63.笑われる奥様
その日、シャルロッテは数日ぶりに、自室のある西棟から東棟へと足を向けた。本来ならば、このミレーユ伯爵邸の正当なる女主人である彼女が、屋敷内を歩くことに許可など必要ないはずだった。
だが今の館では、彼女が私室の扉を開けて一歩回廊へ踏み出すことすら、奇妙な緊張と冷ややかな視線の洗礼を伴うようになっていた。絨毯の敷かれた廊下を進むたび、すれ違う使用人たちのまとう空気が目に見えて変わる。
あからさまに目を逸らし、関わりを避けるように壁際に身を寄せる者。逆に、その睫毛の隙間から「どれほど落ちぶれたか」を測るように値踏みする目を向けてくる者。そして何よりも───。
(……哀れみ。その汚らわしい目で私を見るな……!)
その、向けられる憐憫の情こそが、シャルロッテにとっては最も耐え難く、胸の奥が焼け付くほどの屈辱だった。かつて王都の社交界で誰もが憧れ、跪いた「ミレーユの薔薇」が、今や実権を持たない成金商人の置物に成り下がったのだと、彼らの目弁が残酷に物語っている。
「奥様」
背後から、細い靴音とともに一人の侍女が小走りに近づいてきた。マリアンヌが「整理」を免れさせた、商会側の息がかかった若い侍女だ。
「どちらへ行かれるのですか。旦那様からは、奥様は実務の邪魔にならぬよう、西棟の私室で静養していただくようにと仰せつかっておりますが」
「……少し、気分転換に歩きたかっただけよ。それすら、この家では夫の許可が必要だと言うの?」
「いえ、滅相もございません」
口先だけで生返事をしながら、侍女はどこか小馬鹿にしたように目を細めた。
シャルロッテはそれ以上追及せず、回廊の窓辺に視線を向けた。ガラスの向こう、春の陽射しはどこまでも柔らかく降り注いでいる。庭園では、ジルベールに雇われた新しい庭師たちが、歴史ある薔薇の花壇を容赦なく掘り返し、実用的な薬草の畑へと作り変える作業を続けていた。
外の世界は平穏で、美しく変化している。なのに、この屋敷の内部だけが、澱んだ泥水のように歪み、冷え切っていた。
「……最近、北棟のあたりが随分と騒がしいわね」
「え……」
シャルロッテが何気なさを装って呟いた瞬間、隣に立つ侍女の肩がびくりと硬直した。以前、マリアンヌが誇らしげに語っていた「使用人の整理」の全貌を、シャルロッテはまだ正確には掴んでいない。ただ、屋敷の機能が急激に変質していることだけは肌で感じていた。
「何か、私に隠していることでもあるの?」
「……いえ、その、私どもの口からは……」
歯切れ悪く視線を泳がせる侍女に対し、シャルロッテは冷徹に声を落とした。
「言いなさい。私はまだ、ミレーユ伯爵夫人よ」
その威圧感に気圧されたのか、侍女は周囲を気にしながら、消え入りそうな小声で吐き出した。
「……マリアンヌ様が、北棟を中心に大幅な使用人の配置換えを行っておられるのです。旦那様のお側で実務を動かすにふさわしい者を、新しく選別し直しているとかで……」
「以前からこの屋敷に仕えていた、古参の者たちはどうなったの?」
「……何名かは、既に暇を出されました。マリアンヌ様が、彼らは“古い”から、我が商会の合理的な仕事について来られないと、旦那様にご進言なさって……」
その言葉を聞いた瞬間、シャルロッテの青い瞳が、冬の氷のように冷え切った。古いから、切り捨てる。
それは、マリアンヌが実務を掌握するためだけの方策ではない。ジルベールが本気で、この屋敷からミレーユ伯爵家の血に忠誠を誓う「残滓」をすべて消し去り、デュラン商会の城へと作り変えようとしている決定的な証拠だった。
少し前の夜、屈辱の中で「買収した手駒を外に放った」と思い込んでいた己の浅知恵すら、この圧倒的な“本物の侵略”の前には、無力な小娘の空しい空想だったのではないかと、足元が崩れるような感覚に襲われる。
