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政略結婚のはずが、完璧公爵の溺愛が子リス系令嬢を解き放ちました  作者: 宮野夏樹
第3章 溺愛が未来を拓くまで

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67.母の牙


 ミレーユ伯爵邸の朝は、今日も不気味なほどに静かだった。いや───静かすぎた、というべきだろう。


 豪奢な回廊を往き交う使用人たちは、まるで主人の逆鱗に触れることを恐れるように極端に足音を忍ばせ、誰一人として互いに視線を合わせようとしない。


 広大な館の随所には、かつてフランソワ・ミレーユ伯爵が栄華を極め、王都社交界の頂点として築き上げた「名門貴族」としての壮麗な気配が、剥製のように残されている。だが、その華やかな外皮の内側は、実利と数字しか信じないデュラン商会の論理によって、既にドロドロと腐り始めていた。


 そして、その侵略の嵐のただ中に囚われているのが、正妻シャルロッテ・ミレーユであった。薄暗い寝室の鏡台の前に座る彼女の輪郭は、ここ数日の心労と激しい悪阻のせいで、以前よりも僅かに痩せて、儚げに見える。


 けれど、その金髪の縦巻きは一分の乱れもなく完璧に整えられ、青い瞳にも一切の隙はない。鏡の中にいるのは、かつて王都の夜会を支配した傲慢な薔薇───その面影を残しつつも、どこか静かに研ぎ澄まれ始めた“新しい自分”だった。まだ完全な女王ではない。だが、確かにその片鱗が、青い瞳の奥で静かに息づいていた。


 ───完璧な伯爵令嬢。

 ───完璧な伯爵夫人。


 心にどんな地獄を抱えていようとも、敵の前では完璧な最高級の人形として振る舞うこと。感情を消し去り、誇り高く微笑むこと。それだけが、現状において彼女が老侍女ベルナデットから教え込まれた、この地獄を生き抜き、反撃へ転じるための唯一の「仮面(ぶき)」だった。


「奥様、本日はお加減が……。その、やはり少しお顔の色が白いように見受けられますが」


 マリアンヌの手下である若い侍女が、寝室の扉際で探るような視線を向けながら声をかける。


「問題ありません。ただの寝不足よ」


 シャルロッテは、鏡の中の自分から視線を外さぬまま、静かにその言葉を遮った。ほんの少し前までの彼女であれば、愛人の手先である使用人の無礼な視線に耐えかね、苛立ちを隠さず手近な調度品を叩き割って当たり散らしていただろう。だが、今は違う。


(怒りは無能の証明。感情を剥き出しにして暴れる姿を見せることは、あの成金どもを喜ばせるだけの『娯楽』でしかない)


 感情を見せ、手の内を晒した瞬間に、ジルベールの冷酷な帳簿によって処理される。その事実を、シャルロッテはようやく、泥水の苦みと共に理解し始めていた。


 彼女は、ドレスの厚い布地の上から、まだ平坦な己の腹部へとそっと指先を触れさせた。まだ膨らみも、確かな胎動もない。けれど、医師の言った通り、そこには確かに一つの、愛おしい命が息づいている。


 自分の子供。


 マリアンヌの不浄な血に塗れた偽物ではない───数百年の格式をその身に宿す、ミレーユ伯爵家の正統なる継承者。その厳然たる事実だけが、今の彼女の細い背骨を、折れぬ鋼のように支えていた。


「旦那様は、どちらにいらっしゃるの?」

「は、はい……。2階の特等応接室にて、マリアンヌ様と共に、商会の朝礼の書類を確認されております」


 侍女が、シャルロッテの激昂を予期して、気まずそうに、どこか怯えを含んだ声音で答える。2階の特等応接室。かつては歴代のミレーユ伯爵夫人が賓客を迎えるための聖域であり、現在はマリアンヌが我が物顔で占拠している部屋だ。


 シャルロッテは一瞬だけ、長い睫毛を伏せた。以前なら、その侮辱に髪を振り乱して激怒していただろう。だが、今の彼女の唇から漏れ出たのは、氷のように冷たく乾いた一言だけだった。


