70.沈黙の情報網
ミレーユ伯爵邸という名の巨大な石造りの檻には、今や完全に切り離された「二つの世界」が同時に息を潜めて存在していた。
一つは、白日の下に晒された表の世界。伝統ある伯爵家のすべての利権を帳簿の数字で塗り潰し、当主代行の座に君臨する怪物───ジルベール・デュランが、冷酷な合理性と暴力で支配する金と権力の空間。
そしてもう一つは、誰も気付かぬ漆黒の深淵。かつて誇り高く散っていった者たちの残照と、未だ冷めやらぬ執念が、暗闇の中で一本の細い糸のように紡がれつつある、もう一つの世界。
「奥様、午後の紅茶をお持ちいたしました。お身体を冷やさぬよう、本日はスパイスを利かせてございます」
「ありがとう、下がってちょうだい」
西棟の最奥、冷え切ったシャルロッテ・ミレーユの私室。今やこの狭く静かな空間こそが、誰も予期せぬ「もう一つの世界」の中心地へと変貌を遂げつつあった。
従順な仮面を貼り付けた侍女が恭しく置いていったティーワゴン。その上に載せられた銀のトレイや、繊細な陶器のカップには、何の変哲もない。しかし、シャルロッテの青い瞳は、カップの下に静かに敷かれた「レース編みのコースター」の模様を、瞬時に見抜いていた。
(───昨日の編み目とは、星の数が一つ違うわね)
それは、ベルナデットが古参の者たちへ密かに共有した“合図の方式”だった。彼らは互いに直接言葉を交わせない代わりに、こうして日用品の模様に暗号を忍ばせ、沈黙のまま意思を繋ぐ術を取り戻しつつある。
シャルロッテは何気ない優雅な動作で紅茶を口に含み、完璧に女主人の無関心を装いながら、侍女が完全に部屋を退出した音を確かめた。重い扉が閉まった一秒後、彼女は白磁のカップを置き、コースターを指先で音もなく裏返す。
糊付けされたレースの隙間に、薄く削がれた羊皮紙の小さな紙片が隠されていた。そこには、羽ペンではなく炭の粉で、たった一行だけ、殴り書きのような文字が記されている。
『離れ西側の見張り交代───三刻ごと。私兵二名、隙あり』
それだけだった。だが、彼女の頭脳という名の暗殺計画書を埋めるには、あまりにも十分すぎる事実だった。
「……なるほど。三刻、ね」
シャルロッテは、蝋燭の炎でその紙片を灰へと変えながら、静かに、そして酷く冷ややかに微笑んだ。かつての社交界の棘薔薇と呼ばれていた頃の彼女なら、このような回りくどく泥臭い真似には、一秒として耐えられなかっただろう。「欲しい情報があるなら今すぐ目の前に持ってきなさい! 私を誰だと思っているの!」と、傲慢に命令を叩きつけていたはずだ。
だが、今の彼女は違う。今のシャルロッテは、己の無知が招いた破滅の深さを知っている。相手は泥水をすすり、人の弱みを握り潰して成り上がった怪物・ジルベールだ。真正面から気位だけで挑めば、再び骨まで噛み砕かれて終わる。
だからこそ、蜘蛛の糸を紡ぐように、ゆっくりと。静かに。誰の耳にもその足音を響かせぬよう、確実な死を運ぶ毒を調合せねばならない。彼女は、いまだ平坦な自身の腹部へと、無意識に、だが誰よりも強く手を添えた。
「待っていてね……」
その囁きは、薄暗い監禁部屋で薬漬けにされている実の父フランソワに向けたものか。それとも、この地獄の中で私を「母」に選んでくれた、腹の中の小さな命に向けたものか。あるいは、かつて一度死に、復讐者として蘇った己自身への誓いなのか。シャルロッテにも、もう判別はつかなかった。ただ一つだけ、確信していることがある。
───私はもう、絶対に引き返さない。
その日の午後。豪奢な調度品で飾られた北棟の応接室では、マリアンヌが酷く不機嫌そうに、高価な砂糖菓子を口へと放り込んでいた。