「奥様……?」
顔色を失ったシャルロッテを、侍女が不安そうに、どこか侮蔑を孕んだ目で見上げてくる。シャルロッテはゆっくりと息を吸い込み、壊れかけた仮面を必死に繋ぎ止めて首を振った。
「……いいえ。何でもないわ。実務のことは、有能な秘書官様にお任せすればいいものね」
そう言うしかなかった。今ここで怒鳴り散らし、以前のように我が儘を喚き立てたところで、ジルベールは一瞥もくれず、マリアンヌの笑い草になるだけだ。理解はしていた。だが、頭での理解と、胸を切り刻まれる屈辱は、全く別物だった。
東棟の角を曲がり、長い回廊の中ほどに差し掛かった時だった。前方から歩いてきた数人の若い侍女たちが、シャルロッテの姿を認めると、一瞬だけ露骨に嫌そうな顔をし、それから慌てて形ばかりの頭を下げた。
「お、おはようございます、奥様!」
「……ええ」
シャルロッテは足を止めず、通り過ぎようとした。彼女たちの顔に浮かぶ緊張は、主人への敬意ではなく、厄介な置物に対する腫れ物を見るかのような性質のものだった。
すれ違う、その刹那。若い侍女の一人が、隣の同僚へと目くばせをし───そして、耐えきれないといった風に、クスクスと小さく吹き出した。
「っ……」
笑った。
今、明確に、このミレーユ伯爵夫人である自分を通り過ぎる瞬間に、彼女たちは嘲笑を漏らしたのだ。シャルロッテの脳裏で、何かが激しく弾け、ざわりと波立った。
「……何がおかしいの?」
低く、地を這うような静かな声だった。だが、その声に含まれた凍てつくような冷気に、侍女たちの顔色が一気に青ざめる。
「い、いえ! そんな、そのようなことはございません……!」
「なら、なぜ私の背後で笑ったの。何がそんなに可笑しいのか、私にも説明しなさい」
「ち、違うんです! 決して奥様を笑ったわけでは……!」
必死の否定。しかし、彼女たちの怯えきった瞳の奥には、隠しきれない「侮り」があった。シャルロッテはゆっくりと一歩、彼女たちとの距離を詰める。かつて社交界の女として身に付けた彼女の放つ威圧感に、逃げ場を失った一番若い侍女が、涙目で震えながら口を開いた。
「……っ、その、マリアンヌ様が、執務室で仰っていたのです……!」
「マリアンヌが、何と言ったの」
「“今のミレーユ伯爵夫人は、何もできない、何も生み出さない置物としては、大変お美しい。だからせいぜい、壊さないように飾っておいて差し上げましょう”と……それを旦那様も、否定なさらなかったから、私ども、つい……っ」
頭のてっぺんから冷水を浴びせられたように、全身の血が引いていくのが分かった。周囲の空気が完全に凍りつき、侍女たちは真っ青になって床に伏せている。
だが、シャルロッテの耳の奥には、マリアンヌのあの蜜のように甘く、冷酷な笑い声が、そしてそれを無言で肯定したジルベールの冷徹な瞳が、鮮明に焼き付いて離れなかった。
置物。飾り。何もできない、ただ息をしているだけの、空っぽの人形。それが、今のシャルロッテ・ミレーユという存在の、この屋敷における共通認識なのだ。かつて見下していたはずの、末端の使用人にすら、影で笑われるほどの存在。
「……そう。よく分かったわ」
驚くほど穏やかで、掠れた声だった。侍女たちは、そのあまりの静けさに逆に恐怖を感じたのか、何度も頭を床に擦りつける。
「お、奥様、申し訳ございません! 決してお慕いしていないわけでは───」
「もういいわ。下がりなさい」
シャルロッテは踵を返した。ドレスの裾が翻る。背中を丸め、惨めに逃げ出すことだけは、彼女の砕け散ったプライドが許さなかった。背筋だけは天を突くほど真っ直ぐに伸ばし、ミレーユ伯爵令嬢としての最後の、空虚な骸のような矜持だけを支えにして、彼女は己の部屋へと歩き続けた。
