65.母親役
翌朝。
ミレーユ伯爵邸を包む空気は、不気味なほどに異様だった。回廊を往き交う使用人たちは必要以上に足音を殺して動き、互いに目を合わせることすら恐れるように視線を床へ伏せている。
昨夜の晩餐、あの呪われた食卓で一体何が起きたのか。その詳細な事実までを知る者は、商会の上層部と一握りの側近だけだった。だが、正妻であるシャルロッテが激昂して食堂を飛び出し、夜を徹して激しい嗚咽を漏らしていたという不穏な空気だけは、目に見えない毒ガスのように邸全体へ瞬く間に伝播していた。
そして、その残酷な嵐の中心にいるシャルロッテは───夜が明け、陽が天高く昇ってもなお、西棟の自室から一歩も出てこなかった。
「奥様、せめて一口でも……温かいスープだけでもお召し上がりくださいませ」
マリアンヌが配置した若い侍女が、腫れ物に触るような、どこか形ばかりの怯えを装った声で尋ねる。だが、豪奢な天蓋付きの寝台の傍ら、窓辺の長椅子に腰掛けたままのシャルロッテからは、何の返答もなかった。彼女はただ、窓ガラスの向こうに広がる灰色の曇天を、生気のない瞳で見つめ続けている。
どんよりと垂れ込め、光を遮る灰色の空。それはまるで、今の自分の立場のようだ、と彼女は自嘲気味に、ぼんやりと思った。
「……下げて頂戴。目障りよ」
「ですが、旦那様からは、奥様が健康を損ねては『飾りの意味がない』と───」
「聞こえなかったの? 下がりなさいと言っているのよ」
低く、地を這うような冷徹な声音。以前のような甲高い癇癪ではないその声の重みに、若い侍女はびくりと肩を震わせ、小さく頭を下げた。
「……失礼いたします。また、のちほどお持ちいたしますわ」
パタンと重苦しい音を立てて扉が閉まる。
部屋には再び、凍てつくような静寂だけが残された。シャルロッテはゆっくりと長い睫毛を伏せた。昨夜から、ほとんど一睡もできていなかった。目を閉じれば、あの獣のような夫の、氷のように冷え切った声が鼓膜の奥で再生されるからだ。
『マリアンヌの子を、ミレーユ伯爵家の跡取りとして育てる。───お前は伯爵夫人として、その子の母親役を務めろ』
「……っ、ふざけないで……。どうして……どうしてここまで私を追い詰めるの……。怒りよりも先に、胸の奥がひどく冷えていく……」
爪が白くなるほど掌へ食い込み、鋭い痛みが走る。屈辱だった。死ぬよりも凄惨な精神的凌辱だった。自分は名門ミレーユ伯爵家の正統なる令嬢だ。幼い頃から、高貴なる貴族の“伯爵夫人”として社交界の頂点に立つためだけに、あらゆる英才教育を叩き込まれてきた。王都の薔薇としての立ち居振る舞い。高雅な社交。洗練された教養。どれほど胸が痛もうとも、常に誇り高くあれと教え込まれてきたのだ。
なのに、今の自分は何だ。夫には厚顔無恥な愛人がおり、我が物顔で屋敷の実権を強奪され、あまつさえ、その不貞の泥棒猫が孕んだ賤しい商人の子を、我が子として抱き、偽りの母親役を演じろと言われている。
悔しい。惨めだ。そして───心底、怖かった。
このまま本当に、自分の居場所も、ミレーユの血筋も、すべてが成金たちの合理的という名の暴力によって消し去られ、歴史の闇へと埋もれていく恐怖。
コンコン。
不意に、先ほどの若い侍女とは違う、極めて控えめだが、深い重みを持ったノックの音が静寂を叩いた。シャルロッテは鋭い視線を扉へと向ける。
「誰。一人にしてと言ったはずよ」
「私でございます、シャルロッテお嬢様。ベルナデットにございます」
その名を聞いた瞬間、シャルロッテの胸のトゲが僅かに収まった。老侍女ベルナデット。亡き母の代からこのミレーユ家に仕え、シャルロッテが産まれた瞬間からその成長を最も近くで見守ってきた、本当の古参中の古参。
