62.飾りの伯爵夫人
ミレーユ伯爵邸の朝は、静かだった。───静かすぎる、とシャルロッテは白磁のティーカップを凝視しながら思う。
かつて、この歴史ある邸宅の朝には、良くも悪くも“生きた人間の熱気”が満ちていた。父フランソワが政敵への怒声を響かせ、豪商たちの馬車の靴音が石畳を叩き、何十人もの使用人たちが主人の機嫌を窺いながら忙しそうに立ち働いていた。
薔薇として社交界の頂点に君臨していたシャルロッテの、華やかな我が儘さえも、この屋敷の呼吸の一部だったのだ。だが、新興成金であるデュラン商会に財政ごと完全に掌握された今は違う。
広すぎる回廊には人の気配が不自然なほど薄く、歴史の重みを宿していた調度品は取り払われ、代わりに並んだ無機質な金箔の装飾は、冷え切った墓標のように沈黙している。
そして、その残酷な沈黙の中心で、シャルロッテからすべての主権を剥ぎ取ろうとする声が響いた。
「奥様、本日のご予定を読み上げますね」
淡々と、それでいて明確な上下関係を誇示するように告げたのは、マリアンヌだった。
結い上げた栗色の髪は一分の隙もなく固められ、蛇を思わせる潤んだ瞳には微かな愉悦が揺れている。彼女が纏う濃紺のドレスは、秘書官の制服という名目にしてはあまりにも上質で、胸元にはジルベールから与えられたのであろう高価なルビーが、あてつけのように鈍い赤色を放っていた。
昨日、シャルロッテの亡き母の応接間を強奪し、お気に入りの猫脚の椅子に座った女は、今や完全にこの屋敷の女主人のような顔で佇んでいる。
「午前は、王都の主要商会関係者との重要な会談がございます。旦那様は非常にお忙しく、実務的な数字のやり取りが中心となりますので、奥様はいつも通り、お部屋から出られなくて結構ですわ」
「……そう」
「午後には西棟に運び込まれた密輸───ああいえ、新規交易品の在庫確認。それから夕刻には、中央の侯爵家への重要な返書作成がございますので、旦那様は夜遅くまで私の部屋の隣にある執務室へ籠もられます」
“旦那様”。
マリアンヌがその名を呼ぶ声音には、単なる主従を超えた、肉体的な繋がりを確信している女特有の、ねっとりとした柔らかさがあった。
シャルロッテは、昨夜ジルベールに言葉もなく組み伏せられ、義務としてその肉体を貪られたばかりの自身の指先に、じわりと嫌な汗が滲むのを感じた。怒りと屈辱で呼吸が浅くなり、ティーカップを持つ指先に思わず力がこもる。
ぱき、と繊細な骨董品の磁器が悲鳴を上げるような、小さな不穏な音が鳴った。
「まあ。お気をつけくださいませ、奥様。そのカップ、我がデュラン商会がわざわざ東方から買い付けた、大変“高価”なものですの。壊されては、旦那様の資産が目減りしてしまいますわ」
にこり、と。マリアンヌは完璧な笑顔を浮かべた。その美しくも醜悪な笑みが、シャルロッテには堪らなく癪に障り、そして自身の無力を痛感させた。
昨夜、手持ちの宝石を叩いて古参の使用人を外に逃がしたものの、それが何の意味を持つのかさえ、今の私には分からない。目の前の愛人はすでに、シャルロッテが呼吸することさえ「夫の資産を消費しているだけ」と言わんばかりに追い詰めてくるのだ。
「貴女……最近、随分と好き勝手しているようね」
「好き勝手、とは心外ですわ。私はただ、旦那様がお望みになることを、忠実に実行しているだけに過ぎません」
「まるで自分が、このミレーユ伯爵邸の主であるかのように振る舞っているわ。私の古参の足回りを勝手に解雇したことも含めてね」
マリアンヌは一瞬だけ蛇のような目を細め、それから可憐に肩を竦めてみせた。その動作の一つひとつが、シャルロッテを嘲笑っている。
「恐れ入ります、奥様。ですが、実務能力のない人間を養うほど、今のミレーユ家には余裕がないはず。屋敷の予算を滞りなく回すこと。商会と伯爵家の複雑な橋渡しをすること。そして、旦那様の領地経営を最も近い場所で補佐すること。───それが、動ける私の役目ですので」