「そう」


 彼女は優雅に立ち上がった。そのあまりの静けさと、一切の感情を削ぎ落とした青い瞳の深淵さに、若い侍女の方がかえって恐怖を覚えたように目を見開いて後ずさった。


 怒り狂うシャルロッテよりも、泣き叫ぶシャルロッテよりも───完璧な微笑みを湛えたまま、静寂を身にまとうシャルロッテの方が、遥かに恐ろしい。その目に見えない「女王の威圧感」が、地響きのように少しずつ、屋敷の隅々へと広がり始めていた。




 2階へ続く大階段を上り、格式高い応接室へと向かう。部屋の重厚なマホガニーの扉は、中の風通しを良くするためか、半開きになっていた。その隙間から、実に見事な、そして不快極まりない甘ったるい笑い声が漏れ聞こえてくる。マリアンヌの笑い声だ。そしてそれに呼応する、低く、落ち着き払った男の声音───ジルベール。


 シャルロッテは、かつてのように扉を乱暴に押し開けることはしなかった。一分の隙もない完璧な姿勢で、音もなくその洗練された空間へと足を踏み入れた。


「───あら」


 猫脚の美しい椅子に腰掛け、書類を検分していたマリアンヌが真っ先に振り返った。その栗色の豊かな髪を優雅に揺らし、まるで自分の部屋に迷い込んできた哀れな居候を哀れむように、挑発的な、蜜の入った微笑みを浮かべる。


「奥様。ご機嫌よう。西棟に籠もってばかりいらっしゃるので、てっきり昨夜の悲しみで寝込んでしまわれたのかと心配しておりましたのよ?」

「……」


 シャルロッテはその挑発を完璧に黙殺し、マリアンヌの隣の、かつては父フランソワの指定席であった大ぶりな執務机に座る男へと、真っ直ぐに視線を向けた。


 ジルベール・デュラン。


 短く刈り込まれた黒髪に、深淵のような黒目。商船の甲板で過酷な海風に晒されてきたという、日に焼けた強靭な肌と、貴族の衣服を破らんばかりのがっしりとした強固な体躯。彼は高貴な貴族というよりも、大洋を支配する武装商船の無慈悲な船長のような、圧倒的な実力の暴力を放つ男だった。


 入り婿という、本来ならば最も卑屈であるべき立場でありながら、その莫大な財力と卓越した実務能力によって、この由緒正しきミレーユ伯爵邸の実権を完全に強奪した男。


「どうした、シャルロッテ。めずらしいな、お前が自ら実務の部屋に足を運ぶなど。数字の並んだ帳簿を見て、また目眩でも起こしに来たか」


 ジルベールは書類から顔を上げ、低い声で言った。その声に、シャルロッテへの明確な悪意や憎悪はない。だが、一滴の温度も、情愛も含まれていなかった。


 この男は昔からそうだった。夜の営みにおいてすら、彼はただ義務を遂行する農夫のように冷酷だった。必要なことしか口にせず、金にならない感情は一切見せない。彼にとって、シャルロッテという妻は、ミレーユの名を手に入れるための法的書類に捺された、美しい「蝋の刻印」以上の価値などないのだ。


 シャルロッテは、ドレスの裾を上品に整え、彼らの正面に真っ直ぐに立った。震えるな。弱みを見せるな。ただ完璧な「伯爵夫人」として、この成金どもを盤面の上から見下ろしてやるのだと、己の魂に激しく命じる。


「お話があります、旦那様」

「言え。時間は惜しい。商会の次期大口取引の差配が詰まっている」

「短く済みますわ」


 シャルロッテは、極上の、非の打ち所のない微笑みを浮かべた。そして、これ以上ないほどに凛とした声音で、その爆弾を冷酷に投下した。


「───私、子を授かりましたの」


 ぴたりと、部屋を流れる空気が凍りついた。マリアンヌの笑みが、音もなく凍りついた。ほんの一拍、呼吸すら忘れたように沈黙し───その後、無理やり貼り付けた笑顔が、かえって彼女の動揺を際立たせた。