マリアンヌの目を盗み、昨夜「お父様をお助けください」と頭を下げてきた、この地獄のような檻の中で数少ない、“まだ完全に味方である”と信じられる存在だった。
「……入りなさい、ベルナデット」
静かに扉が開き、音もなく入ってきた老侍女は、銀の盆を手に持っていた。そこには、湯気の立つ琥珀色のハーブ茶が載せられている。
「お身体に障ります。昨夜から何も口にされていないと伺いました」
「いらないわ。そんな気分ではないの」
「これは旦那様のためではなく、お嬢様、貴女様のために私が自ら淹れたものにございます」
淡々とした、だが拒絶を許さない確固たる返答だった。シャルロッテは僅かに眉を寄せたが、ベルナデットは慣れた手付きで卓上へ茶器を置き、静かにハーブ茶を注ぎ進めた。
「昨夜の晩餐で、あの成金どもからどのような無体な宣告を受けたか、大体の察しはついております。ほとんどお休みになれなかったのでしょう」
「……眠れるわけがないわ。あの男は、あの泥棒猫は……私から、ミレーユの未来さえも奪う気よ」
「そうでしょうな」
ベルナデットは気休めの慰めも、無意味な同情もしなかった。だが、その突き放すような、それでいて深い信頼に基づいた距離感が、今のシャルロッテには何よりも心地良かった。
シャルロッテはしばらく黙っていたが、差し出された白磁のカップを、震える指先で受け取った。独特の苦みを持った香草の香りが鼻腔をくすぐる。一口、喉に含むと、冷え切った身体の奥にじんわりと熱が広がっていくのが分かった。
「……苦いわね、相変わらず貴女の淹れる茶は」
「現実の泥の苦さに比べれば、甘いものでございますよ」
「……ふふ、本当に貴女は容赦がないわ」
思わず小さく、乾いた笑いが漏れた。この老侍女は、シャルロッテが「社交界の女王」として傲慢に振る舞っていた頃からこうだった。妙に辛辣で、だが誰よりも現実を、そしてミレーユの家そのものを冷徹に見つめている。
「お嬢様」
ベルナデットが、その深い皺の刻まれた瞳で、シャルロッテを真っ直ぐに見据えた。
「部屋に籠もり、涙を流して憤っているだけでは、何ひとつ変わりはいたしません。……旦那様という男は、あの方なりに『合理』と『数字』だけで動く方にございます」
「合理? 私への侮辱のどこが合理的だと言うの」
「ええ、合理にございます。あの方には貴族的な『愛』も『体面』も通じません。すべての物事を利害の足し算引き算で計算しておいでです。……だからこそ、お嬢様が以前のように感情を剥き出しにして、怒りに任せて動けば、あの方の計算通りに処理され、確実に負けます」
ベルナデットの言葉が、シャルロッテの胸の最も深い部分を深く刺し貫いた。昨夜、激情のままにワイングラスをひっくり返し、惨めに逃げ出した己の姿が、まさにジルベールの言う「感情論しか言えない中身のない女」そのものだったと気付かされたからだ。
「……では、私にどうしろと言うの。あの男の言う通り、愛人の子を我が子として育てる、従順な母親役を演じろと?」
「戦うのでございますよ、お嬢様。……ミレーユの真の女主人として」
静かな、だが鋼のような芯のある聲音。シャルロッテは思わず息を呑んだ。
「旦那様も、あの小賢しい秘書官も、お嬢様を『プライドばかりが高く、実務能力のない無力な女』だと侮り、油断しておいでです。ならば、その『無力な置物』という彼らの錯覚を、徹底的に利用なさいませ。……お嬢様。人は、飾りだと思い込んだものほど、背を向けるものにございます。背を向けた首筋ほど、脆い場所はございませんわ」
利用する───。その言葉が、シャルロッテの脳内で激しい閃光となって弾けた。
