから」
「努力はする」
「それは全く信用できませんわ、レオン様」
「おいおい、手厳しいな」
夫婦の短い視線の交錯。そこへミゲルがトコトコと走り寄ってきた。
「ちちうえ! がんばって! 悪い奴をしゃーってやって!」
「おう、留守の間はお前がこの家の守護騎士だ。母親をしっかり守れよ」
「うん!」
レオンは息子の頭を今一度強く叩くと、流れるような動作で漆黒の駿馬に跨り、砂塵を上げて王都の中心へと駆け抜けていった。
ヴァレリオ公爵邸、重厚な薔薇の彫刻が施された当主執務室。そこには、いつもの冷徹な空気に加え、皮膚を刺すような高密度の緊張感が張り詰めていた。
部屋の主であるジュリアン・ヴァレリオ公爵が机の前に立ち、その傍らには、懐妊中でありながらも凛とした佇まいで控える公爵夫人・リシェルの姿があった。
「呼ばれて飛び出て参りましたよ、公爵様。随分と血相を変えた伝令でしたが?」
入室するなり、レオンは不敵な笑みを浮かべて肩を竦めた。
「余計な軽口は不要だ、レオン。時間が惜しい」
「相変わらず冷たいねえ。で、何が動き出したんです?」
ジュリアンは無言で、机の上に置かれた一枚の、特殊な暗号で記述された羊皮紙をレオンの前へと滑らせた。
「ミレーユ伯爵家だ」
その名を聞いた瞬間、レオンの赤みがかった茶目の奥が、冬の剃刀のように細まった。
「……やっぱりか。俺の鼻に引っかかっていた泥臭い匂いは、本物だったってわけだ」
「何か掴んでいたのか」
「噂程度ですがね。当主フランソワ伯爵の『療養』が長すぎる。それも、王都のどの医師会にも正式なカルテが残っていねえ。おまけに、ミレーユの古参の商人や役人どもが、ここ数ヶ月で不自然に領地から叩き出されているか、あるいは自主退職だ。健全な経営とは言えませんよ」
レオンが椅子に腰掛けながら不快そうに舌を鳴らすと、ジュリアンの背後の影から、音もなく一人の男が姿を現した。衣服の擦れる音すらしない。漆黒の密偵服をまとい、顔の半分を布で覆ったその男は、ヴァレリオ公爵家が代々闇に飼い慣らしている隠密機関『影の鴉』の首領───クロードであった。
「……ディアス団長の懸念は、完全に事実でございます」
クロードの声は、感情の起伏が一切削ぎ落とされた、冷たい砂のようだった。
「我が『影の鴉』がミレーユ邸の周辺に放った工作員からの報告によれば、現在、ミレーユ伯爵領の財政および人事権は、入り婿であるジルベール・デュランと、その腹心の秘書官マリアンヌによって完全に私物化されております。さらに───」
クロードは懐から、より詳細な邸内の動線図を取り出した。
「前当主フランソワ閣下は病気などではない。北棟の最果てにある離れに、デュランの私兵によって物理的に監禁され、意思を奪う薬物を日常的に投与されている模様にございます」
「……胸糞の悪い話だな」
レオンが拳を握り締めると、ジュリアンが静かにそれを制した。
「問題はそれだけではない。クロード、もう一つの報告を」
「はっ。───実権を失い、西棟に事実上の幽閉状態にあった正妻、シャルロッテ・ミレーユ伯爵令嬢ですが。……彼女の身に、懐妊の兆候が見られます。おそらくは、ジルベール・デュランの種かと」
その報告が落とされた瞬間、それまで静かに話を聞いていたリシェルが、小さく息を呑んだ。その美しい黒曜石色の瞳に、動揺の色が走る。
「だが、奇妙なのはここからです」
クロードは言葉を続けた。