 ジルベールは表情ひとつ変えなかった。だが、万年筆の先がわずかに止まり、ほんの一瞬だけ、呼吸が浅くなる。それは、彼の中で何かが確かに揺れた証だった。


 やがて、ジルベールは背を向け、椅子の背もたれへとゆっくり腰掛け直した。彼の手元で、万年筆の先が書類を小さく突く。


「……確かなのか」

「ええ。我がミレーユ伯爵家に代々仕える、信頼のおける老医師の診断を受けましたわ。まだ初期ではありますが、間違いなく、私のお腹の中に『正統なる血』が宿っております」


 正統なる血───。その言葉が、ジルベールの眉間を一瞬だけ鋭く跳ね上げさせた。ジルベールがどれほど金を稼ごうとも、伝統と血筋がないという理由だけで上位貴族から犬のように門前払いされ、激しい劣等感に塗れていたことを、シャルロッテは壁の陰で盗み聞きして知っている。彼が喉から手が出るほど欲しがっていたもの。それは、金では決して買えない「歴史ある本物の血筋」なのだ。


「そうか。……お前が、な」


 短い。あまりにも短い返答だった。そこには、一般的な夫が妻の懐妊を聞いたときに浮かべるような、歓喜も、安堵も、妻の身体を労る優しさも、何ひとつ存在しなかった。ただ、目の前にある極上の商品が、予定通りの成果物(すうじ)を弾き出したかのような、冷徹な評価の沈黙。そして、ジルベールは残酷に呟いた。


「……これで、ミレーユ伯爵家をデュランの傘下として完全存続させるための、法的な『後継ぎ』の問題は完全に解決するな。マリアンヌの産む子供と共に、商会と貴族社会の両輪を回す完璧な(システム)が揃った」


 シャルロッテの、ドレスを掴む指先が、怒りで血が止まるほど強く強張った。その瞬間、彼女は頭の芯まで、氷水を浴びせられたかのようにすべてを理解した。


 この男にとって。この腹の中で必死に生きようとしている、愛おしい我が子は。“愛する妻との間に生まれた祝福すべき命”などでは、断じてない。ただの都合の良い、伯爵家の名籍を維持するための「極上の駒」。マリアンヌの子供と天秤にかけられ、商売の道具として消費されるための、都合の良いツールに過ぎないのだ。


 隣で硬直していたマリアンヌが、瞬時に自身の動揺を隠し、作り物の笑顔を貼り付けて口元を押さえた。


「まあ……!  それは本当によろしゅうございましたわね、旦那様。これでミレーユの血も、デュランの莫大な財産を継ぐのに相応しい『格』を得られますわ。私も、正妻のお子様のため、全力で実務のサポートをして差し上げますわね?」

「ああ。頼む、マリアンヌ」


 ───お前たちを、絶対に許さない。


 シャルロッテは静かに、完璧な礼を保ったまま目を伏せた。だが、その胸の内に、かつてのような惨めな涙や、無秩序な激情は一切湧き上がってこなかった。代わりにあったのは、冷徹極まりない、絶対的な理解。


(───この男は、まだ見ぬ我が子すら、ただの数字として利用する気なのだわ)


 ならば、こちらも徹底的にその「油断」を利用してやる。マリアンヌが実務の最前線から退くその隙を突き、このお腹の子という最強の切札を隠し持ったまま、お前たちのすべてを根こそぎ奪い取ってやる、と。




 その日の午後。シャルロッテは懐妊を告げた直後、胸の奥にひとつの確信が芽生えた。「この子を守るには、まず父を救わなければならない」その思いに突き動かされるように、シャルロッテは屋敷の“奥”へと足を向けた。



 静まり返ったミレーユ伯爵邸。だが、北棟のさらに奥、陽の光が一切届かない最果ての回廊へと進むほどに、人の気配は完全に途絶え、代わりに鋭い緊張感が空気を支配し始める。


 そこは、父フランソワ・ミレーユ伯爵が「病理隔離」という体裁で、外界から完全に遮断されている区域だった。


(……待って。あれは、何かしら?)