そうだ。自分には以前で目にした、デュラン商会の「帳簿の違和感」という武器がある。さらにマリアンヌが懐妊し、実務の最前線から僅かでも退くのであれば、それこそが彼らの鉄壁の支配にヒビを入れる、最大の好機ではないか。
(私はまだ、負けていない。お父様を救い、この家を取り戻すまでは───)
そう激しく思考を巡らせた、まさにその瞬間だった。
「───うっ、く……!?」
ドロリとした、内臓を雑に雑巾のように絞り上げられるような、急激かつ強烈な吐き気がシャルロッテを襲った。彼女は思わず手にしたカップを取り落としそうになりながら、激しく口元を押さえた。
「お嬢様!?」
長椅子から立ち上がろうとしたシャルロッテだったが、足元が他人のもののようにぐらりと揺れ、激しい目眩が視界を黄色く染める。
「……っ、う、あ……!」
胃の中からすべてのものを吐き出そうとするかのような不快感。ベルナデットが慌てて盆を放り出し、その細い体を両腕でしっかりと支えた。
「お医者様を、今すぐお呼びいたします!」
「いらない……ッ! 大げさにしないで……マリアンヌたちに、私が精神的に狂ったと、また言い触らされるわ……っ」
「その真っ白な顔色で何を仰いますか!」
長年仕えてきた老侍女の、かつてないほど鋭く強い叱責の声。シャルロッテは長椅子に横たわりながら、荒い呼吸を繰り返した。全身から嫌な、冷たい脂汗がじわりと滲み出てくる。
そう言えば、数日前からずっと身体が重く、異常な倦怠感が続いていた。食欲が全く湧かなかったのも、単なるジルベールたちへのストレスや屈辱のせいだけではなかったのではないか。
そして、この強烈な吐き気。ひとつの、あまりにも衝撃的で、恐ろしい可能性が、シャルロッテの脳裏を過った。
だが、まさか。そんなはずはない。ジルベールとの夜の営みは、常に義務的で、冷酷な義務でしかなかった。あの男からは一度として「子を成すための熱」など感じられなかったのに。
「……お嬢様」
ベルナデットが、シャルロッテの寝台の傍らに跪き、その冷え切った手を優しく、だが力強く包み込んだ。その老いた瞳には、すべての真実を察したかのような、ただならぬ光が宿っていた。
「一度、信頼できる私どもの息がかかった医師に診てもらうべきでございます。もしも……もしも、万が一の奇跡が、我がミレーユの血の反撃が始まっているのだとすれば……」
シャルロッテは、自身のドレスの上から、そっと平坦な腹部へと手を当てた。鏡に映る自身の体には、何の変哲もない。だが、その輪郭の奥深くで、自身の心臓の鼓動だけが、耳が痛くなるほどにうるさく、激しく脈打っていた。
その日の午後。マリアンヌの監視の目を巧妙にすり抜け、ベルナデットが邸内へ招き入れた古参の老医師は、シャルロッテの脈をじっくりと検分した後、静かに眼鏡の位置を押し上げた。部屋を支配する、張り詰めた沈黙。
「……おめでとうございます、シャルロッテ奥様」
老医師の口から漏れ出た言葉に、シャルロッテの肺からすべての空気が停止した。
「ご懐妊にございます」
世界が、一瞬にして静止した。
「……え? 貴方、今、何と……」
「まだ極めて初期の段階ではございますが、間違いございません。ミレーユ伯爵家の正統なる血を受け継ぐ、新たなる命が、確かに奥様の御腹の中に宿っております」
隣に控えていたベルナデットが、あっと短く息を呑み、歓喜と感涙の混じった表情で神に祈るように胸の前で手を組んだ。だが、当のシャルロッテは、あまりの衝撃に指先ひとつ動かすことができなかった。
懐妊。
ジルベールに罵られ、何も生み出さない欠陥品だと指を差された自分が。この腹の中に、本物の、ミレーユの命を宿している。
「……嘘よ。そんなはず……そんな……。でも……胸の奥が……震えて……止まらない……」
