64.後継者
その夜、ミレーユ伯爵邸の広大な食堂では、不自然なほど豪奢な晩餐が開かれていた。とはいえ、そこに招かれているのは、この呪われた檻の身内だけだった。席につくのは三人。
入婿としてミレーユの全権を握る男、ジルベール。その正妻であり、今はただの飾りに貶められた、シャルロッテ。そして───完璧な調度品のように、当然の顔をして並ぶ秘書官、マリアンヌ。
長い白磁の食卓の中央には、金主であるデュラン商会の財力を誇示するような銀燭台が並び、贅を尽くした料理が隙間なく並べられている。だが、そこから立ち上る湯気とは裏腹に、空間を支配する空気は氷結したように冷え切っていた。
給仕する使用人たちは、マリアンヌが配置した商会側の人間ばかり。彼らは最低限の物音すら立てず、息を潜めるようにして、冷淡な手付きで皿を運んでいた。その息詰まるような沈黙を最初に破ったのは、やはりマリアンヌだった。
「旦那様。本日の王都主要商会との会談ですが、大変好評に終わりましたわ」
蜜のように甘く、それでいて一分の隙もない柔らかな声。まるで、この屋敷の真の女主人であるかのように自然な、そして不遜な口調。
「懸念されていた東部の穀物取引についても、我がデュラン商会側に独占的な優先権を与えることで、完全に話がまとまりそうです。これでもう、名ばかりの古参貴族どもが口を挟む余地はございませんわ」
「ああ」
ジルベールは手元の肉を冷徹に切り分けながら、短く、だが満足げに頷いた。
「港湾側の流通ルートは?」
「問題ありません。あちらの侯爵家も、実利の前に折れました。ヴァレリオ公爵の影に怯えるよりも、目先の金を取るということですわ」
「なら良い。貴族とて、腹が減れば商人の足元に跪く」
シャルロッテの存在など、最初からこの空間にないかのように、二人の間だけで実務の会話が淀みなく成立していく。シャルロッテは無言のまま、冷めきった銀のナイフを動かしていた。
先日、「使用人にすら影で笑われる屈辱」を泥水のように飲み干し、地下の父を救うための覚悟を決めた今の彼女には、もはやこの程度のけおとされるような疎外感など、腹立たしさすら湧かなかった。
この二人は、確かに優秀な共同経営者であり、肉体を貪り合う夫婦のようだった。少なくとも、実利を持たない自分よりは、遥かに。
「あら、奥様。ナイフが進んでいらっしゃらないようですけれど、如何ですか?」
不意に、マリアンヌが小馬鹿にしたような完璧な微笑を向けてくる。
「最近はお身体の調子も優れないと、侍女から報告を受けておりますわ。美しいだけのお人形が、あまり弱って壊れてしまっては、旦那様の『看板』として不都合が起きますもの」
「……問題ないわ。心配には及ばないことよ、秘書官様」
気遣うふりをした、冷酷な観察。弱っているか。ヒステリーを起こして自滅するか。その青い瞳の光が消えかけているかを、マリアンヌは蛇のような目で値踏みしているのだ。
シャルロッテは、あえてゆっくりとワイングラスを置き、以前の「傲慢で愚かな令嬢」の仮面を引っ張り出して、棘のある声を演じてみせた。ここで大人しくしていては、逆に怪しまれる。
「随分と楽しそうね、貴女。私の味方をすべて叩き出し、この家を好き勝手に動かして……。まるで自分が次の伯爵夫人にでもなったつもりかしら?」
一瞬、食堂の空気がピキリと張る。だがマリアンヌの笑顔は、微塵も崩れなかった。
「滅相もございません。私はただ、旦那様のお役に立てることを、無上の本望としているだけに過ぎませんわ」
「ふん……忠実な商会の忠犬ね」
「光栄な褒め言葉ですわ、奥様」
にこり、と。その余裕綽々としたマリアンヌの笑みを見つめながら、シャルロッテは胸の奥で、冷徹な黒い計算を走らせていた。
(笑っていられるのも今のうちよ、マリアンヌ。貴女たちがヴァレリオ公爵領の流通に手を出そうとしていること、そして父を幽閉している罪……すべてその身に返してあげるわ)
シャルロッテがさらに追撃の罵声を浴びせようと唇を開いた、その時だった。
