71.紅蓮の騎士ともう一つの家族
王都の朝は、常に冷徹な剣の風音から始まる。ヴァレリオ公爵家騎士団長であり、正式にはフェリシテ子爵家の婿養子でありながらも、未だ周囲からは一介の武人として「レオン・ディアス」の名で畏怖される紅蓮の騎士は、まだ夜明けの蒼い残光が這う庭園で、一人木剣を振るっていた。
レオンの木剣が朝霧を裂くたび、王都の空気は鋼の匂いを帯びた。だがその鋼の音とは裏腹に、彼の胸の奥では、ここ数日ずっと別の「不穏なざわめき」が燻っていた。───ミレーユ伯爵家。あの名門の屋敷から漂う、獣のような気配。それは、戦場で死の影が忍び寄る時にだけ感じる、あの嫌な“匂い”と同じだった。騎士団長という王国の武の頂点に登り詰めた今なお、彼は一日としてこの血を吐くような鍛錬を欠かしたことはない。
「ちちうえ――っ!」
背後から、小鳥のさえずりのように小気味よい元気な声が響いた。レオンが剣を止め、大ぶりの肩を回しながら振り返ると、そこには鮮やかな赤毛を揺らした小さな少年が、短い足を必死に動かして走ってくるところだった。
ミゲル・ディアス。四歳。父親から不敵なまでの生命力に満ちた赤髪を受け継ぎ、母親からは夜の奇跡を閉じ込めたかのような、美しい紫水晶の瞳を授かった、二人の愛の結晶である。
「おう、起きたか、ミゲル。相変わらず鶏より早いな」
「ぼくも、ちちうえみたいに、しゃーーってやる!」
「お前にはまだ三年早い。その頭より重い木剣で自分の足を叩き切るのがオチだ」
「やるのーーっ!」
「ははっ、頑固なところはクロエにそっくりだな、おい」
レオンは豪快に苦笑し、息子の熱意に負けて、刃を削り落とした小さな演習用の短剣を渡してやった。ミゲルは顔を輝かせ、即座にそれを両手で構える。
当然、足運びは滅茶苦茶で、重心も逆。剣先は小刻みにふらふらと揺れている。だが、その紫水晶の瞳だけは、一端の戦士のように大真面目だった。
「えいっ、たあっ!」
「おっと、腰が入ってねえぞ。それではヴァレリオの盾どころか、泥棒猫一匹も追払えん」
「む、むずかしい……! 剣、おもい!」
レオンは木剣を地面に突き立て、その場にどさりとしゃがみ込むと、節くれ立った大きな手を息子の小さな肩へと置いた。
「いいか、ミゲル。剣ってのはな、ただ敵を叩き斬るための鉄の塊じゃねえ。力任せに振るう奴は、戦場じゃ真っ先に死ぬ」
「ちからじゃ、ない?」
「ああ。本当に強い奴はな───己が命を賭けても『守りたいもの』のためにだけ、その刃を研ぎ澄ますんだ」
レオンの視線が、自然と朝日に照らされた屋敷の二階へと向く。その先には、彼がかつて公爵の執務室で釣書を渡されたあの日から、自らの生涯を賭けて守ると誓った最愛の妻───クロエがいる。ミゲルもその視線を追いかけ、小さな首を傾げた。
「ははうえ……?」
「そうだ。俺にとっては、お前の母親がそれだ」
「ぼく、ははうえを守るキシになる!」
ミゲルの紫水晶の瞳は、朝日に照らされて宝石のように輝いていた。レオンはその小さな頭を大きな手でわしゃりと撫で、豪快に笑った。
「ならまず、母上の朝食を残さず食べるところからだな」「……がんばる!」
その時…ガタ、と静かに屋敷の窓が開いた。朝日の柔らかな光を浴びて、淡い蜂蜜色の髪が美しく透き通る。スミレ色の瞳を優しく細めた女性が、白いレースのショールを羽織って姿を現した。
「レオン様、ミゲル。朝露でお身体が冷えてしまいますわ」
クロエ・フェリシテ子爵夫人。二十五歳。かつて夜会でコルセットに締め付けられ、倒れかけていたあの儚げな令嬢の面影はそのままに、今の彼女には、ディアス家の男たちを包み込む、母としての静かで、揺るぎない強さが宿っていた。
「朝食のパンが焼き上がりました。早くお部屋へお戻りくださいな」
「もうそんな時間か。おいミゲル、今日の修行は終わりだ」
「ええー! もっとやるー!」
不満げに頬を膨らませたミゲルだったが、窓辺で微笑むクロエの姿を見た途端、短剣を放り出して一目散に走り出した。
「ははうえーーっ!」
「まあ、ミゲル。危ないですから走っては……ふふ、おはようございます」
クロエは階段を駆け下りて屋敷に飛び込んできた息子を、柔らかな抱擁で優しく受け止めた。