まるで、正妻の座を今すぐにでも交代できると言わんばかりの口ぶりだった。シャルロッテの胸の奥で、ドロリとした黒い熱が暴れ狂う。
本来なら。本来なら、この歴史ある領地を回し、屋敷を統べるのは、ミレーユ伯爵家の正統なる令嬢として生まれ、幼い頃から厳格な英才教育を受けてきた、自分自身の役目だったはずなのだ。高貴な貴族との社交も、複雑な領地運営の基礎も、すべて叩き込まれてきた。もっとも、こうなるまではそのことすら覚えてはいなかったのだが───。
なのに、夫であるジルベールは、彼女に一切の実務の書類を触らせようとしない。それどころか、屋敷の予算管理も、厨房の食材発注も、すべてマリアンヌというフィルターを通さなければ動かない。
「……随分と、あの男に信頼されているのね」
「ありがたいことに。旦那様は、ただ美しいだけで何も生み出さない『飾り』よりも、自分を利する『牙』がお好きなのです」
その返答には、一片の容赦も、正妻への遠慮もなかった。シャルロッテは笑うしかなかった。底知れない絶望が彼女の足元をすくい上げる。
「なら、そのまま愛人にでも何にでもなればいいじゃない。この汚らわしい成金屋敷の夜にふさわしい、お似合いの番だわ」
「私は旦那様の、優秀な秘書です。……そして、旦那様に最も必要とされている立場であることは、誇りに思っておりますわ」
必要、という刃。それが、シャルロッテの心臓の最も柔らかい部分を正確に刺し貫いた。自分は、この屋敷で、この世界で、誰かに必要とされているのだろうか。
ジュリアン・ヴァレリオに断絶され、社交界を追われ、父を幽閉され、夫からは血筋という看板を維持するための「義務の肉塊」としてしか扱われない女。実権を持たない妻。子が産まれるまでは、死ぬことさえ許されない、ただの、飾り。
「失礼いたします、奥様。お人形のお相手をしているほど、私は暇ではありませんの」
マリアンヌは優雅に一礼すると、勝利の余韻を引くように踵を返した。葡萄酒色のドレスの裾が激しく揺れる。それは、シャルロッテの尊厳を完全に踏みにじった勝者の凱旋そのものだった。
誰もいなくなった冷え切った食堂で、シャルロッテは一人、微動だにせず座り続けていた。
惨めだった。骨の髄まで、自分が嫌いだった。
「奥様、本日は東棟の、新しい実務家たちの点呼を───」
「後にして。下がって頂戴」
見知らぬ侍女の無機質な声を遮り、シャルロッテは自室の窓辺へ縋るように立った。
手入れを怠り、黒ずんだ棘ばかりが目立つ庭園では、ジルベールが雇った庭師たちが、伝統ある薔薇の株を容赦なく引き抜き、実用的な薬草の畑へと作り変える作業を行っている。母の愛した美しい庭が、無惨に殺されていく。
(私はこの屋敷で、一体何をしているのかしら……)
朝起きて、マリアンヌに侮辱され、着飾った仮面を貼り付け、夜になれば、獣のような夫を寝台で迎える。愛されてもいない。求められてもいない。ただ、法的な「ミレーユ伯爵夫人」という呪いのような肩書きだけが、彼女を金糸の檻に縛り付けている。
そこへ、廊下から低い、硬質な足音が近づいてきた。
「……旦那様」
周囲の侍女たちが、一斉に緊張の気配を帯びて頭を下げる。振り返ると、そこに立っていたのはジルベールだった。窓から差し込む冷たい春の光を背負い、その圧倒的な長身が、シャルロッテの上に巨大な影を落とす。
黒髪を無造作に撫でつけた男は、今日も貴族の優雅さなど微塵もなく、戦場帰りの傭兵のような、剥き出しの暴力を纏っていた。シャルロッテの青白い顔を見るなり、彼は僅かに眉を寄せた。
「具合でも悪いのか」
「別に。貴方には関係のないことですわ」
「顔色が優れん。幽霊のようだな」