「───マリアンヌ」
地を這うような、低い声。ジルベールがナイフを置き、感情の読めない黒い瞳でシャルロッテを正面から射抜いた。マリアンヌが、その声に応じてすっと姿勢を正す。
「はい、旦那様」
「例の件、ちょうどいい。ここで話しておけ」
その瞬間、マリアンヌの薄い唇が、ほんの少しだけ、隠しきれない邪悪な愉悦に歪んだ。ぞくり、と。シャルロッテの背筋に、本能的な悪寒が走る。
「……例の件? 一体、何の商売の話かしら」
問い返すシャルロッテの前で、マリアンヌはゆっくりと、勝ち誇った勝者の所作で立ち上がった。そして。己の未だ平坦な腹部へと、そっと、愛おしげに両手を添えたのだ。
「奥様。お耳に痛いお話かもしれませんが、ご報告を。───私、旦那様のお子を授かった“可能性”がございますの」
一瞬、食堂のすべての音が消えた。
シャンデリアの光さえもが停止したかのような錯覚。シャルロッテの思考が、真っ白に、そして直後に激しい火花を散らして凍りつく。
「……は? 貴女、今、何と言ったの……?」
掠れた声で、それだけを絞り出す。マリアンヌは深々と、だが首筋には優越の笑みを張り付けたまま、形式ばかりの頭を下げた。
「旦那様の、正統なる血を受け継ぐお子にございます。既に医師の診断も受けておりますわ」
キィィィンと、頭の奥で激しい耳鳴りが暴れ狂う。何を言われたのか、一瞬だけ理解が拒絶した。いや、覚悟を決めたはずの心臓の最も柔らかい部分が、予想もしなかった最悪の角度から、再び残酷に抉り抜かれたのだ。
「……冗談でしょう。はしたない。愛人が夫の子を孕んだなどと、そんな不潔な妄言を、よくも私の前で……!」
「残念ながら、どこまでも厳然たる事実ですわ、奥様。……旦那様も、我がデュラン商会の『未来』が宿ったと、これ以上なくお喜びくださいましたの」
マリアンヌの言葉に、シャルロッテは縋るような、そして呪うような視線をゆっくりとジルベールへと向けた。
否定して。それだけは、その不名誉だけは、ミレーユ伯爵夫人の看板を完全に泥に塗るその事実だけは、嘘だと言って───だが。
「本当だ。検査の数字に間違いはない」
返ってきたのは、一滴の情も、容赦もない、冷徹極まりない肯定だった。
「っ……! 貴方……ッ!」
「感情的になるな。見苦しい」
「感情的にもなるでしょう!? 私が正妻としてこの席にいるのよ! その目の前で、不貞の証を、誇らしげに語るなど……!」
「声を荒げるなと言っている。ここは商談の場ではない、ミレーユ家の方針を決める場だ」
冷たい。どこまでも、実利と効率の計算だけで動く、底知れない商人の声だった。ジルベールは激昂するシャルロッテを見ても、眉一つ動かさない。
シャルロッテは激しい戦慄に突き動かされ、がた、と椅子を蹴立てて立ち上がった。全身が怒りと、そして押し寄せる惨めさでガタガタと震える。
「私をどこまで馬鹿にすれば気が済むの!? 父親を地下へ閉じ込め、私の手足を毟り、今度はこの泥棒猫の子供を、私に受け入れろと言うの!?」
「馬鹿にはしていない。極めて合理的な提案をしているだけだ」
「何が合理的よ! 妾の子など、貴族社会では──」
「お前に子ができない以上、ミレーユ伯爵家という『器』を維持するための後継は絶対に必要だ」
静かな、確定した未来を告げるような宣告だった。ジルベールの黒い瞳には、シャルロッテへの憎しみも、怒りもない。ただ、利益を生まない不良債権を、どう処理するかという冷酷な決算の光だけがあった。
「マリアンヌの産む子を、ミレーユ伯爵家の正統なる跡取りとして公式に登録する。───お前は伯爵夫人として、その子の『母親』という体裁を取り、育てる役目を務めろ」
母親役。飾りのお人形で、今度は愛人の子のための偽りの母親になれと、そう言っているのだ。その瞬間、シャルロッテの中で、張り詰めていた何かが真っ二つに弾け飛んだ。
「……そんなこと、受け入れられるはずがないわ……」