「今日も、お父様に負けないくらい元気ですね」
「うん! ぼく、ははうえのキシになるの!」
「それは……世界で一番心強い騎士様ですね」
レオンは、庭からその光景を見つめながら、男臭い顔を僅かに緩めた。五年前、ジュリアン公爵の背後で影のように控えていた自分。あの初夏の夜、人目を避けたベンチで、震える指先で自分の袖をぎゅっと掴んできた、あの頑固で愛らしい少女。
(格上の令嬢を幸せにする器じゃねえ、なんて思ってたが……人生ってのは、本当に分からねえもんだな)
朝食の席は、ミゲルの独壇場だった。彼は白パンに蜂蜜をたっぷりと塗り、口の周りを真っ白にしながら、昨日覚えたばかりの言葉を並べ立てていた。
「それでね、ははうえ! きのう、家庭教師の先生がね、ぼくの文字の書き方が『たいへんキヒンがある』ってほめてくれた!」
「それは素晴らしいことです。ミゲル、次はお野菜も同じくらい気品をもって召し上がってくださいね」
クロエの声音は相変わらず静かで、社交界では「冷淡」と誤解されるほどに感情の起伏が少ない。だが、夫と息子の前で見せるその表情には、極上の蜜のような甘やかさがあった。
「ちちうえ! ぼく、やっぱり絶対に騎士になる! ちちうえみたいな、おっきくてカッコいい騎士!」
「やめとけ。ヴァレリオの騎士団長なんて、公爵様の無理難題に毎日頭を抱えるだけの、割に合わねえ因業職だぞ」
「ええっ!? でも……っ!」
夢を否定されてむっとする息子を見て、クロエが小さく、鈴を転がすように笑った。
「レオン様」
「ん? なんだよ」
「ミゲルが貴方のようになりたいと言ってくれて、本当は飛び上がるほど嬉しいのでしょう? 口元が、ずっと緩んでいらっしゃいますわ」
「……気のせいだ。俺はただ、パンの耳が硬くて顎を動かしているだけだ」
「まあ、嘘がお下手なところも、あの日から全く変わりませんのね」
完全に見抜かれていた。レオンは豪胆で荒々しい戦場の鬼神でありながら、この小さな「我が家」という檻の中では、妻の微かな溜息一つに右往左往する、ただの哀れな愛妻家なのである。
「ミゲル。騎士とはね、ただ剣を振るう者ではありません。弱き者の涙を拭い、誰かの未来を守るために立つ者です。───あなたのお父様のように」
その声音は静かだったが、揺るぎない信念が宿っていた。
「うん……! ぼく、ちちうえのように人のいたみがわかる、ははうえみたいな騎士になる!」
「それは難しいぞ、ミゲル。このお母上は、俺のアンダーシャツの裾にこっそり『赤い剣の刺繍』を縫い付けて、俺を戦場から絶対に生還させる呪いをかけるくらい、最強の女性だからな」
「レオン様! もう、子供の前でそのような……っ!」
クロエが蜂蜜色の髪を揺らし、ほんのりと頬を薔薇色に染めてそっぽを向く。結婚して五年が経ち、子供が生まれてなお、夫から向けられる直球の情愛には昔の少女のままの初々しさで照れてしまうのだ。家族三人の笑い声が、小気味よく食堂に響き渡っていた。
食後、主君であるジュリアン公爵への出仕の準備を整えたレオンの前に、クロエが音もなく歩み寄ってきた。彼女の両手には、丁寧に折り畳まれた純白のハンカチーフが載せられている。その隅には、一針一針、精緻な絹糸で「一振りの赤い剣」の刺繍が施されていた。クロエの、指先を傷だらけにしながら作った手作りの品だ。
「新しいものです。レオン様、戦場ではなくとも、王城での実務中も必ず持ち歩いてくださいね」
「また夜なべして縫ったのか。前の奴もまだ、血糊がついてるわけじゃねえし十分使えたぞ」
「駄目です」
クロエは珍しく、頑固なまでに強い口調でレオンの胸元へハンカチを押し付けた。スミレ色の瞳が、真剣そのものに夫を見つめる。
「貴方は、ヴァレリオ公爵家の総騎士団長なのですから。身だしなみ一つ、他家の不届き者に侮られてはなりません。……それに、私の刺繍が、貴方の不吉な『勘』を遠ざけるお守りなのですから」
「はいはい、分かったよ、子爵夫人。ありがたく頂戴するわ」
レオンは降参を意味するように両手を上げ、そのハンカチを大事そうに胸ポケットへと仕舞い込むと、クロエの細い肩をそっと抱き寄せた。その大きな手の熱だけで、彼女の頑なな心は一瞬にして蕩かされてしまうのだった。