「本当に、あの女……最近のシャルロッテは、気味が悪くて反吐が出そうだわ」
不快感を隠そうともせず、マリアンヌはソファに寄りかかって吐き捨てる。彼女の視線の先には、診察用の鞄を抱えたまま、怯えたように佇むお抱えの若い医師の姿があった。ジルベールの目を欺くため、今日も「定期診察」と称して呼び出された男だ。
「奥様のことですか……。ですが、厨房の料理長からの報告では、単に懐妊による初期の気まぐれで、酸味のある料理を求めて徘徊しているだけだと伺っておりますが」
「男って、本当にどいつもこいつも実利の数字以外は盲目ね」
マリアンヌは吐き捨てたが、その声音には以前のような激情はなかった。むしろ───静かすぎた。その静けさこそが、医師の背筋を最も冷やりとさせた。
「前はもっと分かりやすかったのよ。あの女は、ちょっと旦那様の寝室の前に私の靴を置いておくだけで、顔を真っ赤にして喚き散らして、勝手に自滅してくれた。だから扱いやすかったの。……でも、今のあいつの目は何? 食堂で私の顔を見るたび、まるで泥水に落ちたドブネズミを観察するような、あのゾッとするほど穏やかな笑みは……!」
さらにマリアンヌの焦燥を煽るのは、主人であるジルベールの視線だった。
「旦那様も最近、実務の書類からふと目を離して、西棟の方を……あの女の動向を気にされているようなのよ」
「それは……単にミレーユの後継を宿した正妻への、最低限の監視では?」
「女の勘を侮らないで、先生」
マリアンヌは立ち上がり、医師の胸元へと詰め寄ると、その美しい栗色の瞳の奥にある、狂気的なまでの独占欲を剥き出しにした。これまで他者を見下し、踏みつけにすることで自尊心を満たしてきたからこそ、シャルロッテという「本来の支配者」が静かに覚醒しつつある気配に、彼女の本能が激しい警鐘を鳴らし続けているのだ。
「先生。次の私の『公式な診察報告』は、三日後だったわね?」
「は、はい。商会の帳簿にはそのように記載してございます」
「そう。なら───もっと確実にしておきましょうか」
マリアンヌの唇が、妖艶に、だが酷く歪に吊り上がる。医師はその笑みに、底知れぬ破滅の予感を覚えて背筋に冷たい汗を走らせた。
「私の『懐妊』が、あの飾りの女のガキよりも遥かに価値があり、デュラン商会にとって絶対の正統性を持つという証拠をね……。先生、貴方の持っているその薬瓶には、まだ『別の使い方』があるのでしょう?」
医師は言葉を失い、喉を鳴らした。マリアンヌという女狐の欲望は、すでにジルベールの用意した檻を食い破り、誰も制御できない暴走を始めようとしていた。
一方その頃。シャルロッテは、邸内の最果てに位置する広大なガラス張りの「温室」に身を置いていた。
そこは、かつて彼女の亡き母が愛し、そして実の父フランソワ・ミレーユが、政務の合間に最も好んで足を運んでいた、大輪の白薔薇が咲き誇る美しき聖域だった。今やデュランの私兵たちの巡回ルートからも外され、見捨てられたかのように静まり返っている。
「───奥様。このような足元の悪い場所に、よくぞおいでくださいました」
錆びついた剪定鋏を置き、一人の老人がシャルロッテの前で深々と頭を下げた。深く刻まれた額の皺、土に汚れた頑強な両手。名はオーギュスト。フランソワ伯爵の少年時代からこの庭園を守り続けている、ミレーユ家最古参の庭師だった。
「薔薇の調子はいかが、オーギュスト? デュランの人間は、花を金に換えることしか興味がないでしょうけれど」
「ご心配には及びません、奥様。今年も、ミレーユの誇りを示すような見事な白薔薇が、まもなく蕾を開きます」
シャルロッテは満足げに頷き、大輪の白薔薇の棘に、白磁のような細い指先をそっと這わせた。そして、周囲の見張りの耳を警戒しながら、極限まで声を潜めて何気なく呟いた。