「……ふふ、お可哀想に。幽霊を抱くのがお好みなのね、貴方は」
痛みを隠すための、精一杯の棘。だが、ジルベールは怒るどころか、音もなく距離を詰め、大きな、硬い手でシャルロッテの顎を強引に持ち上げた。
「痩せたな」
「っ……放して……!」
低く、地を這うような、だがどこか歪な熱を孕んだ声音。不意打ちのようなその体温に、シャルロッテの胸が不規則にざわつく。この男はずるい。普段は氷のように冷徹な経営者のくせに、時折、こうして強引に肉体的な支配権を誇示してくるのだ。
「食事は摂っているのか」
「……しているわ。これでも、貴方の望む『健康な器』であろうと努力していますことよ」
「嘘だな。マリアンヌから、お前がまともに食事をしていないと報告を受けている」
その瞬間、シャルロッテの顔から完全に血の気が引いた。顎を掴む彼の指先を、激しい拒絶とともに振り払う。やはり、そうなのだ。寝室での会話も、日中の行動も、すべてあの笑う秘書官マリアンヌの手の内にあり、自分は完全に監視された、ただの囚人に過ぎない。
「……随分と、あの女の言葉を信じるのね。寝室でも、あのように熱心に報告を受け合っているのかしら?」
「無意味な詮索はやめろ。マリアンヌは数字が読める。お前のように、くだらないプライドだけで中身のない女とは違う」
冷たい、一銭の価値もないものを切り捨てる商人の声。シャルロッテは笑った。喉の奥が、血の味で焼けるようだった。
先日、抱いたささやかな復讐の炎が、彼の冷酷な一言で、無惨に吹き消されていくような絶望感。まだ、自分は何もできない。何も持たない、無力な小娘なのだ。
「そう……。なら、私はここで何をすればいいの? 伯爵夫人らしく、ただの美しい置物みたいに笑っていれば、貴方は満足なのかしら?」
重苦しい沈黙が、数秒間、部屋を支配した。ジルベールは、感情の読めない黒い瞳でシャルロッテをじっと射抜いた後、小さく、吐き捨てるように息を吐いた。
「そうだ。それが、お前という飾りの役目だ。余計なことをせず、ただそこに在れ」
その瞬間、シャルロッテの胸の奥底で、ミレーユ伯爵令嬢としての最後の何かが、音を立てて木っ端微塵に砕け散った。
夜。夫婦の寝室は、凍えるように冷え切っていた。ジルベールは未だ、マリアンヌの部屋の隣にある執務室から戻らない。いや、今夜はあちらのベッドで、あの女に「必要とされる熱」を与えているのかもしれなかった。
シャルロッテは鏡台の前に座り、月光に照らされた自分自身を見つめる。一分の隙もない金髪、深く澄んだ青い瞳。誰もが羨む、完璧な伯爵夫人。だが、その中身は、今や完全にへし折られ、空っぽにされた無力な人形だった。
「……惨めね。本当に、惨めな小娘だわ、私は……」
ぽつりと零れた掠れた声は、激しくなり始めた雨の音にかき消されていく。手駒を外に放ったところで、今の自分がジルベールとマリアンヌの強大な実利の前に、どれほど無力であるか。それを思い知らされただけの朝だった。
窓を叩く、冷たい春の雨。その絶望の音を聞きながら、シャルロッテは静かに目を閉じ、涙さえ流せぬ己の境界で、じっと息を潜めた。
───しかし、この泥底の絶望の最中にいる彼女は、まだ知らなかった。
すべてをへし折られ、中身を空っぽにされたからこそ、その空虚な器の中に、何かが沈殿し始めていることを、彼女はまだ知らなかった。
そして、この冷え切った、支配と屈辱だけの夫婦関係が───。
やがてデュラン商会の犯す「数字の罪」と、ヴァレリオ公爵家という怪物の襲来を経て、血と、狂気じみた執着と、互いの首を絞め合うような共犯関係によって、二度と解けない歪な結び目へと変貌していくことを、今の無力なシャルロッテは、まだ知る由もなかった。
金糸の檻の奥深く、鳥は静かに、ただ静かに、闇の底で息を潜めるしかなかった。




