69.籠の中の女狐
雨だった。重く、鈍い鉛色の雨雲が王都の空をどこまでも低く覆い尽くし、ミレーユ伯爵邸の壮麗な尖塔を容赦なく濡らしている。
窓ガラスを激しく叩く無慈悲な雨音を遠くに聞きながら、西棟の薄暗い一室で、シャルロッテ・ミレーユは静かに白磁のティーカップを傾け、温かな紅茶を口へと運んだ。
静かだった。耳が痛くなるほどの静寂。かつての、虚栄の薔薇として社交界に君臨していた頃の彼女であれば、この閉塞感に満ちた天候と、自らを無視して回る屋敷の空気に耐え切れず、金切り声を上げて癇癪を起こしていただろう。お気に入りの絹のドレスを引きむしり、侍女たちに当たり散らすことでしか、己の存在を証明できなかったはずだ。
だが、今の彼女は違う。まだ胸の奥には、昨日までの弱さの残滓が微かに疼いている。だが、その痛みこそが、彼女の思考を研ぎ澄ませる刃となっていた。震えを押し殺しながら、冷徹な静寂の中で“女王の仮面”をゆっくりと貼り付けていく。
「奥様」
扉が音もなく開き、影のように控えていた老侍女ベルナデットが入室してきた。その深い皺の刻まれた顔には、極限の緊張が宿っている。
「……例の者を、連れて参りました。誰の目にも触れぬよう、西棟の洗濯物運搬の経路を偽装してございます」
「通してちょうだい」
程なくしてベルナデットの背後から現れたのは、ひどく背筋を丸め、地味で煤けた灰色の衣服をまとった初老の女中だった。
一見すれば、デュラン商会がどこかの平民街から安月給で雇い入れた、ただの使い潰しの年寄り女中にしか見えないだろう。だからこそ、ジルベールの鋭い監視の目も、この哀れな老女を「無価値な雑草」として見過ごしてきたのだ。
だが、シャルロッテは知っている。この切り詰められた白髪の女性こそ、かつて父フランソワの“影”として、政治・財務・私生活のすべてを裏で支え続けた侍女頭───オディール。ベルナデットが「シャルロッテの乳母」であるなら、オディールは“父の右腕”として屋敷の実務を掌握していた女だ。
「……お久しゅうございます、シャルロッテお嬢様。よくぞ、よくぞおご無事で……」
オディールは部屋の床に膝をつき、掠れた声を震わせた。その節くれ立った両手は、主家の衰退と共に味わってきた辛酸を物語るように細かく震えている。
「ええ、本当に久しぶりね、オディール」
シャルロッテは椅子から立ち上がり、流れるような優雅さで彼女の前に歩み寄ると、極上の、だがどこか痛切な微笑みを浮かべた。
「まだこの泥沼のようなお屋敷に、残っていてくれたのね」
「……現在の旦那様にとっては、私はただの腰の曲がった、いつ死ぬとも知れぬ老いぼれ女中にしか見えておりませんでしょうから。ミレーユの残り香を消す価値すらおないと、放置されていたのが幸いにございました」
自嘲気味の返答。だが、床を見つめるオディールの濁った瞳の奥には、未だにデュランへの激しい怨念と、主家への消えぬ忠誠の炎が赤々と燃拠っていた。シャルロッテは胸の奥で、確かな安堵の吐息を漏らす。
(まだ、全滅したわけではないわ。この檻の底には、ミレーユの名のために命を賭せる本物の臣下たちが、まだ息を潜めている)
「お父様の様子を、私に教えなさい。オディール。取り繕う必要はありませんわ、すべてを」
シャルロッテの問いは、刃のように単刀直入だった。オディールは一瞬だけ、主人の娘を傷つけることを恐れるように逡巡したが、やがて覚悟を決めたように小さく、重く頷いた。
「お元気では……断じてございません。ですが、まだ、生きておられます」
「……そう」
シャルロッテは静かに目を閉じ、深く息を吐き出した。胸の奥底で、肉親の生存を喜ぶ安堵と、それを陵辱し続ける敵への猛烈な憎悪が、どろどろと混ざり合って震える。
「ジルベールは、お父様を『精神の病病理隔離』と称して、北棟の最果てにある離れへと完全に監禁しております。毎日、商会お抱えの不審な医師が出入りしておりますが……あれは、治療などではございません」
「意思を奪うための、毒薬の調合ね」
「……はい。大旦那様は、時折正気に戻ろうとされるのですが、その度にあの医師が持ち込む琥珀色の薬瓶の液体を無理やり飲まされ、泥のように眠らされているのです」