自室へ戻り、重厚な扉がバタンと閉まった瞬間。シャルロッテは、張っていた糸が切れたようにマホガニーの机へと両手をつき、崩れ落ちた。
「───っ、く、ああ……っ!」
激しく呼吸が乱れる。肺が拒絶するように酸素を求め、頭の中心が、沸騰したように熱かった。屈辱。怒り。そして、それらを遥かに凌駕する圧倒的な羞恥。様々な黒い感情が、彼女の胸の奥底でドロドロと暴れ狂っていた。
使用人に、笑われたのだ。数ヶ月前までなら、言葉一つで首を刎ねることすらできたはずの、下賤な使用人たちに、哀れまれ、置物だと指を差された。
「……マリアンヌ……ッ! ジルベール……!」
爪が、高級な木材の机にギチギチと音を立てて食い込む。あの秘書官は、すべてを理解してやっているのだ。ジルベールからの絶大な寵愛と「実務能力」という最強の盾を盾に、シャルロッテの立場を、権威を、そして人間としての尊厳を、毎日少しずつ、確実に削り殺している。
表向きは完璧に礼儀正しく振る舞いながら、その実、屋敷全体に『あの夫人はただの飾りだ』という毒を回しているのだ。
「奥様……」
部屋の隅に控えていた、唯一彼女の側付きとして残された侍女が、恐る恐る声を掛けてくる。
「お顔色が最悪でございます……。お心を落ち着かせるための、温かいハーブティーでもお持ちいたしましょうか」
「いらないわ! そんなもの!」
「ですが、奥様───」
「放っておいて!! 誰も彼も、私を哀れな道化として見物したいのね!?」
鋭く、金切り声に近い叫び。側付きの侍女がびくりと肩を震わせ、悲しそうに俯くのを見て、シャルロッテはハッと我に返り、血が出るほど強く唇を噛んだ。
また、癇癪を起こしてしまった。これでは、マリアンヌの言う「中身のない、ヒステリックな貴族の女」そのものではないか。
「……ごめんなさい。少し、一人にして頂戴。下がって」
「……かしこまりました。何かございましたら、すぐにお呼びくださいませ」
静かに扉が閉まり、部屋には再び、凍てつくような静寂だけが残された。シャルロッテは力なく、鏡台の前の椅子へと腰を落とした。鏡の中に映る自分は、今日も完璧に美しかった。陽光を弾く金髪、深く澄んだ青い瞳。誰もが振り返る、完璧な「ミレーユの薔薇」。けれど、その輪郭の内側は、完全にへし折られ、空っぽにされた無力な小娘の抜け殻だった。
「……私は」
ぽつりと、乾いた声が零れ落ちる。
「私は、こんなはずじゃなかった……。こんな惨めな人形になるために、生まれてきたわけじゃないわ……!」
幼い頃、父フランソワはいつも彼女を抱き上げ、自慢げに言っていた。『お前は我がミレーユ家の最高傑作、気高く美しい薔薇だ。お前はこの家の誇りであり、未来そのものなのだよ』と。
なのに、今の自分はどうだ。
ヴァレリオ公爵家に断絶され、夫には家畜のように義務として抱かれ、愛人に居場所を奪われ、末端の使用人にすら嘲笑される。これが、自分の望んだ未来なのか。この金糸の檻の中で、ただ朽ち果てていくだけの人生なのか。
「……嫌。そんなの、絶対に嫌よ……っ!」
じわりと、指先に力が戻る。認められない。このまま“哀れな元伯爵令嬢”として、成金たちに踏みつぶされたまま終わるなど、死んでも御免だった。だが、今の自分には、彼らに対抗するための武器が、何ひとつとしてない。圧倒的な実力差という現実が、再び彼女を絶望の底へと引きずり込もうとした、その時だった。
こん、こん、と。
これまでとは違う、極めて控えめな、だが確固たる意志を持ったノックの音が響いた。
「……誰。一人にしてと言ったはずよ」
「失礼いたします、シャルロッテお嬢様」