「シャルロッテ様は数日前から、自らの懐妊を盾にしつつ、厨房や庭園の古参使用人たちと極秘裏に接触。かつてミレーユ家に恩のあった者たちを糾合し、邸内に独自の『情報網』を構築し始めております。あの、かつて社交界で見られた我が儘令嬢いや、“狂犬令嬢”が今や熟練の工作員顔負けの動きをしている。……正直、背筋が冷えたぜ。」
執務室に、重苦しい沈黙が降りてきた。ジュリアンは冷徹な面持ちで腕を組み、机の上の書類を睨みつける。
「伯爵家の内政問題だ。証拠がない以上、ヴァレリオ公爵家が正面から介入すれば、内乱に発展しかねん。……今は静観せざるを得ない」
冷徹きわまりない、合理的判断。リシェルは、報告を聞くうちに胸の奥がじわりと熱くなるのを感じていた。かつて自分を傷つけた女──シャルロッテ。だが今、彼女は自分と同じ“母”として、孤独な戦場に立っている。その姿が、かつての自分と重なった。
(私と同じ……ジュリアン様が理解してくださったように、誰かが手を伸ばさなければ、彼女は壊れてしまう)
リシェルは静かに一歩前へ進んだ。
「いいえ、ジュリアン様。静観など、私には到底できませんわ」
その毅然たる声音に、ジュリアンもレオンも驚愕して彼女を見た。リシェルは自らのふっくらとしたお腹───新しいヴァレリオの命が宿る場所にそっと手を当てながら、その瞳に、「清廉潔白な騎士団長」のような、気高き炎を宿していた。
「シャルロッテが、かつて私に対してどのような嫌がらせをしたか、それはすべて過去のことです。今の彼女は───私と同じ、我が子を守るために戦う『一人の母親』ですわ。お腹の子供を人質に取られ、実の父親を薬漬けにされ、それでも絶望の底から立ち上がって戦おうとしている女を、同じ母親として、またヴァレリオの誇りにかけて、見捨てることなど絶対に許されません!」
それは、弱者を憐れむような安い同情では断じてなかった。己の犯した罪の重さを知り、それでも我が子のために泥水をすすって立ち上がった一人の女の「覚悟」に対する、最大級の敬意だった。
「リシェル、しかしリスクが……」
「ジュリアン様。貴方は、私が不条理な暴力に泣いている母親を見捨てるような、卑怯な公爵夫人になることをお望みですか?」
「……いや。お前がそう言うのであれば、俺の答えは最初から決まっている」
妻の絶対の眼差しに射抜かれ、ジュリアンの冷徹な唇が、諦めたように、だが獰猛に釣り上がった。彼はレオンへと視線を移す。
「レオン。作戦を変更する。『影の鴉』をミレーユ邸の周囲に完全配置しろ。シャルロッテ、あるいはジルベールが仕掛け、あの檻の均衡が崩れたその瞬間───」
「公爵家の総力をもって、ミレーユを完全に制圧・救出する。……ですね?」
レオンは、胸のポケットにある「赤い剣の刺繍」を愛おしげに叩きながら、満面の凶悪な笑みを浮かべた。
「待ってましたよ、公爵様。機は逃しません。あの我が儘お嬢様が、どれほどの『母の牙』を見せてくれるか、特等席で見物させてもらいましょう」
同時刻、夜の帳が降りたミレーユ伯爵邸。シャルロッテは、護衛の私兵すらつけられぬ静寂の廊下を、影のように歩いていた。彼女の背後には、ランタンの灯りを覆うようにして、老侍女ベルナデットだけが静かに付き従っている。
「奥様、本当に……本当に行かれるのですか」
「ええ。まだ、あの檻に侵入するわけではないわ。見るだけよ、ベルナデット」
向かう先は、昼間に庭師のオーギュストから聞いた、最も死角の多い隠し木立。そこからは、実の父フランソワが幽閉されている「北棟の離れ」が不気味に浮かび上がって見えた。