「お父様は、いつもこの白薔薇の香りを嗅ぎながら、『ミレーユの血は、どれほど泥に塗れても、その純白の気高さを失わない』と仰っていたわね。……オーギュスト、貴方はその言葉を、今でも覚えているかしら?」
老庭師の手が、目に見えて激しく強張った。彼はゆっくりと顔を上げ、シャルロッテの凍てつくような、だが確固たる意志を宿した青い瞳を見つめ返した。その老いた眼窩から、じわりと大粒の涙が溢れ出す。
「……忘れるはずがございません、お嬢様。ですが、あの成金どもの監視の目があまりに厳しく、我ら古参は“死んだふり”をするほか生き残る術がなかったのです」
「オーギュスト。お父様は、まだ生きているわ。あそこの、北棟の離れの中で、薬漬けにされて耐えていらっしゃるの」
老人がハッと息を呑み、言葉を失った。
「奥様……! それは、真実でございますか……! 大旦那様は、病死されたのでは……!」
「静かに」
シャルロッテは人差し指を唇に当て、完璧な女主人の微笑を浮かべた。
「まだ、誰にもその希望を悟られてはならないわ。あの成金どもに気付かれれば、今度こそお父様は本当の『死体』にされてしまう。……オーギュスト、貴方の胸の中にあるものは、まだ死んでいないわね?」
老庭師の全身が、激しい感情の奔流で震えていた。長い間、デュランの暴力と金の前に圧殺され、死んだふりをして耐え忍んできた忠誠。誇り。そして、主家を愚弄され続けたことへの凄まじい怒り。それらが今、シャルロッテという一人の正統なる血脈の手によって、再び命を与えられたのだ。
「……この老いぼれの命など、とうにミレーユ家にお捧げしてございます。お嬢様……どうか、私めにお命じください。あの離れの私兵どもの首を、この剪定鋏で叩き切ってでも、大旦那様を……!」
「いいえ、今はまだその時ではないわ」
シャルロッテは静かに首を振った。
「急げば負ける。勝負の機会は、おそらく一度きりよ。だから確実に、あの怪物の息の根を止める布陣を敷かねばならないわ。オーギュスト、その時が来たら……私のために、貴方の命をちょうだい」
「御意のままに。この命、ミレーユの薔薇を咲かせるため、喜んで散らせてみせましょう」
老人は床に跪き、シャルロッテのドレスの裾に、誓いの接吻を捧げるように深々と頭を下げた。
夕刻。茜色の不穏な夕焼けが館の窓を染める頃、ジルベールは執務室で、側近の騎士から密密たる報告を受け取っていた。
「奥様は午後、西棟を出て温室へ。その後、再び厨房を訪問されました」
「そうか」
「温室では、古参の庭師であるオーギュストと、十五分近くに渡り言葉を交わしていた模様にございます」
ジルベールは、書類にサインを走らせていた金ペンを、ぴたりと止めた。その漆黒の瞳が、獲物を捉えた肉食獣のように細められる。
「……庭師、か」
「何か問題がございましょうか? 単に、亡き母親の思い出の薔薇でも眺めに行かれただけかと愚考いたしますが」
「いや、お前は下がれ」
騎士が不審に思いながらも一礼して退室すると、ジルベールは椅子の背もたれに深く体重を預け、低く苦笑した。その脳内では、驚異的な速度で商人の帳簿が弾き出されていく。
厨房、使用人部屋、洗濯係、そして古参の庭師。偶然の散策にしては、彼女が接触している人間の人選が、あまりにも「ミレーユ家の直系」に偏りすぎている。
「まさか、な……」
ジルベールは自嘲するように呟いた。
(あの、世間知らずで我が儘の権化だったシャルロッテが。他人の頭を下げさせることしか知らなかったあの傲慢な令嬢が、自らの足で裏方を歩き、根回しをし、暗闇の中で情報を操っているというのか?)