数刻後。王城へ向かう豪奢なヴァレリオ公爵家の馬車の中で、レオンは顎を突き、窓の外を流れる王都の平和な活気を眺めていた。
平穏だ。誰もが今日のパンの価格を気にし、夜会の噂話に花を咲かせている。だが、数々の死線を潜り抜けてきた「紅蓮の騎士」としての獣じみた直感が、その脳裏で不穏な警鐘を乱打していた。
(何かがおかしい……)
最近、社交界や市場の裏側で、ある「不吉な噂」が急速にその濃度を増している。
名門・ミレーユ伯爵家当主フランソワの、あまりにも長すぎる『隔離療養』。そして、その隙につけ入るように実権を掌握した、デュラン商会出身の入り婿ジルベール・デュランによる、執拗で冷酷な人事の粛清。
レオンの脳裏に、かつて一人の我が儘な令嬢が、ジュリアン公爵の周囲をパタパタと付きまとっていた数年前の記憶が蘇る。
シャルロッテ・ミレーユ。
あの当時は、ヴァレリオ公爵夫人となったリシェルを守るため、レオンが「お邪魔虫」として徹底的に彼女の前に立ち塞がり、キューピット役に徹していたものだ。シャルロッテからは一方的に恨みがましい目で見られていたが、レオンにとっても「うちの奥方様とは月とスッポンだな、えらく中身のねえ我が儘なお嬢様だ」くらいの、お世辞にも良いとは言えない印象しか残っていない。
(……血の匂いがする)
馬車の窓から見える王都は平和そのもの。だが、レオンの背筋を冷たいものが這い上がった。───あれは、戦場で仲間が死ぬ前にだけ漂う“匂い”だ。
「ミレーユ伯爵家……何が起きてやがる」
誰にも聞こえない低い声で呟き、レオンは胸ポケットの刺繍に触れた。この勘が外れることを願うが、彼の直感が外れたことは、戦場において一度としてないのだ。
その頃。レオンが「面倒な獣」と評した当の場所───ミレーユ伯爵邸の薄暗い窓辺では、シャルロッテ・ミレーユが、夕闇の迫る空を凝視していた。彼女の両手は、いまだ平坦な自身の腹部を、まるで世界で最も壊れやすい硝子細工を扱うかのように、そっと包み込んでいる。
(私の、小さな命。ミレーユの未来)
「……あなたを守るためなら、私はどんな地獄にも牙を立てるわ」
その囁きは、祈りではなかった。これは宣戦布告。かつて虚栄に溺れた薔薇は死んだ。今ここにいるのは、我が子を守るためなら世界すら噛み砕く───“復讐の母”シャルロッテ・ミレーユだった。
そして、それらすべての陰謀の渦から遠く離れた、陽だまりのヴァレリオ公爵邸。そこでは、まだ見ぬ明日への幸福が、狂気的なまでの過保護さによって守られていた。
現在、ジュリアン公爵の愛妻リシェルは、そのお腹の中に、新たなるヴァレリオの血を引く小さな命───まだ名もなき天使(後のリアン)を宿していた。そのため、当主ジュリアンの「溺愛」のタガは、完全に引き千切れて暴走していた。
「リシェル、歩くな。転倒の可能性がある」
「ジュリアン様、ほんの数歩ですわ」
「数歩でも危険だ。君と子を守るためなら、私は世界中の床を絨毯で覆う」
その声音は穏やかだったが、瞳の奥には狂気じみた執着が宿っていた。ジュリアンは、リシェルのふっくらとしたお腹に視線を落とし、その冷徹な美貌を、壊滅的なまでの執着で歪めていた。
あまりの過保護さに、当然のことながら夜の睦み合いなどはすべて厳重に禁止されており、ジュリアンの欲求不満と保護欲は極限に達していたのだ。そしてこの、ジュリアンの『ガマン』とリシェルへの妄執こそが、後々、ミレーユ邸の狐・マリアンヌが彼を誘惑しようとして自滅する、凄惨な崩壊の序曲となるのだが、今はまだ、誰もそれを知らない。
王都の表舞台では、ヴァレリオ公爵家の眩いばかりの幸福と平和が語られ、その裏舞台では、ミレーユ伯爵家の泥沼の底で、静かに、確実に、運命の暗黒の歯車が回り始めていた。
紅蓮の騎士レオン・ディアスもまた、愛する家族を守るため、やがてその血塗られた反撃の渦中へと足を一歩、踏み入れることになる。
飾りの人形から「復讐の母」へと覚醒したシャルロッテ・ミレーユによる、伯爵家奪還の過酷なる幕が、今まさに、沈黙の中で切って落とされようとし、幸福の光の裏で、復讐の闇が静かに牙を研ぎ始めていた。