 シャルロッテは、薄暗い回廊の隅、古びたサイドボードの上に雑に置かれた、小さな琥珀色の薬瓶に目を留めた。見覚えのない、奇妙な商標が貼られた瓶。かつて父が長年服用していた、王宮の息がかかった侍医の調合による薬瓶とは、明らかに形も、放つ匂いも違っていた。それはどこか、港町の闇市場で取引されるような、怪しげな薬物の匂いを放っているように思えた。


「───奥様」


 不意に、背後の暗闇から低く、だが確固たる重みを持った声が響いた。振り返るとそこには、亡き母の代からこのミレーユ家に仕え、シャルロッテを赤子の頃から見守ってきた古参の老侍女───ベルナデットが佇んでいた。


 彼女の深い皺の刻まれた顔には、いつになく険しい、そして主人の身を心底案じるような、張り詰めた緊張が宿っていた。


「ここから先へ、進まれてはなりません。……旦那様より、何人たりとも、例え正妻たる奥様であっても、大旦那様の寝室への立ち入りは厳に禁じられております」

「ベルナデット。貴女まで、あの成金の男と同じ言葉を口にするの?  “父のため”の隔離だと、私にまだあの見え透いた嘘を信じろと言うの?」


 シャルロッテの青い瞳が、老侍女を真っ直ぐに見据える。ベルナデットは深く口を結び、沈黙した。だが、その沈黙と、僅かに揺れた瞳の光こそが、シャルロッテにとっての「確信」という名の方程式を完成させた。


「父は本当に、精神の病なのですか?」

「……お答えいたしかねます」

「なぜ、実の娘である私さえも会わせてもらえないの。あのサイドボードの薬は、一体誰が管理し、誰が父に飲ませているの?」

「……!」


 ベルナデットの顔色が、一瞬にして青白く変わった。その様子を見て、シャルロッテの脳裏に、以前目にしたデュラン商会の「不審な帳簿」の記憶が鮮烈に繋がった。


 隔離などではない。これは、合法的な手段を用いた「幽閉」であり、緩やかな「毒殺」に等しい支配だ。父フランソワは生きている。だが、デュラン商会がミレーユ伯爵家の名義を都合よく利用し続けるためだけに、薬物によって意思を奪われ、文字通り“生かされた屍”として閉じ込められているのだ。


 頭が狂いそうなほどの怒りと屈辱が競り上がってくる。だが、今のシャルロッテは、その猛毒をすべて己の腹の奥底へと飲み込み、冷徹な光へと昇華させた。


(お父様は、まだ生きている。私が……私の中に宿るこの命が、必ずお父様をその闇から救い出してみせる)




 夜、静まり返った、冷え切った西棟の寝室。シャルロッテは一人、月明かりだけが差し込む鏡台の前に立ち、暗闇の中で己の腹部を強く、壊れ物を労るように抱きしめていた。広い寝室は凍てつくように寒々しく、この館のどこを探しても、夫婦の温もりや愛などという高尚なものはひとかけらも存在しない。


 ベッドへと視線を向けるが、あの獣のような夫は、今日も当然のようにここへは来ない。今頃、北棟の豪奢な部屋で、愛人マリアンヌの身体を抱き、商会の未来の数字を語り合っているのだろう。けれど、もう、そんな下賤な裏切りで傷つくような段階は、とうの昔に終わっていた。


「……どうすればいいの。私は、どうすれば、この子を……」


 月明かりの下、シャルロッテの唇から、初めて小さく、掠れた弱音が漏れ出た。このまま、完璧に従順な置物のフリをしているだけでは、いずれこのお腹の子も、あの暗闇の奥に囚われている父フランソワと同じ運命を辿る。ジルベールの冷酷な実利の天秤にかけられ、支配され、利用され、最後には吸い尽くされて奪われるのだ。


 ふと脳裏に浮かんだのは、かつて激しく嫌悪した───リシェル・ヴァレリオ。彼女は謀略ではなく、ただ己の信念だけで運命を切り開いた。その真っ直ぐな強さを思い出した瞬間、シャルロッテの胸に、静かな炎が灯った。