シャルロッテの青い瞳が、冬の剃刀のように冷たく細まる。やはり、自身の予測は完全に的中していた。父フランソワは、デュラン商会がミレーユ伯爵家の名義と利権を合法的に吸い尽くすための「生ける印章」として、文字通り心と身体を切り刻まれながら、閉じ込められているのだ。
「食事は?」
「最低限、命を繋ぐだけの薄いスープと黒パンのみにございます」
「……暴力は?」
オディールは、それ以上は言葉にすることすら悍ましいというように、固く口を閉ざして涙を浮かべた。それだけで、すべてが理解できた。かつて王都社交界の頂点にいた誇り高い父が、暗暗たる監禁部屋で、成金の私兵たちにどのように扱われているか。
シャルロッテのドレスを掴む指先が、肉を突き破らんばかりに強く握り締められる。爪が手のひらに食い込み、じわりと血の滲むような痛みが走る。
だが───彼女はもう、かつてのように叫ばなかった。泣き喚いて敵に無能を晒すような真似は、絶対にしない。ただ、極限まで温度を削ぎ落とした声音で、静かに告げた。
「……ありがとう、オディール。よく私に伝えてくれたわ。もう下がりなさい。これ以上ここにいると、マリアンヌの耳目が不審に思うわ」
「奥様……」
オディールは去り際、すがり付くように懇願した。
「旦那様も、あの秘書官の女も、人の心を持たぬ化け物にございます。どうか、お一人で無茶な戦いをなさろうとは……」
「いいえ」
シャルロッテは、自身の腹部へと、そっと慈しむように触れた。
「私は一人じゃないわ、オディール。決して」
その神聖な仕草を見た老女の表情が、はっと和らぎ、驚きと希望に目を見開いた。
「まさか……奥様、お腹に……」
「ええ。ミレーユの本当の血を引く、新たなる命よ。……私は母になるの。だから、我が子のためにも、お父様のためにも、あの成金どもを絶対にのさばらせてはおかないわ」
静かな言葉。けれど、その響きには、冷徹な仮面の下で爆発の瞬間を待つ、凶悪なまでの熱が宿っていた。
同時刻。西棟から遠く離れた北棟の一室───華美な調度品で埋め尽くされたマリアンヌの私室では、彼女が不機嫌そうに、上質な赤ワインのグラスを弄んでいた。
「ねえ、先生。最近のあの奥様、妙に気味が悪いと思わない?」
ソファーの向かい側に座る、デュラン商会お抱えの若い医師へ向かって、マリアンヌはねっとりとした問い掛けを放った。医師は居心地悪そうに身を縮め、困ったような苦笑いを浮かべる。
「……気のせいではございませんか? シャルロッテ様は、元々高慢でお労しいほどに世間知らずな令嬢だ。現実に絶望して、大人しくなっただけでしょう」
「いいえ、違うわ」
マリアンヌは赤い唇を醜く歪め、グラスをテーブルへと乱暴に置いた。
「あの女、完全に変わったわ。以前は本当に扱いやすかったのよ? 少し挑発してやれば、すぐに顔を真っ赤にして叫び散らして、周囲の使用人たちを自分から敵に回してくれた。だからこそ、旦那様もあの女を『無能な置物』として完全に見限ったのに」
だが、今のシャルロッテは違う。今朝の食堂での、あの背筋の凍るような穏やかな微笑み。そして、自分と医師との関係をすべて見透かしているかのような、あの不気味な「秘密の打ち合わせ」という言葉。
「……先生」
マリアンヌは、絹の衣擦れを響かせてソファーを移動し、怯える医師の身体へと甘えるようにしなだれかかった。
「私、怖いのよ。いいえ…怖いというより──計算が狂うのが許せないのよ。あの女が“数字の外側”から旦那様の信頼を奪い返すなど、帳簿にない誤差だわ。誤差は、必ず修正しなければならない。それにあの女が旦那様の信頼を完全に奪い返してしまったら? そうなったら、実務しか取り柄のない私なんて、一瞬で路頭に迷わされてしまうわ」
細い指先が、医師の仕立ての良い上着の肩へと這い、その耳元で蜜のような吐息を漏らす。男は生唾を飲み込んだ。マリアンヌは男を狂わせる術を熟知している。柔らかな栗色の髪、男の自尊心をくすぐる完璧な依存の演技。
「大丈夫です、マリアンヌ様」
医師は抗いきれず、彼女の細い腰を強く抱き寄せた。