冷たい夜風がシャルロッテの金色の髪を揺らす。彼女は茂みの陰に身を潜め、鋭い観察眼で離れの構造を脳内に焼き付けていった。
「……見張りは三人。交代は三刻ごと。オーギュストの言っていた通り、夜間の巡回経路には、西側の石壁の影に二分間の『空白』が存在するわね」
戦う前に、戦場を知る。今の彼女には、かつてのように感情に任せて叫び散らす愚かさは微塵もない。緻密に、冷酷に、敵を殺すための数字を積み重ねていく。
その瞬間、シャルロッテの世界が音を立てて崩れた。
そこにいたのは───かつて王都社交界で輝いていた誇り高き父ではない。肉を削がれ、魂を奪われ、幽鬼のように痩せ細った“生きた屍”。
「……お父様……」
声にならない声が喉で千切れた。叫びたい。泣き叫びたい。だが、彼女は唇を噛み切るほどに噛み締め、涙を押し戻した。
(泣くな。泣いたら負ける。泣くのは───奪い返した後よ)
彼女は、いまだ平坦な自身の腹部へと、祈るように両手を強く当てた。
(私の中にいる、新しい命。この子が、私に『母の強さ』をくれた。お父様、必ず……必ず、貴方をその地獄からお救いいたします!)
同じ頃、ミレーユ邸の別棟。マリアンヌの私室では、彼女が狂気的な苛立ちを抑えきれず、机の上の化粧瓶を派手に床へとぶち撒けていた。マリアンヌは床に散らばった瓶を見下ろした。彼女の胸を満たしているのは、嫉妬ではない。“自分が価値を失う恐怖” だった。価値を失えば、ジルベールに切り捨てられる。切り捨てられれば──彼女はもう、生きていけない。
「奪われるくらいなら……潰すしかないじゃない……」
その呟きは、もはや人間のものではなかった。そう呟いたかと思えば、急に頭を掻き毟り出す。
「何なのよ……何だっていうのよ、あの女は……!」
マリアンヌの美しい顔が、嫉妬と焦燥で醜く歪む。最近、主人であるジルベールの様子が明らかに異常だった。以前のように自分を抱こうとせず、仕事の合間にふと、西棟───シャルロッテのいる方角を、まるで極上の獲物を観察するような「愉悦の目」で眺めているのだ。あんな目は、自分に対して一度だって向けられたことはない。
「許さない……。あの高慢ちきな飾りの人形が、お腹のガキ一つで、私の築き上げてきた全てを奪うなんて、絶対に許さない!」
マリアンヌの瞳に、どす黒い蛇のような殺意が宿る。シャルロッテが変わったというのなら、その変わった頭ごと、完膚なきまでに叩き潰して泥に塗れさせればいいだけのこと。
「……そろそろ、あの臆病な先生に、最後の仕事をしてもらいましょうか」
マリアンヌは闇の中で甘く、そして悍ましく微笑んだ。その歪んだ笑みが、やがて彼女自身とデュラン商会を、ヴァレリオ公爵家という「本物の怪物」の前に引き摺り出し、凄惨極まる破滅へと導く導火線になることを、彼女はまだ、知る由もなかった。
深夜。自室へと戻ったシャルロッテは、窓を大きく開き、冷たい夜風を全身に浴びていた。遠くに見える、暗黒に沈む離れの影。
「待っていてください、お父様」
静かな、だが鋼のように硬い声音が、夜の帳に溶けていく。
「あと、もう少しですわ」
シャルロッテは腹部に手を当てた。その手は震えていない。かつての彼女なら、恐怖で足がすくんだだろう。───だが今は違う。守るべき命がある。それだけで、女は獣になれる。
「あと少しよ、お父様。……必ず迎えに行くわ」
そしてその覚悟の波紋は、ヴァレリオ公爵家の紅蓮の騎士たちをも巻き込み、ミレーユ伯爵家の運命の歯車を、破滅と奪還の結末へと向かって猛烈に加速させ始めていた。