以前の彼女なら、天地がひっくり返ってもあり得ない芸当だ。だが───ここ数日の、あの背筋が凍るほどに美しく静かな、青い瞳の輝き。ジルベールは窓の外、夕焼けに血のように赤く染まる薔薇園を見つめながら、その獰猛な唇の端を歪めた。
「……面白い。本当に、化けたものだな、シャルロッテ」
それは賞賛ではない。ただ、自分の掌の上で転がるはずの玩具が、思わぬ牙を隠していたことへの───支配者の愉悦だった。
「吠えるだけの無能な犬など、いつでも踏み殺せる。だが、この俺の網の目で、どれほどの情報網を紡げるか……せいぜい見せてみろ。お前が俺のすべてを強奪しに来るその日を、楽しみに待っていてやる」
深夜。漆黒の闇が館を支配する頃、ベルナデットが音もなくシャルロッテの私室を訪れた。
「奥様」
「どうしたの、ベルナデット。配置が動いた?」
「はい。暗闇の中で、静かに人数が揃い始めました」
シャルロッテの表情は、大理石のようにピクリとも動かない。だが、ドレスの下の胸の鼓動が、確実に速度を上げているのを自覚していた。
「正確な数を報告しなさい」
「厨房に二人。彼らは離れへ運ばれる食事の毒物の検分と、ヨハンの動線を完全に把握いたしました」
「ええ」
「温室のオーギュスト様。彼は私兵たちの交代の死角となる、庭園の隠し通路の鍵を確保してございます」
「ええ」
「そして……洗濯係と、奥向きの雑用係に各一名」
「……それだけかしら?」
「いいえ」
ベルナデットは、その老いた顔に極上の、そして最も深い忠誠の微笑みを浮かべた。
「旦那様の執務室のすぐ傍、彼に仕える直属の使用人の中にも、一名……こちらに繋がる者がおります」
シャルロッテは、今日初めて、その青い瞳を驚愕に大きく見開いた。
「ジルベールの、一番近くに……? 本当に?」
「はい。かつて大旦那様に、一族の命を救われた恩を持つ者にございます。彼らは皆、デュランの金に魂を売ったフリをして、この時を待っておりました。……ミレーユ伯爵家が紡いできた数百年の歴史と忠誠は、あの成金が積み上げた程度の金貨では、決して買い叩けはいたしません」
魂に響くようなベルナデットの言葉に、シャルロッテは小さく、だが確固たる力を込めて呟いた。
「……ありがとう、ベルナデット。本当に、ありがとう」
彼女は立ち上がり、窓の外、漆黒の闇に沈む「北棟の離れ」の方角を真っ直ぐに見つめた。
(お父様……もう少し、もう少しだけ待っていてください。貴方の娘は、もう檻の中で泣くだけの人形ではございません)
かつて王都社交界で誰もが恐れ、そして見下していた、高慢な「棘薔薇」の令嬢。だが、その鋭き棘は今、初めて自分の虚栄を飾るためではなく、最愛の家族を、ミレーユの誇りを、そして己の腹に宿る未来を守るため、暗闇の中で冷酷に研ぎ澄まされていた。
実権を失い、ただの飾り物の妊婦になったと思われていた伯爵令嬢が、ジルベールの支配する城の底で、着実に「沈黙の情報網」を取り戻し、その支配権を侵食し始めていることを、まだこの屋敷の誰も知らない。
その深淵の中心に佇むのは、もはやただの傲慢な娘ではない。───静かに牙を研ぐ、一人の母だった。