「ジルベール様は、数字の読めぬ本物の無能を何よりも嫌う。商会の頭脳である貴女を、あの飾りの女のために捨てるはずがありません」
「……本当に? なら、先生」
マリアンヌは、医師の胸に顔を埋めながら、酷く冷酷な目で微笑んだ。
「もっと確実な『証拠』を増やしておかなくてはね。私が本当に旦那様の子を妊娠しており、あの飾りの女よりも先に、デュランの血を引く男児を産むという……完璧な帳簿を、ね?」
医師の顔色から、一瞬にして血の気が引いた。
「な……何を仰るのです、マリアンヌ様。それ以上の日付の偽装や、カルテの捏造は、いくら何でもジルベール様に露見した際のリスクが大きすぎる……!」
「今さら何を怖気づいているの?」
マリアンヌは顔を上げ、男の頬を愛おしげに撫でながら、その瞳の奥にある底知れない沼のような悪意を剥き出しにした。
「あの女の父をあの離れで薬漬けにしている時点で、先生も私も、一蓮托生の共犯者でしょう? ───私を勝たせなさい。さもなければ、貴方の未来もここで終わりよ」
甘い微笑みと、極寒の脅迫。医師は恐怖に身を震わせながら、自分がもう、この底なしの陰謀の泥沼から永遠に逃れられないことを、絶望と共に理解するしかなかった。
数日後。シャルロッテは、数人の侍女を従え、滅多に足を踏み入れることのなかった伯爵邸の地下一階───「厨房」へと続く回廊を、優雅に歩いていた。
すれ違う使用人たちが、驚きと動揺を隠せず次々と壁際に平伏し、ざわめきが波のように広がっていく。これまで自室から一歩も出ず、ただ命令を飛ばすだけだった高貴な女主人が、自らこのような裏方の場所へ現れるなど、前代未聞の事態だった。
「───お、奥様!? このような埃っぽい場所に、一体どのような御用でございましょうか!」
厨房を統括する巨漢の料理長が、額に大量の汗をかきながら慌てて飛び出してきた。だが、シャルロッテはどこまでも穏やかだった。その仕草一つ一つに、完璧な伯爵夫人としての気品が満ち満ちている。
「少し、お腹の子供のせいで食欲が変わってしまって。料理長、最近の私の献立に、もう少し東方領から届く柑橘を使った、酸味のある冷菜を加えていただきたいの。身体がそれを求めているようなのよ」
懐妊した貴婦人らしい、至極もっともで、誰もが納得する可愛らしい我が儘。料理長は、シャルロッテが癇癪を起こしに来たわけではないことに深く安堵し、「ただちに最上のものをご用意いたします!」と何度も頭を下げた。誰も、彼女の本当の目的に気づく者はいない。
厨房。そこは、館の中で最も「物質と人間の流れ」が集中する、極上の情報集積地だ。使用人たちの何気ない愚痴、物資の消費量、そして、どの部屋にどれだけの理不尽な食事が運ばれているか───すべてがこの部屋の帳簿に現れる。
「そういえば、あちらの棚にある特別なスープの器……随分と古びたものを使っているのね?」
シャルロッテは、厨房の隅に置かれた、明らかに他の使用人用のものとは区別された、薄汚れた木椀を扇で指し示した。何気ない、ただの気まぐれな質問を装って。
「ああ、あれは……その、北棟の離れへ運ばれる食事用の器でございます。旦那様の厳命により、あちらへ運ぶ物資はすべて他の厨房と分けるように言われておりまして……」
「へえ……あの器、随分と古いのね」
何気ない一言の裏で、シャルロッテは周囲の視線を鋭く探った。私兵の影が少しでも動けば、この質問は命取りになる。
「毎日、誰があの離れまで運んでいるのかしら?」
あくまで“偶然の興味”を装いながら。
「ええと、下働きのヨハンが、毎朝と毎夜、私兵の監視のもとで運んでおりますが……」
「そう。大変なことですわね」
脳内の白紙の地図に、正確に名前が刻まれていく。
(離れの管理を任されている下働きは、ヨハン。私兵の監視の目をかいくぐるには、彼の動線を抑える必要があるわね)
「ところで、旦那様は最近、どのようなお食事を好まれているの? 商会のお仕事でお疲れでしょうから、私も妻として、彼の好む肉料理の傾向を知っておきたいのだけれど」
彼女は間髪入れずに、全く別の、夫への健気な愛情を思わせる質問を混ぜ合わせた。こうして本命の質問を覆い隠すことで、料理長や周囲の侍女たちに、自分の意図を完璧に隠蔽する。