入ってきたのは、白い髪を丁寧にまとめた、中年の侍女だった。その顔を見た瞬間、シャルロッテの息が止まる。彼女は、マリアンヌの「整理」によって表舞台から追いやられていた、父フランソワの代から数十年にわたりミレーユ家に仕え続けてきた、本物の古参のメイド頭だった。
「貴女……どうしてここに。マリアンヌに目を付けられたら、今度こそ屋敷を追い出されるわよ」
侍女は無言のまま静かに扉を閉め、鍵をかけると、周囲を警戒するように入念に視線を巡らせた。そして、シャルロッテの目の前に進み出て、深く、かつて彼らがミレーユの女王に捧げていた本物の敬礼を払った。そして、地を這うような小声で、衝撃の事実を告げた。
「……シャルロッテお嬢様。先ほど、旦那様直属の、あの金で雇われた私兵たちが、またしても北棟の“地下”へと向かいました」
シャルロッテの青い瞳が、大きく揺れた。地下。北棟の地下。そこに何があるのか、彼女は知っている。隔離され、実権を奪われ、重病だと偽られて幽閉されている───実の父親、フランソワ・ミレーユ伯爵がそこにいるのだ。
「私兵たちの会話を、密かに聞き及びました。フランソワ様は今……まともな食事も、医師の診察も与えられていないようでございます。旦那様は、大旦那様がこのまま『衰弱』されるのを、ただ待っておられるご様子……っ」
「……っ!? そんな……!」
胸の奥が、万力で締め付けられるように激しく痛んだ。ジルベールは、父を静かに殺すつもりなのだ。病死という体裁を取りながら、用済みとなった前当主を、地下の闇の中で餓死させようとしている。
「お嬢様」
古参の侍女は、シャルロッテの前に膝をつき、その節くれ立った手で、シャルロッテの震える手を強く握りしめた。その手からは、この屋敷で久しく忘れていた、ミレーユの臣下としての“熱”が伝わってきた。
「どうか……どうか、お父君をお助けくださいませ。私ども古い者は、今やマリアンヌによって手足を毟られ、地下へ近づくことすら叶いません。この屋敷の中で、フランソワ様を救い出せるのは、正当なる血筋であり、まだ『伯爵夫人』の地位をお持ちの、お嬢様、貴女様しかおられないのです……!」
その瞬間だった。
シャルロッテの脳内で、パチパチと音を立てて、何かが決定的に、完全に切り替わったのは。
これまでは、すべて自分のためだった。自分が惨めだから。自分が悔しいから。自分がマリアンヌに嫉妬し、ジルベールに激怒していたから。
だが今、彼女の細い胸に生まれた感情は、そんな矮小な自己愛だけではなかった。自分を甘やかし、自分のせいで破滅へと追い込まれ、それでも最後に「ミレーユ家を生かすため」に頭を下げた、あの愛すべき愚かな父親を助けたい。このまま、成金商人の冷酷な爪によって、ミレーユの歴史を、父の命を、すべて奪われたままで終わらせたくない。
ゆっくりと、シャルロッテは顔を上げた。鏡の中に映る彼女の青い瞳に宿る光は、先ほどまでの絶望に震える小娘のそれとは、完全に一線を画していた。
それは、幼い頃に父へ向けていた“守られたい”という光ではなかった。ただ、胸の奥で何かが静かに動き始めた───その程度の、かすかな揺らぎだった。
「……分かったわ」
シャルロッテの唇から、冷徹な、そして極めて美しい声音が漏れ出た。前に目にした帳簿の違和感、そしてマリアンヌへの屈辱、すべてが今、父を救い、この成金どもを地獄へ引きずり下ろすための「冷酷な兵器」へと昇華していく。
「……お父様は、私が助けるわ。それだけは、誰にも奪わせない……」
金糸の檻の中、すべての羽を毟り取られた鳥は、ついにその血塗られた足で立ち上がった。静かな、だが誰にも止められない、金糸の檻の奥深く、へし折られたはずの心のどこかで、かすかな熱が、静かに息を吹き返しつつあった。