虚しいという感情に任せて腕を振るった瞬間、がしゃん!! と激しい破砕音を立てて、赤ワインの満ちたクリスタルグラスが食卓に倒れた。
白いシルクのテーブルクロスへと、ドロドロと広がっていく禍々しい深紅の液体。それは、まるでミレーユ伯爵家の誇りが、無惨に流した血のようだった。
「私に……このミレーユの血を引かぬ、賤しい商人の子を、我が子として抱けと言うの!? 私はミレーユ伯爵家の娘よ! なぜこんな、死ぬよりも酷い屈辱を……ッ!」
「だからこそ感情論だな、お前は」
ジルベールは、自身の袖に跳ねた数滴の赤ワインを、不快そうにナプキンで拭いながら冷淡に言い放った。
「家を、看板を残すには後継がいる。お前がまだ子を授からぬ以上、家を残すためには別の手段を取るしかない。経営者として、当然の判断だ。お前に拒否権はない」
当然。当然。当然───。
シャルロッテの視界が、屈辱の涙と、あまりの非道への怒りでぐにゃぐにゃに歪む。マリアンヌはもう何も言わなかった。勝ち誇る露骨な態度すら引っ込め、ただ「勝者」としてジルベールの隣に静かに寄り添っている。それが、何よりも残酷に、シャルロッテの尊厳をすり潰していった。
「……嫌。そんなの、嫌よ……」
掠れた、誰の耳にも届かないような絶望の呟き。だが、ジルベールはその拒絶を、逃がさなかった。地を這うような低い声音が、彼女の鼓膜を縛り付ける。
「受け入れろ、シャルロッテ。それが、お前という『飾りの伯爵夫人』の、最後の役目だ」
役目。また、その言葉だ。自分という人間は、彼女の血筋は、ただ成金どもの野望のために消費され、塗り潰されるだけの道具でしかないのだと。シャルロッテはふらりと、力なく後退した。膝の震えが止まらない。
「奥様!」
側付きの侍女が慌てて支えようと手を伸ばす。だが、シャルロッテはその手を狂ったように振り払った。
「触らないで!! 誰も彼も、私に触るな……ッ!!」
悲鳴のような叫び声を残し、シャルロッテは裾を乱暴に引きずりながら、食堂を飛び出した。
回廊を走る。廊下に並ぶ、マリアンヌの雇った実務家たちの、冷ややかな、そして「哀れな負け犬が往く」とでも言いたげな視線を浴びながら、惨めに、狂ったように走った。私室へと飛び込み、重厚な扉を激しく閉め、鍵をガチリと施錠する。
「───っ、あ、ああ……っ! う、あああ……ッ!!」
その場に崩れ落ち、シャルロッテは豪華な絨毯に顔を伏せて、声を上げて泣き崩れた。涙が溢れて止まらない。悔しくて、惨めで、胸が引き裂かれそうに苦しかった。
なぜ、自分ばかりがこんな目に遭うのか。なぜ、すべてを奪われ、愛人の子の母親役にまで貶められなければならないのか。父を救うと誓ったばかりなのに、突きつけられた現実の絶望は、あまりにも容赦がなかった。
「……っ、う、ああ……!」
喉が焼け、潰れそうになるほどの嗚咽。しかし───激しく泣き続ける暗闇の中で、シャルロッテの指先は、無意識のうちに、自身のドレスの腹部へと不自然に触れていた。空っぽだと、ジルベールに罵られた自身の腹。そこに宿るはずのない、呪われたミレーユの命。
「……くっ、う、あ……?」
その時だった。激しい精神的ショックのせいだけとは思えない、ドロリとした、内臓を雑に掴み上げられるような強い吐き気が、激しく込み上げたのは。
「……ぇ、あ……っ」
シャルロッテは涙に濡れた顔を上げ、自身の口元を強く押さえた。視界がぐらりと不自然に反転するように揺れる。呼吸が、異常に浅い。冷や汗が全身から噴き出し、気分の悪さが、身体の底から津波のように押し寄せてくる。それは、ただの吐き気かもしれない。 だが、胸の奥で何かが微かにざわめいた。
彼女はまだ、何も知らない。この激しい絶望と屈辱の泥底に突き落とされた、まさにこの瞬間。マリアンヌの懐妊という最悪の毒駒が動いたその裏で───。
彼女自身の身体の奥底にもまた、ミレーユ伯爵家の正統なる血統を宿した、“新たな命”が、静かに、だが確実に芽吹き始めていることを、今のシャルロッテは、まだ知る由もなかった。