今のシャルロッテは、驚くほど冷徹だった。激情に身を任せて扉を叩き割る愚行は、もう二度としない。必要なのは、確実にお前たちの息の根を止めるための情報、証拠、そして暗闇の中で繋がる味方だけ。
その夜。ジルベールは、煌々と蝋燭が灯る執務室で、デュラン商会の最新の帳簿を精査していた。そこへ、彼の直属の私兵を率いる側近の騎士が、音もなく入室し、深く一礼した。
「旦那様」
「何だ。今は大口の関税書類を見ている。手短にしろ」
「……奥様の動きについての報告にございます」
ジルベールの、万年筆を動かす手が、ぴたりと止まった。彼は顔を上げず、低い声で促す。
「続けろ」
「ここ数日、奥様が西棟を出て、厨房や使用人たちの洗濯部屋などを頻繁に訪れております。一見すれば、懐妊に伴う食欲の変化や、身の回りの調度品の確認をされているように見えますが……これまでのシャルロッテ様の行動パターンからは、明らかに不自然にございます。監視をさらに強め、西棟への幽閉に切り替えますか?」
ジルベールはしばらくの間、何も言わずに沈黙していた。その深淵のような黒い瞳の奥で、激しい思考の波が揺れ動く。やがて、彼は万年筆を机へと置き、椅子の背もたれに深く寄りかかった。
「いや、必要ない。今のままで泳がせておけ」
「しかし、旦那様! あの女がもし、大旦那様の幽閉に気づき、社交界へ暴露するような真似をすれば……」
「下手に刺激するな、と言っている」
ジルベールの冷徹な一喝に、騎士は驚愕して言葉を失った。これまでのジルベールであれば、少しでも商会の利益を脅かす不確定要素があれば、即座に力で叩き潰し、監禁の度合いを強めていたはずだ。
だが、今の彼の胸の内にあったのは、恐怖や焦燥ではなかった。───剥き出しの、「興味」だ。
「……あの女、ようやく“数字の外側”で動き始めたか」
商人として、未知の動きをする駒ほど興味深いものはない。それは愛でも憎しみでもない──純粋な“観察対象”としての興味だった。ジルベールの唇から、低く、どこか愉悦を孕んだ声音が漏れ出た。
「ただ名門の看板にぶら下がり、無能のくせにプライドだけを肥大化させて吠え散らかすだけの犬など、退屈極まりなかった。だが、お腹にガキを宿した途端、完璧な仮面を被って暗闇で牙を隠す『女狐』に化けたというわけか。……これは、少し面白い」
彼は窓の外へと視線を向けた。いつの間にか、王都を濡らしていた激しい雨は止み、雲の隙間から、冷ややかな月光が差し込み始めている。
「どれほど賢しく立ち回ろうと、所詮は俺の手のひらの上の籠の中だ。あの女狐が、俺の帳簿を相手にどのような『化かし合い』を仕掛けてくるのか……せいぜい、楽しませてもらうとしよう」
深夜。静まり返った寝室で、シャルロッテはベッドの上に一本の蝋燭だけを灯し、羊皮紙に描かれた詳細な「ミレーユ伯爵邸の構造図」を広げていた。
厨房で手に入れた物資の流れ、オディールから聞いた私兵の配置、離れへと続く最も死角の多い隠し回廊の経路───すべてが、彼女の細い指先によって、正確に赤インクで書き込まれていく。
「奥様」
背後で、ベルナデットが小声で寝具を整えながら、心配そうに声をかけた。
「どうか、無茶な隠密行動だけはなさいませんよう。もしも旦那様の私兵に見つかれば、今度こそお命の保証が……」
「分かっているわ、ベルナデット」
シャルロッテは、羊皮紙を慎重に折り畳み、ベッドの引き出しの隠し底へとしまい込んだ。そして、自身の腹部へと、再び両手を優しく、だが何よりも強固に重ね合わせる。
「私はもう、自分のためには戦わない。……この子のために、私は絶対に死ねないもの。お父様を救い出し、あの成金どもをこの館から叩き出して、ミレーユのすべてをこの手に取り戻すまでは、私はどんな泥水をすすってでも生き延びてみせるわ」
青白い月明かりが、彼女の美しい横顔を切り裂くように照らし出す。その青い瞳の奥で燃盛る光は、もう誰かに守られることを待つだけの、哀れな令嬢のものではなかった。
月明かりの中、シャルロッテは静かに微笑んだ。その笑みは、誰にも気づかれぬ闇の奥で、ひっそりと牙を研ぐ獣のそれだった。