 だが、今なら理解できる。リシェル・ヴァレリオという女性の強さの本質が。彼女は、冷徹に盤面を支配するような、小賢しい謀略の徒ではなかった。彼女を突き動かしていたのは、ただひたすらに、己の魂に刻まれた「清廉潔白な信念」───まるで騎士団長のような、真っ直ぐで折れぬ、男前なまでの強固な意志だったのだ。


 リシェルは、泣き言を言わなかった。他者を呪わなかった。ただ己の信じる正義と、愛する者を守るという信念のままに、愚直に、苛烈に前へと突き進んだ。その濁りのない圧倒的な意志の力が、周囲の心を動かし、結果として、絶対的な勝利という名の「最強の好機」をその手の中に手繰り寄せたのだ。


(弱さではない……あれこそが、本物の『強さ』だったのだわ。感情に呑まれ、惨めに喚き散らしていた私の方が、よほど空っぽで、弱かったのよ)


 泣いても、叫んでも、この檻の中では誰も助けてはくれない。信念なき虚栄の薔薇は、ただ踏みつぶされるだけ。


 ならば───私は、私の信念のために、この腹の中の愛しい命のために、本物の「獣」になってみせる。奪われる前に、あの男たちのすべてを奪う。利用される前に、あの男たちの財産も、商会も、すべてを利用し尽くして、地獄へと叩き落としてやる。


 シャルロッテの青い瞳から、すべての迷いと、少女の残滓としての激情が完全に消え去った。代わりにそこに宿ったのは、暗闇の中で妖しく燃え盛る、鋭く、研ぎ澄まされた───我が子を守るための「母の牙」の光だった。


「……この子は、誰にも奪わせない。我がミレーユの血筋も、未来も、あの成金どもに一歩たりとも渡さないわ」


 静かな、だが世界中の何ものをも破ることのできない、ダイヤモンドの硬度を持った絶対の誓い。彼女はもう、己のくだらない虚栄のためには戦わない。我が子のために、幽閉された父のために、そしてミレーユ伯爵家の本当の後継のために、血塗られた戦路を往く覚悟を決めたのだ。


 シャルロッテは、背後の暗闇に向かって、ゆっくりと振り返った。


「───ベルナデット」


 影のように控えていた老侍女が、はっと息を呑んで居住まいを正した。月光を背負い、完璧な仮面の下に底知れない「復讐の意志」を宿したシャルロッテは、真っ直ぐに、その忠義の老侍女を見つめた。


「協力なさい、ベルナデット。貴女の淹れるリアルの茶の苦さは、もう十分に飲み干したわ。……これからは、私たちが仕掛ける番よ」

「……お嬢様」

「デュラン商会の不審な帳簿、そして父を幽閉しているあの闇の薬物───すべての証拠を、完璧に人形のフリをしながら、暗闇の中で集めなさい。……我がミレーユ伯爵家を、あの成金どもから、完全に『強奪』し返してあげるわ」


 その瞬間。老侍女ベルナデットは、自身の老いた身体の奥底から、熱い震えが競り上がってくるのを確かに感じていた。かつて、理不尽な現実に泣き喚き、おもちゃを奪われた子供のように暴れるだけだった哀れな少女は、もうどこにもいない。


 今、目の前に立っているのは、我が子を最大の「牙」に変え、信念のままにデュランの帝国を喰らい尽くそうとする、真の“ミレーユの女主人”の姿だった。


「───御意にございます、シャルロッテ、我が女君。この老いた命、すべて貴女様と、お腹の中の新たなる君のために捧げましょう」


 完璧に従順なる正妻の仮面を被り、檻の内側から牙を研ぐ復讐の女王と、その影に仕える老侍女。成金たちの楽園を内側から静かに、そして冷酷に爆破するための「母の牙」の侵略が、今、王都の闇の中で、誰にも知られることなく冷徹に、その凶悪な産声を上げたのだった。

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