「はい、間違いございません。しかし、初期の身体は非常に繊細にございます。くれぐれも無理は禁物。何よりも、激しい精神的負担やストレスは、絶対に避けなければなりませんぞ」
精神的負担を避けろ? 幽閉された父の命の危機を知り、夫の愛人から懐妊を突きつけられ、その子の偽りの母親役を演じろと脅されている今の自分に、それを避けろと言うのか。あまりにも滑稽で、あまりにも残酷な、運命の悪戯だった。
だが───。シャルロッテの細い指先は、医師の言葉を拒絶するように、しっかりと、自身の腹部を愛おしむように愛撫していた。
ここに、命がある。マリアンヌの不浄な血ではない、数百年の歴史を紡いできた、正統なるミレーユ伯爵家の命が、自分の中に、今、確かに息づいているのだ。
「……奥様」
ベルナデットの声が、震える歓喜の涙で掠れている。シャルロッテは最初、それが嬉しいのか、あるいはこれからの戦いの過酷さに恐怖しているのか、自分自身でも判別がつかなかった。ただ、胸の奥底、絶望の泥底で完全に冷え切っていた彼女の魂の空虚な器の中に、今までとは全く違う、圧倒的な“獰猛な熱”が産声を上げたのを感じていた。
(───この子。私の、本物の子供。ミレーユの、本当の後継者……)
その瞬間だった。昨夜、あの傲慢な成金どもが食卓でのたまっていた言葉が、鮮明な呪いとなって蘇ってきた。マリアンヌの笑みが脳裏に浮かんだ。“壊さないように飾っておきましょう”あの甘く冷たい声が、腹の奥で芽吹いた命を嘲笑うように響く。シャルロッテは、無意識に腹を庇うように腕を回した。さらに───。
『マリアンヌの子を、ミレーユ伯爵家の跡取りとして育てる』
『お前は伯爵夫人として、その子の母親役を務めろ』
思い出した瞬間、シャルロッテの青い瞳から、すうっとすべての生ぬるい感情の熱が消え去った。恐怖も、悲しみも、涙も、すべてが凍りつき───代わりにそこに宿ったのは、夜の深淵よりも深く、冷徹極まりない「絶対的な捕食者」の光だった。
「……そう。そうなのね」
ぽつり、と呟いたシャルロッテの声。医師もベルナデットも、その声音のあまりの冷たさに、思わず背筋を凍らせて息を呑んだ。数時間前まで、床に伏せて惨めに泣き崩れていた無力な小娘とは、完全に別人の声音だったからだ。
「この子が……私の味方が、ここにいるというのなら」
シャルロッテは自身の腹を、まるで誰の手からも、どんな外敵からも守り抜くように強く、愛おしく抱きしめた。その仕草は聖母のようでありながら、同時に、獲物を絶対に逃さないと誓った美しい毒蛇のようでもあった。
「……この子を守るためなら、私は何にでもなる。泥でも、毒でも、怪物でも。あの成金どもが築いた城を、この子のために丸ごと喰い破ってみせるわ」
ジルベール。お前は私を「何も生み出さない飾り」と言ったわね。
マリアンヌ。貴女は私を「壊さないように飾っておく置物」と笑ったわね。
お望み通り、私は完璧な『母親役』を演じて差し上げるわ。お前たちの不貞の子をミレーユの籍に入れ、油断の極みに達したその瞬間に───私の中に宿るこの正統なる「本物の牙」で、お前たちのすべてを噛みちぎり、その資産も、命も、すべてを毟り取って、我が子の足元に敷き詰めてあげる。
その青い瞳に宿った、狂気にも似た苛烈な復讐の光を見て、老侍女ベルナデットは初めて確信した。
ああ。ようやく、この方は真に目を覚まされたのだ。我が儘な薔薇の令嬢は死に、今、ミレーユの歴史上、最も美しく最も冷酷な「復讐の女王」が、この金糸の檻の奥深くで誕生したのだと。
仮面は完璧に縫い付けられた。静かな、だが誰にも止めることのできない、血と執着の共犯関係が、今、冷徹に幕を開けようとしていた。




